3.このネコ譲ってもらってもいいっすか?
帆乃夏はムチを構えて臨戦態勢を取った。
勝ち目なんて一筋もないけれど、逃げる場所が無いのだから仕方がない。
日頃から上層でエンジョイ配信をしている帆乃夏の実力では、アリVSゾウどころか、プランクトンVSクジラって感じだ。
クジラは海水ごと、プランクトンを無自覚に飲み込む。
帆乃夏の存在なんて、それくらいちっぽけだった。
死中に活を求める、なんて言葉があるけれど。
この状況で生き残る道を見つけられる人なんて、一体どれくらいいるんだろう。
手も、膝も、体中のあらゆる場所がガクガクと震えて止まらない。
ベタッとした嫌な汗がふき出している。
怖い、怖い、怖い。
死にたくない、死にたくない、死にたくない。
私の人生はこれからだ。
こんなところで終わりだなんて、認められない!
そんな帆乃夏の気持ちを知る由もなく、体中に梅花紋を背負った死神は、じっと帆乃夏の顔を見つめていた。襲ってくるでもなく、無視するでもなく、彼女の前から一向に動こうとしない。
かといって逃がしてくれる気もないようで、帆乃夏の動きに合わせて少しだけ体の重心をズラしているのがわかった。
モンスターにそんな感情があるのかはわからないけれど、もしかするとヤツは、逃げられずに怯えている哀れな生き物を見て楽しんでいるのかもしれない。
「ああああああああっ!!」
お腹の底から声を出して、恐怖の感情を必死で押さえつける。
少しだけ震えがおさまったような気がした。
帆乃夏は右手に力をこめて、ムチの柄を握りしめる。
こちらが戦う意思があることは、当然向こうだって気づいているだろう。
しかし、それでもジャガーゴイルは動かない。
プランクトンのあがきなど避けるまでもない、と思っているのかどうかは知らないけれど、ジャガーゴイルは微動だにすることなく帆乃夏の顔を見つめていた。
「舐めんじゃないわよ!」
〇ほのりん、ダメだって!
〇でも、このままじゃ逃げられないだろ
〇嫌だよ。俺、ほのりんが死ぬのなんて見たくない!
〇大事故の現場リポートをやっていると聞いて
〇ほのりんは死なねぇよ!
〇助けはまだ来ないのか
〇ここをどこだと思ってんだよ
〇H市からでも一時間以上かかるからな
〇たまたま、今このダンジョンにプロハンターがいることを祈るしかない
〇絶体絶命の女子大生がいると聞いて
〇うわ、タヒんだなこれは
無感情に浮かぶドローンのカメラを通して、視聴者の感情的なコメントがアームモニターに次々と流れてくる。
イレギュラーに遭遇したことを聞きつけた野次馬が、帆乃夏のチャンネルに集まってきているらしい。
皮肉にも同時接続は10,000人を超え、確認するまでもなく帆乃夏のチャンネルの最高記録を更新していた。さながら公開処刑のように、帆乃夏は衆目に晒されていた。
(こんなのじゃなくて、もっと楽しい配信でバズりたかったのに……)
帆乃夏はありったけの力を振り絞って、電撃をムチへと流し込む。
スキルを伝導させてくれる性質を持つこのムチに込められている電撃は、帆乃夏の全力フルパワー。
「おしおきの時間だよ、覚悟してね」
〇まさかの自殺志願女王様
〇早くタヒんでー!
〇荒らしは帰れよ!
〇誰かなんとかしてくれええええええ!!!
カワイイ系女王様を演じて気持ちを奮い立たせ、帆乃夏はムチを放った。
強力な電撃を纏ったムチがジャガーゴイルに向かっていく。
相手は本来、高濃度魔素エリアに生息するハズのイレギュラー。
その中でも『ジャガー』の名を冠しているこのモンスターは敏捷性が高い。
帆乃夏のムチなんか、難なく避けられてしまうに違いない。
半ばヤケクソで元々と繰り出した一撃は、予想に反して敵の右前脚に命中した。
これは別に、帆乃夏がスゴいという話ではない。
相手が避けなければ、こんなもの誰だって当てられるのだから。
ムチがヒットした瞬間、大量の電撃がジャガーゴイルへと流れ込み――霧散した。
スモウルフのように、地面に倒れてくれるような結果を期待していたわけではないけれど、ちょっとくらいは怯んでくれよと願っていた。
その隙にこの場を逃げることができるんじゃないか、という淡い期待を持って放った渾身の一撃だった。
結果は――ノーダメージ。
おそらくは電撃耐性、いや、もしかすると電撃無効かもしれない。
ジャガーゴイルの『ガーゴイル』とは、そもそも『彫刻』を意味する言葉だ。
あのモンスターの構造が、生物よりも彫刻に近いのだとしたら。
帆乃夏が電撃のスキルでスモウルフを倒していたことも知った上で、電撃による攻撃を待っていたのだろうか。もしそうなら、このモンスターはスモウルフなどとは比べ物にならないくらい高い知能を持っているということになる。
「はじめから……、遊ばれていた……ってこと?」
ほら、やっぱり。
生き残る道なんてどこにもなかった。
目の前に四つ足で立っている死神が、グッと口角を上げて愉悦の表情を見せた。
それはとても厭らしく、悍ましかった。
ヤツがずっと帆乃夏の顔を見ていた理由がやっとわかった。
今、この顔に浮かんでいる表情を見たかったのだ。
小さな希望にすがり、打ち砕かれ、絶望しているこの表情を。
走馬灯のように家族の笑顔が浮かんでくる。
ズン、と大きな音がして地面が揺れた。
ジャガーゴイルが一歩、こちらに近づいてくる。
帆乃夏はぎゅっと目をつぶり、二十年の人生ではじめて死を覚悟した。
「あのー……」
そのとき、すぐ近くから、ちょっと低い男の人の声が聞こえた。
走馬灯って声も聞こえるんだっけ、と考えてすぐに思い直す。
いや、帆乃夏の家族にこんな低い声の人はいない。
「まだ戦います?」
……え?
どういうこと?
もしかして私、ジャガーゴイルと戦うかって聞かれてる?
混乱する頭で、帆乃夏が声のした方を見ると、狐のお面を被った人物がすぐ横に立っていた。
この人はどこから現れたのか。
後ろは壁。目の前には逃げ道を塞ぐように立っているジャガーゴイル。
狐のお面の人はまるで壁でも抜けてきたかのように、忽然と姿を現した。
「もし戦わないなら、このネコ譲ってもらってもいいっすか?」
本日はここまで!
明日も続きを投稿します。
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