第一刻『クルトゥーラの二人』
フロディエナ大陸南部、矮小な田舎町『クルトゥーラ』。
その静穏な町の一角、今日もまた千篇一律の朝を迎える家があった。
◇◆◇
「お願いだから頼むってほんと……」
天窓から射し込む淡い朝日の下、溜息混じりにやれやれと肩を落とす少年がいた。その眠たそうな目先にある流し台には、洗い終えていないいくらかの食器が、早く洗えと言わんばかりに堂々と腰を据えている。
「…………ん、ふぁ……今起きるってば、ゼスファー」
眠り足りぬと訴えるあくび交じりの少女の声が聞こえ、その声に肩を竦めて瞼を閉じる少年――ゼスファーはほとほと呆れながらも食器に手をかけた。
肩口でさらりと揺れる濃い麦色の髪。淡い太陽光に照らされ、煌びやかな光彩を放つ手入れの行き届いたそれはまるで女性のようで、美しい。
今は眼力の浅い寝ぼけ眼ではあるが、彼の瞳は深海のようにどこまでも深く蒼い。少年――否、一見少女ともとれるどこか端麗な顔立ちをしているが、彼の性別はれっきとした男性である。ただ、男にしては細身の体付きと長めの髪が相まって、時折女性と勘違いされてしまう事が彼の悩みの種であった。実際、声を聞くまでは女性と勘違いする人の方が圧倒的に多かったのだ。
そんな少年、ゼスファーは時折あくびに涙しながら手馴れた手付きで食器洗いを淡々とこなしていく。
やがて半分ほど済ませたところで、ようやく本来の担当者が現れた。
「ふぁ……おはよー。ん……今日も平和だねぇ」
あくびを噛み殺しつつ、天窓から射す光を手のひらで味わいながら、柔和な声色で挨拶を交わす少女。
「おはよ」
その呆けた声にゼスファーは短く返す。いつもの事だ。
少女は涙の粒が絡まる長い睫毛に目をしばたきながら、緩慢な動作で食卓にやって来た。
腰元で踊る優しげな光沢を放つ栗毛色の髪は、普段は直線的だが寝起きが故、今は自由気ままにその足先を東西南北へと伸ばしていた。髪の色と同じ栗毛色の寝巻きに包まれているその身は、まだ完成を目指している途中経過に過ぎないが、それでも釣り合いのとれた体付きは非の打ち所が無いほどである。
朝日に光華する大きな黄金色の瞳。夢心地の抜けていない、幻想に溺れかけているような、一切の濁りなき眼差し。野苺色に染まる小振りな唇は、外から聞こえてくる鳥のさえずりの真似をしている。
「ほら、顔洗いな」
「ほいほい」
差し出された水桶の冷水で顔を洗いながら、少女は横目で食器の惨事を確認する。
「あちゃ、あとはわたしやるよー」
「いい、きりが悪いから。リリーは朝飯の支度してくれ」
「それじゃぁお言葉に甘えて作りますかっ。今日〝は〟あなたの大好きなパンケーキでいいかしら?」
「……あぁ、もちろん。今日〝も〟大好きだ」
諦めて呟く。それも仕方がない話であった。
――――事実、現在の家計を支えているのはゼスファー自身だった。自身の収入が収入なので、どうしても質素な食事は避けられない。贅沢が出来るかどうか――まずパンケーキ以外の朝食にありつけるかどうかは彼の仕事の成果次第。パンケーキは見飽きたと愚痴ったところで、景気が良くなるわけではないのだ。
「じゃぁ決定ね!」
少女――リリーの声と同時に、卵がひとつだけ割られる寂しげな音が響いた。
「……ふぅ、着替えてくる」
洗い終えた食器を几帳面に木棚へとしまい、ゼスファーは仕事の支度をする為に食卓を離れた。
「ありがと。すぐできるよ」
部屋に戻るゼスファーの背に声を投げかけ、リリーは振り向きざま、フライパンの上でこんがりと焼けたパンケーキを器用に――――
「――わっ!」
フライパンに着地予定だった〝それ〟は、無慈悲にも咄嗟に差し出したリリーの救いの手をすり抜け床へと墜落する。そして、ぱすん、と再び寂しい音だけを残し、そこそこ整っていた円はひしゃげた楕円へと変わってしまった。
「どうした?」
「なんとかなるー」
別の部屋から聞こえてきた心配そうなゼスファーの声にリリーはそう返す。
「あむぅ…………」
親指を唇にあてがいながら悩むリリー。しかしそれも一瞬であり、彼女は特に悪びれた様子を見せずして調理という名の〝加工〟を始めた。手始めに落ちたパンケーキをひょいと拾い上げ、鼻唄まじりに何度かはたいてフライパンの上に戻す。そして戻したそれをどうにかして半分に切り、それを何事も無かったかのように用意した皿に乗せていく。
「よし!」
その満足げな彼女の表情には、些細な事をあまり気にしない性格が顕著に表れていた。
「あぁそうだ、今日はすぐ帰ってくるよ」
着替え終わったゼスファーが食卓に戻りざまに言う。彼は細身の体には少し余る灰色の作業服に身を包んでいた。作業服は相当に古いものらしく、あちこちに焦げ跡や修繕の跡が見られる。が、それを纏う事でかなりの男前になる彼でもあった。
「すぐ、って良い意味? 悪い意味?」
リリーがもはやパンケーキと呼べぬ物体を乗せた皿をテーブルに置きながら尋ねる。それを見たゼスファーは瞠目するも、恐ろしさからあえて追求はしなかった。
「今日は良い方の意味。例の仕事がもうすぐ終わるからね。残りは仕上げだけさ」
「例の仕事って、あのすっごい剣?」
コーヒーを注いだカップをテーブルに置きつつリリーが席に着く。それに続いてゼスファーも椅子を引く。
「そ、あのお客さん羽振りがいいんだ。もし今回の仕事が成功したら、他の人にも紹介してくれるってさ」
「へぇー、それは助かるねぇ。もしかしたら大富豪になれるかも?」
かもね、とにんまり答えるゼスファーは、持ち前である手先の器用さを売りにして町で鍛冶屋を経営していた。とはいえ田舎町が故に、その規模は完全に個人経営である。
武器から生活用品まで様々な物を造れるゼスファーの鍛冶屋は、なかば便利屋と化して人気を博していたが、近頃は安価で大量生産を売りとする都市部の製品に客が流れてしまい、今では毎朝がパンケーキの次第である。それでも丁寧で一品物である彼の作品を求める人は、遠い地方からも足を運んで来るという。その顧客を失ってしまった時には、もはやパンケーキすらお目にかかれない事態になりかねないだろう。
リリーの言う良い意味のすぐとは、ゼスファーの仕事が順調に進んでおり、遅くならずに帰宅出来るという事。悪い方のすぐとは仕事が無い時であり、特にやる事がないので早々と帰宅して彼女と余暇を過ごすのである。もっとも後者はリリーにとっては良い意味ではあるのだが……。
『いただきます』
ゼスファーがフォークを宙に泳がせ、少しためらったあとに奇怪な形をしたパンケーキを突き刺す。彼が首を傾げながら口に運ぶパンケーキを、リリーは確かめるように目を細めてじぃ、と観察する。
「……ん、なんだよ、食べないのか?」
「それ、落としたから大丈夫かな、って」
「ぶっ――!」
とんでもない事をリリーはさらりと口にする。今まさに、一口目を飲み込もうとしたゼスファーがその事実に咽る。その様子を見た彼女は、まぁ大丈夫かな、と彼の事はお構い無しに落ち着いて自分の分を食べ始めた。
「っ……はぁ、落としたって勘弁してくれよ」
「ごめんごめんー」
ゼスファーがむっとした表情で睨むも、リリーはへらりへらりと笑顔で謝るだけだった。
「……ま、昨日床掃除したばっかりだし平気か……」
幸なのか不幸かもはや分からないが、とりあえずゼスファーはそうしておく事にした。いつだって楽観的なリリーには度々参らされてはいるが、共に過ごすうえでこれ以上を望める人間はまずいないだろうと彼は思う。そしてどちらかといえば論理的なゼスファーも、最近は彼女の影響で徐々に楽観主義に移行しつつあった。
「ね、それでそのお客さんはどうして剣なんか依頼してきたの?」
リリーが唐突に仕事の話を訊く。ゼスファーの仕事は本来彼女も手伝うべきなのだが、自身でも絶賛するほどの不器用さ故に、仕事場にはあまり顔を出さないでいるのだ。
「使い道は聞いてないけど、やっぱ誰かの護衛とかじゃないか? あー……いや、なんか『神』を守るとかどうの言ってたから、ただの様式的なもんだろ。教会かなんかの」
「神? 神ってあの神様のコト?」
「さぁ。ようはまぁお祭りみたいなものがあるんじゃないか? どうせこんな〝ド田舎〟には都市部の情報なんて入ってこないから分からないけど」
ふん、と不満げに鼻を鳴らしてからゼスファーは嘆息する。彼らの住む町クルトゥーラは都市部から遠く離れていて、時代の先端をゆく都市部の目立った情報などは、旅人が立ち寄った時くらいにしか手に入らないのである。
「――リリーは、この世に神なんていると思うか?」
カップを口元に当て唐突に、ゼスファーはあくまでも気楽な口上でそんな事を尋ねる。だが湯気の間から覗くゼスファーの瞳は何故か静夜の寂しさを含んでいて、静かな湯気の揺らぎが余計にその色を強めていた。
「神様……かぁ。本当にいるのかな? いたら会ってみたいけど……」
リリーは目を逸らし、天窓から見える澄み切った青い空に向って呟く。その空に、姿形の分からない神の姿を投影するかのように。しかし神はその姿の想像さえも赦してはくれなかった。
「でも、少なくとも町のみんなは信じてた。それに毎朝の祈りも忘れてなかった。――それなのに、神とやらはあの時助けてくれなかったみたいだけどな」
冷たく言い放ちカップを傾けるゼスファーに、むむむ、とリリーが口先を尖らす。
「もーう、その話はだーめ。神様だって忙しかったんだよ、きっと」
「は、どんな仕事してんだろうな、まったく。人間の一人や二人くらい救済してくれてもよかったんじゃねえか?」
ゼスファーの脳裏には能天気に茶菓子をつまみながら――と、そこまでしか浮かばず、そのもどかしさに彼は思わず顔をしかめた。またしても神はその姿の想像を拒んだのだ。
「でも、あの時のお父さんとお母さんがいたから、今のわたし達が生きてるんだもの。あの時わたし達を隠してくれてなかったら、きっと殺されてたんだから」
あぁ、と頷くゼスファーはそんな過去の話を飲み干すようにしてカップの角度をきつくする。
「でも、幸せだよ。お父さんとお母さんがいなくたって」
リリーは顎をテーブルに載せ、ころころと顔を左右に揺らしながらさらりと言う。
「…………!?」
両親がいなくても幸せだという発言に、なんでだ、とゼスファーは鼻まで持ち上げたカップの上からリリーを見下ろす。
「だってわたしにはあなたがいるんだもの。ね?」
テーブル越しに身を乗り出して同意を促すリリー。その屈託のない笑顔にゼスファーは嘘つけ、と言い放ち、カップを置いて席を立つ。それでも緩む口元には綺麗な白い歯がはっきりと覗く。
「もーぉ、わたしが世界一嫌いなものは嘘なんだから――って、もう行くの?」
慌しくリリーも席を立ち、ゼスファーの後を追う。
「あぁ、刻限は厳守だ。ごちそうさま。あと『酸草』がきれそうだったから、補充しといてくれ。火が熾せなくなる」
ゼスファーはそそくさと玄関へと向う。そしてそのまま外に出ようと扉に手をかけた彼の手を、リリーが両手で引き止める。
「……っ」
あろう事かゼスファーはその手を振り切って逃げようと試みる。が、リリーの方が速かった。
「ば、やめっ――!」
素早く背伸びをして、リリーは逃げようとするゼスファーの頬に唇を軽く押し当てた。
「…………っ!」
寄り添うリリーを引き剥すゼスファーの表情は、先ほど食した異形のパンケーキにどこか似ている。
「は、恥ずかしいからやめろって!」
ゼスファーのさする頬が急速に苺色に染まっていく。その様子はどこか可憐な少女のようで、あまり男らしくはなかった。作業服を脱ぎ、女装をすれば、声を出さない限りは充分に女性としてやっていけそうなほどである。
「あはっ、誰も見てないってば。大一番の仕事がんばってね!」
リリーはにやりと笑いながら人差し指でゼスファーの頬を悪戯に突付く。彼は言葉に詰まって、乾いた唇を噛みながら反撃の言葉を探す。が、返す言葉は見つかるも言えるわけがなく、結局彼はいつもの台詞を放って仕事へ向う事にした。
「あぁもう、行ってくる!」
「ハイハイ、いってらっしゃーい!」
眩しい太陽光に目を細めながら、リリーはゼスファーの逞しい背中に手を振る。
ゼスファーは愛しき同居者に背を向け、手だけを頭の上でひらひらと振りながら歩き出す。
◇◆◇
それは少年と少女によるいつもと変わらぬ朝の風景。
愉快に交わされる会話。
降り注ぐ淑やかな朝日。
荒ぶることのない風音。
折り重なる日常の螺旋。
だが、それらを繰り返す時計の針は、既に狂い始めようとしていた――――