第十二刻『守護の祈り』
――――なら、おれがおまえを守ってやるさ。
五年前、彼は彼女にそう言った記憶があった。そう、今では思い出すたびに頬が煮え滾るように火照る気障ったらしい台詞。
無論、今ではそんな言葉を絶対に口にする事はない。気恥ずかしいというのが表面的な理由だったが、真の理由としては、言わずもがなというのが相応しい。
繊維に染料が染み込んでいくように。その意思は時を経て根強く彼の心に染み籠み、馴染み、今では決して抜け落ちぬものにまで昇華した。
守らなくてはならない理由は――友達だから? 幼馴染だから? 愛する人だから? 違う。自分の為だ。
彼女を守るという事は、自分を守るという事と同じ。自分が生きるという事と同等。それは言うなればただ単に当たり前であって、けれど当たり前ほど強い意志はない。
そんな彼に、彼女は常に全幅の信頼を置いてきた。根拠は分からない。それは五年前からずっとそうだった。
彼はいつも訊いた。なんで? どうして? 理由は? そう問いただしたところで返ってくるのは――なんとなく、きっと、たぶん。いずれもその場しのぎのような仮定の言葉の数々。彼に頼りない部分は多く、不充分なところだって沢山あるというのに。
けれど、その言葉には必ず無垢な笑顔が一緒についてきた。信じられないようなものに、不確定要素に、何故そこまで楽しい笑顔が見せられよう? 彼はその笑顔に疑問を通り越して呆れ果ててさえいた。
だがそんな懐疑は、いつしか自然に解決出来た。そう、彼女もまた〝理由なんざなかった〟のだ。彼にとっては彼女を守るという事が当たり前のように、彼女にとっての当たり前が彼を信じるという事なだけ。
それを知った時、ようやく彼は己の意思に条件をつける事が出来た。そうする事で、当たり前はもう一段階強固なものになる。
おまえが〝信じてくれるなら〟、おれがおまえを守ってやる――――
それは決して口にする事のない、だが絶対に瓦解する事のない永刻の契りだった。
◇◆◇
祈りと願いは渾然一体となりてゼスファーの身に顕れた。
屈強な輝きを誇る光が肌の表面を蛇のように奔り這う。光は瞬、と周囲の埃を跳ね除け、彼の周囲の空気を邪気無き清らかなものにする。
第一刻『神鎧』。それは尊厳の根源――〝命〟を護り抜くべく定義された第一の加護。それは無重の鎧の展開を現にする祈り。あらゆる脅威を減じる護り。
「お……おぉ……」
滾る白光は次第に型を成していき、やがてゼスファーが気持ちやや豪勢に想像した全身鎧の様相に落ち着く。鎧の各部位その全てが光であるが故、部位間に一切の繋ぎ目は無く、まるで一枚布で織られたかのような滑らかさがある。それは星屑が幾層にも重なったような壮麗さを誇り、形状こそ違えども、昨日ウァーレが身に纏っていた至高の守護の他ならなかった。
表面の見た目の質感はまるで研削済みの金属のよう。光沢にしては些か輝きが過ぎるようだが、反射ではなくそれ自体が光源を持つからにして当然。よくよく見ると、光は装束の生地の裏から漏れているだけであり、光は体そのものから発せられているという事が分かる。
ゼスファーは恐る恐る己が身に纏う無重の鎧に手を添えてみるも――
(触れない……?)
どこを触れても指先は光の層をすり抜けてしまう。本当にただの形ある光のようで、光度はあれど硬度はまるでないようにも見える。それは鎧と銘打つわりには非常に心許無い現象だ。
「さっきは君を守護する為の加護だと説明したけれど、実際のところは〝誰かに護られるのではなく自分で護る〟という言い方をしたほうが良かったかな、うん」
――遥か太古、己の命の守護を目的とした、古人が最も好んで用いた祈り。あらゆる外傷から己を守る事に特化したそれは、外的要因から死に至る可能性の高い人間には必須とも言える加護だ。山や水辺、狩りなどに出向く場合は必ず守護の光を纏っていたものだった。――――等々、アルイロの解説が続く。
「いいかい? 特筆すべきものとして『神鎧』は君達が〝危機感を抱くもののみ受け付けない〟、という事。例えば今君達の着ている装束が光を通り抜けるように、無害と感じた、または感じているものには作用しない」
「それで自分の身は自分で守るって意味合いか。無差別に受け付けないだけじゃないんだな」
「その通り。細かく言うと人間が本能的に危険と感じるもの、あるいは既知の危険に対してはほぼ無意識下でも防護作用が働く。けれど未知に関しては君達がどれくらい危機感を抱けるかによりけりなんだ、うん」
「油断禁物か。常に危機感は持っておくべきだな。意思で守れない部分を鎧で補完するべきだ」
疑り深いくらいが丁度良いと心得るゼスファーは、覚えておけと言わんばかりにちらりとそのままリリーシアのほうを見やった。
「うんうん。危険はどこに潜んでいるかわからないからねぇ」
大真面目な顔で頷くリリーシアに、どの口が、と呆れたくもなるゼスファーだったが、今更感がありすぎて何も言わない事にした。
「その通り、結局はそういった意識こそが最大の防御になるのだからね、うん。――さ、リリーシア君、これで彼の体を突いてごらん」
アルイロは訓練所の壁際から一本の槍を取ってきてリリーシアに手渡した。刃の状態が酷く造りも粗雑な訓練用の安物だったが、少女の腕力であったとしても人間くらいの肉は易々と貫けるはずである。
「よーし、いっくよー! 覚悟!」
「おいま、まっ……! 心の準備――」
「たぶん大丈夫!」
リリーシアは受け取った槍とお得意の楽観を同時に構え、躊躇いなしに掛け声ひとつでゼスファーの腹部目掛けて一突きにする。多分、というわりには貫いたら即死級の勢い。
「っく……!」
恐怖が先行し、ゼスファーの意識は反射的に腹部に集中する。すると全身から素早く光が腹部に集束し、貫くはずだった槍先は半透明の白光に負け、ぱき、と虚しい音を残して刃が欠けた。
「怖ぇ……」
臓腑を揺るがす衝撃はあったものの、腹部表面には何の異常も見当たらないし感じない。全くもって、無傷である。脅威だと既に見知っていた槍は、アルイロが明言した通りに受け付けなかった。なるほど確かに物理法則を解り易く度外視している。感情と物理が関連した現象だ。
「なんかずるいな、これ」
ただ一言、鍛冶師は肩を竦めて苦笑する。なんせ彼のような職業が目指す最たるものは、短絡的に言えば高強度かつ軽量であるからだ。これ程の強度と機能性を備え、そのうえ軽量どころか重さが全くない、というのはもう既に夢がひとつ叶ってしまったともいえよう。ましてそれがものの数秒で実現できるとは、専門の最前線に立つ彼もさすがに苦笑を隠せない。必要経費も〝祈りだけ〟と手軽な点もまた切なさを後押しする要素であり、それに加えて希少金属の入手や、無限にも思える金属同士の組み合わせを試みなくてもいいわけで……。
「さ、次はおまえの番だ。やってみな」
ゼスファーはリリーシアから刃の欠けた槍をひったくり、次に彼女が光の鎧を纏うのを待った。
「まかせて、神宣告――第一刻『神鎧』!」
宣告と同時にリリーシアはその場でくるりと派手に一回転した。その動きに伴い、きめ細かい糸のような光の線が何本も体から発せられ、それが回転する彼女の肢体を優しく包み込む。そして、光は彼女の想像する形を紡いでいく。
「へぇ、そんなのもできるんだな」
やがてリリーシアを取り巻いたのは鎧とは少し異なる――光の装束であった。それは既に着ている装束に重ね着をするように纏われ、体を揺らすたびに光の粒子を周囲に振りまく女神の衣のよう。
「素敵っ!」
己を優しく取り巻く光の守護に歓喜したリリーシアは、満を持してゼスファーの前に燦、と立つ。
「覚悟は足りてるか?」
リリーシアは返答に代わりに白い歯を覗かせる。だがそう問うたものの、ゼスファーは彼女に槍先を向けるのにどこか躊躇いを感じてしまう。当然、それは彼女の性格に起因するものだ。他に類を見ないほどの楽観主義者であるあの者は、槍というものに危機感を抱いていない可能性が充分にありうる……以前に、一体何なら恐れるのかすら定かではない。
数秒間悩んだ挙句、ゼスファーは槍をさっと反転させ、刃物の付いていない柄のほうでリリーシアを思い切り突いた。
「よっ!」
素早い身のこなしでリリーシアは踊るように体を半回転させ、靡かせた光の布で槍を弾いてその進路をずらした。
「はーい、残念っ!」
無邪気な笑顔を振りまくリリーシアの態度にゼスファーは呆れもしたが、脅威をその身に受ける前に門前払いしたのは評価出来よう。それに『神鎧』がきちんと物理的に槍を撥ね返したのも、彼女が槍を有害なものだと判断したが故だ。
「うんうん、大変よろしい。何となくコツは掴めたかな? それじゃぁ鎧の加護はひとまずこれで、次にいってみよう。ちなみに各種の定義を解除する時は〝もう用件を満たした〟と思えばいいよ。『神鎧』の場合は服を脱ぐような感覚で」
二人が言われた通りに認識すると、守護を形作っていた光は一瞬で雲散霧消し、元の加護を纏った状態に移行した。定義を解く場合についてはさほど苦労はいらないらしい。
――――続いて、アルイロは訓練所の中央へと二人を案内した。するとそこには人型に模られた一体の案山子が立ててあった。鈍い黒光りをしているところ、間違いなく鉄製だろう。
「次は君達の腕力を見てみよう。神宣告――第五刻『神腕』」
案山子の前に立ち、慣れた口調でアルイロがそう宣言する。彼の体を包んでいた光は両腕に集中し始め、肩から指先までが光りだす。
「これは主に上半身、特に腕力の増幅を目的としている加護。例えばこう」
アルイロが右腕を前に突き出し拳を握ると、そこにゆっくりと光が集束し始めた。それから夕闇を照らすランプのような拳を後ろに引き、鉄の案山子の顔面に打ち込んだ。
がん、と、あまり余韻の残らないこもった音を残して一撃は終了した。案山子は顔色ひとつ変わらない。もっとも、作り物である以上はそのような事はないのだが。
「ぃ……てて……。あぁいや、はは、これは僕が弱いだけの話だよ。衝撃はお約束。それじゃ拳でも肘打ちでも蹴りでも何でもいいからやってごらん。第五刻『神腕』だ」
こと力を要するものに関しては縁のないアルイロに対し、ゼスファーは腕力に関してはそこそこの自信があった。それなりの筋力を必要とする職場では毎日鍛えてるかのようなものであるわけで。
「……やってみるか。神宣告――第五刻『神腕』!」
宣言する際に、ゼスファーは両拳に均等になるように思いきり力を込め、握った。光は肩から拳にかけて集まり刺々しく輝き始め、力を抜くと輝きは小さくなり、再び力を込めると荒々しく輝きだす。
ゼスファーは力を調整しつつ人間の姿を模した鉄の案山子の前に立つ。造られた窪みはお手並み拝見とばかりに不敵に睨み、その挑戦的な視線を受けた彼は綽々と笑む。――望むところだ、鉄ならば容赦はいらない。
「壊れたら直してやるよ、より強く硬く良い子にな――――おらっ!」
始めに左の拳で案山子の腹部を打つ。鈍い音と共に案山子が前後に揺れ動く。
「もう一発!」
ゼスファーは間髪を入れずに右の拳でもう一度同じ箇所を突く。ぎぎぃ、と金属が独特の苦しげな悲鳴を上げる。
手応えはあった。怒涛のニ連打は、果たして案山子の立て付けを見事斜めにするまでに至った。およそ加護なしでは不可能な行為だ。生身では拳の粉砕骨折がいいところだろう。
「おぉ、なかなかやるねぇ。ゼスファー君は腕力に自信有りかい?」
ぱちぱちと拍手をしながらアルイロはひゅぅ、と口笛を鳴らす。
「それなりには鍛えてるつもりだけど……それなりには……」
何故かゼスファーの声は段々と小さくなり、その深海色の双眸は早くも色を失い、砂塵で濁った海のようになった。――原因は彼の傍らで満面の笑みを浮かべている少女にある。
「あー、リリーシア君は……そうだね、女の子はちょっと厳しいかもしれないけれど、〝軽くでいいよ軽く〟」
ゼスファーの視線の対象がリリーシアを捉えているところ、なるほど彼女に理由があるのかとアルイロは推測し、あろう事か〝余計なお世話〟を述べる。それを耳にした彼女は返事をするどころか、ちぇー、と口で言いこそはしないがつまらなさそうに眉を顰めた。
――だが、それでも期待が勝る。遥かに勝る、上回る。意気揚々と一歩前に出たかと思うと、リリーシアは両腕をだらりと下げて手の平を腰元で前に広げた。一度の深呼吸。彼女の体を包む加護の光が体内に吸い込まれるように薄れて落ち着く。その直後、彼女の〝足元〟が光を帯びる。そこに力が入った証拠だ。
「かるーく、ね、かるーく……。よしっ! 神宣告――第五刻『神腕』っ!」
宣言し、リリーシアが腰元に置いた両手を勢いよく握り締め――光の爆裂。
「――ふふっ……あははッ! すごい、これ! あははははッ!」
その両拳たるや真昼の太陽そのもの。知る者からすれば恐怖以外のなにものでもない快笑が訓練所内に木霊する。ゼスファーは予想される未来に早くも『神鎧』を身に纏った。〝この危機感は既知のものだ〟。
「す、凄い光だ! 一体どういう――」
「離れた方がいい。あと一応『神鎧』がお勧め」
ゼスファーは努めて冷静に、よく見ようと近寄るアルイロをリリーシアの近傍から引き離す。
「ねぇ、ゼスファー? ちょっと〝必殺技〟やってもいい?」
うきうき爛々と、まるで幼子が覚えたての遊びをやりたがるように。綺羅綺羅と満ちた瞳はもはや満天の星空。こうなってしまえばいかに権限のある〝夫〟であろうとも止める術はない。
「好きにしな。でも俺は弁償できないから、できればいろいろと壊すことはやめて欲しい」
まぁ止めても無駄だろうと悟ったゼスファーは、気休め程度の制止を試みるほかなかった。
「やった!」
どうやら後半はよく聞き取〝ら〟なかったらしい。表情を引き攣らせるゼスファーをよそに、戦慄の輝きはゆっくりと散歩でもするかのように案山子へと向う。光の反射具合がうまく影響したのか、作り物であるはずの案山子の窪みが恐怖の色に染まり、身を引いたような錯覚さえ――。
リリーシアの右腕、腰元、足元へ白い閃光が集束する。ありったけの加護を使うべく筋肉に宿すらしく、もはや彼女の右腕は一筋の雷のように変貌していた。
「驚いた、凄い適応性だ……」
「あー……アル、関係あるかどうかはわからないけど、こいつの父親は大陸一の――」
大陸一、という単語で既にアルイロは大方の事態を察した。彼は混乱しつつも、その妙々たる思考回路はあくまでも冷静だ。
「っ!? まさか、メルティウスって、あのメルティウス氏なのかい!?」
「まぁお察しの通りだと思うけど……」
ゼスファーの懺悔ともとれる呟きにアルイロは目を剥く。そしてゼスファーの忠告通り、『神鎧』を纏う。そんな二人をよそに、案山子の前に構えたリリーシアは、左手で案山子の冷たい頬を一度だけ優しく撫で、そのまま腰を捻って右手を水平に引いた。
ぎらりと開かれた黄金色の双眸に滾る轟々たる闘気。残念ながら、今ここに少女たる淑やかさや可愛らしさの類は存在しない。まして女神のような慈愛の笑みも休暇をとっている。今ここにあるのはただ猛獣の如し野生の苛烈さのみ――――
「ちょっと失礼――――たぁっ!」
風を切り裂くような音とほぼ同時に何かに罅の入る異音。すぐさま髪の毛が逆立つ衝撃と逆巻く烈風。
次の瞬間、ごぉぉぉん、という胃の底を揺るがす轟音が訓練所の一番奥の壁から聞こえてきた。そして、壁からもうもうと立ち上がる煙の中から〝案山子だったもの〟が現れ、がらぁんと大きくも虚しい音を立てて床に崩れ落ちる。
衝撃音は訓練所内を何度も反響して止まない。ぼろぼろと剥がれ落ちていく壁がこれまた虚しく、欠片が剥がれ落ちる都度ゼスファーの心に申し訳ない気持ちが注ぎ足されていく。
「あー……大陸一の格闘家であってだ……」
申し訳なさが限界に達した今、もはや言い訳のようにゼスファーは嘆く。
「あは、ちょっと軽めのつもりだったんだけど、加護があるとぜんっぜん違うねぇ」
うわぁ、と感嘆の溜息をつきながらリリーシアは己の拳を愛しそうに眺める。そこに悪びれたような様子は微塵もない。
「加護前提で軽くしろって。あー、働いて返すよ、ごめん。もうちょっと頑丈なヤツを造ってもいいけど。今ならプロビタス鋼の高硬度な――」
「あ、あぁいや、それは専門がいるから構わないよ。この案山子は〝これが仕事〟みたいなものだからね。それにしてもこの威力……。女性って凄いね、うん」
心底感心――というよりかはやや怖気づいているアルイロに、ゼスファーは無言の同意を首肯で示した。まったくもってその通り。か弱い女性なんてものは存在しないと今なら言い切れる。ところでいったい誰がそんな世迷言を言い出したのか。
――事実、純粋に腕力として比べるならばゼスファーのほうが遥かに上だ。男性であり力仕事を職とする彼は、たとえ見た目は細身であれど、同世代における筋力は平均よりもずば抜けて高い。彼と腕相撲をしたところでリリーシアに勝ち目はないだろう。
……さて、ここで問題となってくるのはその〝使い方〟である。場合によっては女性でも男性を圧倒出来るような、いわゆる護身術の存在がそれを物語っているように、筋力があれば純粋に強いというわけではない。
リリーシアの父親――ガラーベル・メルティウスは、身体の使い方を徹底的に考究した稀有な格闘家だった。筋力が足りずとも己を護る事が出来るか、他者を圧倒出来るか。その為にはどういう使い方をすればよいのか。――そう、彼にとっての肉体の鍛錬はあくまでも副次的なものに過ぎなかったのだ。
やがて、ガラーベルは非常に簡単な計算式を編み出した。すなわち〝強さ〟とは何か。強さとは筋力に〝技力と心力〟を足したもの。後者の割合が大幅に高ければ、場合によってはただの〝筋肉馬鹿〟をも上回る強さを発揮出来る。それは一見するとただの精神論にも捉えられかねないが、決して間違っていないという事の証明はたった今なされたところだ。
日々の父親の鍛錬に好んで付き合っていた、娘であり一番弟子でもあるリリーシアは、心力はさておき単純に技術力においてはゼスファーを上回る。そこに加護により昇華された腕力が合わされば……つまるところ鋼鉄の案山子ですら苦もなくぶっ飛ばせるというわけであった。
「うん、次は第八刻の練習でもしてみようか。これは主に物体に加護を施すというちょっと特殊なものなんだけど」
もはや何事もなかったかのように――続いてゼスファーとリリーシアは訓練所の壁際に連れて来られた。壁際には様々な武具が並べられており、アルイロはそのなかから古びた弓と矢を見つけ出し、加護を纏いながら不慣れな手付きでそれを構える。
「第八刻『神具』」
宣言に伴いアルイロの纏っていた光がするすると弓に向かって移動していく。そのまま矢じりまでが仄かな光を帯びるやいなや、彼はそのまま矢を射った。
ずん、とおよそ矢とは思えない音がして、矢は訓練所の向かい側の壁に突き刺さった。別段、衝撃を受けるような光景ではなかったが、矢は〝石の壁に突き刺さっている〟。
「この加護はあらゆる道具――つまり〝生きていない〟物体に加護を纏わせる事が出来るものなんだ。主に武器防具に使用する事で効果を高めるのだけどね」
「生きていない物体……か。あ――」
ゼスファーはひとつ思い当たる。例の『神と永刻を頒つ者』に家を真っ二つに切断された理由は、もしやこの類の加護が原因なのではないだろうか、と。
「思い出す節でもあったのかい?」
「俺達が『神と永刻を頒つ者』にやられた時、多分あいつは剣にこの加護を使ってたんじゃないかって。一撃で家を半分に斬られたし……」
あの時は考えている暇はなかったが、思い返すと我が家を壊されたのか……と嘆かざるをえない。更に考えてもみれば地元に帰れたところで雨風しのげる住処はないのだ。
「家を? ふむ、それは結構上位の『神と永刻を頒つ者』に出遭ってしまったみたいだね」
「あぁ、早く平和な時代に戻して新築建てなきゃ……」
そう言ってゼスファーは壁に数本立て掛けてある剣を一本拝借した。柄の部分の赤錆が手にこびりつき、酸化した金属の臭いが鼻をつく。でもこの臭いはもう嫌と言うほど慣れている。仕事場の臭い――ではなく彼にとっては香りだ。
「……こりゃ、可哀想だな」
刃の部分を人差し指で撫でると、表面の錆が薄れていく。表面だけならまだ軽症。錆は少しでも発生するとそこから爆発的に広がり進行してしまう。内部まで浸透してしまえばあとはもう崩れるだけ。錆びたまま放っておけば、いずれ穴だらけの枯れ葉のように朽ちてしまう。
どうもこういうものを見てしまうと無性に手入れがしたくなってくるゼスファーは、今すぐ防錆の表面処理のひとつでもしたいところであった。職業柄仕方がないのかもしれないが、こうもほったらかしにされているのは気分があまりよろしくない。――そこでふと、彼は思い至る。
「ところでアル、ここって鍛冶場はあるのか?」
「鍛冶場? あー、残念ながらここにはないけれど、精神の堂という北の支部にあった気がするよ。興味があるなら今度紹介するとも」
「あぁいや、興味というか本職なもんでつい」
「と、いうと鍛冶師なのかい?」
アルイロの問いにゼスファーは咳払いを一度する。
「『鍋から剣まで何なりと。家庭に一品、我が逸品。二品あればお得意さん。三品あればお隣さん。鍛冶屋レアミッドの製品は永久に貴方のお手元に』――ってね」
慣れた商売口調でゼスファーが溌剌と謳う。最近は固定客が多いのでこの謳い文句もお役目ご免となってはいたが。
「へぇ! その歳でもう働いているのか。逞しいなぁ。でもそういう人なら『神具』が得意かもしれない。何しろ〝物の構造を知る〟事が重要な加護だからね。実はこれの応用でこの建物は隠されているんだよ、うん」
「なるほど。物の構造……か。それじゃ、俺はこの剣で一回やってみる」
ゼスファーは表面の錆が目立つ剣を握り締め、横一線に振るうと錆の粉が薄っすらと軌跡を描く。
――ちなみに、ゼスファーは剣術に関して全く心得がない、というわけではなかった。基本的に受注生産である彼の商売柄、造る側は使う側の事をよく知らなければならない時もある。特に剣の注文が多かった時期は、時間を割いて遠くの専門機関に父と共に足を運んで学んでみたものだった。
「……よし、神宣告――第八刻『神具』!」
意識は手元の柄から切っ先へ。物に籠める思いが光となりて浸透していく。
「うあ――」
上下左右、振幅は僅かだが、剣が物凄い速度で揺れ動き始めた。片腕だけじゃ維持が厳しく、ゼスファーは柄を両手で持って安定させる。そして振動を落ち着かせるよう、荒れ狂う金属を――そう、鍛き直す感覚。
光の流れを頭の中で描く――自分の体から剣へと力を流動させていく。全体を覆う光が徐々に肩へ、腕へ、手首へ、そして最後に剣へと流れ込む。
表面に蔓延っていた錆が吹き飛び、衰退しきっていた当時の輝きが僅かに舞い戻り、剣を振りかざす都度、今度は錆ではなく光が代わりに軌跡を描く。速く動かせば動かすほどに光の尾は長くなり、それは手元で流れ星を操っているかのようにも見える。
「うっわぁ、素敵っ!」
ゼスファーが振り回す剣を、リリーシアが素早い身のこなしで避けながら感想を言う。
「物体に加護を分け与え、扱う。君が名匠であるならば、もしかしたら一番適している加護なのかもしれないね、うん」
アルイロの推察に、ほぅ、とゼスファーが興味深げに眉を持ち上げる。そう、〝同じ〟なのだ。
「祈りと願いをこめて造ってるのは間違いないさ。どんな小さなものでもそれは変わらない。失敗作にだって感謝してるし、修理修繕の時もな」
そんなゼスファーに応えるようにして、剣の振動は徐々に微細なものに落ち着いていく。だが、それでも振動は完全に止んでいない。加護を纏う事で感覚が研ぎ澄まされているゼスファーの手の平には確かに感じる、極微細振動――。
「ん、なんだ?」
不意に、刀身の各所が火花のような一閃の煌きを放ち始める。それはまるで夜空の彼処で星々が瞬き始めるように。そしてその間隔は段々と短くなっていく。
「あちぅっ!?」
綺麗だねぇ、とゼスファーの構える剣に近付いたリリーシアが思わず飛び退く。よくよく見ると剣の周囲には陽炎のような揺らぎがある。その現象に飽きるほど覚えのあった彼はひとつの確信をした。
(加熱されてる……!)
ゼスファーは柄を握る力を強め、更なる段階を想像する。刀身の点々とした煌きは消え、今度は全体が次第に薄っすらとした赤みを帯び、次第に夕焼けのような鮮やかさに変わっていく。
「振動で加熱されてるのか……? あるいは加護との摩擦か。調整は難しいかもしれないけど、素材の金属の融点まで加熱しない限りはかなりの高温を維持できるかも」
剣を体からなるべく遠ざけ、意味があるかわからないけど、と付け足してゼスファーは加護の集中を緩めた。するとすぐに加熱は止まって自然冷却が始まり、収縮によるひずみでぱきぱきと小枝が折れるような音が響く。
「へぇ! それは興味深い! 金属方面はなかなか疎くてね。そうか、専門知識があるといろいろ応用が出来そうだ」
「そうだな、融点のよほど高い素材の剣なら、その剣で相手の剣を〝溶かし断つ〟ことができるかもな。熱の遮断も『神鎧』で大丈夫かもしれないし」
誰かと剣戟を交わすなど、そんな状況は願い下げではあるが、べつに可能性を見出すだけなら損はない。むしろ今からでも使い方を考えておけば、何かあればすぐにでも試せるというものだ。
ゼスファーは剣をしばらく振り回し、適度な温度に冷却したあと壁際に剣を戻した。加護の性質上、加熱は比較的早く行えたものの、水でもない限りは空冷による冷却しか方法がない。
「――ところでアル、ひとつ気になってたんだけど、加護にはなにも〝代償〟がないのか? これだけの奇跡をなんの対価もなしに扱えるとは思えないんだけど……」
矢継ぎ早に提供される奇跡の度合いにゼスファーは感動さておき訝る。人間は常に帳尻を合わせながら生きている生物だ。それは単に金銭だけではなく、体力や精神、果ては時間などの概念すらも交えた様々な要因が互いに取引し合い、今が成り立っている。したがって奇跡の力を〝借〟るのならば、それ相応の然るべき〝貸〟があるのが当然の帰結だ。
「お、なかなか慎重で謙虚な考え方だね。……いや、未来が見えてるというのかな、珍しい。今までの人は扱うのに夢中になってしまって、僕が言うまでその話題は挙がらなかったんだ。今日の最後に解説しようかと思ったけれど、質問が出たならばここで答えておこう。勿論、加護を扱ううえでは代償と呼ぶのは少し違うかもしれないけれど、ひとつ欠点があるんだよ、うん」
「だろうな。無償で与れるものは他人からの親切くらいなもんだし。ま、これだけ纏えても、その代償が命とか言い出したら冗談もいいところだけど」
はは、そんな事はないよ、といった柔和な回答を期待していたゼスファーだったが、思いのほかアルイロの反応は真に迫るものがあり、慌てて口元を引き締めた。
「直結はしない。けれど現場においては間接的に君達を死に追いやる場合がある。正直ね、ここが加護の扱いのなかで一番悩ましく、頭を使うところなんだよ、うん」
「間接的ってことは、加護をつかったら死んじゃうんじゃなくて、なにかをしたら死んじゃうかもしれないの?」
死、という単語に珍しく楽観を引き出しに仕舞いこんだリリーシアが尋ねる。
「なにかをしたら、じゃなくて〝何かをされたら〟かな」
それからアルイロは、よく覚えておいて欲しい、と強く念を押してから、二人に加護の代償に関わる話を始めた。