第十四刻『祈力』
「〝祈力〟の消耗。それが加護を纏ううえでの代償だ」
ゼスファーの質問に、アルイロは重厚な書物の一項を指差しながら答えた。
代償を示す項目に展開された挿絵には、人間が堂々とした姿勢で起立したものと、完全に無気力な体勢で地面に伏したものが分けて描かれていた。挿絵の傍らの項にずらりと――しかも小文字で蟻のように列を成す解説文に、なかば脊髄反射のような早さで視線を逸らせたリリーシアが、仔細を読み解こうと試みるゼスファーをよそに独自の見解を述べる。
「〝気力〟って、ようは気合みたいなものなんだね」
さすがは格闘家の娘である――と、アルイロは首を横に振りながら微笑むと同時に、自ら手掛けた挿絵の不備に気が付く。彼女は恐らく挿絵から即断したのだろうが、確かにこれは短絡的過ぎるかもしれない……。
「……ええっと、そっちの気力じゃなくてね、『神の舌足らず』では祈る力、すなわち信じる力と定義されるものなんだ。この祈力が失われると、君達の身体は〝完全に言う事を聞かなく〟なり、呼吸や瞬きといった無意識下の行動を除いて、全ての意図的行動は不可能になってしまう」
解説文にざっと目を通し、挿絵の意味に納得したゼスファーがリリーシアに説明を追加する。
「なにかをされたら死ぬ。つまりそれは完全に動けないから〝逃げられない〟ってことだ。もしも相手にこっちを殺す意図があるなら」
「その通り! よちよち移動が出来る分、赤ん坊の方が死亡率は低いかもしれないよ」
アルイロは冗談めいた口調で言うが、決して間違った事を言ってはいない。極論、まさにその通りなのだ。
――――完全無防備。それが加護を扱う上での絶対的注意事項であり、殺意ある者と対峙した場合に陥れば死は免れない事態だ。たとえ〝絶体絶命に陥ろうとも陥ってはならない〟展開。窮地ならばまだ〝可能性を見出せる可能性〟があるが、その活路すらも断たれてしまう。
「いいかい? こればかりは気合でどうにかなるとかそういう問題じゃぁないんだ。えいっ、やぁっ、の掛け声ひとつで復活なんて事はありえない。これだけは絶対に覚えておいてね、うん」
アルイロの言い方こそ気楽げで緩かったが、その炯々とした確かな忠告の眼差しに、ゼスファーとリリーシアはいつになく万全の頷きを返した。加護の乱用ならぬ乱纏により被る必死必至の状況は、仮令どんな事があろうとも避けなければならない。
「解説としては……糸を想像してくれると解り易いかな? 頭と体の間には一本の糸が通っていて、それがぴんと張っているときは――」
「うまく伝達できる」
ゼスファーが当然とばかりに続ける。
「では逆に緩んでいたら?」
「意識は伝わらない?」
リリーシアの回答にアルイロがその通り、と頷く。そう、日常的な現象で比喩が可能なあたりは何も小難しい話ではない。
「祈力とはその糸の事を示し、祈力の消耗とは糸の緩みに値する。思った以上の力が出るのが加護を纏った状態。逆に思ったよりも異常に力が出ない場合が祈力を消耗してきている証拠。この感覚を掴んでおかないといけないんだ、うん」
容易に想像出来る素晴らしく簡潔な説明に、ゼスファーはともかくリリーシアも充分に理解出来た。その感覚を掴むには、完全に安全が保障された状態において一度体験してみる必要があるだろう。
「それで、その祈力はどうやって回復するんだ? やっぱ休むとか、寝るとか?」
「当然それらは回復の常套手段。けれど祈力の回復手段として非常に効率が良いのが、〝最も幸福な事柄〟に身を置く事なんだ、うん」
「幸福な、事柄……?」
ゼスファーとリリーシアは揃って小首を傾げる。なんとも不可解な手段だ。
「例えばうちの組織には大の湯浴み好きの女性がいてね、彼女の場合は湯に浸かっている間が最も高い回復力を示す。そう、彼女にとって最も幸福な事柄がそれだからだよ。興味深い事にね、祈力の回復量は眠っている時よりも高いんだ、うん」
食事や睡眠といった人間の根源的欲求を満たす事が、祈力回復の基礎となる。だがより高効率な回復方法は幸福という精神的欲求を満たす事に軍配が上がるという。すなわち回復手段は千差万別であり、回復量もまた十人十色なのである。
「裏を返せば幸福でなければ加護はあまり纏えないわけでもあるけれど」
「いや、どうだろう。その理屈が通るなら、〝不幸であればあるほど幸福の敷居は下がる〟と思うんだけどな」
「む、幸福の敷居とは?」
聞いた事のないゼスファーの言い回しにアルイロが強い興味を示す。
「幸福なんてなにも大それたものである必要はない。他人にとっては些事でも、当人にとっちゃ一世一代の幸福に値する場合だってあるだろう? 要するに幸福ってのは流動的なもので固定的な概念じゃないんだ」
そもそも幸福とは定められたものではない。それがゼスファーの考えだった。言うなれば多彩なる人間の個性のひとつに近い。一般的に幸福とされる事柄はあくまでも雛形であり、誰もが必ずしもそれに順ずるわけではないのだ。
「不幸でも不幸なりの幸福の見つけ方があるし、むしろ些細なことで幸せを感じられるようになるからな。――例えば、本日の食事に困るほどの貧窮事態に陥っている時ならさ、いつもならあえて見過ごすくらい薄汚い小銭でも嬉々として拾うだろう? そしてその瞬間に抱く幸福は間違いなく本物だ」
ゼスファーの挙げた一例は、常態と非常事態における幸福度の違いだ。すなわちそれが幸福の敷居たるものであり、幸福が流動的である事の証拠でもある。
「小さなことで幸せを感じられるようになるのなら、もしかしたら不幸なほうが幸せいっぱいなのかもねぇ」
リリーシアの発言は矛盾しているようで、だがゼスファーの挙げた例のあとでは、なるほどそうかと納得しかねない。それに彼女の言葉にはどこか真実味を帯びた熱が籠もっていて、その目に見えぬ説得力は、紙面での証明を是とするアルイロさえも一撃で唸らせる威力があった。
「うーむ、君達はなかなか興味深いなぁ……」
この二人の話を聞いているとアルイロは、勉強不足はともかく、とにかく経験不足なのだな、とつくづく思わされる。若いというのに、むしろ二人の考えは人生の教本として賛嘆に値するものだ。
「ま、加護の代償が本当にそういうものなら、リリー、おまえもしかしてずっと加護を纏っていられるんじゃないか?」
「え?」
ゼスファーのやや羨望を含んだ問いに首を傾げたのは、他でもないアルイロだった。
「そりゃぁ、わたしは〝常に幸福〟だもの」
腰に両手を当て、さも平然と言ってのけるリリーシアにアルイロは驚嘆した。そんな人間がこの世にいるならば、その者はさながら永久機関の如く加護を纏い続ける事が出来るだろう。あらゆる学問を〝嗜む〟彼にとっては、永久機関なぞは所詮おとぎ話の域を出ないものではあったが、既存のあらゆる現象を用いても定式化出来ない神の加護についてはその限りではなかった。
「……ふむ、やっぱり〝そういう人〟はいるんだねぇ」
アルイロは脳裏に浮かんでいた数多の数式を消去し、とある人物の事を思い描いた。――そう、永久機関に限り無く肉薄する勢いで加護を纏い、人々を救い続ける者がいる。
(成る程、それが彼の幸福なのか……)
故に、その身に纏う加護の輝きが失せる事は、ない――。そんな理解を胸の内で済ませたアルイロは、改めて幸福の多様さとその願いが世に及ぼす影響を知った。やはり、人の心はどう足掻いても紙面上では計算出来ぬものだ。
「ま、歳をとるごとに当たり前だったものが幸福に格上げされていくんだろうな。できることが少なくなってくるからどんどん敷居が下がる」
なんとも現実的なゼスファーの発言に、アルイロはすぐに返せる言葉を見つけられなかった。むしろ会話に入る事で精神的に歳をとりそうで恐ろしい。
「あはっ、足腰悪くなってきたらただのちょっとしたお散歩でも幸せになりそうだよねぇ。なんかお年寄りの人を見てるとわかるよ」
「幸せの手段が増えるぶんにはいいさ。まぁ、どうせ寝たきりになった頃には静かな棺桶に入ることが一番の幸せと夢になるんだろうな」
「うんうん。あ、そういえば〝棺桶は予約してある〟んだっけ?」
「あぁ、夢に向かって先手は打っといたよ。問題は完成するのが先か死ぬのが先かだ。せめて入る前にその意匠だけは見届けたい。あれって結構高いもんでさ、でも父さんの古い知り合いでかなり値引きが――」
そう早くも老後を語り始めて止まない若者二人にアルイロは吹き出した。まさか、棺桶、予約、などという物騒な単語が出るとは。なんと先を見据えた子達だろう――いや、むしろ未来というかその終わりさえも検討している始末。既に人生の中盤ともいえる四十代に近付こうとしている彼はある種の虚しさを覚えた。そして、目先の事だけしか考え切れていないという己の未熟さも。……まったく、棺桶の意匠など一度たりとも考えた事がなかった。
とにかくアルイロが今の会話から汲み取れたものは、この二人は死ぬまで決して離れないのだろう、という確定された幸せだった。そしてそれは大陸の未来を救う組織にいる者にとって大いなる意義であった。
「……さて、積もる話は老後にとっておいてもらって。次は第九刻の練習をしてみよ――」
次の段階に移ろうと喋りかけたアルイロが不意に口を閉ざす。
《アルイロさん、よろしいでしょうか?》
アルイロの脳裏にやや緊急性を帯びた事務的美声が届く。組織の伝達係であるナティアによる第三刻の加護、『神通』を用いた遠距離心内対話である。
《大丈夫だよ、ナティア君。どうしたんだい?》
《テアートゥからの緊急要請で、『神と永刻を頒つ者』同士の小競り合いが発生しているそうです。ですが今ほとんどの人がポルトロ港に出払ってしまって、避難援助に人手が足りなく……》
《む、分かった。しかし皆さんは何故ポルトロへ?》
アルイロの問いにナティアが一瞬戸惑うような息遣いをする。
《……その、ポルトロに〝末裔〟が現れたようです》
ナティアの焦燥が滲む回答に今度はアルイロが戸惑う。
《末裔だって? なんでまた……いや、それなら当然ポルトロに人員を割くべきだけれど……。ウァーレはどうしているんだい?》
如何とも理解しかねるといった表情でアルイロは首を傾げる。
《ウァーレさんは既に向かっているとのことです。加えて各支部からも応援が》
《把握。そっちは最悪〝死者〟が出る可能性があるか……》
頭のなかで言葉を紡ぐも、やはり表情には出てしまう。アルイロの終始緩めだった表情が角張ったものになっていくのに、ひとまず待機しているゼスファーとリリーシアはよからぬ予感を抱く。
《テアートゥには誰が?》
《現地にはミナローサさんとレグルダムさんの二名が向かっています。その人達と合流を?》
《そうしよう。今ちょうど僕の他に〝二人〟手が空いている者がいるから、今すぐ向かうよ。五名で処理に当たろう。もし現地から連絡があればすぐに僕のところへ飛ばしてくれるかい?》
《了解しました。そちらの二名はどなたですか?》
ナティアの問いにアルイロは件の二名の方をちらりと見る。当然、見られた二人はごくりと固唾を呑む。
《――緊急実務訓練として、ゼスファー・レアミッドとリリーシア・メルティウスの計二名を任務に同行させる》
アルイロの宣言に、当然ナティアは息を呑む。
《……!? よ、よろしいのですか? まだお二人は加護を――》
《いいや、たった今『神鎧』程度は纏えるようになったところだよ、うん。避難誘導くらいは出来るだろうから。もちろん争いには参加させないよ》
《分かりました。のちほどレグルダムさんから合流指示があると思います。馬はフルゥマを待機させておきます》
《了解したよ。今すぐ向かう》
心内対話を終えたアルイロはやや尖っていた表情の角を丸めた。内容は急を要するものだったが、必要以上にゼスファーとリリーシアを緊張させない為の配慮だ。
「――と、いう事で緊急の仕事が入ったから、実務訓練という事で僕と一緒に着いて来てくれるかな。どうもテアートゥに『神と永刻を頒つ者』が現れたらしい」
「という事って……まさか『神と永刻を頒つ者』と戦うのか?」
不穏な表情を隠せないゼスファーに、まさか、とアルイロは両手を胸の前で振る。
「『神と永刻を頒つ者』による被害を抑える為の仕事だよ。組織じゃよくある仕事だ。戦うとしてもそれは専門の者がやる役割だから大丈夫」
加護を知った事でいくらか心に余裕が生まれていたのか、内容を聞いたゼスファーは必要以上に疑る事なく承諾した。そして必然的に、彼が頷けばリリーシアもまた同意するに至る。
「それじゃあ決まりだね、うん」
「――あ、アル、これ持っていっても?」
ゼスファーは先ほど加護を試す際に利用した剣を指差す。昨日の状況を省みるに、とにかく何もないよりかは遥かにマシだろうと判断しての事だ。
「おっと、護身用くらいには役に立つかな? もっとも『神鎧』で充分だし、君達をそんな危険な状態にするわけはないけどね、うん」
アルイロは心得としては高く評価したが、実際に戦闘が行われようものなら二人を真っ先に避難させる想定をしている。『神鎧』を纏いつつ遠くから眺める分には大した問題はないだろう。『神と永刻を頒つ者』同士の抗争などそもそもないに越した事はないが、組織の仕事を二人に知ってもらうには願ってもいない好機だ。
「それじゃ、リリーシア君も何か武器でも持っていくかい?」
そんなアルイロの問いかけに、リリーシアはただただ輝く拳を天に向かって突き上げた。
◇
一行は馬車を駆り、目的の街へと急行した。テアートゥまでは真実の堂からであれば直線概算で約五十分。ただそれはあくまでも通常の馬が駆ける場合である。
組織には、選び抜かれ、なおかつ鍛え上げられた名馬達が数多くいる。いつ何時でも現場に駆けつけられるよう訓練された馬というのは、現フロディエナ大陸における最速の移動手段といっても過言ではない。
一度走った路は決して忘れず、手綱を取る者に忠誠を尽くし、それのみか人の言葉も少なからず理解する。その乗り心地の良さは穏やかな春風に揺られるようでいて、その脚の迅さは烈風の如く。その豪傑たる駿馬が一度駆ければ、通常の馬の実に半分もの所要時間の短縮が可能だ。
真実の堂に所属している馬――フルゥマという名の名馬は、たった一頭で三名を乗せた客車を屈強な脚力で牽引して疾駆する。当初は見慣れぬ二人の為に出発がもたつくかと思われたが、フルゥマは緊急性を理解しているのか、初めて見る二人にも警戒する事なく、ただの一瞥をくれただけで出発を快諾した。体だけでなく頭脳の優秀さも合わさり、テアートゥまでは二十分を切ろうとする勢いだった。
「ねぇ! もしかしてあれがテアートゥなの!?」
車輪と大地が織り成す轟音のなか、前方を確認していたリリーシアが声を張り上げる。彼女が目を凝らして見ていたのは、早くも遠方に薄っすらと外壁の姿を見せ始めた花の都テアートゥだ。――――だが、何かがおかしい。
「燃えてる……!」
本来ならば清風により自由奔放に舞うはずの花びらは、今や蛇のようにとぐろを巻く火災旋風に狂ったような踊りを強制される事を余儀なくされていた。テアートゥの外観は見るに耐えない狂気の舞いに包まれ、黒煙に狩られつつある様子はもはや華やかさとは縁のない地獄の景色のようだ。
「思っていたよりも……」
言葉のみの報告を受け取っていたアルイロは言葉を失う。百聞は一見にしかず。いざ現実を目の当たりにした時の焦燥感は桁違いだった。
「あぁ、くそ。〝良く燃えそうだ〟」
悪意無く、ゼスファーはただそう皮肉を告げる。常態では夢のなかを思わせる理想郷の如く美麗に見えるが、ひとたび現実に即すのならば、街中には〝可燃物が舞っている〟のだ。
ゼスファーの言葉を聞いたアルイロは、既に相当の脚力で駆っている馬に向かって更なる加速の旨を伝えた。
フルゥマはその脚力で了解を告げ、車輪の唸りが悲鳴に変貌を遂げる――――
◇
まるで熱し始めているフライパンの上にいるようだ、と合流地点に向かっていた三人は思った。肌に感じる熱は街の中心部に向かうほど刺激を強くしていくし、何か巨大な物が燃え朽ちる轟音もちらほら遠くで聞こえる。テアートゥに到着後、アルイロには既に現地にいる仲間との合流場所が告げられたが、果たしてそこまで無事に辿り着けるか否かの状況だ。
斥候の報告によると、街の中央を分断する大通りが『神と永刻を頒つ者』の乱闘舞台と化しており、数名の仲間は街の警備と連動して人々を避難させる事を最優先としたうえで、消火活動にも専念しているという。だが既存の人員では人手が足りないという事で、こうして右も左も分からない二人も駆り出されたのだ。
「はっ……ち、近くに戦闘担当が……はっ……いなくて、ねっ、来るまでもう、少しっかかるんだっ……時間がっ!」
日々の運動不足が響き、アルイロは息も絶え絶えに状況を説明する。先ほど一度止まって説明しようと試みたはいいが、建物が崩れるような音がやや近くから聞こえてきたからには止まるわけにはいかなかったのだ。
「そうか、なら俺達は避難の手伝いと消火活動をすればいいんだな? とにかくこのままじゃ火はどんどん手がつけられなくなっていくだろ」
あくまでも若い二人は落ち着いて走りながら――いうなればアルイロに合わせた早歩き程度で自分達のすべき事を確認する。そして痙攣か頷きか判断し難いアルイロの反応に、ひとまず二人は、了解、と応えた。
その後も疾走を重ね――とある路地裏の角を曲がる直前、三人の鼻腔が微かな異臭を捉えて自然と足が止まった。誰かが判断したのではなく、疲れとも異なり、三人とも無意識からの停止だった。
火災による焦げた臭いではない。鉄のように独特で、鼻の奥にねっとりとこびりつくような生々しい臭い。鼻血が喉を嚥下した時に感じるような不快感。出来れば口で息をしたい――けれど鼻はその臭いの元を突き詰めようとばかりに呼吸を止めない。
『………………』
ゼスファーとリリーシアは無言で顔を見合わせた。深海と黄金の双眸があの日の惨禍を思い出し、悔いるように僅かに翳る。――これは、どこかで嗅いだ事のある〝別れの臭い〟だ。
アルイロが呼吸を整えている途中、意を決したゼスファーが道の角を曲がった。どちらにせよ目的地までは避けて通れぬ道だ。たとえそこに何があろうとも。
「う……ぁ……」
途端にゼスファーの背骨が凍える。その声に大体予想がついたアルイロとリリーシアも覗き込み、言葉を失う。そこにあったのは紛れもない死体だった。
その者の体には暴虐の痕跡も火傷の痕もなかった。だが決定的な問題があるとすれば――――〝あるべきものが別のところに転がっている〟という事か。ここまで瞭然とした死因はまず見られるものではないだろう。無論、機会があったとしても見れたものではないが。
それは数秒とて注視出来ないような凄惨たる光景だった。清々しいほどに――気配がない。生きている、という証は当然の如く失われているが、生きていた、という死者に少なからずあるであろう過去の気配がまるでないのだ。
「他人の死はこんなにも〝なにもない〟のか」
まるで最期の嘆きさえも断ち切られたかのような寡黙な死後に、ゼスファーは半ば呆れるように呟いた。記憶なき赤の他人の死とは、死体以外は何も遺らないのだ。
「……だけど、誰かが覚えていてくれれば、この人は〝まだ死なない〟よ」
リリーシアの断言にゼスファーが首肯で応じる。
「あぁ。覚えている限り永遠に」
誰かの心にその姿ある限り、肉体は死すともその人の死は永遠に訪れない。裏を返せば誰某の心のなかから一片残さず消えた時、初めて本当の死は訪れる。言うなれば生と死の本質とは記憶だ。それがゼスファーとリリーシアの考え方だった。
故に、二人は出会いを大事にする。偶然であれ必然であれ、出会いは互いの記憶を残す場だ。それはすなわち、万人に許された〝永遠の命を得る機会〟の他ならない。
「――それじゃぁ行こう、もうすぐだから」
「あ、待って」
ふと、リリーシアが路地の端に落ちていた水色の花を見つけて拾い上げ、それをお供えと言わんばかりに死体の近くに添え置いた。それが今の彼女に出来る精一杯の手向けだった。
「すごく、綺麗な花だね」
リリーシアは去り際にそっと別れを告げるように呟いた。彼女なりの明るい弔いの意か。あるいは嘘に敏感な彼女はそれを偽物だと判っていたうえで、戒めの皮肉として残したのか。誰も問いたださぬ以上、それは彼女にしか分からない事である。
思いがけない〝出遭い〟から数分の移動を行い、迷路のように入り組む路地をようやく抜けると、目の前に一本の太い道が現れた。この街の中央通りであり、この付近がアルイロの指定された集合場所だ。
中央通りからは、地響きが鳴り響いたかと思えば、何かががらがらと崩れる壮絶な音が聞こえてくる。その音は明らかな異常事態を告げていた。ゼスファーとリリーシアは、その異音は火災によるものだと推考していたが、理外の理を知るアルイロにはそれが〝人間と人間の争い〟だと解っていた。
「僕達の仕事はこの道沿いにある店から人々を安全な場所まで逃がす事。街の外とまではいかないけれど、少なくとも中心街から離れた所へ――おっと」
とその時、右側に続く路地の奥から、おーい、と若い男性の声と共に、一人の白装束を身に纏った人物が走り寄ってきた。その背後からは何十人もの人々が並んで着いてきている。
「ん、レグルダム君かな?」
「その通りっす、アルの兄さん! あ、みなさん心配ご無用っす! 身内っす。手伝いに来てくれました!」
現れた青年は背後で慄き固まっている人々に何度も大丈夫っす、と気軽な声色で呼びかけた。
「おっと、その二人は例の新人さんっすか? こんちわっ! いやいやっ、二人とも〝可愛い〟っすねぇ……!」
青年はゼスファーとリリーシアの姿を青空のように澄んだ瞳でまじまじと見つめた後、あろう事か最後に余計な――ゼスファーにとってはだが、そんな一言を追加した。一時的な日焼けとは異なった自然体の褐色肌にそばかす顔の青年は、兎のように跳ね回る長い橙色の癖毛を指でいじりながら無邪気にはにかむ。
「こっちがゼスファー君と、そっちがリリーシア君。実務訓練という事で連れてきたんだ」
訓練といえば聞こえはまだ易しいが、街全体を燃やしてまでの訓練なぞいったいどこにあるものか。そうゼスファーは抗議の一言でも呟いてやりたかったが、そろそろ常識を変えていかなければ、と思って踏みとどまった。
「もう実務っすか! 早いっすなぁ。あ、おいらの名前はレグルダム・イムナーダル。真実の堂所属。二人とも〝これから〟よろしくっす!」
「よろしく、レグルダム。ゼスファー・レアミッドだ」
ゼスファーがやや口調固めで手を差し伸べて挨拶をすると、レグルダムと名乗る青年はその手を握り返しながら目を見開いた。――〝男声〟だったからだろう。
「リリーシア・メルティウス。リリーって呼んでくださいな。よろしくねっ!」
「しひひっ、レグでいいっすよ二人とも。それじゃアル、おいらは道のこっち側担当だから、もう一人手伝ってくれれば大丈夫っす」
レグルダムは陽気な笑顔からすぐに意識を切り替え、現状打破に向けて行動を取る。
「了解。そしたらリリーシア君、彼と一緒に行動を取ってもらえるかな?」
「りょーかい!」
それっぽい口調でリリーシアが頷き、レグルダムが避難者と共に着いてくるよう彼女に指示する。
「あ、それからレグルダム君、〝掟〟は忘れずに」
別れ際にアルイロはレグルダムに忠告を促す。
「もっちろん! 〝誰一人として死なない〟っすよ!」
レグルダムは振り返りざまに背中で親指を立て、それからリリーシアと共に人々の集団を路地裏に案内していった。
「よし、こっち側は二人に任せよう。僕達は中央通りの向こう側へ行こ――」
ひゅん、と屋根の一部ようなものが、アルイロの言葉を掻き消しながら二人の眼前を高速で過ぎ去っていった。
「…………で、アル。あっち側にはどうやって行くんだ?」
中央通りからぎりぎりの位置に着くと、ゼスファーはようやくこの惨事が人の手によるものだと理解した。何しろ様々な物が〝水平〟に飛び交っているのだ。そしてその尋常ではない速度は人の手であれど、加護が一枚噛んでいるに違いない。いったいどういう火事が起こればこうもなりえよう。
「横切ろうか、うん」
何か、聞こえた。ゼスファーは身体を傾けてもう一度問う。
「ごめん、今なんて?」
「ちょっと勇気を出してみて、って言ったんだよ、うん」
「勇気ってのは出すものじゃなくて出てくるもんだと思うけど。――要するに、『神と永刻を頒つ者』同士が戦ってるんだろう? なら迂回して向こう側に行ったほうが」
道を横切るというのは、争いの真っ只中に途中参戦するのと同意義。しかも自分達は争いの中央地点で挟み撃ちの状況だ。だがそれでも、アルイロは平然と首を横に振る。
「君はもう〝知っている〟はずだよ。異常に抵抗出来る異常を」
「……あぁ、そうか。そういえば知ってたな。異常を制する異常を」
にやり、とゼスファーは微笑した直後――――
「――祈祷開始!」
加護の導きを請う秘鑰の宣告。超常の到来と常識の撤収。伝承されし神の加護は、祈る者その善悪を問わずして、一時的に人間を〝人間を超えた人間〟に昇華させる。
「神宣告――第一刻『神鎧』!」
守護の祈りの直後、ゼスファーの体を秀麗なる光の鎧が纏い込む。つい先ほど会得したばかりの加護だったが、既に鎧は目を瞠るほどの神々しさと機能性の調和した見事な型を成している。
「これなら……!」
行ける、とゼスファーは逡巡を捨て去り可能性を信じて疑わない。つい先ほどまで感じていた不安は嘘のように和らぎ、自信はどこからともなく泉のように滔々と湧き出てくる。加護は精神の洗練にも一役買うのだ。
「それじゃ向こう側まで!」
騒音に負けないように声を張り上げ、同じく『神鎧』を纏ったアルイロは脱兎の如く走り出した。その背中にぴったりとくっついていくように、ゼスファーも怪異飛び交う中央通りへと身を投げ出す。
案の定、途中で横っ腹に衝撃を食らうも、小物故に体勢がそこまで崩れる事はない。すぐに距離は半分を切った。
「あれは……!」
中央通りの左右、ゼスファーは粉塵の隙間に人間の姿を素早く捉えた。白い装束――『神と永刻を頒つ者』だ。だが幸い彼には気付いていないようで、もうすぐ道の向こう側に辿り着かんとしたその時――
「っ――!?」
不意に、明らかに何者かに引き倒されるような感覚――次の瞬間、全身を駆け巡る衝撃。あまりに〝予期せぬ危機〟に『神鎧』は作用せず、ゼスファーは背中を生身のまま強打した。
「ぐっ……っ……!」
軽い呼吸困難に陥り喘いでいたその時、ゼスファーの耳に酷く障る不吉な甲高い笑い声が響く。
「キハハハハッ! みぃーっけた。どさくさに紛れて逃げようったって無駄だぜ? おい、ちょっと〝時間くれよ〟」