春、再会のスタートライン
入部式のざわめきが、いつまでも耳の奥に残っていた。
私はグラウンドの端でストレッチをしながら、速水凛先輩の姿を何度も目で追った。
マネージャー姿の彼女は、まるで何事もなかったかのように淡々と仕事をこなしているけれど、
その眼差しはどこか遠くを見ているようだった。
彼女が最後に走ったのはいつだろう。
私が中学三年生の全中で足を痛めたあの日、
速水先輩は高校生としてインターハイの決勝を走っていたはずだ。
そこから彼女の人生は大きく変わってしまった。
小学生の頃から共に汗を流し、全国の舞台で並び立ち、ずっと背中を追いかけていた彼女。
私が負け続けてきた相手。
その人が今、私の目の前で走れない現実。
胸が締め付けられて、思わず手を握りしめた。
「碧ちゃん、こっち来て」
顧問の先生の声に呼ばれて、私はゆっくりとトラックの中央へ向かう。
そこで待っていたのは、数人の先輩たちだった。
誰もが一様に温かい笑みを浮かべて迎えてくれる。
だが、どこか緊張が隠せない。私自身もその輪の中に入るのが怖かった。
「椎名碧。これからよろしくね」
部活の先輩、陸上部の中心選手が握手を求めてきた。
私は手を差し出しながらも、内心で少し震えた。彼女たちは強い。
速水先輩の背中を見て育った先輩たちだ。私にとっては、まるで別世界の住人のように思えた。
入部して最初の練習は、全体の軽いジョグとアップダウンの繰り返しだった。
足首の古傷がうずいて痛むけれど、
心の奥底では「また走りたい」という熱い気持ちがくすぶっている。
練習後、マネージャーの速水先輩が私のそばにやってきた。手にはスポーツドリンクのボトル。
「無理しすぎないでね。怪我は焦らず治すのが一番だよ」
その言葉は優しいのに、どこか冷静で計算されたものに感じた。
私は首を縦に振りながらも、心の中で葛藤していた。
「先輩は……もう走らないんですか?」
つい、聞いてしまった。問いかけた自分に驚きながら。
速水先輩は一瞬だけ目を伏せてから、ゆっくりと答えた。
「うん。もう走れない。でも、だからって陸上から離れられないの。
私の代わりに、碧ちゃんには走ってほしいと思ってる」
私はその言葉に胸がいっぱいになり、言葉が出なかった。
ただ、先輩の目が少しだけ潤んでいるのに気づいた。
あの日の決勝で転倒したあの瞬間、私たちの関係は大きく変わってしまった。
私はまだその変化にどう対応すればいいのかわからなかった。
春の日差しの中、グラウンドを吹き抜ける風が心地よかった。
でも、その風はどこか切なく、何かを連れていってしまいそうで、
私はただ黙って空を見上げた。
その夜、布団の中で何度も目を覚ました。
夢の中で、速水先輩が走っている姿が何度も繰り返される。
鮮やかな走り、鋭いフォーム、ゴールテープを切る瞬間の笑顔。
でも次の瞬間、転倒して膝を抱える姿に変わった。
目が覚めて、暗闇の中で涙がこぼれた。
私は、何をすればいいんだろう。どこへ向かえばいいんだろう。
翌朝、登校すると陸上部の練習が始まっていた。
トラックには、汗を流す先輩たちの声が響き、私の胸を焦がした。
「碧、アップ始めるって!」
声の主は同期の友人だった。私はぎこちなく笑い返し、ゆっくりと体を動かし始めた。
先輩の言葉を胸に、もう一度、走るために。
それが、今の私の小さな一歩だった。