公女
悪役令嬢その2、公女視点。
メインヒーロー担当なので、本来は彼女が「その1」扱いかもしれませんが。
「申し訳ないが、婚約を解消してほしい」
「……はい。第一王子殿下の御心のままに」
──ああ、やはり。
遅かれ早かれ、この婚約が意味を成さなくなることは分かりきっていたのだ。想定していた状況とはかなりの違いがあるけれど、卒業パーティーなどといった衆目にさらされる場などよりも、こうして他に侍女や侍従以外はいない、王宮の一室で静かに宣告してくれたことには、むしろお礼を言いたいくらいである。
だから私はこうして、同い年の従兄にしてたった今元婚約者となった御方に、呼吸するように自然な身のこなしでカーテシーを披露した。
暖炉の上、まるで生きているかのごとき精巧なつくりの猫の剥製を、目の端にそっと捉えながら。
そんな私の姿を前に、殿下は眩しいものでも見るような目をしているけれど、そこにあのヒロイン──子爵令嬢を見つめる時のような、燃え付きそうなほど熱い想いはない。
分かりきっているのだ、そんなことは。だって彼はどうあがいても、子爵令嬢に心を奪われる運命にある、物語のメインヒーローなのだから。
──そう。私には前世の記憶がある。
生前──と言うのもおかしな気はするけれど、とにかくこうして公女に生まれる前の私は、現代日本で学生をしていた。
正確には大学受験に合格したばかりで、それをきっかけにやはり同じ学校に受かった好きな人に告白されて恋人となり、人生最高! と叫びたくなるような状況からの急死だった。……こちらに猛スピードで突っ込んできた白い車の運転手には、何となく見覚えがあったようなおぼろげな記憶はある。まあ物凄く曖昧なものだし、転生した今ではどうでもいいことなので思い返すことも稀になったが。
とにかくそんな前世の私が、大学合格後の短期間でどハマりしたのが、この世界によく似た場所を舞台とした乙女ゲーム。その割にタイトルを完全に忘れ去っているのはご愛敬だ。人間、あれもこれもを正確に覚えていられるものでもないし。
もっとも、ゲームのキャラと世界観、そして各人の攻略ルートとその大まかな流れはまだ鮮明に思い出せる。
──だからこそ、分かるのだ。ゲームの展開と、今こうして存在する現実との間に、細かながら明確な違いが存在することを。
「詳しい理由は訊かないんだね?」
「ええ、あえてお伺いするまでもないことですもの。……かの子爵令嬢に、想いを寄せておられるのでしょう? 叶うならば正妃に据えたいと願う程度には」
「ああ。だが生憎と、まだ彼女は、僕ひとりを選ぶ様子はないんだ。僕は彼女と一緒になるためにも、近く継承権を放棄する予定でいるのに……でもそれを明言すれば、きっと彼女は僕のもとから去ってしまうんだろうね」
「あら、そうでしょうか? 常日頃よりあの方は、『義務でしかない政略結婚よりも、互いの想いに基づく恋愛結婚でなければ』と仰っていると聞いておりますわ。であれば、殿下があの方に想いを捧げられる限り、お立場についてはさほど重要視されることはないかと。
それに、仮に継承権を放棄なさっても、殿下はいずれ公爵におなりのはず。対外的にも隙を与えぬ振る舞いが求められる王妃や王太子妃の立場よりも、公爵夫人でいる方が気楽と存じましてよ」
「やけに実感がこもった言葉だね。それは君の実体験からの意見かい?」
「ええ、概ねは」
あえて少しばかり公女らしさを崩せば、婚約以前、近しい親戚としての親しみやすい笑顔が返ってくる。
「君らしく率直に言ってくれて嬉しいよ。……長いこと、妃教育を押し付けてしまってすまなかった」
「いいえ、お気になさらず。一般的な淑女教育では触れることもないであろう分野を学べて、大変有意義でしたもの。──以後は次期女大公として、形は違えど国を支える一端となるように、より一層の努力をいたしますことを、我が大公家の名において誓いますわ」
再び正式な礼をする。
平穏を尊ぶ父の意向として、本来ならば一人娘の私が嫁ぐことで、大公領は国へ返還される予定だった。けれど婚約は白紙になり、近く王太子となるだろう第二王子にも立派な婚約者がいて、他に王家に独身男性はいない。そうである以上、大公家は今後もしっかりと存続していく必要がある。
婚約解消により、多かれ少なかれ生じるであろう王家の権威の揺らぎに乗じ、我が家を担ごうとする勢力が間違いなく出てくるはずだ。それを抑えるために、まずは次期大公となる私が率先して、改めて王家へ忠誠を捧げることを明言しておかなければならない。殿下と私の関係の変化はあっても、血の繋がった近い親戚たちへの想いは勿論、王家そのものへの忠誠心は何一つ偽りなく変わらないのだから。
「……ありがとう、従妹殿。どうか末永く、我が弟を見守り、時には教え導いてやってほしい」
「有り難きお役目とお言葉、大変光栄に存じ上げます。……殿下の御身にも、終生の幸福があらんことを」
まるで、一幅の絵画のように。
窓から射し込む白い光が、二人──佇む第一王子と、彼へ恭しく頭を垂れる「孤高の薔薇」の姿を、ただ厳かに浮かび上がらせるのだった。
──そして、その翌日。第一王子の臣籍降下が大々的に報じられたが。
社交界の話題はむしろ、最近になって頻発している、高位貴族の子息たちを対象とした通り魔の噂が専らであり、さほど意外でもなかった殿下の件は、至極あっさりと受け入れられるだけに留まった。
大公家内の執務室で専属執事からの報告を聞きながら、私は紅茶を片手に苦笑する。
「ただ噂をするのみならず、出来ることならば被害を受けた彼らの共通項に気づいてほしいものだわ。そうすれば自然と、次の被害者や犯人に思い当たるかもしれないのに……」
「噂をすることそのものを目的とする人々に、それ以上は期待なさらないのが無難かと。そういった人種の中に、情報というものの重要性を理解している者がどれほどいることか」
「まあ、手厳しい意見ね。噂話も時には役に立つものよ? あえて情報を小出しにしたり、取捨選択した上で流せば、社交界の情報操作なんて容易いものだわ。ポイントを押さえる必要はあるにせよ、ね。
せっかくだからこの際、関係者には忠告も兼ねて、軽くヒントを与えてあげましょうか。取り分け、残るターゲットである男性の婚約者方は、できる限り労って差し上げなければ」
「御随意に。むしろ思い当たらせないために、あえて信憑性の薄い段階に留めているのかもしれませんがね。……しかし、忠告ですか。正確には選択権と申し上げるべきでは?」
「それは受け取り方次第でしょう。選択の結果については、ほぼ見えているようなものだけれど。少なくともこれまでの被害者は、ほとんどが生家から勘当されたか、その寸前になっていたはずだから」
そう。だってこの世界は、ゲームとは似て非なるものなのだ。前世の記憶を持ち、彼とは近しい立場にある私だからこそ、それは身にしみて実感している。
恐らく同じ転生者であろうヒロインは、ゲームにあった逆ハーエンドを目指している。
けれど、彼女は知らないのだろう。逆ハーレムは、所詮ゲーム──作り物の世界でしか許されぬ代物なのだと。
「……むしろ、この世界自体を作り物だと捉えているのかしらね?」
「殿下?」
「いえ、何でもないわ。今手紙を書くから、使いをお願い」
「畏まりました」
忠実な彼が頭を下げるのを確認し、私は羽ペンを手にとって、さらさらと便箋に走らせるのだった。
転生者である公女様ですが、メンタリティや価値観は完全にこの世界に染まっております。それがいいか悪いかはさておき。