第十六刻『緋時計の瞳』
視界は緋色。それはまるで血液の薄膜を通して見透かすかのような不気味な眺め。吐き気を覚える程おぞましくも見えるが、どこか見入ってしまう程の神秘さもある。
かち、かち、かち、かち――――
何かが、鳴っている。
(この音は…………)
ゼスファーは頭蓋の内で鳴り響く規則的な音を吟味し、その正体を明確に捉えた。とても聞き覚えのある間隔。鳴っているのは――時を刻む音、〝時計の音〟だ。
かち、かち、かち、かち――――
時計の姿、音の発信源である秒針はどこにも確認出来ない。だが何処かしらで堅実に繰り返されている時計の音色。それに織り交ざり鳴る己の心臓の鼓動。始めはずれて不協和音となっていた両者は、やがて足並みを揃えて響きを共にしていく。
(なんだ、この光景……)
見える景色は、言うなれば異界。緋色の世界は緩やかな速度で螺旋のように回転し、蜃気楼のような不明瞭さを連続して描き続けている。時折はっきりと輪郭を示したかとかと思えば、不意に水面に映る景色のように揺らぎ始めたりもする。やや離れた所では街中で燃える火炎が生き物のように不規則に揺らめいていた。
眩暈とは違う。そう、状況を一口に――歪んでいる。眼前の光景がありとあらゆる角度に回転し、あらゆる方向に引き伸ばされ、収縮し、上下に動き出す。決して停止する事なく、景色が常に紆余曲折している。甚く多様性に富んだ歪みだ。
かち、かち、かち、かち――――
時計の音が煩い。狂った世界の中で唯一それのみが規則的だからそう感じてしまうのかもしれない。
時間というものは正確だ。あるいは時間の存在から正確という言葉が生まれたといえよう。景色は不整に務めども、時計の音色は間断なく規則的に時を刻み続ける。
時間とは不可逆変化の代表だ。如何なる場合でも歩みを止めず、その存在が生まれた瞬間から何事にも臆する事なく、ただただ直向きに邁進し続けている。時間は決して止まる事も逆行する事もなく、この世の全てを未来へと運ぶ。……そう、厳密には〝今〟というものは存在しない。たった今というのは既に過去の事象。故に我々人間は時間と共に常に未来を生きている――――
ゼスファーは、それら時間の特性や事実をよく知っていた。時計の音が過去を想起させる。鍛冶職人であった彼の父親は、こと納期に関しては口喧しい人間であった。そんな人から幼い頃に時間について説かれていた時の光景が脳裏に浮かぶ。――当然、どう足掻いてもその父や母がいる過去に戻れない事も熟知していた。
――――そして、ゼスファーが感じ取れたのは時間に関する事だけではなかった。
景色の歪み、及び時を刻む音と同時に生まれたのは、圧倒的な〝支配欲〟だった。別の表現をすれば、眼前の景色を好き勝手に支配し〝歪ませているのは己自身の力〟であるのだ。だが今は混乱しているが故に、景色も混乱しているのだと即座に理解出来た。
今や謎の支配欲は目の前で何故か跪く少年に最大限に向けられていた。緋色に歪んだ景色の中央に一人の人間。彼だけは歪まずにはっきりと、その表情の細部に渡るまではっきりと見える。――萎縮し、怯えている。
その少年は、今のゼスファーにとっては非常に矮小な、最低限の尊厳すら引き剥がされた人間以下の存在のようにも見えてしまう。今ならすぐにでも自らの手で命を絶て、などという事も命じられる。いや、言ってしまえと無意識下で口元が力む。
「――っ、駄目だっ!」
ゼスファーは腹の底から発声し、咄嗟に己に喝を入れて、目の前に敵がいるのにもかかわらず思わず両目をきつく閉じた。なかば条件反射に近い行動だった。すると、今までの緋色に歪んだ景色は消え失せ、瞼の裏の暗闇のみが現れる。時計の音色もさっぱり聞こえなくなり、あらゆる異常が去って静寂が訪れた。
「……!」
ゼスファーが両目を閉じた瞬間、一方の少年はようやく立ち上がる事が出来た。否、許されたというべきか。不意に、全身に絡み付いていた不可視の鎖が一斉に解かれのだ。しかし彼が感じたのは開放感ではなく、一種の安堵。確定された死を寸でのところで見逃してもらえた――。
感情の煮え滾る鍋に分厚い蓋をされたかのような。己から発する情報その全てを否定されるかのような。それはまるで〝神を相手にしていたかのような感覚〟。紛れもなく、強大な力に支配される側の感覚だった。
「……おまえ、なんなんだ? 只者じゃないだろ」
頬に滴る冷や汗を素早く拭いながら、少年が冷静な口調でゼスファーを問いただす。消えていた加護の輝きもいつの間にか戻っていた。この瞬間、優劣は平坦になった。
「いいや、これ以上ないほどに只者だ」
ゼスファーも全身に気味の悪い汗をかいていた。その不快感を抑え平然と答えてみたものの、他でもないゼスファー自身が一般的とは遠くかけ離れた事態を強く実感していたのは確かだ。少年が圧倒的な束縛感を味わっていたその時、ゼスファーはまさしくその逆の、確たる圧倒的支配感を味わっていたのだから。
相手がまるで足元にある小石か何かのようだった。踏み付ける事も、放置してこの場を去る事も――命を奪う事さえも容易に叶いそうだった。今までの立場とは一転、全てが〝上〟になった感覚。あのまま彼を睨み続けていれば、触れるまでもなく、彼を思いのままに出来たかもしれない。そんな唐突に膨れ上がった支配欲を、それでもゼスファーは抑え切った。持ち前の理性が、寸でのところで意識を平常に保ったのだ。
「〝力〟を知ってる時点で一般的とは言えねぇよ。契約を交わしたおれ達は一般人より上で、価値がある」
「価値? なんだ、おまえの身体は金や銀でできてるのか? 命に価値はない」
ゼスファーの揺るがぬ断言に、少年はそのか細い切れ目を限界まで丸くした。
「価値はないだって!? おいおいそりゃどういうことだ?」
それはウァーレに言い放った時と同じだった。少年の反応もまた同じ。だがゼスファーが無価値と語るその真意は、ゼロなのではなく、〝価値をつける意味がない〟というわけである。
「ふん、まぁそんなのはどうでもいいや。で、おまえ今、おれを支配しようとしたろ。やな感覚を〝思い出した〟よ。忘れてたのに」
今この瞬間まで、先ほどの現象で互いは互いにそれぞれ何を感じ取っていたかが分からなかった。だが少年の発言によって、ゼスファーは己が相手を支配しようとしていたのだと再認した。
少年の発言からゼスファーの察するところ、少年は既に同じような体験をしているという事になる。だとすれば――――
「支配? なんの事だか」
少年の問いに今答えるのは躊躇いがあった。白状すれば、恐らく少年は自分の正体が何者かを口にするだろう。自分が何者なのかを、少年は先ほどから知っているような素振りを見せている。ゼスファーにはそれを知りたいという欲求が当然ながらあった。だがそれでも今は知りたくないという拒絶感の方が遥かに大きい。
何故なら、純粋に――恐ろしい。突如として現れた支配欲と確かな実権。あれは紛れもなく誰かを征服し縛り付けるための力だ。明らかに誰かを救い、幸せにするような能力ではない。どうして自分にそんな能力があるのか。それともこれも加護の仕業なのか。あるいは人間は誰しもこのような能力を持っているが、滅多に使えないだけなのか。
ゼスファーには解らない。彼は、今はただ何事もなかったかのように振る舞うのが一番だと自分に言い聞かせた。ともかくこの状況を打開しない限り、自分が死ぬという事実はなんら変わらないのだから。解決はそっちが先だ。
「俺はただの人間だ」
ついぞの自分を突き放すかのように、ゼスファーは少年を正面から見据えて強くはっきりと断言した。だがそんな彼の態度に少年は苛立ちを隠せない。
「違う! そんなわけがない! おまえは〝神の〟――」
その時、疾風の音がした。言葉が最後まで語られる事なく、とある単語はゼスファーの耳に届かぬまま、少年は〝風に攫われた〟。
「なっ……!?」
ゼスファーは一瞬呆気にとられたが、即座に警戒心を高めた。人を飛ばす程の突風であれば――無論そんな風があればだが、目の前にいた自分も同じく飛ばされていたはずだ。それにもっと多くのものを掻っ攫っていっただろう。今のはあまりにも局地的かつ瞬間的過ぎる。間違いなく自然の仕業ではない。
「無事だったな?」
突然、だん、という着地音と共に独特な問いかけでゼスファーの身を案じる男性が現れた。
「え?」
その男性は肩に軽々とゼスファーと争っていた少年を担いでいる。ぐったりとしているところ、気絶――そうであって欲しいところだったが、完全に無力化されていた。
男性が身に覚えのある装束を纏っているところと言動から、恐らく味方だと素早く推知したゼスファーは、構えの姿勢を崩して礼を述べた。
「あ、ありがとう。ひとまず生きてる」
「驚いた、〝野郎〟か……!」
現れた男性は、自分が助けた人物の性別を判定出来なかった己に驚いていた。もっとも、一目でゼスファーを男だと見抜ける人物はそうそういないものだったが。
「んぁ、やっぱ時代は男女平等に、だな。どう見ても華麗な少女に――……」
男性はなにやらゼスファーの気に食わない言葉を片っ端からぶつぶつと呟いていたが、助けられた手前、ゼスファーは聞こえないふりをしてやり過ごす他なかった。
「それで、あなたは?」
「ミナローサから話を聞いて飛んで来た。君と同じ『真実の堂』所属の者だ。よろしく」
男性は肩に担いでいた少年を地面に優しく寝かせ、ゼスファーと固く握手を交わした。君と同じ、と言われたあたり、もう既に正式な一員として活動している事をゼスファーは実感した。そしてその話が裏でどんどん広がっているという事も。
後ろに流した刺々しい黄金の髪に少しだけ混じる輝く白髪の組み合わせは、どことなくミナローサと似ていた。およそ自然界には存在しないような鮮やかな水色の瞳は、人間離れも甚だしい。だがそれでもその余裕綽綽の笑みを浮かべる端整な顔立ちには、憔悴していたゼスファーを一瞬で安心させる力が溢れていた。筋骨隆々というわけではないが、その整えられた筋肉は纏う装束の上からも垣間見える。その飄々とした逞しさもあり、男から見ても充分に魅力的な男だった。
「ところで君はどういう任務を受けてここへ?」
「あ――」
そこでゼスファーは思い出し、悪寒に全身の毛が逆立つのを感じた。
「アルが……! 俺は彼と移動中に襲われて……」
そこまで言って、ゼスファーの心拍数がまた急激に跳ね上がった。恐らく今、彼は一人だ。自分と同じように誰かに襲われていたとしたら、太刀打ちできる術は……物理的には、恐らく自分よりも少ないだろう。いくら優れた知識人だとしても、加護を用いたとしても、あの体躯で肉弾戦に心得があるとは到底思えない。
ゼスファーの反応から成り行きを推測した男性が即座に加護を纏い、何らかの手段で件の人物と連絡を取り――結果はすぐに判明した。
「大丈夫そうだ。まこと元気に生きてるよ」
男性はゼスファーの背中を優しく叩き、ゼスファーはようやく安堵の溜息をこぼす。同時に彼の脳内で件の人物の声が響いた。
《やぁすまなかった……ゼスファー君。僕は無事だよ、うん。君は良く耐えてくれた。後ほど合流する。あー……そういえば第三刻の説明をしていなかったね、うん。使い方はまた後ほど教えるよ》
「えっと……り、了解」
ゼスファーは脳内で響いたアルイロの声に、思わず声を出して答えた。加護による遠距離心内対話。一度は体験したが、その明確な使用方法を教わっていなかった彼は、まだそのコツが掴めていなかったのだ。
「んぁ、そうか新人だったな。なに、じきに使いこなせるようになる。だがそれを知っちまうとおもしろがってそれしか使わなくなって、そのうち声が出なくなる」
「…………」
加護関連については未だどれが嘘でどれが真かが判断のつかないゼスファー。だがこの古兵の香り漂わす男性がきちんと人間の言葉を発しているところ、今回は単なる冗談なのだろうと理解した。
「いやしかし――よく耐えたな。全部の加護の定義はおろか、まともな模擬戦すらやっていないだろう」
男性は周囲の惨状、砂鉄が散乱し地面の抉れた様子を眺めながら驚嘆する。
(いったいこいつはどう戦ったんだ……?)
男性の所見では〝そこそこの者〟同士の争いの形跡だった。所々に落ちている鉄の塊。それぞれの大きさはそうでもないが、その質量が如何程なものかは彼でも解る。仮に相手があんなものを自在に操作できる異能者だったとすれば、この新人がたとえ武術剣術に長けているとしても捌けるわけがない。腰に携えている剣も頼もしさに欠けている。
「物理的に耐えた部分もあるけど、正直なところは〝時間に耐えた〟っていうか、少しお喋りして時間を稼いだっていうか……」
序盤にとにかく時間稼ぎを、と少年相手に対話を試み、かつ先程の予想外の出来事が起きた。交戦時間が引き延ばされたところへ男性が現れ、九死に一生を得たのだ。無論、加護を用いた即興の妙技で凌いだ部分もあったが、それを男性が知るのはまだまだ後になる。
「お喋り、か。だとすると君には噺家の才能があるのかもな……ん?」
足音が一人分、ぱちぱちと火の爆ぜる音に混じって聞こえてきた。
近くで燻る建物の裏から現れたのは一人の女性――ミナローサ・アルミリアだった。
「ミナか。これで揃ったな」
「おう、ウィグス。どれ、ゼスファーは生きてるか?」
開口一番、地に足の着いている当本人を横目にミナローサは冷静な口調で物騒な一言を述べた。とはいえ安堵の入り混じった笑みはどうにも隠し切れていない。
「んぁ、それが名前か。そいつを確認するのを忘れてたな。で、ゼスファー、生きてるか?」
「ここが死後の世界なら二人とも同僚だ。俺はゼスファー・レアミッド。よろしく」
「ウィグス・アドニカだ。よろしくな、新人さん。……ん、レアミッド?」
ゼスファーの名を聞いたウィグスはやや驚き、宙を見上げて懐かしむような表情を浮かべた。
「レアミッド……レアミッド……。どっかで聞いた事がある。んぁ、思い出した」
「え? 知ってるのか?」
「『レアミッド製』ってのは鉄鋼製品の中じゃ最高峰だ。希少性は高いがな。俺は昔とある街で警備兵をやってたんだが、誰もが軽くて強い誰某製の防具を欲しがったもんだ。機能性から意匠まで通常の品とは桁違いでな。なんせ相手が槍だの剣だの持ち出してきても、こちとらレアミッド製のフライパンさえありゃ打ち勝てると――」
「さすがに……フライパンは用途が違うだろう」
ゼスファーは苦笑したが、ウィグスはまんざら嘘でもないような眼差しだった。その後も諸々ウィグスはレアミッドの技術を褒めちぎった。正確に言えば『アーリード・レアミッド』製だが。
ところで当時は、作った品物がどこに流通しているのか、価格はどの程度だったのか、またその製品の評価の良し悪しも、ゼスファーにとっては全て〝大人の事情〟だった。故にゼスファーはただ技術を教わり、父親の傍らで一緒に製品を作り上げていただけだったのだ。
だからゼスファーは知らなかったのだ。その本当の知名度を。稀に――いうなれば一年に数回、レアミッド製のものを求めて〝ど〟が付くほどの田舎にある町、クルトゥーラに足を運んでくる者がいた。だから珍しい好みの人がいるものだ、と思っていた程度はあった。それくらいだ。
「しかし……残念だった。ところで君は、仕事は継いでいるのか?」
「あぁ、俺が続けてる。そりゃ父さんにはまだまだ及ばないけどさ。今は見ての通り、休業中さ。だから早くこっちを終わらせて仕事に戻らないと」
ふと作業場の景色がゼスファーの脳裏に浮かぶ。いつ戻れるかはさっぱり分からない。……まぁ、『神と永刻を頒つ者』の到来前に掃除やら整理整頓を済ませておいたのは不幸中の幸いと言えよう。
「んぁ、良い心がけだ。将来の『君製』を楽しみにしておこう」
「言えば何でも作ってやるさ」
今現在、アーリードの仕事はゼスファーがきちんと受け継いでいた。だがアーリードの訃報以降、当然ながら仕事が激減したのは事実だ。当時の顧客にとっての『レアミッド製』はそこで一旦終わったのだから。無論、完全に終わらせないよう、ゼスファーは親を超えるべく日々技術を磨いている。
(そうか……ちゃんと生きてるな、父さん)
ゼスファーは今更ながら父親の偉業を誇らしく感じた。今は亡き者だとしても、こうして誰かの記憶に生きている限り、その人は生き続ける。そしていつしかこうして〝繋がりに繋がる〟のだ。
(そういえば、ウァーレに名前を言った時も変な間があったな……)
誇らしく思うのも束の間、ゼスファーはふとウァーレに出会った時の事を思い出した。あの時も名前を告げたあと、確か変な間があったのだ。ウァーレは気のせいだと言ったが、ゼスファーは父親の事だろうと判断していた。ウィグスも知っているところ、その理由はそれで確定だろう。
「まぁ積もる話は後ほどにしようぜ。で、そいつの浄化は済んだのか?」
ミナローサは足元に横たわる白装束の少年を指差し、さらりと本題に入った。
「いや、たった今落としただけだ。今から済ませる」
「……浄化?」
「そうだ新人。君もいずれ覚えなくてはいけないな。こいつの記憶は汚染されている。この仕組まれた邪意を消す。『神と永刻を頒つ者』を救う、殺す以外の唯一の方法だ」
「救う、か」
今まで殺しにかかって来た相手に、救うという表現を用いるのはいかがなものかとゼスファーは思ったが、殺し、幽閉するわけにもいかないだろうから、そう言うしかないのかもしれない。
「もう聞いたかどうか分からんが、こいつらは末裔に騙されている。もともと善良……いや全員が揃ってそうとも限らないが、末裔のせいで普通の思考から外されている」
「んま、〝誘惑に負けた〟っていう点には目をつむるけどさ、人間だからな。まぁ結局のところ本人には悪意は全く存在しないんだ」
ミナローサの解説にゼスファーは驚きを隠せなかった。
「悪意が存在しない? とてもそうは思えなかったけど。たとえ騙されてたとしても、あれだけの強い意思は自分からじゃないのか?」
ゼスファーは到底信じられなかった。つい数分前まで嬉々として命を奪おうと攻撃をけしかけてくる奴らと対話していたのだから。
「んぁ、初見はそうは思えないだろうさ。俺もそうだった。だがな、神は根本を変えちまうんだ。解るか? ゼスファー。抗えないんだ。どんなに強い意志を以ってしてもな。意識どころではなく、己自身がまるっきり変わっちまう」
ウィグスは諦めきった表情で首を横に振った。それは当たり前に近い、無理だった。
「良し、悪いが君の記憶に少々失礼する……第四刻『神眼』」
ウィグスは地面に寝かせた少年の傍らに膝を着き、彼の額に片手を当てながら加護を宣言した。そのまま黙り込んだまま動かず、まるでじっと何かを探しているかのように集中する。
「何人殺ってる」
腕を組んで様子を見ながら、ミナローサが感情のない言葉でウィグスに尋ねる。
「八人。内二人は恐らくこの子の両親だ。そしてそれが最初だ」
ミナローサの問いに対し、ウィグスは報告書を読み上げるように淡々と答えた。少年の記憶から引き出したその情報は紛れも無い事実。少年がその目に、その記憶に焼き付けてきたものだ。
「そうか」
頷いたミナローサの反応もまた淡々としていた。同情の類がまるでない。ただ、それでもあるのは寡黙な怒り。それも罪を犯してきた当の少年に向けたものではなく、ここにいない誰か個人に向けた、非常に直情的な憤りだった。
二人の反応が、会話の内容に反して淡々としているのは、お手本とも言える行動だった。――そう、他人の記憶にいちいち感情を示していたらキリがないのだ。
「抵抗、出来ないのか」
「〝普通の人間〟にはな」
ウィグスは意味有りげな言葉でゼスファーに答える。
互いにとって最愛であるはずの自らの親を殺める時でさえ、負の感情は浮かばない。生まれるはずの感情を押し潰し、上書きされる悪意。抗う事が出来ない支配。そんな不条理な事態がこの大陸を真綿で首を絞めるかのようにゆっくりと蔓延っていく。
突きつけられた真実と、目前にした現実にゼスファーは知らず唇を噛む。胸の底から込み上げてくる怒りが落ち着いていた精神を再燃させる。
「それを止められるのが、この装束を着る者達なんだよな?」
ゼスファーは自身の羽織っている白い装束を強く握り締め、もはや恫喝に近い勢いで強く確かめるかのように尋ねた。止められる――そう答えが返ってくるのを信じて。
「俺達に〝抑える〟事は可能だ」
だが返ってきた答えはなんとも曖昧なものであった。腑に落ちない、といった表情を浮かべるゼスファーを見たウィグスは、これ以上彼を熱くさせないようすぐに先を続ける。
「諸悪の根源を殺める事が可能なのは我らが主、ウァーレ・ユースティマ、あの人だけだ。俺達にはその補助しか出来ないんだ」
声色には出ていなかったが、ウィグスの選んだ言葉にはどこか悔しがるような意味合いがあった。だが決して己の非力さに忸怩しているわけではない。その真意は、ある強大な縛り――この世の〝とある戒律〟に対するもの。だがゼスファーはそれについてまだ聞いていないだろう、と判断したウィグスは説明を省く事にした。
一方で、〝ウァーレだけ〟という点に疑問を抱いたゼスファーは、何故? と問い掛けようとして止めた。あの超人を間近で見た者なら誰もがそう思うだろう。あらゆる部分で彼を超える人はいない、彼なら不可能すら可能にするだろう、と。だが――
「でも、ウァーレだって〝一人の人間だ〟。限界はある。出来ない事だって多いだろう」
ゼスファーはウァーレが人間である事を再認すべくそう訊いた。確かにウァーレは人ならざる威厳や能力の持ち主かもしれない。だがヒトの頭数としての計算上はたったの〝一〟。残念ながら、世の中の大半の事柄は数が多いほうが有利なのだ。
「だから俺達が着いていく。君がどのような理由でここに入ったかわからないが、もしウァーレに誘われたというなら納得がいくだろう。彼は一番一人を理解している人間だ」
ウィグスの言葉にゼスファーは至極納得し、安心した。一人ではどうしようもないなんて百も承知だったのだ。だからこのように同志がいて、確固たる組織がある。だから――自分も運命を共にすると誓えたのだ。
「その、ごめん、分からない事ばっかりで」
ゼスファーは謝り、一度大きく深呼吸を行った。すると負の感情は鎮まり、希望が芽吹いてきたのを感じる。
「気にするな。物語は『わけがわからない』から始まるもんだ」
ウィグスはゼスファーの様子が落ち着いたのを確認し、再び少年の記憶の海に潜り込んで捜索を始めた。
――――沈黙から、やけに長く感じたおよそ一分後、ウィグスが静かに立ち上がった。纏っていた加護の光が周囲の煙にまかれるようにして失せる。
「良し、浄化完了」
「これで元の……その、普通の人間に、戻った?」
「簡単に言えばそういうことさ。んま、詳しくはアルに聞きなよ。あたし達だってまだまだ未熟者なんだから。ウァーレなんか相手に触っただけで浄化できるんだぜ?」
ミナローサの羨望の眼差しに、ゼスファーは改めてウァーレと自分達の差を感じ取った。
不意に、近くの建物が燃え崩れる轟音が響いた。業火は着実に三人の近くに歩み寄ってきている。
「……花の都、ね。綺麗なのはあたしでもわかるけどさ、如何せん燃え易いってのはいただけないねぇ」
感情をすっぱりと切り替えたミナローサは、汗の滴る頬にべったりと付着した煤を忌々しげに小指で拭い取り、溜息と共に燃え盛る周囲を眺めた。全員の肌は既に熱さに顔をしかめている。
「なんにでも代償はあるさ。代償なしに得られるものなんて限られてる」
ゼスファーは肩を竦めてそれが当たり前だと呟く。
「へぇ。ところで聞いてなかったけど、あんた歳はいくつさ?」
ミナローサは腰を落として、ずい、とゼスファーの顔を下から眺めながら尋ねる。身長はゼスファーの方がやや高かったが、下から見られているのに見下されている感はたっぷりだった。
「十八」
「はぁん、将来はよくお喋りするお固いお頑固なおっさんになりそうだな。ったく、もう既に老けた考えをしてやがる。もう少し楽しく考えたらどうだ?」
年齢を聞いたミナローサは〝お〟をひとつひとつ強調しながらけらけらと笑う。
「充分楽しく生きてるよ。――って、誰が頑固なおっさんになるんだ!」
言われる筋合いの見つからないゼスファーは当然ながら憤慨する。
「将来〝厚かまオバさん〟確定の奴の言葉に耳を貸すなよ、ゼスファー。あぁいう輩はひとつ言うと二十は返してくる。どんな手を使ってでも代償なしに得ようとする代表選手だ」
ゼスファーの肩に手を回しながら、ミナローサの性格をよく知る代弁者がにんまりと愚痴る。
「あァん!? あんたはその余計な一言でいつか大損するって言ってるだろ!」
「おっと。だがこればかりは食後の一服と同じでやめらんねぇんだ」
駄犬のように噛みついてくるミナローサを軽くあしらいながら、ウィグスは少年を再び肩に担いで、少年も覆いつくせるような大きめの鎧の加護を纏う。
「――ま、煙草はやらねえが。話によると長生きしたいなら誘惑に打ち勝ち続けるのが一番だそうだ。ところでこいつはできるか? 新人さん」
ゼスファーは口を開くのにも疲れ、無言で輝く鎧を纏う。体力諸々の消耗は相当なものだったが、鎧の加護程度はなんとかなりそうだった。
「ちっ……さぁ、帰るぞ。ひとっ風呂浴びねえと死んじまいそうだ」
ミナローサが優雅に肩で煙を裂きながら先陣を切り、三人は断たれているはずの退路を我が物顔で走り抜けて行った。