第六刻『真実の堂』
かみさまは言いました。
「わたしにお金をくれたら、あなたにエイエンをあげましょう」
男はたずねました。
「エイエン? ホントウに、エイエンをくれるのですか?」
「もちろんです。でも、お金がなければいけません」
「わかりました、お金をもってきますので、ぼくにエイエンをください。約束です」
「わかりました。約束しましょう」
かみさまを信じた男は、どうしてもエイエンがほしかったので、家からありったけのお金をもってきました。そして、それをぜんぶかみさまにあげました。
「どうですか? これで僕にエイエンをくれますか?」
男がたずねると、かみさまは首をよこにふりました。
「いやいや、これくらいじゃ足りませんよ。もっともっとなければいけません」
そう言われても、男はこれだけしかお金をもっていませんでした。
「ううむ、どうしよう…………あっ!」
男はなやんだあと、とってもよいほうほうを考えつきました。
「ぬすんじゃえばいいんだ!」
それから男は町に行って、そこでいろいろな人からお金をぬすみました。するとあっというまに、お金は山ほどになりました。
男はそのお金をもって、さっそくかみさまのところへ行きました。
「さぁかみさま、これだけあれば、もう僕にエイエンをくれてもいいでしょう」
「やや、これはすごい! よしよし、それじゃエイエンをあげるから、ちょっとそこでまっていなさい」
かみさまは男にそう言って、お金をぜんぶもってどこかへ行ってしまいました。
けれど、かみさまはいつまでたっても戻ってきません。一日じゅうまっても、戻ってきませんでした。
「あれぇ、おそいなぁかみさま」
男がへんにおもっていると、なにやらさわがしい声がしてきました。
「やい! おまえか! おれたちのお金をぬすんだやつは!」
「おまえだな! なんてことをするんだ!」
男にお金をぬすまれた町の人たちが、怒って男のところにやってきたのです。
「し、しょうがないだろう、僕はエイエンがほしかっただけなんだ。だってかみさまがくれるって言ったんだから」
男は子どものような言いわけをしました。すると町の人たちはもっと怒りました。
「ばかもの! エイエンなんて、あるものか! おまえの言っているかみさまは、ニセモノだ!」
「そうだそうだ! かみさまがお金をくれなんて、言うわけがない! ニセモノだ!」
男はびっくりしました。まさか自分の信じていたかみさまが、ニセモノだったなんて。
男はかみさまにウソをつかれたのです。そのせいで、みんながこまってしまったのです。
「ごめんなさい! ごめんなさい! ごめんなさい!」
男はしょうじきに、町の人たちに泣いてあやまりました。
すると町の人たちは、お金をかえしてくれるならゆるしてやる、と言いました。
でも、お金をもったニセモノのかみさまはもういません。
「どうしよう……」
男はまたなやみました。でもこんどはまえみたいに、ぱっと考えつきません。
「どうしよう……。どうしよう……」
男は一日じゅう悩みました。なにを信じたらいいのかもわかりません。
するととつぜん、男のあたまのなかで声がしました。
「あなたは、あのかみさまが悪いと思いますか? それとも自分が悪いと思いますか?」
男はびっくりしましたが、しばらくなやんだあと、しょうじきに答えました。
「いいえ、僕が悪いのです。エイエンなんて、お金で買えるわけがなかったのです」
「よろしい。あなたはしょうじきものだ。ではあなたにはチカラをさずけましょう。そのかわり、このチカラは悪人をやっつけるためだけに使いなさい」
とつぜん、男は体からヒカリをはなちはじめました。
「わわ! なんだこれは?」
そのヒカリは、町からはなれたところをてらしました。
「よし、ついていってみよう」
男がそのヒカリをたどっていくと、そこにはひとりのニンゲンがいました。そのニンゲンは、たくさんのお金をかくしもっていました。
そのお金は、町のみんなと男のものでした。そのニンゲンは、かみさまのふりをしていたのです。
「やい、なんだおまえは」
「エイエンがほしいといったものだ。よくもウソをついたな。みんなのお金をかえせ! こらしめてやる!」
男がさけぶと、男の体からぶわぁっとまぶしいヒカリがはなたれました。
「ぐわああ!」
つよいヒカリにてらされた悪人は、目が見えなくなってしまいました。
男はそのすきに、とられたお金をすべてとりもどして、町の人たちにかえすことができました。
しょうじきものだった男は、ホンモノのかみさまからもらったチカラを使って、悪いことをたくらんでいたニセモノのかみさまを、やっつけることができたのです。
◇◆◇
――――そんな童話の一節を、彼女はふと思い出していた。それは昔、寝る前に母親によく読み聞かせてもらっていた物語である。
その物語にどこか似た、目の前で繰り広げられた出来事。それは明らかに絵空事のようでいて、けれどその肌に感じたヒカリの圧力は紛れも無いホンモノだった。
何にせよ状況が恐ろしい事には違いない。だがあの日以降、夢物語を見る暇が無くなっていた彼女は、持ち前の性格から心が華やいだような気さえした。〝彼女の性格〟はこのような逆境でこそ最も輝くものである。
今はもうあの物語を読み聞かせてくれる人はいない。だが、あの物語を魅せてくれる人はこの世にいたのだ――――。
「す、すげぇ……」
一方で彼は鶏の卵が丸々一個入ってしまいそうなほどに目を見開いていた。まだ眠っているのかと懲りずに目を擦ろうとするも、瞼を閉じれぬまま剥き出しの眼球を擦るわけにもいくまい。今はただ大人しく瞠目せざるを得ない状況である。
――――つまるところ、二人が現状で理解出来た事といえば、この場にはまともな人間がゼスファー・レアミッドとリリーシア・メルティウスの二名しかいないという事であった。
「ふふ、驚いた? アレはね、これからあなた達が〝場合によっては使うかもしれない〟力よ」
二人の傍らに立っていたラティアはどこか楽しげに呟き、続いてその目深に被っていたフードをようやくの事で下ろした。自然、二人の視線は彼女に釘付けになる。
悠然と現れた慈愛に満ちた黒い双眸。他者の真髄を直線的に見透かすようなウァーレの眼差しに対し、ラティアは心の彼方此方を探るような眼差しで二人を眺めた。
ラティアは装束と肌着の間に仕舞っていた豊潤な髪をすくい出して背中に下ろし、その美貌に掛かる髪を指で梳きながら、息苦しさから解放されたような悩ましげな吐息を漏らす。鎖骨を隠すかのような長いウェーブのかかった褐色の髪が、微風にそよぐ水面のように淑やかに揺らぐ。
早朝の空に昇る太陽のように美しく穏やかな輪郭。口角をやや持ち上げながら、ゼスファーとリリーシアの機嫌を窺うような軽い微笑み。それに、そう……どこか母親に見守られているような安心感と、照れくささのような感覚を二人は覚えた。
「ごめんなさいね、何しろ〝顔は一番の情報源〟だから。敵かもしれない何かがいる時は伏せておくのが基本よ」
優美の雛形は悪戯に微笑んで、ひらひらと顔の前で手を振りながら、進言とも言い訳ともとれる言い方をする。その言動や仕草からするに、一見するとラティアは悠長たる人物に見えはするものの、実のところその本質は些細な警戒をも決して怠らないような女性であった。
「…………俺とリリーが? その……アレを、使うだって?」
露わになったラティアの様相に思考を中断されていたゼスファーだったが、ようやくここで耳が思い出す。先程のあまりにも信じ難かった発言は、脳が勝手に無関係の塵芥として処理を行ってしまっていたのだ。
「――もしも〝君達が受け入れてくれるのなら〟ば、と追加しよう」
『…………!』
ゼスファーの問いにラティアが答える間も無く、さらに追加の一言を添えながらウァーレが戻ってきた。彼が纏う装束には先程の混獣の粘り気のある血糊がべっとりと付いている。死神すら慄くようなその姿――――それでも、彼には悪意の欠片も見当たらない。むしろ妙な清々しさすらも感じさせる点が異常である。
「な、なにを受け入れればいいって?」
「今後私達に手を貸してくれないか、という事だ」
ウァーレは極めて簡潔に言った。だがその言葉こそは、ようやく彼らの事を信じ始めていたゼスファーに再び疑念をもたらすものだった。
「それを拒否したら、俺達を殺すのか?」
気が付くとゼスファーはウァーレと同等の簡潔さで尋ねていた。無理はない。何しろ〝そういう誘い〟を断ったら殺されかけたのだから。彼とて信じたいのは山々であったが、あとで後悔しないよう形式的な疑いを演じるにこしたことはない。
「いいえ、そんな事はないわ。ただ――」
「なるほど、君達は彼に誘われたか。我々の仲間にならないか? と」
ラティアの言葉を遮り、ウァーレが一歩ゼスファー達に近付く。それに躊躇わずゼスファーは頷きながらリリーシアの前に立つ。
――もう二度と、彼女を危険な目に遭わせるわけにはいかない。一度目こそは無事だったかもしれないが、二度目は無いという場合もある。加えて仮に〝どちらかだけが死ぬ〟ような結果になったとしても、二人にとってのそれは〝二人の死〟をも意味するのだ。
ゼスファーがいなければリリーシアは生きられない。リリーシアがいなければゼスファーは生きられない。それは五年前から互いによく解っていた事だった。
「だから、本当に悪いけど、あなた方の言っている事をすぐには受け入れられない。提案を拒否したら殺されかけたもんな、リリー。今回だってそうかもしれないし、二度も引っかかるわけにはいかない」
助けておいてからの、という二段構えの場合も充分に考えられた。むしろ他人との交渉術に長けていたゼスファーは、そちらの可能性の方が高いかもしれないとこの場で即断する。だが――――
「あむぅ…………」
どこか気の抜けるような特徴のある悩ましい声が、沈黙をゆったりと、だがしかしもう二度と張り詰める事のないように、破く。
犯人の正体はもちろんリリーシアである。彼女は唇に親指を当てながら、その仕草だけでゼスファーの言い分に比較的柔らかな類の抗議を行った。
「ねぇゼスファー? さっきも言ったけど、わたし、この人達が悪い人じゃないって思う」
「んなっ――!?」
今ここに容赦無く発現する〝究極的楽観主義者〟の宣言。自他共に加えこの世の理すらも認めざるをえない彼女の発言に、ゼスファーはもはや早々に撤退の可能性を考えなくてはならなくなった。
ゼスファーはどちらかといえば理論的な思考を好む。それに伴い多くの場合は確実性を重んじる人間だった。事実、そうしてきたからこそ『レアミッド製』は確実に良品であり、その技術の日進月歩もまた確実なのだ。
故に、ゼスファーにとってリリーシアの超楽観かつ向こう見ずな性格は悩みの種でもある――というわけでもないのが事実だった。最近では慣れたものだ。
不確定な物事に対して直感的な判断を下すリリーシアが正しい場合だってあったし、ゼスファーはそれに幾度となく救われた身でもある。だがそれでも結局は感であり、百発百中には程遠い。証明出来るのならばしてもらうにこした事は無いのだ。特に今回は少なからず命がかかっている。故にゼスファーとしては、万に一つの可能性だって見過ごすわけにはいかなかった。
「死ぬには時期が早過ぎる。俺が言いたいのはそれだけさ」
「それは、そうだけどー……」
今回ばかりは、ゼスファーに譲る気はなかった。仮に最悪の事態が発生しようものなら、ここで止めなかった自分に責任がある。
「疑うのも無理は無い。むしろ疑う様子を見せなかったらどうすべきかと考えていたくらいだ。もう一度言うが、君達に危害を加えるつもりは無い。勝手に連れ去ってすまなかった」
そう謝るウァーレにリリーシアがとんでもない、と顔の前でぱたぱたと手を振る。確かにそれに関しては彼女の言う通りでもあった。例えこの者達が悪人であろうとも、特にゼスファーに関してはあの場で治療を施されて九死に一生を得たのは事実である。少なくとも一度消えかけた命はもうしばらくの生を約束されたのだ。
「だってそうしてくれなかったらわたし達今ごろ死んでたもの。今さらだけどお礼を言わなくちゃっ」
リリーシアに頭を押さえられて同時に頭を下げるゼスファー。それはそれ、これはこれ、というものか。
「……ありがとう。助けてくれて。――そうだ、町はどうなるんだ? もし奴の仲間が町に行ったら…………」
「心配ない。既に手配は済ませてある。しばらくの間はあの町に監視が立つ。何かあれば我々の仲間が穏便に済ませてくれる筈だ。誰の命も消えはしない」
一切の濁り無き声色でウァーレは淡々と語り、いよいよ至れり尽くせりになってきたところでゼスファーの警戒心は薄れていく。
「っ……」
礼の変わりに呻きが漏れる。現状はあくまでも止血程度であり、傷そのものは〝通常の医者〟で治せるかどうかも分からなかった。そんな彼をリリーシアは痛々しくもどこか得意げでもある瞳で促す。
「治療が先で構わないか?」
もっともなウァーレの提案に、ゼスファーは渋々と頷いた。彼らに証明を要求するよりも、まずは自身の限界が着々と近付いている事を認めざるをえなかった。
「承知した。だが生憎と馬車は失われた」
ウァーレは、つい、と長い指でもはや目視の限界である所に散らばる馬車の残骸を示す。体調が万全のゼスファーならば直せない事もなかったが、まず先に治すべくは己の体躯である。
(歩き…………か)
ゼスファーは心の内で覚悟を決めた。見たところ連絡手段があるわけでもない。故に迎えを呼ぶわけにもいかないだろうという現実に、彼の心は既に折れ掛けていた。だがその俯き加減の彼に横に、ウァーレとラティアは何やらそそくさと作戦を練っていた。
「――我々が君達を一人ずつ運ぶ。幸いな事にここから我々の隠れ処まではそう遠くないが、歩くとなると夜になる」
「運ぶって……俺達を?」
「そうだ。君は私の〝背〟に乗ってもらう」
ウァーレはゼスファーをおぶっていくような物言いをした。
「い、いいのか? その、作業服とか着てるから重いと思うけど……」
「問題ない。ここから北へ少々、幸い十分と掛からぬ距離だ」
ウァーレは装束の懐から銀色の長い鎖が連なる懐中時計を取り出し、時計盤を眺めてわずかに眉間に皺を寄せた。日が落ちる前には確実に移動を済ませなければならない。
「十分か……それじゃ面倒かけるけど、お願いするよ」
思ったほど目標地点に近かったという事が判明し、ゼスファーは若干の安堵を覚えた。少しだけ、申しわけないという気持ちが安らぐ。
「気にするな、事態を予測出来なかった私に落ち度がある。では先に彼女らを〝見送ろう〟」
「わたしはラティアと?」
「そうよ、リリーシア。まだ日が暮れないうちは大人数で目立つ行動はしたくないから。さぁ、こっちへ来なさい」
ラティアはリリーシアを連れて足早に川の方へと向かう。その後ろにゼスファーがウァーレに支えられながら続く。
時たま跳ね上がる水飛沫に夕日が映える川は、まるでその一面に光の粉をまぶしているかのように輝きながら穏やかに流れていた。いっそこのまま飛び込んで体を清めたい、と、そんな衝動に駆られているゼスファーをよそに、ラティアは足が水に触れるくらいの所に立ってリリーシアを近くに呼び寄せる。
「お迎えの船でもくるの?」
と、期待に近付いてきたリリーシアを、ラティアは突然抱き締めた。
「ぅっぷ……!?」
標高のかなり高い、いわゆるラティアの〝ふた山〟に、リリーシアの顔面が深々と埋まった。
「――――祈祷開始」
謎の言葉と共にラティアの体がふわりと穏やかな光を放つ。ウァーレと同質のその光は彼女の体の内側から発現し、彼女を包み込むようにして寸分の隙間もなく覆う。
「……!」
「そのまま私を抱き締めていなさい」
うん? とリリーシアは疑問を抱きながらも照れくさそうに頷いて、ラティアの背中にその両腕をしっかりと回す。すると光はリリーシアをも包み込むようになり、それを確認したラティアはその片方の足の爪先を靴のまま川の中に浸透させた。
「そう、そのまま。絶対に離さないで、抱き締め殺すくらいで構わないわ……神宣告――第十刻『神透化』」
流暢な発音。その直後――――
「なっ――!?」
叫びを上げたのは〝傍観者〟であるゼスファーだった。
突如として目の前にいた二人が〝水〟になってしまったではないか――――。
二人は足の爪先から頭の頂点まで順番に、まるで体が溶けていくようにして、ばしゃんと音を立てて川の中へと流れ込んでいってしまったのだ。それを見たゼスファーはいてもたってもいられなくなり、痛みを忘れて川に走り寄り、両手を水に突っ込む。が、手先には何の変哲も無い冷たい水の感触しかなく、当然そこに彼女達の姿は見えるはずもない。
「お、おいおい……おいおい…………!」
川辺で途方に暮れるゼスファーの背後で、ウァーレが心配無用とは言うものの、もうそんなものはいくらあったって足りないくらいどころか意味が無い状態であった。
「第十番目の定義、『神透化』。簡略すれば自然との〝同居〟を可能とする加護だ。もっとも、全身や他者までをも同居させる事が出来る人物は、私の知る限り彼女ひとりだけだけだが」
「……はぁ、なるほど」
そう説明されるも、もちろん理解は不能であった。そこでいい加減、ゼスファーはこう考えるようになった。
――――もう、こうなったら驚くのは一旦休憩にしよう。これからは彼らが見せる摩訶不思議な現象を、ちょっとは落ち着いて分析でもしてみるべきか、と。
「では、我々も行かねば。時間を無駄には出来ない。神でさえ限られている時間だ。少しでも多くの真実と命を――」
粛然とした口調で呟き、ウァーレは再び体を白く光らせ始める。途端に近くにいたゼスファーは〝光の情報〟を薄っすらと読み取った。
光それ自体は音を発しない。だがその代わりにひゅっと光に周囲の空気が押し退けられるような短音がした。それが意味するところ――すなわち光は、光だというのに何らかの物理的作用をしていると判断していいだろう。しかし光は放つものの、熱というものは一向に感じられない。その点では光の権化たる炎とも、光の化身たる太陽とも異なる異質な現象である。
「『神翼』」
ウァーレが唱えた途端、彼の背中が一瞬神々しい光に包まれ、次の瞬間には空気を押し退ける音と共に、鳥の翼に酷似した光が生えてきた。彼の白銀色の髪と同じ色。輝く羽毛が宙に舞い、すぐさま空気に溶け込むようにして消えていく。
「今度は翼……か」
直後に言われるであろう言葉を瞬時に悟ったゼスファーは、その確信した予感に思わず苦笑いをする。
「時には解らないものを解らないままにしておく事も大切だ。全てを理解しようと生きるなら、人ひとりの人生ではあまりにも時間が短すぎる。さぁ、私の背に」
「分かった、率直に訊くよ。飛ぶって事か?」
「走るのに翼は不要だ」
ウァーレは翼を広げたまま膝を折り、ゼスファーの前に屈み込む。その様相はあたかも天使が迎えに来たかのようである。
(天に直通だけは勘弁……)
心の中で呟いて、ゼスファーは変な考えを振り払い、ウァーレの背中におんぶをする形で乗った。
ゼスファーは好奇心から思い切って腕を伸ばして翼に手を触れてみた。
(触れる……!)
ふかふかと弾力のある光の翼を撫でると光の羽毛がぶわりと舞い上がった。確かに、半透明な見た目からして物理的とは言い難いが、何らかの要素がそこに確かに存在する。
「飛ぶぞ――『弾機脚』」
ウァーレが脚に力を入れる。すると彼が纏っている光の大半がその両脚に集中し、足首から脛にかけての周囲をか細い光の線がバネのように取り巻いていく。
「うっ――」
ごぅ、と首がすっぽ抜けて後ろに飛ばされてしまうような衝撃。ウァーレが地上から弾けるようにして空へ飛び出したのだ。
ウァーレはゼスファーを背に乗せたまま、たった一回の跳躍で遥か上空、背の高い木々を易々と見下ろせる高度に到達する。脚に収束していた大半の光が翼と胸元辺りに流動していき、両翼を左右に広げて体を水平にすると、低高度へ向けての緩やかな滑空が始まった。
「……………………」
まさに、感無量。空を飛ぶなぞ鳥にしか出来ない芸当だと思っていた。だが現にゼスファーは今、人の背に乗って空を飛んでいる。目に映る景色は恐らく鳥が毎日見ているものだ。
「信じるという事は難義なものだ。安易に受け入れるのは楽であって、疑えば疑う程に苦しむ」
ウァーレの言葉にゼスファーはまったくだ、と同意する。
「眩しいな……」
太陽の近さにゼスファーは目が眩む。天体の尺度で考えるのならば、この程度の高度なぞは誤差に等しい。だがそれでも太陽には手を伸ばせば触れるくらいの錯覚を覚えてしまう。
風圧に逆らって下を見下ろすと、そこには縮尺された世界があった。普段見慣れているものが小さく、普段全てを見れないものが大きく。
例えば木。自身の何倍もの背丈をしていて、いつも上から見下ろされている。だが今は小さくなった木々を容易に見下す事ができ、改めてその多様性を見る事が叶った。
例えば川。生活の要であって、いつもはその一部を使わせてもらっているだけに過ぎない。今はその川の先の先までもが見える。それでも、その川の全てを視界に収める事は出来ない。あの膨大な水量はいったいどこからきてどこへ流れていくのだろうか。
夕日が反射する煌びやかな川は、上空からの景色のなかで一番目立っていた。暖かな橙色に染まり、まるで染料をそのまま流しているかのようである。ただ、あの中を今リリーシアとラティアが流れているのかと思うと、ゼスファーは不安を抱くと同時に思わずにやけてしまうのであった。
◇
そろそろ目的地だ、とウァーレから伝えられる頃には、ゼスファーは既に観光気分よりも苦しい気分が勝っていた。所要時間は十分弱。ウァーレの宣言は徒歩ではなく〝飛行による十分〟であったのだ。
「っ……」
景色の感動で忘れ掛けていた体の痛みがじわじわと蘇ってきた。肌着の内側にぬめりとした感触を覚えたところ、一刻を争う事態になりつつあるのを痛感する。
「耐えろ、もう着く」
ウァーレは目的地付近の上空に差し掛かると、翼を大きく広げてより多くの空気を抱擁し、緩やかな降下を始めた。向かう先は色の濃い木々が鬱蒼と生い茂る深い森の中だった。
「っとっと……」
軽い衝撃と共にゼスファーの夢のような飛行験は終わりを迎えた。ふらつく彼をウァーレが優しく支える。役目を終えた翼は、細かい光の粒子となって森の静謐な空気に溶け合うようにして消失した。
「ありがとう。しかし……凄い森だな、こんな所あったんだ」
「クルトゥーラからやや北東へ、フロディエナ中央部に近いがあまり人は近寄らない、名も無い森だ……っ」
ウァーレは乱れた呼吸と装束を整えながら言う。一人の人間を背に乗せて空を飛ぶのに、いったいどれほどの労力を要するのかゼスファーにはまるで見当がつかなかったが、決して楽なものではないという事はウァーレの様子から充分に見て取れた。
二人が降り立った森はただ静謐のみならず、何人たりとも寄せ付けないような部外者に厳しい神秘さを醸し出していた。隙間無く連なる木々は、人間界で言うところの城壁のようなものであり、人々の侵入と監視をまるで受け付けないような堅牢さがある。
微風が木々の葉を揺らす音はまるで人の囁き声のよう。時折ぱきりと鳴る音は動物だろうか。人間の気配は二人以外に全くなく、別世界だと言われても違和感が無い。
「あれ、もしかしてここに何かあったのか? その、建物とか」
何故か今二人が立っている周辺だけが不自然に伐採されており、雑草も無く茶色い土が剥き出しになっていた。その土が綺麗な長方形を描いているところ、明らかに意図的な整地であるとゼスファーは見た。
「初めてであれば『真実の堂』を視界に捉える事は不可能だ。存在を知り、見る術を身に着けなければ、幾年月待ちえどもここには〝何も無い〟」
きょろきょろと忙しなく周囲を見渡すゼスファーに、ウァーレはやけに含んだ言い方をする。
「あー……それって、もしかして透明って事か?」
尋ねてから、自分の常識もだいぶ薄れてきたなと実感するゼスファー。
「表現上はそうかもしれないが、それならば見えなくとも触れる事は可能であろう。ゼスファー、そこから三歩進んで水平に手を伸ばしてみると理解出来るかもしれない」
透明であるならば触れる事は可能――。透明という事は目視による確認が出来ないだけである。すなわち〝そこにある事を知っていれば〟触れる事は簡単なのだ。質量の観点から実感こそ出来ないが、空気がまさしくそのいい例である。
ゼスファーは言われた通り三歩進んで自然と整地の境界線に立ち、右手を前に突き出してみた。だがその手はさっくりと宙を切るだけ。足で踏み込んだって変わらない。
「べつに、なにも」
確かめて肩を竦めるゼスファーに、ウァーレは同じ事をしてみよう、と右手を宙に突き出す。
――――コン。
そんな木を叩くような軽やかな音が響く。ウァーレの拳は中空で完全に静止したのだ。肘が曲がっているところ、完全に腕を伸ばしきったわけではない。
「えっ?」
音がした場所のみに何かがあるのかと思い、ゼスファーは同じ場所に手を伸ばすも、その手は相変わらず空中をすり抜けるだけ。それを見たウァーレが今度は何も無いはずの空中に背を向け腕を組み、挙句そのままもたれかかった。すると彼は倒れる事もなく、見えない何かに背中を預けて止まってしまう。
「………………?」
「存在の認識を行わなければ、この建物を視界に収める事はおろか触れる事すら不可能。この建物には不可視の加護が施されている」
「んー、俺にはさっぱり……。どうしたら触れる……いや、まず見れるようになるんだ? そのウェリタスとやらは」
「二人が到着次第――いや、着いたか」
がさがさと草を掻き分ける音が聞こえ、ゼスファーが振り向くと森の中からリリーシアとラティアの姿が現れた。恐らく川の中を〝流れていた〟というのに、その二人は特に濡れたような様子がなかった。
「お待たせ」
ウァーレと同じくややくたびれた調子で呼吸を整えるラティア。その傍らのリリーシアがほくほくと満足げな顔をしているところ、彼女もまた未知の体験を楽しんだに違いなかった。
「ご苦労。……ではアジトの認識を始めよう。ゼスファー、リリーシア、私の隣に」
言われるがままにゼスファーとリリーシアはウァーレの隣に立つ。お互いそっちはどうだった? と尋ねたいところではあったが、今はそういう雰囲気ではなかった。
「目を閉じ、心を無に。何も考えずに、脳内にの空虚な空間だけを思い浮かべてくれるか」
「真っ白にってことか」
そう言われたところで、何も考えないというのはいざやろうとすると難しい。考えるなと言い聞かせるたび、無駄な思考が意地悪に浮かび上がってくる。意図しての無心はとても苦労を要するものだと二人はしみじみ理解した。
「――第三刻『神通』」
そんなウァーレの声が聞こえた次の瞬間、彼の声が二人の〝体の内側〟から聞こえてきた。
《もし私の声が聞こえたならば、口に出さずに心の中で答えてみてくれ》
心臓が直接語り掛けてくるような近距離間。だがそれは一切の雑音が入らず、これ以上ないほどに聞き取りやすい。耳から聞こえてくる外界の音とはまるっきり処理方法が異なるようだった。
どう答えたらいいのか二人はさっぱり感覚が掴めなかったが、とりあえず口を頑なに結んだまま、頭の中で言葉だけを紡ぐ。要するに、心の中で愚痴るようなあれである。
《わたしは聞こえてるよ!》
《あー、あー、これ、聞こえてるか?》
《うんうん、聞こえてるよ。これなぁに?》
《私と君達の対話空間の共有だ。この会話は我々三人にしか聞こえていない。今から『真実の堂』の存在を君達と共有する。一歩後ろに下がってくれるか、〝位置が被っていると〟認識出来ない》
二人が一歩下がると、突然ゆらゆらと煙が踊るように、空白の思考の中にとある景色の断片が奔る――――
揺らぐ全体像。
古びれた灰色の外装。
目の前にある木製の扉。
周囲の木々と同等の高さ。
上下に二箇所ずつ数枚並んでいる窓。
壁に走る亀裂。
我がもの顔で優々と伸びている植物の蔓。
それら様々な特徴と仔細が順繰りに何度も切り替わりながら、まるで紙芝居のようにして二人にその全貌を認知させていく。その切り替わる間隔は段々と短くなっていき、やがてそれが一枚絵のようになった途端、この光景――『真実の堂』という名の建物はここに存在するのだ、という強い概念が二人の脳にはっきりと刻まれた。
《なんとなく、覚えたな》
《わたしも!》
《では、目を閉じたまま、一歩前へ。そして〝それはここに在る〟と強く念じ、片腕を前に》
胡散臭さもそこそこに、二人は一歩前に進んで手を伸ばした。刹那、小さな衝撃がその指先を襲う――――。
『――――……え!?』
何か、硬いものに手先が触れた。そのまま上下に動かしてみると、植物の蔓と思われるざらりとした感触があり、枯れてしまっている細い蔓がぱきぱきと折れる音が鳴る。
「心の中で〝視得た〟のなら、もう現実の目で〝見える〟はずよ」
背後から聞こえるラティアの声にもまだ確信を持てないが、ゼスファーとリリーシアの指先の感覚は建物の存在を疑わない。――故に、ゆっくりと瞼を持ち上げる。
「勘弁してくれ……」
「あれぇ!? 今までなーんにもなかったのに!?」
二人の眼前には頭の中で描かれた通りの建築物が腰を据えていた。つい数秒前までは見る事、触れる事すら出来なかった存在が、堂々と森の中に構えているではないか。
「信じなければ見えないものもあるのよ。信ずるは認識へ。だから〝根っからの疑り深い人〟なんかは認識に時間が掛かるわ。幸い、あなたはそうではない心の持主だったようね――ゼスファー」
「あぁ、言うと思ったよ。その台詞」
皮肉ともとれるラティアの微笑に苦笑で応えるゼスファー。類稀なる彼女の『心察眼』は、あれだけ疑り深い構えでいた彼の本心をも軽々と見透かしていた。しかし彼女に〝読まれている事を読んでいた〟彼も彼である。
夕日が落ちる寸前、徐々に闇に蝕され眠りゆく森の中。廃れた教会のような古めかしい建物の窓に明かりが灯り、ラティアが扉に手を掛ける。
「ようこそ、『真実の堂』へ――――」