3.小さな雨雲
「この畑にお願いします」
背丈や葉の形も様々なハーブが植えられたその前に立ち、私はエミルさんの言葉に頷いた。
もし魔法が成功しなくても、その時はあの能力管理のアプリを消してやるだけで良い。ひとまずやってみる事に意味がある。
私は野菜畑で見せてもらった時と同じように、両腕を高く掲げて呪文を唱えた。
「天の恵みよ、地に降り注げ!」
するとどうだろう。
畑の中心に、サッカーボール大の小さな雨雲が発生した。
「で、出来た……!」
「初めての魔法を成功させるとは素晴らしいですね!」
あのアプリに書いてあった事は本当だったのだ。
魔法を使えた事に内心はしゃいでいると、みるみるうちに雨雲は消滅してしまった。
エミルさんが出した雨雲はもっと大きかったし、こんなに早く消えなかったはずなのに……
「やっぱり、初めてだから雲が長持ちしないんでしょうか……」
アプリに記されたレベルも低かったし、まだまだ彼のように上手くはいかないのか。
少しだけ悔しくもあり、寂しいような気持ちが胸にちらつく。
エミルさんはそんな私を見てこう言った。
「日常的に魔力を使っている人と、そうでない人とでは差が出てしまいますからね。毎日練習していれば、自然と魔力の調節をしやすい身体になっていくんです」
「それならきっと、攻撃に使うような魔法なんてもっと多くの練習が必要になるんでしょうね」
「ええ。動く標的に狙いを定めて魔法を使う必要がありますし、今貴方が使った雨雲の魔法にも慣れが必要です」
必要なのは、さっきのように途中で雨雲が消えてしまわないようにする集中力。
畑全体に雲を広げる為に、ケーキのスポンジにクリームを薄く塗り広げる作業のような、デリケートなものを扱うという想像力。
身体の奥から魔力を引き出し、それを必要な分だけ放出し続ける持続力。
「この魔法は一見簡単そうに見えるかもしれませんが、他の様々な魔法に対する基礎的な技術が要求されるものなのです。これさえマスターしてしまえば、攻撃魔法、回復魔法、防御魔法、召喚魔法などの習得も比較的スムーズに行えるようになるでしょうね」
「召喚魔法にも、ですか……」
そんなに応用が利くのであれば、元の世界への帰還の為にも魔法の訓練が役に立つかもしれない。
アルシュトゥスさんに古代の召喚魔法について調べてもらっている間、色々な魔法を覚えて経験値を上げていくのがベストなのではないだろうか。
「それならもう一度やってみます! もっとこの魔法を上手く使えるようになりたいんです」
私が言うと、彼は笑顔で頷いた。
「はい、頑張りましょう! 僕も出来る限りサポートさせて下さい」
「こちらこそ、是非お願いします!」
それからエミルさんに付き添ってもらい、ハーブ畑全体に雨が行き渡るまで何度も挑戦し続けた。
水やりが薬草畑の方にまで差し掛かった頃、あの音声が流れ出した。
『雨雲の魔法が、レベル2に上がりました』
それと同時に、出来上がる雲の大きさが変化する。
むくむくと成長する鉛色の雲は、私の両腕を横に伸ばした範囲にまで膨らんだ。
私はそれを見て、このまま上手く雨雲をコントロール出来れば、畑全体に雨を降らせられるのではないかと考えた。
これまで雲を出す位置にまで明確なイメージはしてこなかった。
けれど、畑の上を移動させていくようにすれば──まだ少し小さなこの雲でも、一度に水をやれるかもしれない。
「……やってみよう」
一度大きく空気を吸い込んで、気持ちを落ち着ける。
そこから雲へと意識を向けて、両手を雲を動かしたい方にゆっくりと向けた。
強く、強く、強く念じて──
「動いて……!」
すると私の念が通じたのか、雲はじわりじわりと流れ始めた。
しとしとと降る雨は、そのまま私の思い通りに畑の上を動いて、無事に全ての水やりを終える事が出来た。
雲が消えたのを見届けた私は、魔力を使ったせいなのか力が抜けて座り込んでしまう。身体全体にだるさがあり、少し頭がふらふらしている。
「終わった……出来たんですよね、私……」
「こんなに早く魔力操作を習得するとは……レンさんには魔法の才能が眠っていたようですね」
魔法を使ってみるまで、魔力なんてものが私にあるのかいまいち実感していなかった。
けれど、この体調不良がその証拠なのだろう。何かがごっそり抜けていったような、何とも言えない喪失感がある。
「何だか、凄い疲労感が残りますね……」
「これまで一度も魔力を消費した事が無かったのですから、無理もないでしょう」
「これも、慣れが必要という事でしょうか?」
「そうですね。ですが、そのままではやはりお辛いでしょう? これを飲んで頂ければ、少しは楽になると思いますよ」
そう言って、エミルさんは腰のポーチから透明な小瓶を取り出した。
受け取ったその中には、ほんのりとした水色の液体が入っている。
「これはもしかして……ポーションという奴では?」
「魔力の回復に効果のあるポーションです。この畑で採れた薬草で作ったものなんですよ」
「エミルさんのお手製ポーション……」
「以前マスターも試しに作ってみた事があったのですが、細かい作業は苦手なようで……途中で飽きて部屋に帰ってしまいました。ああ、苦味は抑えてあるので飲みやすいはずです。どうぞ安心してお飲み下さいね」
あまり苦いものは得意じゃないから、それは嬉しい。
蓋を開けて少し口に流し込んでみると、彼の言う通りほのかな薬草の香りと味が鼻を抜けた。
「……お味はいかがでしょうか?」
ちょっとだけ不安そうな声色で尋ねたエミルさんに、私は感じたままの意見を返す。
「ハーブティーのような爽やかな味でとても飲みやすいです。健康にも良さそうで良いですね」
「本当ですか? そう仰って頂けると嬉しいです」
そう言って微笑んだ彼の顔は、少し幼く見えてちょっと可愛かった。
私はちょっと得した気分になりながら、そのまま一気にポーションを飲み干した。
それを飲み終えると、たっぷりと生姜の入った料理を食べた時のような、身体の奥から温かくなるのと似た感覚があった。エミルさんが言うには、これは魔力ポーションによる回復効果が発揮されている状態らしい。
確かに、さっきよりは脱力感も抜けてきたように感じる。凄いなぁ、これが異世界か。
「……かなり楽になってきました。ありがとうございます。エミルさんのポーションのお陰です」
「いえいえ、お役に立てたようで何よりです。では、そろそろ行きましょうか。他の場所もご案内しなくてはいけませんしね。その瓶はこちらで片付けておきましょう」
瓶をエミルさんに渡し、私達はまた場内に戻った。
見た目通りに巨大な城を一通り案内してもらったけれど、一度で覚えきれるような気がしない。だけどここで生活するんだから、必要最低限の部屋だけでも覚えておかないとな。
食堂、広間、客間、お風呂場と、それから……
「ここがレンさんのお部屋です。普段は空き部屋だったので、アナスタシアさんが掃除を済ませておいて下さいました」
「じゃあ、後でお礼を言わないと」
「夕食の時間には皆さん集まると思うので、その時にお会い出来ると思いますよ。今日はかなり歩き回りましたし、魔法を使った疲れもあるでしょうから、しばらく休んでいて下さい」
「あ、それなら客間から荷物を持って来ないと……」
「荷物ってコレの事だろ?」
誰かに後ろから話し掛けられ、振り返る。
そこには元気そうな印象の小柄な男の子が、私のリュックを片手で持って立っていた。
「わざわざ運んでもらってすみません! ええと……」
「ロンだ。お前が今日からここに来たっていう奴だな」
「杉山レンです。レンって呼んで下さい」
「おう、宜しくなレン」
私は急いでリュックを受け取り、頭を下げた。
「ロンさん、荷物ありがとうございました」
「気にすんなって! それにロンさんなんて気持ち悪い呼び方しないでくれよ。ロンで良いぜ!」
「……はい、ロン。ありがとう。こちらこそ宜しく」
「ロンはどうしてこちらへ? 釣りはもう良いのですか?」
「あー、成果はまあまあってとこだな。厨房に魚を届けた帰りに、マスターに呼び止められてな。新メンバーが来たから、客間にある荷物をこの部屋まで運んでおけって頼まれたんだよ」
また後で夕食の時間に会おう、と告げてロンは去っていった。
あんな男の子でも、このエルドラドに居るのだから彼も女性嫌いなんだよね。
それに、用意してもらったこの部屋を掃除してくれたアナスタシアさんも……
「では、私もそろそろ行きますね。夕食の時間に鐘が鳴るので、その時に食堂にいらして下さい」
「はい、ありがとうございます」
ひとまず荷物も置きたいし、部屋に入ってみよう。