第七刻『神医の御手々』
「…………へぇ、意外と綺麗だな。外装見た限りじゃもっとこう、陰気な感じかと思ってた」
予想外の内装に、ゼスファーは思わず感嘆の溜息をつく。廃屋のような見た目に反し、内部は豪華絢爛とまではいかないが、意匠にはうるさい彼が興味を示すほどの洒落た造りをしていたのだ。
扉の向こうには磨き抜かれた質の高い白い大理石の廊下が続く。廊下の左右に所々設置されているランプの灯りのみが揺らめき、足を止めれば全ての音が止むその雰囲気は、まさしく荘厳たる月夜の教会のそれである。
当初ゼスファーが想像していたのは、まさしく隠れ家といった湿っぽく陰々たる地下だった。だが実際は真逆もいいところで、そこに住まう者が纏う美装には泥のひと塗りさえも付着していない。
「この建物の名は『真実の堂』。〝神の舌足らず〟では真実の意を示す。朽ちる部分、朽ちぬ部分、偽る部分、偽れぬ部分。建物とは実に人間に近いものだ。外装だけでの評価も然り」
言いながらウァーレが扉を閉めると、外界との関わりは空気を除いて完全に遮断され、いよいよ無音が支配する空間となった。
「素敵なトコだねぇ。いい雰囲気っ」
屋内の意匠を絶賛するゼスファーに対し、屋内の情調に称賛を送るのはリリーシアだった。嘘偽りを嫌う彼女にしてみれば、蔓延る虚偽が根こそぎ絶たれるような雰囲気は非常に居心地がいい。まさに名の通り、ここは真実の体現であるといえよう。
「っ……と」
不意に、ゼスファーは肌着の下が潤うのを感じた。
「急ぎましょう。ここまで来て死なれては困るわ」
物騒な事をさも平然と言いながらラティアが先に進み、廊下の中盤辺りの右側にあった扉をノックする。するとややあって扉が小さく開き、明るい光が廊下に一筋の線を刻む。
「おお、帰ってきたか。ご苦労さん。で、無事に救えたかね? んん、この臭いは……怪我でもしたか?」
扉から現れたのは矮躯の老人であった。ウァーレやラティアと同様の白装束を身に纏い、動物のように鼻をひくひくと動かしていたかと思うと、ぐるりとその目が臭いの元を捉える。
「――――ほぉ?」
物珍しげに目を見開くその顔には、深い皺なのか傷なのか判断不能な線が無数に刻まれていた。その線に埋もれるようにしてある濁った灰色の瞳にじっとりと見据えられ、その何者だという圧にゼスファーは自己紹介をしようと前に出た。
「ど、どうも――」
「諸々は後じゃな。どうやらまずはおまえさんの体を治療せねばならんようだ。さぁ中に入りなさい」
片手で遮られ、ゼスファーはごほごほと咳き込む老人に予想以上の強さで手を引かれて部屋の中に入った。
部屋には小さな丸椅子が二脚と簡易的なベッドが一台。端には本が数冊載っているだけの机があった。極めて質素な部屋である。
「ちょっくらそこに寝てくれんかね。あー、お嬢さんは、うむ、そうじゃその椅子にでも座ってくれるかの」
「ほらゼスファー、寝て寝て」
リリーシアは覆い被さるようにして手際よくゼスファーをベッドに押し倒す。低い呻きが上がったところ、恐らく今のが止めの一撃になったに違いない。
「この子だけでいいのかね?」
老人はさっぱりとした短い白髪を掻きながらウァーレに確認をとる。
「あぁ。私達は少し別作業を。治療が終わった後は私の部屋に――――」
ウァーレが喋っている途中、ぐぅ、と虚しい音の二重奏。
「――否、夕食の案内を頼む」
くすり、とラティアが笑い、ウァーレが大真面目な顔で予定を変更した。
『お手数おかけします……』
ここで昼食抜きだった事をようやく思い出す二人であった。あわよくば豪勢な夕食になる予定だったが、食事にあり付けないどころか報酬さえ貰えず、挙句の果てに殺され掛けて今に至るというのだ。たった半日の間にいったい何年分の異常が詰め込まれた事か。
「では頼んだ。ゼスファー、その痛みはよく覚えておくといい。いつか必ず役に立つ」
「忘れられたらどんなにいいか……」
もはや歯を食いしばりながらゼスファーは答えた。現時点では、痛いから気を付けろよ、と誰かに忠告するくらいしかこの経験の使い道は無さそうだった。
「ほっほっ! なぁに、すぐ終わるさねこんなのは。この子は〝体の原型がきちんと残ってる〟からのぉ、ほっほっほ!」
老人は咳を交えながら高らかに笑い、なにやら不穏な響きを聞き逃さなかったゼスファーがすかさず眉を顰める。
「げ、原型って……」
「そうとも原型じゃ。粉々にされてないのは見りゃ分かるわい。なぁに、肉片の詰まった瓶でも持ち込まれなきゃ大抵の事は笑って済ませられるさね」
扉を閉めてゼスファーの体をちらりと観察しつつ、足りない歯のせいでふがふがと空気が抜けるような声で楽しげに言う老人。そのような瓶の姿はどこにも見当たらないが、少なくとも笑っているのは彼だけである。
「――で、傷は痛むかね?」
「あぁ、なんか内側から針を刺されてるような感じが……。骨は折ったことないけど、折れてるような気がしないでもない」
「ほほ、成る程そりゃ結構。痛みが無くなってきたら死に掛けと思いなされ。では治療を始めようかね」
治療――と聞いたリリーシアが首を傾げた。部屋を見渡す限り薬品類はおろか、包帯の切れ端一枚すらも見えない。老人はどのようにゼスファーを治療するというのだろうか。
「えっと、わたしなにか持ってきたほうがいいかな?」
「いいや、大丈夫じゃ。――はて、そうかおまえさん達はまだ加護を知らないな?」
「ウァーレとラティアの魔法は見たけど……」
リリーシアの発言に老人は大笑する。
「ほっほっほ! 魔法ときたか! ふむふむ、いやなにも絵本の見過ぎじゃと馬鹿にしとる訳じゃぁないぞ? 理解し易く例えるならば魔法なのかもしれんが、誰でも使えるものを魔法とは言わないじゃろう? あれは絵本の中の魔法使いだけが使えるチカラ。それじゃぁウァーレやラティアは魔法使いか? 否。此処は紛う事無き現実世界であり、彼らは他でも無い人間じゃ。優秀な事には違いないが、基本的には〝ただの人間〟じゃよ」
そう、その通りのはずなのだが、二人にはいまいち確認出来ていない部分があった。
「ねぇ、お爺さん。ラティアが私達も使うかもって言ってたけど、それって誰でも使えるってことじゃないの?」
リリーシアの問いに老人はやけに手入れの行き届いた真っ白い歯を見せてにやりと笑う。しかしながら年波が原因なのか、欠けた歯がひとつふたつ……いくつも確認出来る。
「あー、それは完全におまえさん達次第だ。焦る気持ちは分かる。出会う者、出会う光景、出会う真実、その全てが未知なのじゃからな。ゆっくりとひとつずつ処理していきなさい」
楽しみが後回しにされているような感覚を覚える二人ではあったが、ひとつずつ処理していけというもっともな発言には従いざるをえなかった。既にここ数時間で理解の許容量は超えている。
「まずはおまえさんの体だ。そうじゃな、言っても分からんと思うが、わしは第七刻の熟練者としてここで神療者をしちょる」
「えっと、その……つまり医者ってことでいいんだっけ」
「左様。治す事に変わりはないが、治す過程が一般的とは違うだけじゃな。なぁに、この両手さえあれば――原型さえ残っておれば如何なる傷でも治してみせよう」
老人は刻まれた皺がはっきりと見える細く節くれ立った指を広げ、ベッドの上に寝転がるゼスファーの胸の上に静かに乗せた。それから老人はふわりとその手先と目を加護の光で輝かせ、光る目を細めながら手を左右に何度か動かす。
「……おうおう、外も中もだいぶ切れておるな。こりゃ間違いなく加護の仕業じゃ。加護の光はしばしば裂傷を生む。血液もまだまだ流れても問題ない。ラティアの止血が早かったな。目立った合併も無し。……五分ってところかの」
「五分?」
「完治までの時間じゃ。そのままじっとしちょれ」
『早っ!』
にわかには信じ難い。だが老人は五分で治ると呆気なく口にする。真っ当に治療しようものなら数ヶ月は掛かるような怪我であるというのに。
そうこうしているうちに、老人の眩い指がゼスファーの胸元から脇腹にかけて滑っていく。くすぐったくて思わず体をくねらせるも、老人はお構いなしに続ける。そして――――
「『多刻宣告』――『神医の御手々』」
「…………ん」
老人が謎の言語を並べ立てた直後に現れた違和感に、ゼスファーは思わず総身が震える。不意に何か蠢くものが体の内側に入ってきたような、微熱を含んだ気持ちの悪い感覚がしたかと思うと、リリーシアの小さな悲鳴が上がった。
「な、なんだよ?」
「て、手が……手がゼスファーの体の中に〝入っちゃった〟……!」
「は――!?」
そんな馬鹿なと首を持ち上げてゼスファーが自分の体を見ると、確かに老人の光を帯びた枝のように細い指がずぶり、と根元くらいまで己の体の中に入ってしまっているではないか。肌着と、その皮膚さえも通り抜けて――――。
だが見た目に反して痛みも出血も無い。ただ、体の中身をいじくり回されているのは確かだった。老人は骨を触っているらしく、ゼスファーは瞼を閉じてその上から眼球を指で押し撫でるような感覚を胸元で味わう。
「ちょいと不気味な光景かもしれんが、それもわしが得意とする分野であるが故に成せる、『神医の御手々』じゃ。もう少し我慢してなさい。そうじゃ、気晴らしに世間話でもしようかの。で、おまえさん達はどこから来たんだね?」
老人はゼスファーに負担が掛からぬよう気楽に話題を振ってくる。実際は来たと言うよりも、連れて来られた、が正しいのだが。
「クルトゥーラって町。南の」
「……ほぉ、生まれてこの方その町には立ち寄った例がないのぅ。わしとて昔は貴族の一員としてフロディエナ大陸全土を駆け巡ったものじゃが」
『…………!?』
ゼスファーとリリーシアは飛び上がりこそはしなかったものの派手に吃驚する。それも当然といえば当然であった。
――――貴族。それはフロディエナ大陸に住む一握りの限られた者達の事をいう。その正体は簡単に、それぞれが受け持つ由緒正しき知識や技術を研究し、大陸全土の発展に貢献をするという役割を担っている者達の事である。
貴族は大陸の中心部にあるクロノリィという街に住居を構え、各々がそこで研究に明け暮れている。時たま新しい技術が生まれたりすると、大陸中に使者を放ち、その技術を世間一般に広めていく。
知識技術が伝えられた街は、『伝承費』という名の税金のようなものを貴族に支払う決まりになっている。決して高額とはいえない為、支払いを拒否する人が特にいるわけでもなく、払わなかったからといって処罰があるわけではない。なにぶん支払う額よりも提供される技術を利用したほうが恩恵があるのだ。加えて貴族達の目的は金銭の搾取ではなく、技術の伝播による大陸全土の発展なのだから。
『これはこれはお世話に…………』
揃って丁寧に。貴族と聞いた途端、二人は老人にまるで頭が上がらなくなってしまった。彼らが常日頃、便利な生活を送れているのも、全てではないが、貴族の存在と貴族の生み出す技術があるお陰なのだ。
「なんじゃ、よせよせ、そんなんはよい。ある事件があって以来、もう隠居も同然じゃからの。わしの名はヴァイロ・イラ・クーラト。類稀なる医術を継承するイラ家の者じゃ。呼ぶ時はヴァイロで構わんよ」
「そうおっしゃるなら……」
「ほれほれー、それもよしなさい。無理に敬う必要は全くないぞ」
柔らかくもきっぱりと断言され、ゼスファーとリリーシアはようやくヴァイロと気軽に接する事を了承した。
――――それは何事にもいえたが、最近は一度許可されたのならば、二人は遠慮をしない性分になってきた。昔はそうでもなかったが、なにぶん駆け出しの生活の中では〝遠慮を遠慮〟しなくてはならない場合が多かったからだ。使ってと言われれば使う。食べてと言われれば食べる。ただで貰えるものは貰う。だがその代わり、何かしてもらったら何かで必ずお返しをしたものだった。
「でもヴァイロはどうしてここに? クロノリィに住んでるはずじゃ……」
貴族であるならば必ずそこに住んでいるはずであり、彼らがその他の区域に定住する事はありえない。従ってヴァイロがここで医者紛いの事をしていると聞いたからには、その素性を疑いざるをえなかった。
「…………クロノリィ、か。まぁ簡単に話そう。確かにわしは今から二十年程前までは――歴で言えば九六一年だったか、その頃にはまだクロノリィに住んでいた。じゃがその年にな、わしら貴族は大きな転機を迎えた。無論、イラ家だけではなく他の貴族達もじゃ。〝上〟の厳命により、わしら貴族は今までのような個別な研究ではなく、〝あるひとつの研究〟に共に着手する事になったのじゃ。大陸の発展を根本から足蹴にするような研究じゃよ。まったく、逆らう事が出来ないとはいえ反論のひとつもせず、まして喜んで賛同する愚か者が意外や意外に多かった事よ。貴族としての素質を疑ったわい。わしは研究内容がゆえもあったが、〝人間として〟どうしてもその研究を受け入れられんかった。従ってわしはクロノリィを離れ、大陸の片隅でひっそりと自身の研究を続ける事にしたのじゃ」
寡黙に怒り、呆れ、嘆くように語ってヴァイロは一度言葉と手を止め、それからまた手と口を動かし始める。
「それでだ、今から四年前じゃったか。隠居生活をしておったわしの元に一人の男が現れたのじゃ。驚く事にその男は貴族の研究を打砕く組織を秘密裏に立ち上げていると言うじゃぁないか。そしてあろう事かわしをその組織に勧誘してきたのじゃ。どこで知ったのかは知らぬがの。……まぁ、最初のうちは嬉しかったが、それでもまず疑ったさね。上に背いたわしを使者を使って誘き出そうって魂胆じゃぁないか、と。じゃが話を聞くうちにその男が嘘を言ってるとは到底思えなくなった。それにほれ、もうわしの体は愚痴こそ聞いてはくれるものの、言う事を聞かなくなってきたもんでな。とやかく何かと手を貸してくれる者がいる場所が恋しくなってしまっての」
それがここにいる由縁じゃ、と付け足して、ヴァイロは一旦こほこほと乾いた咳をする。
「それじゃもしかして、その男っていうのがウァーレなのか?」
「左様。他でも無いウァーレ・ユースティマじゃ。未だに素性の知れない――だが間違い無く正義の男じゃよ」
ヴァイロは今までの柔和な表情を一瞬切り替え、確信の鋭い瞳を二人に送る。
「えっ、それじゃぁこの組織って貴族をやっつける組織なの?」
「ほっほっ! 威勢の良いお嬢さんだの。やっつける、か。ふむ、間違ってはおらんが……まぁ今はその程度の理解で良い。この組織については後にウァーレから順を追っての説明があるじゃろう――――よし」
話がひと段落ついたところで治療が終了し、ヴァイロがゼスファーの胸から手を引き抜く。ゼスファーが半信半疑で血塗れた肌着をめくって確認すると、そこには乾いた血こそこびり付いてはいるものの、怪我する前となんら変わらない、傷跡なぞ見当たらない健全な胸板があった。
「…………!」
体を起こし、ぐいっと腰を左右に捻ったり両腕を伸ばしたりしても、如何なる不具合も見つからない。痛みはまだあるが、呻く必要がない程度だ。本当に、ゼスファーの負った空前絶後の大怪我は、五分たらずで完治の域に達していた。だがそれは同時に〝普通の医者〟の存在を否定するかのようで、なんとなく彼は歯痒い思いをしてしまう。
「…………ありがとう。死ぬかと思ってた、俺」
「ほっほっ、これくらいは下の下の治療じゃよ。それにな、死ぬかと思ったなぞ若いうちには滅多に言うもんじゃぁないぞ。それは年寄りになってから良く使う言葉じゃ。少なくとも一日一回はな……」
ヴァイロは皮肉げに口元に皺を寄せながらそう言った。
「――さて、そろそろチックが来るはずなんだが。遅いのぅ」
「チック?」
ヴァイロがちらりと部屋の扉に目をやると、それに合わせたかのように、外からごつ、ごつ、ごつ、という木を重みのあるもので叩くような音が聞こえてきた。
「お、噂をすればじゃ」
やがてその音が部屋の前で止まると、がちゃりと扉が開いて白装束を纏った小柄な少年が現れた。
「うぁ――――誰だっ!?」
少年は見知らぬ来訪者の姿に当然驚き、丸く宝石のように照り輝く青い瞳に警戒の色を滲ませる。
ぼさぼさとしたこげ茶色の髪と眉。生え変わりの時期なのだろうか、歯の抜けている箇所が多く見えた。年齢は遥かに違えども、生えている歯の数がヴァイロと同数である。
互いに無言で観察しあっていたところ、ふと少年の足元がゼスファーとリリーシアの目に止まる。音の正体――彼の左足の膝から下は木製の義足だったのだ。
「今日ウァーレが連れて来た子達だよ。いつまで滞在するかは分からんが。おぉそうじゃ、ついでに二人の名前を聞いておこうかの」
ヴァイロは、ぱん、と手を叩いて自己紹介の機会を生み出した。
「こんにちはっ。わたしはリリーシア・メルティウス。リリーと呼んでくださいな。それからこちらが私の夫のゼスファーです」
慣れた口調で至極当たり前のように言ってのけるリリーシアに、堪らずゼスファーが噛み付く。
「ばっ――ち、違う! 俺はゼスファー・レアミッド! 夫なんかじゃない!」
ヴァイロと少年の目が満月のような真円さで見開かれる。そして共に無言。
「だ、だから同居者だって同居者!」
『一緒じゃ?』
弁明虚しく声を揃えて言われたからにはゼスファーも即座に反論出来なかった。無論、そんな事は自分でも充分に理解している。さすがに五年間も同居しているとなれば、世間一般的には〝然るべき関係〟にあると思われても仕方がない。だがそれを公衆の面前で認める事は、ゼスファーが最も不得手とする愛のカタチであるのだ。
「………………」
ゼスファーが仕方なくお手上げの意の溜息をつくと、少年が前に出てきて胸を張り、得意げに自己紹介を始めた。
「へへっ、よーし、おれの名前はチック・ネルトだ! ヴァイロの元で修行している見習い神療者さ! よろしくな!」
先程の警戒心を完全に消し去り、少年は高らかに誇らしく己が名と肩書きを宣言した。
全身からやんちゃぶりを放つチック少年は、好奇心旺盛なその眼でゼスファーとリリーシアの姿をところ構わず視察する。その様子はさながらわんぱくな子犬のようで、見られている二人は妙なくすぐったさというものを感じた。
「ほっほっほ! よしよし、また一段と賑やかに……なればいいのじゃがな。……さて、ちょっとおまえさん達、診療台を空けてくれるかの? チック、悪いが頼むよ」
「おっまかせー!」
ゼスファーが立ち上がってベッド――否、診療台だったらしいところを空けると、ヴァイロはそこにうつ伏せになって寝転んだ。その傍らにチックが立ち、ヴァイロの腰元を小さな手でせっせと揉み始めた。
「んぉぉ、そこじゃそこ」
ヴァイロの表情には我が孫をとことん愛するが如くの好々爺めいた幸せがある。二人がいつ頃から師弟関係にあるのかゼスファーとリリーシアは知らないが、この仲睦まじさには本物の家族のようなものを感じ、自然と微笑みがこぼれてしまう。
「どうも最近は腰が悪くてな。まっこと、賢人達が言うには重力というらしいが、目に見えぬ故に意地悪なものじゃ。……っ、若い頃はやれ私の成長を止めてみよ、なんて抗っていたものの、今ではそれ抗ってみよ、なんて鼻先で笑われる始末じゃ」
枕に顔を埋めながら、ごほごほと咳の交じった声でヴァイロは語る。――と、ここでひとつ、ゼスファーの脳内で疑問が膨らむ。
「なぁヴァイロ、腰痛なんか例の加護で治せないのか? 俺のあんな傷が治ったのに、腰痛なんてお手のものじゃないか」
ヴァイロは一度呻いたあと、無理じゃな、と一蹴する。
「じゃが良い質問だの、非常に良い点に気が付いたのぅゼスファー。よいか、ひとつ言っておくが、加護もとより医術では〝時間〟までは戻せないのじゃよ」
「時間?」
「人は時間の中を生きている生物じゃ。時間が経てば自然、体は成長という名のもとに朽ちていく。それは例えどのような奇跡を用いても、誰も逃れる事の出来ない、絶対的な支配なのじゃ」
理解しかねるといった様子で首を傾げるゼスファーとリリーシアに、チックが噛み砕いての説明を試みる。
「つまりね、治療っていうのは〝元に戻す〟ってコトと同じなんだ。年齢を重ねるごとに体はそれだけ故障だらけになっていくだろ? 元々ボロボロの体がさ、傷だらけになってもっとボロボロになっても、その傷を元に戻したって元のボロボロの状態に戻るだけなんだ」
『………………』
しかしながらボロボロの猛襲でいまいちぴんとこなかったのは明白であった。そこでヴァイロは何度か咳払いをしてからもう少し具体的な説明を試みた。
「よいか、人間は自身の体の〝現在の状態を絶えず記憶しながら生きていく〟。絶対に止む事のない、そう、まさに今この瞬間もじゃ。人間は死ぬまで自身の成長と崩壊を余さず記憶し続ける。だからわしらの体は〝常に存在する〟のじゃ。
――例えば刃物で指を切る。すると皮膚が裂け血管が裂け、血が流れる。じゃが体の組織――わしらの目には見えぬがわしらの体を構成しているモノは、各々が刃物で指を切る以前の自身の配置を記憶している。体に異常が起きると組織は今の配置を記憶しつつ、元に戻さねばと元の配置の記憶を遡る。素早く治療すれば治りが早いのは、その記憶を思い出すのを手助けしているからじゃ。反対に、治療が遅ければ体は現在の――つまり異常がある状態で過去の配置の記憶を次々と上書きしてしまうゆえ、元の記憶があやふやになり綺麗には治らぬ。
すなわち、元の配置を思い出すのを手伝うのが医術。それをより強化したものが治療の加護。そして老衰とも言うが……人間が常に負う〝成長という名の傷〟からくるものは戻せん。体は老い行くわしの今を今も記憶し続けているからのぅ。要するに人間にとって死は絶対のものであり、どう足掻いてもそれは決して避けられぬ終焉なのじゃ」
長らく語ると、ヴァイロは再び咳き込んだ。一言一句噛み締めながら聞いていたゼスファーは、ようやくここで加護による治療の概要を理解出来た。
「老化を起因とするものは治せない。つまり時間の〝経過〟はどうやっても大きく元に戻せないってことか。それに最初にヴァイロが原型がって言ったのは、その組織? みたいなものが無いから、元の配置を覚えていても元に戻しようがないってことなんだろ。無から有を生み出すことは出来ないから」
「そっ! そういうコトさ! だからおれの足はもう戻せないのさっ。あと血も流れたら戻らないからそこんとこ注意な! 出血はなにがなんでも止めなきゃいけないんだ。基本だからな、覚えとけよー?」
幼いながらもチックは人間にとって不可避のものを理解していた。そして如何なる方法を持ちえども、己の左足は決して元に戻る事がないという事実も。
「……そうか、なら永遠の命なんて絶対に無理な話だったんだな、リリー。あいつは加護を使って永遠をって」
「うん。やっぱりあのおじさんが言ってたことは間違ってたんだね。あー危なかったぁ」
人間の幕引きの最たるものは老衰による死である。だがもしもそれを防げるというのなら――――つまりは、無限の命を得られるのと同義だ。二人が遭遇した『神と永刻を頒つ者』は、ヴァイロの言葉を信じる限り、全くの嘘であった可能性が大きかった。
「……ふむ、おまえさん達はただ襲われたという次第ではなさそうじゃの。もっとも、彼奴等が〝普通の人間〟を殺めるなぞという事は昨今では有り得ぬ話だからのぅ。まぁよい、それ含めて話は後じゃな」
二人の会話から多少なり成り行きを読み取ったヴァイロは、咳き込みながら意味深な事を苦々しく言って、診療台から立ち上がる。
「大丈夫なのか? 体調悪そうだけど……」
「っ……どうにもわしが罹っている病気はしぶといもんでな。言い忘れたが、加護でなんとか出来るのは物理的な傷だけじゃ。そこで病気に対しては我がイラ家の者達がこぞって研究していたこれを使う」
言いながらヴァイロは装束の懐から液体の入った小瓶を取り出し、それをぐいっと一気に飲み干した。
「なるほど、薬か」
「左様。んあ、もう大丈夫じゃよチック、すまんの。――さて! お待ちかねの食事にでも行こうかの?」
ゼスファーの予定通りであれば、今日の夕食は豪華なものになるはずだった。しかし展開は予想外を大幅に通り越し、素性の知れない辺鄙な隠れ家まで来る破目になってしまったわけである。この流れが幸と出るか不幸と出るかは、今の時点ではまだどうにも判断出来なかった。
「――ということはわたし、お料理作らなくても大丈夫なのかな?」
リリーシアは少し期待の入り混じった声色で尋ねる。作らなくてもいい以前に、彼女が作れる料理は片手で数えられるくらいしかないのに、と内心愚痴るゼスファー。十八番料理はパンケーキ。最高級で野菜スープらしきもの。パンケーキなんてむしろ料理というより加工に近いのだが、それさえも時々失敗する。
――とはいえ〝家事と鍛治〟の役割分担は暗黙のうちに決まってしまっているので、どうこう文句を言おうが互いは互いのやるべき事をやり遂げるほかないのである。でなければ二人の生活は決して成り立たないのだ。
「給仕係はちゃんといるからの。それは心配いらないと思うが」
聞いたリリーシアの顔がぱぁっと明るくなる。のみならずゼスファーの顔も同様に。
「メシはうまいぜぇ。大広間で食べるんだ。案内するよ、行こう」
チックが勢い良く診察台から降りた瞬間、ぐぅ、と遠慮なく期待に胸躍らせる音色が響く。
二人の来訪者が奏でる音色を盛大に笑う老人と少年の口の中で、少ない白い歯達がきらりと眩しく輝いた。
それを見た二人は、生え揃った美しい歯をこれ見よがしに笑った。