空気みたいな
ご覧いただきありがとうございます!
「シェリルは、本当に……空気みたいだな…」
自分へ向けられた言葉に、シェリル・バーリーは酒の席で凍りつく。
向かいには酔っぱらった好きな男と、すこぶる楽しげに笑う若くて魅力的な女性。
彼から発せられた言葉が、シェリルの胸にすこーんと大きな風穴を空けた。
◇
貿易都市テセロの冒険者ギルドに併設された、大衆向けの酒場。
ギルドで請け負った大きな仕事が成功したその打ち上げとして、数台ある酒場のテーブルを埋め尽くすようにたくさんの人が集まっている。
仕事の関係者は半分くらいで、後の参加者は賑やかしや通りすがりだ。彼らにも酒が振る舞われているらしく、まるで祝いの宴である。
シェリルは冒険者ギルドに勤める26歳。
勤続8年ともなるとすっかりベテラン扱いで、受付事務兼アドバイザー兼、鑑定人兼営業などなどなどなど……ギルドにおける業務を一手に引き受けている。
言葉を受けたシェリルは、動揺を隠すように握ったビアマグをぐいっと煽る。
ごっきゅごっきゅと喉を鳴らしてビールを飲み干して、目の前の2人に業務的な微笑みを向けた。
問題発言の発信元は、シェリルの想い人、ベルンハルト・ゲーペル、通称ベルン。
テセロを拠点として活動する冒険者パーティーのリーダーだ。
太陽のような黄金色の髪に浅葱色の瞳を持つ美丈夫で、国内でも最上級クラスのパーティーを25歳の若さで率いる魔法剣士だ。
元々王都など中央の都市で名を馳せていたが、3年程前に仕事でテセロを訪れて、そのままこの地に留まっている。
彼は先程から、ぼんやりと虚ろな眼をじっとこちらに向けている。
シェリルが知る限り彼はあまり酒に強い方ではないのに、今日はやたらと酒が進んでいるようで、べろべろに酔っている。いい男が台無しだ。
「やだぁベルンさん、それじゃセンパイがかわいそうですよぅ~」
耳をつんざくように甲高く笑うのは、キャシー・ヘンダーソン。
ギルドの新人職員で、ピンクのバラのような大きな瞳にフワフワの蜂蜜色の髪の、とても可愛らしい容姿の20歳だ。スタイルも抜群で、全体的に華奢なのに、胸が大きい。
今日は胸元が大きく開いたブラウスにフレアスカートを合わせていて、とても華やかだ。彼女が来てからというもの、男性冒険者が妙にソワソワ浮き足立っている、なんて話も聞こえてくる。
彼女はベルンの二の腕の辺りをペシペシと叩き、そのままさりげなく距離を詰めた。元々近い距離に座っていたので、もう体が密着しそうだ。
「?………、そうか?」
「ええ~?だって『空気みたい』だなんてぇ、私はイヤだなぁ。あ、じゃあ私は?私の事はどう思いますぅ?」
キャシーがおどけるようにこてんと小首を傾けるが、ベルンは明後日の方を向き、眉間を寄せながら彼女の問いの答えを考えている。
「君は……、見ていると………。見てるとドキドキして心臓に悪」
「失礼、ちょっとお手洗いに」
こんなの聞いていられるか。
シェリルはベルンの言葉を遮るように席を立つ。
好きな男に存在感ないなどと言われ、挙げ句他の女を口説くところを見せられるなんて苦行すぎる。
化粧室のパウダーコーナーに着いたシェリルはふうぅ、と息を吐き出して、鏡の中の自分の姿を眺めた。
ありふれた黒茶色の髪にぼんやりとしたオリーブ色の眼、背が高くてスラリとした体つきも女性らしさに欠ける。
グレーの薄手のニットに、ペンシルラインの濃紺のスカートといった出で立ちに、シンプルな魔除けのピアスのみを身につけて、髪も簪でサッと纏めるだけだ。
わかっていたが、我ながら何とも地味な姿だ。
ベルンの隣にいたキャシーの姿と比べてしまい、シェリルは苦笑した。
(ベルンもやっぱり、ああいう可愛らしい子が好きなんだ)
シェリルの考える『男性が好むかわいい女性』を集約し体現したのが、まさしくあのキャシーだった。
彼女の砂糖菓子のような甘い容姿、庇護欲をそそられる仕草、華奢な腰に大きな胸といった、男性がメロメロになる要素をたくさん持っている。服の露出も多く、ベルンがドキドキするのも無理はない。
シェリルも、そういう女性を目指してみたこともある。
しかし、体格や容姿は変えようがないし、仕草を真似るのもなかなか難しい。一度だけベルンの前で首をこてん、と傾げたことがあったが、寝違えと肩凝りを心配されてしまった。
服装については、落ち着いた格好の方が好きなので変えたくはないし、キラキラと飾りたてるのも趣味ではないため、アクセサリーなども控えめになる。
結果、自分の好みを押し殺した格好も真似た仕草もどこかちぐはぐで、何より自分が落ち着かない、という結論に至って止めてしまった。
だがとにかく、ベルンの気持ちは何となく伝わった。
シェリルみたいな影の薄い女性にはときめかない、ということだ。やはり恋愛感情はなく、あくまで友達としての付き合いなのだろう。
『大事な話がある』と言われて一緒にテーブルに着いたのに、後から『ドキドキときめく』キャシーもやって来た。
話というのは彼女に想いを伝えるための相談、あるいは報告だったのかもしれない。
こうなったらもうあの席には戻れない。
お邪魔虫にはなりたくないから、酔ったフリをして他のテーブルに参戦してお茶を濁そうか。
シェリルが化粧室を出ようとドアノブに手を掛けると、ちょうど中へ入ろうとした人物と鉢合わせる。
「あ~!センパイおそいー!待ってたんですよ~」
「ごめんね、意外と酔いが回ってたみたいで、休んでたのよ」
今最も会いたくない人物の突然の出現に『げっ!』と一瞬怯んだシェリルだが、顔に出さずにすんだ……と思いたい。そんなシェリルの話に心配する様子も見せずに、キャシーが話しだした。
「センパイ、さっきのベルンさんの話、気にしないで下さいね…。センパイは、地味だけど仕事が出来て、スゴいですから!」
「あぁ……、ありがとう。大丈夫よ、気にしてないから」
「あと、何かごめんなさい!ベルンさんがのろけたみたいになっちゃって…男の人ってすぐあーいうこと言うんですよね、ドキドキするとかって。ほんと困っちゃう」
鏡に映る自分の前髪を直しながら、キャシーは何でもないことのようにシェリルの傷口を抉ってきた。
お願いだから蒸し返さないで欲しい。シェリルは先程から苦笑いを浮かべっぱなしだ。
「でも、ベルンさんカッコいいし強いし、お金もってそうだし……。彼だったら、もう少し飲んでもいいかな?……誘ってみてもいいですぅ?」
「……良いも何も、私が言うことじゃないでしょう」
「そっかぁ、しょうがないですもんねぇ。彼、私の事が好きみたいだし。センパイもかわいそうだけど、明日から妬まないで下さいねぇ?」
キャシーは鏡越しに、シェリルに含みのある視線を送ってきた。人を下に見るような、小バカにしたような顔でニヤニヤと笑っている。
(選ばれなくてかわいそう、か)
ダメ押しの一撃を受けた気分だ。
モヤモヤと黒い感情がシェリルの胸に広がっていく。
シェリルの気持ちに勘付いていながら、自分がベルンに好意を向けられた事を見せつけて楽しんでいるのだろう。
人が歯噛みしたり、羨んだりする姿を見ては、優越感に浸るタイプの人間だったようだ。良い性格をしている。
あぁやだやだ。帰りたい。でも彼女の思い通りになるのはもっと腹が立つ。シェリルは小さく息を吸い込んで、腹に力を入れる。
「まぁ、頑張って。……私、寄るところがあるのでもう行くから」
「え、帰っちゃうんですか~?ベルンさんとの仲を取り持ってもらおうと思ったのに~」
「……ベルン、…さんにもよろしく言っておいて。明日の仕事に響くから、あまり飲みすぎないようにって」
「……はぁい」
もう少し見せつけたかったのに、といったようなキャシーの不満げな返事を背に、シェリルはぎこちなくも笑顔を保ったまま化粧室を後にした。
余裕たっぷりに振る舞えていただろうか?大して興味が無いような表情はうまく出来ていただろうか?
(悔しがる顔なんて、絶対に拝ませないんだから)
上機嫌で酒を飲むギルド長に断りを入れて店の出口に向かうシェリルに、見知った顔が近付いてきた。
「こんばんは!シェリルちゃん!……てあれ、帰るの?」
サイラス・アップルヤード。ベルンのパーティーの副長を勤める魔術師で、5つ程年下のリーダーをしっかりと支える、頼もしい存在だ。今日は愛する妻と子供たちを連れて会に参加している。
「リーダーは?一緒じゃないの?あれ?」
「はい、私とキャシーと同じテーブルでしたけど……どうしました?」
「あ、いや……え、あれ?告白は?え?」
「っ……さぁ、知らないわ……用があるので失礼します!」
「えっ、あ、ちょっと、シェリルちゃん!?」
狼狽えた様子のサイラスをかわして、ベルン達に気付かれないうちにと、シェリルは素早く店の外に出ていった。
煌々とした街の灯りに、店先に漂う美味しそうな匂い。人々の笑い声や陽気な歌声があちこちから聞こえてくる、活気に満ちたいつもの繁華街。
そんな賑わいが何故だかとても寂しく感じて、シェリルは家路を急ぐ。
早いところお風呂に入ってベッドに潜り込んでしまいたい。
今日、告白するつもりだったんだ、あのキャシーに。
大事な話って言うのは、その報告だったんだ―――――
今夜はこの失恋に思い切り浸ってやる。シェリルは更に足を早めるのだった。
◇
3年前、とんでもなく強くて、若くて、美しい顔をしたベルンハルト・ゲーペルなる冒険者が王都近辺で活躍している、とギルドで話題になる。
(ホントにキレイな顔してるのね、近くで見られてこれは役得)
彼のパーティー一行が初めてテセロを訪れた時、ギルド登録の立会人を務めたシェリルは、そのあまりの美しさに見惚れてしまった。
ところどころにまじないの込もった石が刺繍された白い騎士服に身を包み、体格にそぐわない大剣を軽々と背負うその姿は、若いながらも名のある魔法騎士にふさわしい風格が漂っていた。
業務以外の接点があるなんて思いも寄らなかったシェリルだが、手続きが終わったベルンが声を掛けてきた。ただでさえ美しい顔が、陽の光に照らされてさらに眩しく見えたのを覚えている。
「ベルンハルト・ゲーペルです、ベルンと呼んで下さい。これからよろしく!」
「よ、よろしくお願いします…」
清く正しい後光が差すような彼の微笑みに圧倒されつつ、シェリルが挨拶を返すと、途端に彼の表情がへにゃ、と困り顔になった。
「早速だけど、この辺の美味しい食堂、教えてくれないか?……お腹空いちゃって」
彼の苦笑いと共に、ぐうううぅ、という大きな腹の音が聞こえる。
凛々しく勇ましい、騎士然としたベルンだったが、なかなか愛嬌のある人物のようだ。周りに偉ぶることもなく、いろいろな人と穏やかにコミュニケーションを取ることが出来る好青年だった。
「すみません!気が利かなくて…マップもお渡ししますね!ええと、……肉料理ならこの店、お酒を飲むならそこの酒場がいいですが……お好きな物はなんですか?」
この街の事を知らないベルン達一行のために、懇切丁寧に案内したりいろいろ手配したりと、尽力したのはシェリルだった。
彼女の能力の高さを遺憾なく発揮して、まるで専属のスタッフのようにパーティーを裏で支えていく。
『あそこは日用品の品揃えはいいけど、こっちの店の方が安いわよ。食材は市場のがオススメ』
『婚姻届はあっち。子供が産まれたらこっちの書類を提出して下さい。手続きしたらギルドから少しだけどお祝い金が出るから』
『武器や防具を買うときはギルド推奨のお店でお願いしますね!割引もあるし、保障もつきますよー』
中でもベルンに対してのフォローは多岐にわたった。
ギルドに提出する報告書から暮らしに必要な手続きまで、書類と名の付く全てが彼の鬼門だった。
『中央のギルドと違って、こちらは書類が多いんですよ。……すごい顔してますね。わからないところは教えるので、お願いします』
『調査報告書、ベルンさんだけまだですけど……え?出来てない。涙目ですけど大丈夫?……じゃない……。…仕方ない、売店のコーヒーでも奢ってください、手伝いますよ』
『住まいが変わるときはギルドと役所にも知らせてね。…言いにくいけど、証明書も書き換えが必要になるの。書いてもらうのはこれとこれと……そんな絶望的な顔しないで…。やだ、止めてベルン、土下座は止めてよ!拝まないで恥ずかしい!手伝うから!』
ウンウン唸りながら何時間も書類とにらめっこのベルンに、つい情けを掛けてしまったのがきっかけで、彼が度々書類を持ってシェリルの元を訪れるようになる。
(この人を倒したいなら、文机と書類の束でも置いといたら一撃だわ、きっと)
ベルンも罪悪感があるのか、ただでということはなかった。
コーヒーやクッキーの差し入れをしてもらったり、ランチを奢ったり、きっちりと報酬を用意するようになる。
「シェリル…、悪いけどまた手伝ってもらえないか?昼飯奢るからさ」
「肉料理で。デザートもつけてもらうわよ」
「やった!好きなだけ食べてくれ!」
シェリルが手伝う横で、ニコニコと嬉しそうに書類に向かうベルンを見ていると、陰ながら彼の力になれているような気がして、とても誇らしい気持ちになった。
◇
ベルンは気さくで人懐こく、シェリルを度々食事や遊びに誘ってくれた。
森で珍しい花が咲いたと聞けば誘いだし、湖に渡り鳥の大群が来たとなれば馬を走らせ連れていく。夏の暑い日は水辺に涼みに誘い、雪が降る寒い日には温かい鍋料理を出す店に連れていった。
根っこが生えるくらいのインドア派だったシェリルも、誘われて出掛けることで季節の楽しみ方をたくさん教わった。
天真爛漫なベルンといると自分まで元気になってくる。彼から頼られるのも世話を焼くのも嬉しくて楽しくて、当たり前のように彼にどんどん惹かれていった。
しかし、シェリルはベルンに避けられたり、今の関係が終わってしまう事を怖がって、想いを伝えようとはしなかった。
彼から誘ってくれるのだから、嫌われてないことはシェリルにもわかる。ただやはり、彼の様子は普段通りで、そこに恋愛の色を感じる事はできなかった。
「シェリル!今夜10年に一度の流星群が来るらしいぞ、一緒に見に行こう!」
ある時、2人きりで高台に流星群を見るために出掛けたことがある。
誰もいない草原に寝転がり、星を観る。そんな雰囲気のあるシーンでも、2人とも星空に感激して夢中になって流れ星を探していた。
「今の見た?あっちの空から3個くらいバーッて走ったよな!」
「すごい……。街で見るのと全然違うのね、キレイ…」
「だから言ったろ?高台の方がキレイに見えるからって。……ほら、星もだけど……シェリル、『月が綺麗ですね』」
「ホントだ!…教えてくれてありがとう、ベルン」
「……っどういたしまして」
ベルンは途中から両手で顔を覆ってしまった。そのままゴロンゴロンと左右にのたうち回っている。夜空の美しさに感動したのが気恥ずかしいのか、耳が真っ赤になっていた。
◇
先日は、年に一度開催される収穫祭を2人で回って歩いた。
大地の恵みと産まれてくる命に感謝して、国中で様々な催事が行われる一大フェスティバルだ。
テセロでは毎年盛大なマーケットが開かれて、国内外から多くの人々が訪れて賑わいを見せていた。
「『弓で撃ち抜けアイツのハート…テセロ杯争奪的当て大会』……なんて絶妙なタイトル……」
「すごいぞシェリル!優勝者には、温泉宿泊券だって!…ぺ、ペアの……」
一枚のポスターに釘付けのベルンとシェリル。
10枚の的をいかに正確に射る事が出来るかを競う大会で、優勝者には南部の温泉リゾート地にある高級ホテルのペア宿泊券が用意された。
「俺がこの大会に優勝出来たら、お願いがあるんだけど聞いてくれるか?」
「お願い?内容に依るでしょうけど……」
「見てて!俺、この戦いに勝ったら、温泉に行くんだ……!」
どこか縁起の悪そうな言葉を残して、意気揚々と受付に走っていくベルンの後ろ姿を見つめながら、シェリルはふと考える。
(ベルンって、弓矢は苦手じゃなかったかしら……)
大会の結果、ベルンは56人中9位と、なかなかの健闘を見せたが、大はしゃぎのシェリルの元に戻ってきた彼はすっかり消沈して肩を落としていた。
「すごいじゃない!弓は苦手だと思ってた。大健闘よ!」
「…よりによって弓……くそぅ……ペアで温泉…」
「そんなに温泉好きだったのね?」
「ん?あ、う……、ま、まぁね」
「…すごかったけどなぁ。あんなに真剣な顔、久しぶりに見た」
「………すごかった?見直した?」
「え、う、…うん」
ふと顔を上げたベルンは、まじまじとシェリルを見つめてきた。緑がかった青色の瞳をキラキラさせるものだから、シェリルは直視出来なくて眼を逸らした。他意はなかったが誉めるのが恥ずかしくなってしまい、別の話題に切り替える。
「そ、そういえば、お願いってなに?」
「ん、いや、あの…、無くなったというかなんというか……」
「あ、もしかして休暇の申請を手伝うとかそういうこと?まぁ、温泉は残念だったけど、そういうのは言ってくれたらいつでもやるわよ?」
「うぅ……、ソウダネ…アリガトウ」
よほど温泉に行けないのが悔しいのか、瞳にうっすら涙が浮かんでいる。シェリルはすっかり落ち込んでうなだれるベルンを励まして、屋台の骨付き肉を奢ってあげた。
◇
彼にその気はない。
友人としての誘いなんだから、期待しちゃダメだ。
それなら、ずっと友達のままの方がいい――――
誘いを受けるたびに、『もしかして』を感じるたびに、いつしかシェリルは自分に言い聞かせるようになっていた。
しかし、
「今夜、話したいことがある」
今朝、そう言ったベルンの顔はいつになく真剣だった。
いつもと違う彼の様子に、ほんの一瞬だけシェリルの『もしかして』が顔を出した。それが期待となって膨らんで、あっという間にシェリルの胸をいっぱいにする。
だが、それは彼自身からの言葉によって、粉々に砕けて無くなってしまった。
◇
しばらく歩いて、街の外れの森の入り口辺りまでやって来た。
シェリルの家は森の近くにある。守衛つきの集合住宅で治安がいいが、この辺りでの討伐や捜索があると少し騒がしくなる。
ニコニコと人の良さそうな年輩の守衛に挨拶をして、ようやく真っ暗な部屋にたどり着いた。
いつもならすぐに灯りを点けるところだが、それすら億劫だ。
窓から入る明かりだけで、一人掛けのソファに腰を下ろしてボンヤリしていると、森の方で光が上がっているのが見えた。
モンスターでも出て、騎士団が討伐しているのだろうか。もしそうなら、ギルドの方にも調査依頼や鑑定が入って、明日は忙しくなるかもしれない。
何も考えられないくらい忙しくなればいいのに。
持ち運べるカンテラにだけ火を灯し、柔らかい明かりの中で入浴の支度をする。
「あ゛~~」
しっかりと湯船に浸かると体中の空気が口から押し出されるようだ。
バスルームの幻想的な湯気の中、夢のようにベルンの顔とこれまでの事が思い浮かぶ。
お日様のような笑顔に、書類に囲まれたこの世の終わりみたいな顔。遊ぶ時は子供のように無邪気なのに、仕事になると凛々しく勇ましい騎士の顔になる。
初めて一緒に食べたご飯は屋台のホットドッグ。
彼が大きく口を開けてかぶりつくのをポカンと見てたら笑われた。
一度だけ奮発して高いお店にも行ってみたら、2人とも緊張で食べた気がしなかった。
馬に乗せてもらうときは体がぴったりくっつくので、心臓の音が聞こえないようにいつも息を潜めてた。
『また来よう』って話してた場所がたくさんあるのに、その約束は叶いそうにない。
次から次にいろいろな想いが溢れてきて、小さなバスルームはすぐに満杯になる。
バカだなぁ。
こんなに好きなら想いを伝えて、きっちり終わりにした方がよかったのに。
ぽた、と天井から水滴が落ちてきた。
次から次へと際限なく、今日はずいぶんたくさん落ちてくる。その滴は全部、湯船に落ちて溶けるように消えていった。
◇
「おはようございます」
「やぁ、おはようシェリル」
「昨日はモンスターでも出たんですか?結構バタバタしてましたね」
失恋しても朝はやって来る。
守衛の男性に挨拶をして昨日の状況を聞く。
討伐に手こずっていたのか、昨晩は一晩中騒がしかったのだ。もし騎士団で手に負えないなら、ギルドにも応援要請がくる。
なんにしても今日は忙しくなりそうで、シェリルにとってはちょうどよい。
だが守衛の答えは、想像と違うものだった。
「あれ、被害があったというのは聞かないな。定期的な駆除なのかと思ったけど、違うのかい?」
「え、それは今日の午後からのはずなんだけどな……」
モンスターの定期討伐なら、ギルドの管轄だ。
モンスターの異常発生や変異体の出現を未然に防ぐために調査を重ね、生態系に影響を与えない程度に生息数の調整をするのだ。
もしかしたら日程の変更でもあったのか?だとしたら自分に連絡が来るはず……。いや、それ以前に、定期討伐にあんな長い時間はかからない。
モヤモヤしつつ職場に到着したシェリルは、そこに広がる異様な光景に目を丸くした。
「……?何が起きてるの?」
ベルンのパーティーのメンバー10名ほどが、ぐったりとした様子でロビーで打ちひしがれているのだ。
ある者はテーブルに、ある者は床に突っ伏して、ある者は項垂れた様子で椅子に体を預け、ソファに座っている者に至っては目を開けながら寝ているようで微動だにしない。
皆怪我はなさそうだが憔悴し、ぐったりと疲れきっている。
「し、シェリルちゃん……」
「わっ」
受付カウンターの下に転がっていたのは、副長のサイラスだった。荷物だと思っていたものが突然動き出したので、シェリルの肩が跳ね上がる。
サイラスは上体を起こしてシェリルを見上げて、掠れた声でブツブツと何か呟いている。
彼も皆と同じく、くたびれた格好をしていて、目の下の隈がくっきりと痛々しい。
「サ、サイラスさん!?一体何が」
「来た…女神だ……あのバカのストッパーがやっと……」
「へぇ?」
その時、ガチャ、とカウンター奥のドアが開かれた。
そこにいたのは、土埃で汚れた騎士服を身に纏った、やはりボロボロのベルンだった。
「ベルン!一体何が」
「シェリル!」
こちらに気付いたベルンは風のようにカウンターを飛び越えて、勢いよくシェリルの目の前に着地した。眼を丸くする彼女の両肩をわしっと掴んで、ずいっと顔を近づけた。
「………昨日、何で帰ったの?」
「ちょ、ベルン近いよ…。歩いて帰ったけど…?」
「違うよ!どうして帰ったのかってことだよ……話があるって言ってたのにさ…」
不満げなベルンの声が少しずつ小さくなる。
ベルンとキャシーがイチャイチャするのを見たくなかったから、という本当の理由は絶対言えない。シェリルは目線を外してモゴモゴと口篭る。
「……変に酔いが回ったから帰ったの、具合悪くなりそうだったから」
「何かあったらどうするんだ………!いつも俺が送ってるのに……何で」
彼女の肩をしっかりと掴んだまま、ベルンは眉根を寄せてシェリルの顔を覗き込んだ。
確かにキャシーに伝えたとはいえ、話があると言われていたベルンに声を掛けずに帰ったのはよくなかった。心配を掛けたことは謝罪すべきだろう。
シェリルが口を開こうとすると、ベルンが絞り出すように言葉を吐き出した。
「…何で、嘘つくんだよ……」
「え!?」
「酔っぱらったなんて嘘だろ?……あの子から聞いたんだ」
まさかキャシーが、シェリルの想いを彼にバラしたのだろうか?彼への気持ちを閉じ込めるつもりでいたシェリルに動揺が走り、一瞬だけ目が泳いだ。
そんな彼女の変化を見逃すベルンではない。その隙を逃さずに追及が始まった。
「やっぱり……彼女の言ってた事は本当なんだな。………全然気が付かなかった…いつから?」
やはり、全て聞いているようだ。
深いため息をついたベルンの表情は暗く、眼には失望の色を浮かべている。
友人だと思っていたシェリルから密かに想いを寄せられていた事で、不信感を持ったのだろうか。
この様子では今後友人としての付き合いも難しいかもしれない。
もう、これ以上は隠し通せない。不本意だけど認めてしまおう。
ベルンの事がずっと好きだった。隠すような形になって、言い出せなくてごめん、と。
キャシーとの仲を邪魔するつもりもないし、割り込もうなどとも思わない。ただ、友人として祝福したい、幸せを願いたいだけなのだと。
腹を決めると、少しだけシェリルの気持ちが軽くなった。
「………いつ、とは言えないよ。ずっと前から、いつの間にか好きになってたから…」
「……!」
『好き』という言葉に反応して、ベルンが苦々しく顔をしかめた。
ただ好きだと思う事も許されなかったの?
シェリルはその顔を見るのが悲しくて辛くて、こみ上げるものを堪えながら俯いた。
「ごめん、言うつもりはなかったんだけど…。大丈夫、ベルン達には迷惑掛けないから」
「………俺は関係ないんだな」
「関係ないって……そんなこと言ってないじゃない…」
ベルンはどこか投げやりな様子で、不満と悲しみが入り交じったような顔をしている。
そんなこと言わないで。彼がこんなに感情的になるなんて初めての事で――――
耐えきれず、シェリルの目にじわりと涙が滲んだその時、ベルンがボソリと口にした言葉が彼女の思考をピタリと止めた。
「じゃあ、……誰なの?」
「…………え?」
「誰と付き合ってるかくらい、聞いてもいいだろ……。昨日、誰の家に帰ったんだよ?」
「…………ん?」
「自分の家に帰らなかっただろ?部屋が暗かった。『寄るところがあるから帰る』ってあのキ……、ええと、あの子が言ってたんだ」
「…………は?」
え?ん?は?
シェリルの脳内はこの三つの言葉で埋め尽くされた。
思考も止まれば涙も止まった。口をポカンと開けてベルンの話に聞くことしか出来ない。
「俺には言えないってこと?一番そばにいるのは俺だと思ってたけど、知らなかったし……でも、友達として祝福しなきゃって思ってるから……」
何も言えないでいるシェリルを見て、ベルンは悲しそうに顔を歪ませる。彼女の沈黙の意味をだいぶ履き違えているようだ。
彼との間に何か壮大な行き違いを感じ、シェリルは深呼吸する。
「あの、ま、待って?何の話?」
「何って……君に恋人が出来たって話だろ!?」
言わせるなよ!といわんばかりに、ベルンがふいっと顔を背ける。
彼の斜め遥か上の返答に、シェリルの口がいよいよ閉まらなくなってきた。
何故恋人がいることになっているのか、何故部屋を暗くしていたことを知っているのか、気になる点は多々あるが、シェリルは出来るだけ冷静に、言葉を選ぶ。
「昨日はどこにも寄らずに家に帰った。明かりを点けなかったのは、……そういう気分じゃなかったの」
「……………え?」
「帰った事は守衛さんも知ってるわ。……だから、どうしてそんな話になったのか知らないけど、恋人なんていません」
「じゃあ、新人の子が言ってたのは?『寄るところがあるから』ってのは?」
聞いてたのはそっちか!
虚勢を張るための小さな嘘がこんなことになるなんて…。
嘘って怖い。疑ってごめんキャシー。シェリルはしどろもどろの脳内で何とか取り繕えるよう考える。
「それは……、……り、理由付けよ。帰る理由が欲しかっただけ」
「何で?なんで嘘までついて帰ろうと思ったの?……いや待てよ?じゃ『ずっと好きだった』てのは?好きな奴は居るってことなの?シェリル?」
「う、……えぇと…それは」
シェリルはあらゆる事を的確に指摘するベルンにたじろぎつつも、自分の想いまでは悟られていないことに安堵した。
こうなれば前言撤回。ベルンが気付いてないなら、想いを隠し通した方がお互いのためだろう。
なんとかこの場を切り抜けようとシェリルは脳内を更にフル回転させるが、詰まったように何も出てこない。
「好きな奴がいるの?誰だ?大事な事なんだ、シェリル?」
矢継ぎ早に質問攻めにして追いうちをかけるベルンも必死の表情だ。
彼女の鼻先にまで顔を近付けて問い詰めるので、シェリルの思考は上手くまとまらない。そもそも絶賛パニック中の彼女は頭の中が真っ白で、彼が何故そんなにも想い人を気にするのか考える余裕などない。
ジリジリと神経を削るような攻防戦の中、シェリルはだんだん煮詰まってきた。
あんなに四六時中一緒に過ごして、恋に落ちるとしたら相手は一人しかいないじゃない!
そう思った瞬間、シェリルの想いが暴発する。
「うう、……う、うわーん!!!」
「ぐぇ」
ずいっと顔を近付けて詰め寄るベルンの顎を、下からぐっと勢いよく押し上げる。
不意を突かれたベルンの手が緩んだ途端、シェリルは素早く後ろの階段に向かい走り出した。
「しぇ、シェリル!」
「もう!終わったことなの!!そっとしておいて!」
2階に駆け上がり、飛び込んだのは自分の執務室。
古い机と来客用のソファが置いてあるだけの、簡素な部屋のドアを後ろ手で閉める。
崩れるようにそのまましゃがみ込んだシェリルの背中に、間を置かずノックの振動が伝わる。
「シェリル…。シェリルごめん、聞いて?」
ドアの向こうから、我に返ったらしいベルンの悲痛な声が聞こえてきた。シェリルはギュっと膝を抱える。
「俺さ、昨日、告白するつもりだったんだ」
「………知ってる」
「やっぱり……。そうだよな、でもごめん。最後まで話させて?」
恋人が出来たなんて報告、いらないのに。
静かに諭すような、でも悲しみのこもった彼の声。
彼はこれから友情を、シェリルは恋を失う。
それがとても現実味を帯びるようで、シェリルは口を引き結ぶ。
「初めて会った頃からずっと好きだった。気配り屋で、困ってる人をさりげなく助けようとする優しいところとか、仕事の時はキリッとカッコいいのに、おいしい物を食べる時はふにゃっとしたゆるーい笑顔になるところとか。物知りなところも、素直なところも。好きなところを挙げるとキリがない」
何を思ったのか、ベルンが一方的にのろけ始めた。
シェリルに見せることのなかったキャシーの一面が次々と彼の口から飛び出してくる。
黙って聞いているのが辛い。彼女が愛されている事の証明なのだから。
「俺はいつも助けられるばっかりで、カッコ悪い所しか見せられない。さぞかし頼りない男と思われてるんだろうなって思うとなかなか告白できなかった。だからまずは見直してもらおうと思って『カッコいい男』を目指したんだ」
かつて『かわいい女』を目指したシェリルとしては、彼の気持ちがよくわかる。
けど、彼が頼りないなんて、そんなの感じた事もなかった。
確かに事務作業は壊滅的だけど、そのままで充分魅力的な『カッコいい男』なのに。
「物語で読んだ愛の告白のフレーズを使ってみたり、カッコつけて狙いすぎて空回りしてみたり………。でも俺じゃない感がすごくて。だから俺らしく正面突破してやる!って思ってたんだけど、緊張して飲み過ぎて…。最高にカッコ悪いところを見せたと思ったらもう帰った後だった」
「え、じゃあ、まだ……」
告白してないの?と突いて出そうになった言葉を押し止める。彼を誘う気マンマンだったキャシーが帰るだなんて…?
シェリルの呟きで何かに気付いたように、ベルンが口を開いた。
「まだ……?そうか、そうだな。これからちゃんと顔を見て伝えたい。……ここ、開けてくれない?」
「……うん」
あぁ、ついにこの時が来た。いよいよ最後通告か―――――
そんなことを考えながらゆるゆるとドアを開けたシェリルは、目の前のベルンの熱を帯びた眼差しにハッとする。
ベルンは彼女の両手を取り、恋に焦がれるような瞳でシェリルをしっかりと捉える。
あれ、私、これから何を言われるんだっけ――――
「シェリル、ずっと大好きだ。もう俺は君の笑顔なしでは生きていけない。これからは俺の隣で笑っていて欲しい。結婚してください」
「け?…………ん?」
「君が俺の事を何とも思ってないのは知ってる。昨日は告白に感づいたから帰ったんだろう?……でも、君の心に誰がいても伝えなきゃと思ったんだ。だから」
「べ、ベルン待って。あの、キャシーは?」
思ってもない告白に、返事もせずに質問で返してしまう。
ベルンはあっけにとられながらもシェリルの問に答えようとするが、その人物に思い当たらないようで首を傾げている。
「……昨日、ほら『ドキドキする』って言ってたでしょ……?」
「あぁあの子。ドキドキするだろ?女性はあんなに露出して大丈夫なのか?はみ出して見えるの嫌だなって気になるだろう?そうだな……ハラハラする、っていう方が適切か」
「はみ…」
「見たくもないものを見せつけられてもさぁ……そりゃ喜ぶ奴もいるだろうけど。俺はどちらかというと、丸見えで出されてる物より、しっかり隠されてる物が見えた時の方が興奮するから」
性癖を公表してどうする。
シェリルを見つめる彼の目の奥がギラリと妖しく光った気がして、シェリルは思わず胸を隠した。
「じ、じゃあ、私の『空気みたいな』っていうのは」
「そのままだよ。空気なかったら死んじゃうだろ。俺はシェリルがいないと生きていけないから」
「独特……!」
確かに、確かにそのままなんだけどさぁ……。
緊張の糸が切れ、へにゃりと脱力したシェリルだが、ベルンが手を取りしっかりと支える。
「そうだ、昨日彼女にもおんなじ説明したよ。何か怒って帰ってったけど」
「そんな、てっきりベルンはキャシーの事を……だから……」
「ふーん……そんなふうに思ってたのか。とりあえず入るよ」
まだぼんやりしているシェリルを素早く片腕で抱え込み、ベルンがドアを閉めた。
そのままソファにエスコートしつつ、昨日の事を話し始めた。
「シェリルが帰った事が気になって家の前に行ったら、窓に灯りがないから……寄るところがあるっていう話を思い出して帰りを待ってたんだ」
「えぇ!?」
「……だけど、一向に君は帰ってこない。男の家にいるかもって考えたらもう黙っていられなくて」
流れるように彼女をソファに座らせると、そのすぐ隣に腰を下ろす。膝がくっつくほどの距離の近さに気付いたシェリルはガチンと硬直する。
「で、今日の定期討伐の事を思い出して、どうせここにいるなら今やろうと思って。今日予定の採取とか他の仕事もサイラス達にも手伝ってもらった。出勤時間に間に合って良かった」
「そ、そう」
「君が誰かと付き合ってると思ってたから、玉砕覚悟で告白したつもりだったんだけど……ちょっと確認したい事があるんだ」
とても緊張した様子のベルンは、おそるおそる彼女の手を取ると、宝物を扱うようにそっと大事に包み込む。
彼の手があまりに優しく温かいので、思わずシェリルの目が潤む。
「……その、俺が誤解してたのと同じように、シェリルも俺と新人の仲を誤解したって事でいいの?」
「……………うん」
「あの、さっき終わったって言ってたのは……。あぁもう!率直に聞くよ?………シェリルの好きな奴って、………俺?」
ぶわ、と芯から込み上げるようにシェリルの体が熱くなる。
ベルンの手が、眼差しが、全身で気持ちを伝えて来るようで、今更ながら、彼の告白の言葉が頭の中で繰り返し響き渡る。
シェリルは彼の問いかけに応えようとするが、口がハクハクするだけで上手く声が出ない。シェリルがかろうじてコクりと頷くと、ベルンの手に力が込められる。
「情けないところばかり見せてるけど、必ず君を幸せにする。必ず守る。好きなんだシェリル……俺と一緒にいてくれないか?」
「…………………はい」
蚊の鳴くようなか細く頼りない返事が返ってくると、ベルンはガバッとシェリルを抱き締めた。彼女の耳元で噛み締めるようにぼそりと呟く。
「夢みたいだ。シェリル……」
「………え」
「だって、ずっとだ。……ずっとこうしたかった」
ベルンの腕の中、掠れた彼の声がシェリルの心にじわじわと染み込んでくる。
シェリルだって、想いが叶うなんて思わなかった。ベルンが思ってくれてるなんて思わなかった。
目の奥がジンと熱くなり、これまで押し込めてきた気持ちがせりあがってきて、シェリルの口からふと溢れ落ちる。
「………すき」
「へ」
「……ずっと、私も好きよ、ベルン」
ぽす、とベルンの肩口に頭をもたれかける。この手の気持ちの表現の仕方に不慣れなシェリルの、今出来る精一杯の愛情表現だ。
しかし、ベルンに動きがない。何か良くなかっただろうかと、シェリルが様子を窺うと、ベルンはボソリと感心するように呟いた。
「ベルン?」
「………君の破壊力ってすごいな…」
ベルンは腕の力を緩めると彼女の顔を覗き込み、まじまじと見つめる。
赤面するシェリルの頬をふわりと撫でると、顔を近付けてコツンと額を合わせる。
「………しても、いい?」
彼の綺麗な顔と潤んだ目がこんなに近くにあるなんて、この幸福な衝撃にこれから耐えられるのだろうか。
今のシェリルの心臓は停止寸前だが、ここで倒れるわけにはいかない。脳内で心臓マッサージを施しつつ、彼の問いにコクリと頷いた。
彼の顔が更に近付いて目を閉じる。
優しく唇に触れたものが離れるのを感じ、そっと目を開けるとベルンと目が合い、そのままもう一度ついばまれる。
キスの心地よい余韻に浸る間もなく、角度を変えて何度も繰り返す。そのうちにどんどん深くなり、シェリルは息も絶え絶えに受け入れている。
「ベルン、待っ…」
「待てない。………していいって、言った…」
ここにまた、新たな誤解が生まれた。
いつの間にかシェリルの簪は抜かれ、代わりにベルンの指が掻き入れられている。彼の手に頭をがっちりと固定されているので、されるがままにキスの嵐の中に居る。
キスが深くなる度に、艶っぽい雰囲気が辺りを包んでいく。
熱に浮かされたようなベルンの吐息が首筋へと移った辺りで、シェリルの羞恥が限界を突破した。
両手でバチンと勢いよく彼の頬を挟み込み、狼狽えながらも誤解を解こうと直談判する。
「いいっていうのは、キ、キスの事だから!それ以上はまだダメ!」
「ぅあぃ………」
◇
「いや、ホント昨日は大変だった」
1階のロビーに戻った2人は、パーティーメンバーやギルドの職員から祝福を受ける。メンバーはベルンがシェリルと結ばれるのを応援していたらしく、中でもサイラスはベルンから相談を受けていたらしい。
「昨日シェリルちゃんが帰ったあと、あの新人の子がコナかけて来たんだけど、リーダーは安定の興味のなさだったよ。今日はまだ来てないんじゃないかな、あの子」
キャシーの誘いはけんもほろろに受け流されたらしい。
ベルンにその気がないことがわかると、真っ赤な顔で捨て台詞を吐いて悔しげに帰ってしまった、というのはサイラスの言。
いつもの可愛らしさからは想像出来ない荒々しい口調に、その場にいた者は若干引いていたという。
キャシーもまた、ベルンの独特の言い回しに振り回された被害者なのかもしれないと、シェリルは胸の中で彼女の幸せをそっと願う。
「当たり前だ。シェリルがいないのに何でシェリル以外の女性と過ごさなきゃならない。シェリルの同僚だからと思って同席させてたらシェリルは帰っちゃうし、変な誤解はされるし」
「あ~それ、話聞いたけど、誤解もやむ無しって感じだぞ」
「え……そう?……俺変なの?」
「………まぁ、説明が欲しいレベルかもね」
両頬に真っ赤な手形をつけて、書類の束と格闘しているのはベルンだ。
夜中に片付けた仕事の報告書やなんやらを今日中に始末できれば、明日一日休めるのだ。しかも夕方までに提出できたら、シェリルも一緒に休んでもいいとギルド長が取り計らってくれた。
彼は今、書類から一時も目を離さず、シェリルと過ごす休日というエサをぶら下げられ、馬車馬のように働いている。
「何にせよ2人が上手くいって良かったよ。周りがどれだけやきもきさせられたか……。昨日の暴走はひどかったし」
「それはスマンかった」
「言葉がないです……」
サイラス曰く、昨夜ベルンの仕事っぷりは常軌を逸していたらしい。パーティーメンバーが何を言っても止まらず、鬼神のような顔つきでモンスターをばっさばっさと狩ったかと思えば、親の仇のように薬の葉をブチブチと摘んでいくという。
それでも心優しきメンバー達は傷心の彼を放っては置けず、ベルンが通った後の整備に勤しんでいたが、何せ森は広い。
縦横無尽に歩き回り、クエストを消化し、たまにシェリルの部屋の窓を眺めに行くという鬼のような強行軍に、メンバーは疲労感でいっぱいとなる。
『あの悪鬼を止められるのはシェリルしかいない』と、誰しもが女神の登場を心待ちにしていたという話だ。
知らぬ事とはいえ、昨夜はヌクヌクと暖かいベッドで寝ていたと思うと、シェリルは申し訳ない気持ちでいっぱいだった。
◇
『恋人達に当てられる前に帰る』とサイラスが席を立った後も、ベルンはひたすら黙々と天敵を片付けていく。シェリルは仕上がった書類に目を通して、不備がないかどうかチェックし、判を捺す。
昼食の時間も過ぎてロビーの人もまばらになってきた。ベルンの仲間達はとっくに必要書類を提出し、自由の身となっていた。
窓から入る陽の光がポカポカと暖かい。隣には愛しい人がいて、午後のゆったりとした時間が静かに流れていく。
シェリルはぐぅっと伸びをして、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
「シェリル、もうちょっとだ、もうちょっとで終わるから」
隣からの苦々しい声にシェリルはふと我に返る。
今日ばかりはこちらの手伝いをさせるわけにはいかないと、シェリルの手伝いを断り、ベルンは一人で書類の束と向き合っている。
『崖っぷち』といった様相ながら、残り少なくなった敵に睨みを利かせている。
「もうこんなに……。すごい勢い」
「だって、シェリルを一日中独り占め出来るなんて、そんな嬉しい事が待ってればこうなるさ。早く終らせて美味しい物を食べて、2人でのんびりしたいだろ?………さっきの続きもしたいしな」
「ん゛んっ」
ベルンは声を潜めて、彼女の耳元で艶っぽく囁く。
もはや隠そうともしない好意をバチバチに浴びて、シェリルは恥ずかしいやら嬉しいやらでくすぐったくて、ふいとそっぽを向く。
急にやって来た幸せに、まだちょっと戸惑ってフワフワしてしまうが、ここからまた始まるのだ。
これまでと変わらず、2人でたくさん笑って、ケンカもして、互いを気遣い支え合いながら穏やかに過ごしていけたらいいと、シェリルはおぼろげに考える。
当たり前にそばにいるような、相手にとってなくてはならない存在になれたらいい。
それはまるで、空気のような――――
お付き合い下さりありがとうございます!
☆の評価やブックマークの登録を頂けると、とても嬉しいです
よろしければ、お願い致します!