十二ヶ月日記『文月』
『ねえ、ねえ、文月ー』
と結構大きな声で呼ばれたおれは、その時注文が一気に来たこともあり、ヘルプに呼ばれたのかと思った。
『どうしたー?』
そいつは納豆オムレツを作る最中で"あー"とおれは納得した。
おれがバイトしていた居酒屋のキッチン(調理場)のポジションは三つあり、主にフライパン、中華鍋等で調理するコンロ。
刺身やサラダ等を担当する刺場。
揚げ物、焼き物を担当する揚げ焼き場。
難易度的には手先の器用さ、容量の良さに付随するだろうが、コンロが一番面倒で、次に刺場、揚げ焼き場といった感じだろう。
しかし我がバイト先は利益が少なく、人件費を抑えるために平日はその三つのポジションを二人で回すことになる。
分けかたはコン刺し、揚げ焼きだ。
当然、コンロと刺し場は普通は二人で回すポジションなので一人で回すとなると負担が増えることになる。
また、我がバイト先の居酒屋はなにぶん、キッチンメンバーが少なく、ホールの人数が多かった(店長がセンハランだったため、可愛い女の子をよく取り、野郎を取らなかったためだ)
おれは前の店長の代からいたためその店長に面接されなかったためセーフ。
…仕事はキツく、時給はそれほど高くは無く、何がセーフなのかは分からないが、この際置いてく。
話を元に戻すが、おれのバイト先はキッチンメンバーが少なかった。
そのため、他店舗では珍しい女の子のキッチンが出来上がる。
ま、ホールに比べるとサボることは容易だが、その分重労働なため、滅多にやりたがらないのだが、その女は『店長にセクハランされるくらいなら重労働の方がマシだよ』と、笑うと笑窪ができる可愛いと言うより、綺麗な顔でおれに笑っていた。
また、脱線したな。つまり何が言いたいかというとおれのバイト先にはキッチンメンバーが少ないのだ。
なので基本、平日の殆どはおれとその女の二人でキッチンを回すことになる。
先輩だったおれはいろいろ教えたが、元来、人に教えるのは好きじゃない。おれだってバイトの身だ。
そりゃその女よりは職歴は長いが偉そうに教えるなんて、虫酸が走る。
…ま、教えるのが下手とも言うが。
それでもその女はおれの拙い説明とマニュアルでめきめきと成長し、キッチンに入って三ヶ月したころには全ポジションを一通り回せるようになっていた。
ま、毎日のようにバイトにいればそりゃ覚えるわな。…人のことは言えないが。
と、言うわけでそいつとバイトに入るときは(週四回程)じゃん拳で場所を決めるのが常になっている。
当然、大変なコンロ、刺し場の二ポジが負けた方。
学校は違ったが学校の最寄り駅は一緒だったので電車の中でじゃん拳をし、バイト先に行くというのがいつものパターンだった。
そんなこんなで、その日はおれが勝ち、その女が負けコンロと刺し場になったわけだ。
やっと事前説明が終わったな。我ながらまとめるのが下手だとしみじみ思う。
そんなわけで納豆オムレツだ。
我がバイト先の名物料理で卵三個の中に市販の納豆を半分。そしてダシをいれ、よきかき混ぜ、オムレツにするというシンプルな料理。
シンプルながら奥が深く、バイト人の腕前で美味しくも不味くもなるそんな料理だった。
おれはその納豆オムレツが作るのが得意…いや、かなり練習して上手くなったと自負している。初めて作った時にふわふわ感の全くない、糞不味そうな物を作って以来、家でも練習し、エリア合同の納豆オムレツ作成大会時に二位を取ったほどだ。
…閑話休題。
つまりおれはナツオムを作るのが下手では無かったこともあり、その女がおれに頼んだのだと思った。
ピピービピー、と揚げ、焼き場にオーダーが入る音がキッチンに響く。
(おーおー、垂れてる垂れてる)
団体が入ったのか、しっきりなしにオーダーが入る。
ま、この程度の垂れ具合なら直ぐに片付くだろう、と脳内で予測し、その女の方に向かった。
コンロと刺し場のオーダーの垂れ具合はそれほどでもなかった。
揚げ、焼き物が多いとなると、リーマンかな?と軽く当たりをつける。
この予想はそれなりに重要で、料理を仕込む際に役に立ってくるので、後でホールの娘に聞いてみよう、と思った。
「んで、どうした?おれ結構垂れてて死にそうなんですけどー」
笑みを浮かべながら、冗談めかしで言ってやる。まだまだ余裕がある証だ。ほぼ毎日顔を会わす間柄だ。
向こうもそれには気付いているだろう。
「んで、なつおむか?」
おれは聞く。納豆オムレツ。略してなつおむ。業界用語。無駄知識を貴方に。
「いやいや、なつおむ程度で文月のお手は煩わせませんことよー。あ、それよりお手伝いしてあげましょーか?」
ニシシと挑発的な魅力ある笑顔に笑窪を乗せてその女も軽口を叩く。だいたいおれたちの会話はこんな感じだ。
良く言えば自然体。悪く言えば馴れ合い。ぬるま湯の中に浸かっているような空気がおれは好きだった。
「テメェの手なんて誰が借りるか。後で三倍返しなんてごめんこうむります」
一度、不覚ながら手を借りて、〆作業を全部やらされたことを思い出す。
「んじゃ、どうした?」
ピピービピーとオーダーの垂れる音。揚げ物だけでもフライヤーにいれないとそろそろやばいかもしれない。
「いやいや、別に大した用事じゃないんだけど、さー」
語尾を伸ばし、唇を尖らせながら言う女。なかなか可愛いと思ってしまう仕草の一つだ。
「んじゃ早くしてくれ。冗談じゃなく、そろそろマジやばい」
んー、とその女は一頻りしゅんじゅんし、悩むように首を傾げた。
ピピービピー。またオーダーが入った。御察しの通り、揚げ場…いや、今度は焼き場だな。
「おい、用なら早くしてくれ。請求喰らっちまう」
請求とは業界用語で、その名の通り、お客さんに『料理来ないんだけどー?早くしてくれない?』と言われる行為。
混んでる際は別にいざ知らず、はっきい言って店内は混んじゃいない。
この状態での請求は…相当恥ずかしい。
「あッ…!うん。ごめん」
唇を尖らせながら、しゅんじゅんしていたその女は揚げ、焼き場の垂れるオーダーに気付いたのかバツの悪そうに、
「それじゃー、これ見て」
と、自分の指を自分自身、具体的にはその女の胸に向けられる。
「…結構なものをお持ちで」
その年代の子の中では大きめの部類に入る胸の前で、手を会わせ合掌。
「…セクハランで訴えます。とりゃ!」
ペチンッと頭を叩かれる。
「痛ッ…んじゃどうしたんだよ!」
痛くは無いが頭を擦りながら女に少し苛つきながら半目で聞く。
こっちだって暇じゃない。苛つきたくもなる。
ピピービピー。
オーダーが入る。今度は刺し場。ざまあみろ。
「む・ね・じゃ・な・く・て!ここ!」
女はまた自分のその年代の子の中では大きめの部類に入る胸の…ん?
エプロンに何かついてる…?
「…納豆だな」
「そ。納豆。ついでに言うなら、納豆と卵白と卵黄がぐちゃぐちゃに混ざったやつ」
女はさも当然、と言うよう言う。
卵でいいだろそれ。何で卵白と卵黄に分けたのが分からん。
「んで、それがどうした?」
「いやさ、似てない?」
小首を傾げる。
「何に?」
「んー…」
女は言うか言うまいか迷うように、視線をさ迷わせた。しかし口は笑っているのでおれをかからってるつもりなのだろう。
からかわれる方はたまったもんじゃない。
こうしている間にも時間は進む。おいおいマジヤバいぞ。
そろそろ揚げ物はフライヤーにぶちこむ、焼き物は焼き台に乗せないと洒落にならない。
「おい…いい加減にしてくれ…結構ピン…」
「…精子」
おれのポジションのヤバさを伝えようとした瞬間に、バイト中には決してそぐわない変な単語が聞こえたような気がした。
「…は?何て言った?」
もしかするとおれの聞き間違えかもしれない。そんなにたまってるつもりはなかったのだが、もしかすると自分の予想を遥かに越えて欲情していた可能性も否めない。
もしくはおれは真正の変態。
「だから精子!」
お母さん!貴方の息子は変態みたいです!
「………は?悪いもう一度」
まだ変態になりたくないので、最後の足掻きを見せる。しかし、その女は、
「だ・か・ら、精子!ザーメン!もしくはカウパー!…はちょっと違うか…?」
おれに怒ったように、おれの予想に反し、尚且つ予想通りという不可解な単語を矢継ぎ早に口にした。
「……」
下を向き目を閉じるおれ。
「……ふふっ」
ピピービピーと例の音がなる。
煩い。
「……ふふふふふふふっ」
「…ん、どしたの、変な笑い方してー?なんか怖いよ?」
あ、おれは笑ってるいるなか。人間理不尽状況に陥ると笑みが溢れるというの本当らしい。
いや何、おれだってそのての話題が嫌いわけじゃない。
おれは健全な男の子で、性に興味津々な男なのだ。
ああ、普段なら乗ってやろう。しかしながら今はバイト中で、しかもオーダーが溜まってきてる状態だ。
だから…
「…そうかそうか。精子かザーメンかカウパーか。そうかそうか…」
拳がピクピクいる。たぶん握りすぎたせいだ。
「おーい!」
あれか?男性の生殖器から出るアレですね。わかります…。
もし人間青筋なんてものが浮かぶのであれば、正に今、おれは浮かんでいるであろう。
「どうした…」
「テメェがセクハラじャァァァ!!」
おれは切れた。
ウオッとおれの顔を下から覗こうとしていた女は突然叫んだおれに驚いて一、二歩のけ反るように後ろに下がる。
おれは後ろに下がった分、前につめ、叫んだ。
「話を大人しく聞いてりゃそんなことかよ!何が精子だ!何がザーメンだ!何がカウパーだ!ふざけるのもいい加減にしやがれ!だいたい女がそんな単語を軽々しく口にしてんじゃねェよ!」
よかったよお母さん!おれは変態じゃなかったみたいだ!…こんなことを叫んでる今じゃもう何の弁解もできないが。
「結構女の子同士だとこういうこと言うよー」
「お・れ・は・お・と・だ!それに女の子にいだくおれの幻想を軽々しくぶち壊すな!」
そういう会話になったら、顔を赤らめて『キャッ、恥ずかしい』くらい言ってほしいんだよ、おれは!
「女の子に幻想いだくとかちょーきもーい」
「うるせェ!おれはまだ純情少年だ!夢くらいいだかせろ!」
夢はいい。男の子を幸せにしてくれる。
「それに今はバイト中だ!見ろ!」
おれは自分のポジションから垂れるオーダーの方を指差した。
どう考えてもヤバい量だ。特急でやって請求喰らうか微妙な所。
凄い剣幕でオーダーを指差すおれに流石に罪悪感を抱いたのか、少しバツの悪そうな顔をし、
「あー…えと、その……ごめん」
少し目をさ迷わせた挙げ句、下を向き謝った。
「………はあ」
一つため息をつくおれ。嫌いなんだよなため息。幸福が逃げる。
「…ほら、さっさとオーダー片付けるぞ」
おれはその女に背を向け、自分のポジションに戻った。謝った相手にとやかく文句を言うほど落ちぶれちゃいないつもりだ。
女は少し落ち込んだように俯きながら、なつおむを作りはじめた。
今日は散々だ。早くオーダーをこなして、仕込みして、〆作業して、風呂に入って寝よう。
風呂は好きだ。温度は38度くらいのぬるま湯がいい。そして一時間程ゆっくりじっくりつかる。
男らしくないと言われるかもしれないが、好きなものは好きなのだ。今更変えるつもりはない。
(うん。それがいい)
面倒なことは忘れるのが一番だ。そうと決まれば目の前のオーダーに目を通す。こういうオーダーがたまってる時はオーダーが来た順番に作ればいいというものじゃない。
比較的出来るまでに時間のかかるものを先に調理し、尚且つできるだけ同じものを同じ時間にいれる。
そうすれば手間は1/2。いや1/4程度になる。
早速比較的時間がかかるコロッケ、鳥の唐揚げをフライヤーの中にはぶちこみ、また、時間がかかる料理の間を繋ぐための、早く出来上がる、軟骨の唐揚げ、明太子チーズ餅等を一気に挿入。
焼きは串もり、ほっけ、山芋のお好み焼きだけだった。一種一種の数は多いようだが、種類が少ないだけ大分楽だ。
(なんとかなりそうだな…)
そう思いながら直ぐに出来上がりそうである軟骨の唐揚げの皿を用意していると、後ろから声がかかった。
「…ねえ、」
少し沈んだ声でおれを呼ぶ女。
「…ねえ、文月」
聞こえないふり。なんとかなりそうではあるが、気が抜けないのは本当だ。
かまってる余裕は無い…わけではないが、おれは大人気無いらしい。どうせ子供だ。
「…ねえったら!」
ビビンバチャーハンの臭いがする。なつおむはもう出したんだろう。
「…いいから早く作れ。請求喰らうぞ」
「………」
シャッシャッと中華鍋に米が当たる、心地いい音が聞こえる。
「お願いしまーす」
おれはできた軟骨の唐揚げの油を少し切り、器に乗せて出した。
本当はちゃんと油取るための、穴あきの鉄板の上で油切り、少し冷ました状態で出すのがベストなんだがこの際文句は言わない…いや文句を言うのは客だが。
「お願いします…」
おれの背中で女の声。先程のビビンバチャーハンが出来上がったのだろう。
おれはフライヤーから出来た料理を出しては入れを繰り返す。
どうにか事なきを得そうだ。
(よかった…叱られずにすむ)
おれは安心するように嘆息した。
『世は事もなし』
これはおれの信条だ。何かあるくらいなら何もないほうがいい。
何も無い、平凡無事で、そこそこ笑えて、そこそこ楽しめればそれでいい。
他人は面白くない人生と言うかもしれないが、おれは別に構わない。
面倒事は嫌いだ。憎悪すら抱く。
だから何も考えない。――何も考えたくない。
最低、おれの周りさえ平穏無事であれば他はどうでもいい。
もし、もしもの話だ。おれと他人の二人の内、どちらかしか生きられないことになったらおれは間違いなく命を差し出すだろう。
誉められる生き方より、叱られない生き方。それがおれの生き方だ。
争い事は嫌いだ、面倒な事嫌いだ。
熱くも無く、冷たくもなく。そう、おれは、
――ぬるま湯の中にいる。
ピピービピー。お馴染みの電子音が耳に入る。オーダーが入ったようだ。
おれがいろいろ考えている間にも手はしっかり動いていたようで、揚げ場のオーダーはあらかた片付いた。
(そろそろ串もり、ほっけが焼き上がるな…皿準備しねーと)
今オーダーが来た、チーズ餅揚げと、チヂミをフライヤーにぶちこみ、焼き場に向かおうとしたときに、声がかけられた。
「…ねえ」
おれはそちらにゆっくりと振り向く。
女の方はオーダーが片付いたのか包丁をダスターで吹いていた。
「…なんだよ」
おれは作業を再開しながら聞いた。
串もりの火の入り方をチェックする。
相手は鶏肉だ。ちゃんと火を通さないと一瞬で食中毒だ。
カンピロバクター駄目絶対!
「あッ!…あ、あのさ…」
おれが反応したことに驚いたのか、はじめは声が大きかったが、どんどん語尾が小さくなっていった。
ふむ、これは少し珍しいかもしれない。
長い付き合いじゃないが、この女とは喧嘩みたいなことが何度かあった。
大抵はこいつがおれをからかって、おれが怒るパターン。
…あれ?おれ、男としてちっちゃくね?
ま、まあ、いい。今回はどう考えてもあっちが悪い。
閑話休題。
ま、そのおれが怒る度に『もう!そんな怒るなよー』とか言いながらおれの頬をぐりぐりつねり、またからかう、そしておれが笑ってしまって終幕。とかだった気がする。
だから、あいつが落ち込んで、元気が無いと、なんというか…居心地が悪い。
あ、この鳥串、生だ。もう一回焼かないと。
「なんだよ?」
おれは鳥串を火が強いところにもう一度のせ直すと、今度は先程より穏やかな口調で聞いた。
このままだと流石に居心地が悪い。
向こうが悪いのは確定だが、仕方ない。今回はおれが折れてやろう。
…そこ!ちっちゃいとか言うな。
「…あのさー、まだ怒ってる?」
「怒っちゃいねーよ」
ぶっきらぼうな口調で言いはしたが、少し和らげて言ってやる。
「…ほんと?」
もう怒ってないのは本当だ。…本当デスヨ?
「本当だよ。さっきはオーダーがたまってて苛々してたんだ。…お前にあたって悪かったな」
「…う、ううん!悪いの私だし!」
女は嬉しいそうに言う。
「ほーほー、よくお分かりで」
だから言ってやる。
ヒヒッとおれは笑った。ニヒヒッと女も笑った。
うん。やっぱりこいつといると楽だ。
――ぬるま湯。そんな言葉がぴったりだと改めておれは思った。
殆どオーダーを出し終え、おれはラストの串もりの焼き上がりを待つばかりとなった。
皿を準備し、笹をひき、焼き上がりを待つ。
女はデザートを作っていた。
居酒屋でデザートは止めて下さい。本当に面倒なんです。
閑話休題。
そんな女がおれに声をかけた。
「ねえ、文月ー」
「あー?」
おれはダスターで調理台を拭きながら気のない返事を返す。
「あのさー」
「んー?」
そう返事を返しながらも、おれの目線は洗い場へむかう。
そろそろ洗い物がたまってきた。混んでないから、皿が足りなくなる心配は無いが、溜め込むと後で厄介だ。
〆作業と平行してやるとなると少し面倒だったりする。
「きいてるー?」
「あー、聞いてる聞いてる」
皿洗いは基本、揚げ焼きの仕事だ。オーダー的には楽なので当然と言えば当然。
(串もり、出したら洗い場だな…)
「もー!ホントに聞いてるのー!?」
「ウォッ!」
耳元で言われておれはのけ反った。
おれが洗い場を見てる間に、近づいてきたらしい。
全く気付かなかった。こいつの祖先は忍者だな。きっと。
「何だよ、そんな耳元で言わなくても聞こえてるつーの。返事してたろーが」
「聞こえてても意味が通じなきゃ意味ないのー」
ま、確かにそうだ。
「…へえへえ、そうですね。んじゃ何の御用ですか、女王様」
手を休め、向き直る。
「ふっふっふ!そう!妾は女王じゃ!膝まずけ、下僕3!」
そこには、右手のこうを左の頬にあて、左手を腰に。まさに"いかにも"な女王様すたいるの女がいた。
一応、おれは冷静にツッコミをいれる。
「…下僕1と2は何処へ?」
その問いに対して女はおよよ、と口で言うと手を瞼にあてる。見事なまでの泣き真似だ。ここまでくると清々しい。
「…勇敢な最後じゃった…」
「死んだの!?1と2!」
「妾の為に死んでいきおった…伊藤ひろぶ…」
「ストップ!いろいろそれは問題がある!」
下手したら反逆者だ。
「ジョン…」
「はい、あうとー」
歴史上の有名な偉人に対して、下僕扱いは流石に不味い。
人類皆友達。いい言葉だ。
「んー?ジョン・テリーかもしれないよー?」
…そちらもあうとであることには代わりないだろ。
「んで、どうしたんだよ」
おれは聞く。早めに聞いて、串を焼いてる間に、少しでも洗い物を片付けたかった。
「あー、さっきの話ー、かな?」
女は知ってか知らずか、割りとか簡単に会話を進めていく。
少なからず嫌な予感はするが、おれの気のせいだろう。
「…さっきのって?」
だからおれは先をさとした。
「…うん。せ、精子」
「………はあ」
少し恥ずかしげではあるが、目の前の女はきちんと告げた。告げやがった。
おれの嫌な予感は的中。
ため息は嫌いなんだ。人を不幸にする。
(さっきのでこりろよ…誰が考えてもタブーな流れだろうがよ!つーか恥ずかしいなら言うなよ!)
はぁ、ともう一度嫌な空気を吐くようにため息をつき、またもやセクハラ発言をした目の前の女に向かっておれはじと目を向けた。
「あ、いや、あのね…!私はただね!見たことないから…見たいなーって…」
おれは一応聞いた。
「…何を?」
「んー…精子?」
「…AVでも見てろ」
至極真っ当な意見だと私は主張します!
「あー、それでは見たことあるよー」
(…あんのかよ)
「よく、女の子同士で見たりするんだよねー」
(…返せよおれの幻想)
女の子はそんなものを見ない!と、信じて疑わなかったおれの目から汗が流しつつも、おれは言う。
「んじゃ、それでいいだろ。つーか、見たことあんじゃんねーか。そろそろ串もりできるから向こうに行ってろ。シッシッ」
猫をあしらうように、手で振る。
女は素直に従い、自分のポジションに戻った。
戻りながら、女は告げた。
おれの背中に、告げた。
「んやさ、んー、だから、見たいんだよね」
告げた。
「生で」
もう一度告げる。
「生で」
先程までとはうって変わって真剣な口調で、おれの背中に声がかかる。
「…今日さ、家、親居ないんだよね。…なんか、さ、家の親って学生結婚でさ、今でもラブラブで……へへッ」
女は笑った。
背を向けているので、表情は見えないが、きっといつも通りの、魅力的な笑顔でおれの背中を見ているのだろう。
「本当、妬けちゃうよね…だから、今日も二人でお出かけでさ…お姉ちゃん達も泊まりらしいしんだよね…」
女はそこで、一度言葉を区切り、深呼吸するように息を吸うと、いを決したように告げた。
「…家に、来ない?」
背中越しに聞こえる、女の声。それは真剣な音色だった。
そう真剣だった。
今までの女を知ってるやつが見れば見るほど真剣だとわかるだろう。
だから、だから、おれは、その音色を――。
――面倒だと思った。
おれは、変わりたくなかった。
おれは、そのままで居たかった。
おれは、ぬるま湯に浸かっていたかった。
――だからおれは、だからこそおれは。
「……バーカ。冗談言ってないで、早く仕事しろ。つーか余裕なら洗い場やっててくれ」
おれは、ぬるま湯に中にいたい。出たくない。ずっとその中にいたい。
――だからおれは。
「……うん。…りょーかい」
女は洗い場に向かう。おれは動けないでいる。
鼻に何か焦げたような臭いが刺さる。
おれは鳥串が焦げた臭いだと頭の隅で思った。
これは進むことを拒んだ
停滞することを選んだ
何もないことを望んだ
ぬるま湯に居続けることを決めた
一人の男と一人の女の話。
もう終わってしまった昔のお話。