第十一刻『神の加護』
『……えっ――――!?』
身体の隅々までが固形化した。血液は流動性を無くし、肺は役目を忘れ、瞼が仕事を放棄する。
アルイロ・アイェリスは今、冗談を口にした。そうに違いない――と。ゼスファーとリリーシアはそう思わざるをえなかった。
加護をもう使えるという事は、すなわち誰某のように空を飛んだり、傷を治したり……――否、そんな事は断じてありえない。…………〝多分〟、というのが正直なところではあったが。
理論を重んじるゼスファーはもとより、究極的楽観主義であるリリーシアまでもが瞳に微かな疑いの色を滲ませる。しかし、二人が冗談だと捉えられたのは僅か数秒間の間のみ。二人の瞳を交互に見据え返すアルイロの瞳には冗談の欠片さえも見えない。彼は紛れもない事実を率直に、ご丁寧にも解り易く結論から述べてくれたのだ。
「そうそうその顔。驚くのも無理はないよ。今まで納得顔をした人は一人もいなかったからね、うん。勿論、僕も最初に聞いた時は君達と何ひとつとして変わらない表情を浮かべていたよ」
口元は楽しげに、けれど崩さぬ瞳で言われてしまうと、嘘か真かその境界線に立たされているゼスファーとリリーシアは互いに顔を見合わせて眉を顰める他なかった。
困惑する二人をアルイロは観察するように眺めながら立ち上がり、手持無沙汰に机の周囲を歩き始める。それから〝生徒達〟が静かにしているうちに解説を始めた。
「僕達、君達以前に、人間はこの世に生まれた時点でもう加護を使う権利を持っているんだ。一言で言えば〝機能〟に近いもの。神の加護とは人間の機能の一部であってね、お偉いさんと特別な契約を交わした者や絵本のなかの魔法使いだけが使えるって代物じゃぁないんだ。足を使って走ったり、口を使って喋ったり、目を使って見たり、実はそういう人間の機能となんら変わらないものなんだ、うん」
現在進行形で覆されていく常識に、ゼスファーとリリーシアは考えの整理を先決とした。必死に理解しようとしているそんな二人にアルイロは微笑を返す。まるでこれから投げかけられるであろう質問を、あらかじめ把握している教師のように。
「……信じられないな。それならどうして今まで俺達は使ってなかったんだ? この目で今を見てるし、こうして口を使って喋ってるし、手を使って仕事だってしてる。加護が使えたなら毎日もっと便利な暮らしを送っていたはずだ。だけど少なくとも俺達のいた町では誰も光ったりしてなかった、空も飛んでなかった……けど。いや、多分だけど……」
確証出来ず尻すぼみになっていくゼスファーに、アルイロはそうだろうね、と当然の意を示す。
「その答えは簡単なんだね、これが。〝知らなかった〟。君達が加護を扱えないのはたったそれだけの理由だよ、うん」
「知らなかった? でもわたしはそんなの学校で習った覚えもないし、習う予定もなかったよ?」
リリーシアのもっともな反論にもアルイロは余裕の頷きを見せる。
「学校に限らず。親にも、友達にも聞いたことがない。もしも加護を知っていたなら、あの時は苦労せずに『神と永刻を頒つ者』をやれたかもしれないし……」
ゼスファーの愚痴ともとれる追い討ちにもアルイロは微笑を絶やさない。
「勿論、学校で教える訳がないよ。当然の如く先生だって加護を知らないだろうね。つまるところ加護とは機能だけれど、人間には〝もう必要ないもの〟で、遠い昔に忘れ去られてしまったものなんだ」
忘却された人間の機能。それが神の加護であった。当然、忘却には既知という事柄も付随する。つまり〝知っていた〟という驚愕の事実に繋がるわけである。
「もう必要がないって、今までは必要だったってこと?」
「そうだともリリーシア君。もうこの世界は完成しているが故に不要。加護は人間に手を貸して『世界の基盤』を創り出した後、必要とされなくなって忘れられてしまった。あるいは自然と忘れるよう決められていたのかもしれない。とにかく加護は何千年、あるいは何万年もの昔に人々の記憶から消えてしまった。人間は自分達の力だけで生きていけるところまでに進化したから」
それからアルイロはもう少し細かい説明を加えていった。
――――遥か昔、人々は加護を用いて火を知り、衣服を纏い、様々な工具を生み出し、複雑な数式を解き、自然の力を生活に応用し――今や天を仰げば星の軌道まで理解できるようになったという事。フロディエナにおける考古学的には、火を扱えるようになった時点で一種の完成とも言われているという事。土台はとうの昔に完成し、現代は数多の組み合わせでどれだけ生活を楽に出来るかのみを追求する、いわば外装的な世界になっているという事。
不要なものは切り捨てていく時代。有用なもののみを求めていく時代。それは面倒な方法を避け、より快適な方法を模索する事を暗に要とする本能があるからだ。その本能は人間だけに限らず、自然界のありとあらゆるところでも同様とされている。
加護は時代の経過と共に、〝何故か〟不要と判断され忘れ去られた機能のひとつ。有用であるはずのそれが切り捨てられた理由は今でも分からない。唯一断定出来る原因といえば、加護の乱用は〝人間の進歩に影響を及ぼすから〟という事くらいである。
「加護の定義とは一言で言うと『人間の進歩に肩を貸す機能』。そして現代においてのそれは単に忘却の彼方に追いやられただけであって、決して使えなくなったものではないんだ。基盤の完成したこの現代では〝まだ知っている人だけ〟が使えるチカラってところなんだよ、うん」
そこで語りを一度止めたアルイロは、机の周囲を歩きつつ生徒から質問を待っている先生の様相で二人の反応を待った。その間にゼスファーは素早く思考を巡らす。どこか穴を見つけてやろうと半ば躍起になりつつ。無論、そんな事は無駄だと分かっていても問わずにはいられない自分がいる。妙に納得しかけている自分が恐ろしい。
不必要となった機能。記憶から消えた人間の機能の一部。忘れ去られてしまったモノ。その点はなんとなく納得がいくし、異論を唱える気もさらさらない。加護というのはその存在を知る事で使えるようになるという。この建物の存在を知る事で建物の姿が見えたように、触れる事が出来たように、きっとそれらと同じ意味なのだろうが……問題はそこではない。
「でもどうして今、それが? みんな忘れたっていうのにどうやって、誰が思い出したんだ? そいつが原因で危険を招いているんだろう?」
加護の定義と現状を見事に繋ぎ合せたゼスファーの質問はアルイロを大いに喜ばせた。
「いいや、思い出した、じゃなくて、〝覚えていた〟んだよ」
アルイロは事前に構えておいた答えをすぐに放った。確かにその回答は的を得ているが……。
「覚えてるだって? 何千年も前のことを? 人の寿命は長くても百年くらいだって言われてるのに」
ゼスファーのもっともな追及にアルイロは無言で机の上に置いてあった本に視線を向ける。
「――あ」
途端、ゼスファーは自己解決した。そう、寿命などではない。必要なのは〝耐久性〟と〝伝承力〟だ。
「〝記録〟……か!」
「その通り! さっき言ったよね? 記録は記憶よりも長く正確に真実を。きちんと管理すれば、例え紙が朽ちようとも、その前に書き写せばいいだけの話。原本があれば写本なんていくらでも」
記憶とは人間が備える形無き意味であり、記録とは人間が作り出した形有る意味。加護は、忘却という名の記憶の減衰に脅かされる恐れのない、記録という目に見え手に取れる形に頼る事で、現世にまで生き永らえた奇跡のひとつでもあった。
「あっ、そっか! 文字なら写せばいいんだものね。でも、誰が?」
リリーシアの察した通り、現代において加護の存在の記録と管理をしている人物がいるのは、今までの話からすると明白である。無論、現代の言語と異なる言語による記録であれば、それを解読する為の教養も必要となり、必然的に高位に位置する人物が管理をしている可能性が高い。
現フロディエナ大陸では、一定水準の教育を行う非義務である学校を卒業し、以後は職業斡旋所などに出向いて仕事を見つけるのが世俗的な流れだ。フロディエナではある学問に特化した専門的教育を行う公的機関は存在しない為、専門知識や技術を学ぶ際には優れた専門家が個人的に運営する施設に所属する必要がある。その事から、加護の記録に関する知識を得るには限られた場所と人間が必要となる事がうかがえる。
「その管理者こそが〝神と名乗る人間〟。現代のその存在こそが最大の悪意であって、この大陸を文字通り死に至らしめる原因。だからそれを止める為にこの組織が立ち上がった訳だね、うん」
「ということは、そいつは記録を読めるんだな」
ゼスファーは問題の原点を素早く睨む。
「僕にも詳しい真相は分からない。けれど〝末裔〟が加護の記録を伝承しているというのは確定かな」
「末裔? なんでまた〝最上級階層〟が話に出てくるんだ?」
アルイロの口から出た単語にゼスファーが過敏に反応する。尋ねながら彼は胸に細波のような戦慄が過ぎるのを感じた。その集団の名前は知っているし、その者達が何をしているのかもそこはかとなく理解している。ともなれば背筋が凍るような胸騒ぎを禁じえない。
「ん、ウァーレはそこらへんの話はしていなかったかな」
そこでゼスファーがウァーレとの会話が途切れた経緯を話すと、アルイロは椅子に座って話す体勢になった。
「それじゃ僕が説明しよう。実は末裔のなかにもとても簡単な階級制度があってね、すなわちその頂点に君臨する者こそが神。絵本のなかの物語みたいに簡単だろう? けれど簡単だから絶対なんだ」
『神の末裔』――――。それはこのフロディエナ大陸を統治している者達の総称だった。フロディエナ大陸の基本的な法律や税は全てこの末裔達によって決定、公布され、細かな部分のみが町々によって異なっているのが現状である。
だがゼスファーとリリーシアが疑問に思う点はそこである。すなわち末裔に関しては悪い噂のひとつも聞いた事がなかったからだ。べらぼうに高い税を徴収するわけでもなく、非人道的な悪政を執っているわけでもない。法も悪には厳しく、善人には得なつくりだ。むしろ助かっているほうであるわけで。
「あの人達が大陸をどうにかするっていうのは信じられないな。もちろんどうにか出来るような権利はあるけどさ、悪い噂はまるで聞かないし、実際助けられてる。あの人達がそんな――」
「君はその目で見た事があるかい?」
発言を遮ったアルイロのその一言でゼスファーは口ごもった。それはつまり、末裔の姿を実際に見た事があるか否かという事。言わずもがな、否、である。
「……あぁ、確かにこの目で見るまではおとぎ話だ。なら俺達が見てるのは――いや、〝見させられている〟のは偽りの姿ってことか」
見させられているのは表側だけ。いくら裏で怪しげな事をやっていようとも、そこを覗く事が出来ない限りは何をしているか分からない。末裔同士の議会は基本的に非公開なのだ。理外の理、常識の裏方で行われる活動に常人が介入する事は出来ない。
さらに、性質が悪い事に末裔は貴族の知識をも内包している。貴族とは常人の遥か上をゆく高水準の知識と技術を有するある種の部族。そのような者達すら凌駕する末裔ならば、加護の記録の解読なぞ容易いものなのかもしれない。言い換えれば、加護は末裔しか知らない使えないはずのものなのである。
「でも、これでよく解った。ようは守秘義務みたいなものが破られたんだろ。例えば加護の話は末裔によって形式的に守り続ける決まりがあった。だけど守る側が興味を持っちまってそれを〝知った〟から使えるようになって…………」
「永遠の命を得る方法を知っちゃった――ってこと?」
ゼスファーがあえて言葉にしなかった結論をリリーシアが紡ぐ。それにアルイロは無言で頷いた。――ようやく、話が見えてきた。
加護が奇跡に等しいチカラであるならば、永遠の生を得られる可能性もまた無きにしも非ず。そう、たとえその実行にどのような代償があろうとも――――。
「加護にそのような力があるのかどうかは僕らには分からないし、目的もまだ分からない。ただ、今の代に就く末裔達は見つけてしまったんだろうね、そういう類のものを」
ところで今回の騒動の発端は末裔の世代交代である、とアルイロは推測していた。つい数年前に末裔の世代交代の知らせが大陸中に交付された事を彼は知っている。しかし世代交代とはいえ政治的には特に変わる部分がない為、世間一般では数十年に一度ある恒例の……という程度の認識しかなく、これといった祝典のようなものも開催されない。正直なところ人々にとっての末裔は、直接の技術提供を担う貴族よりも影が薄い存在ともいえよう。
――――だが、その盲目さこそが危殆に瀕している原因であるとアルイロは睨んだ。あらゆる知識の貯蔵を試みている彼にとっては、末裔の政治活動状況も例外ではない。冷静に分析すれば、一見すると象徴のような末裔達でも、実質的にはこの大陸全土の支配を担っているのは確かであるのだ。多大なる影響があるのに影が薄いという点においては、喩えるならば空気と酷似している。
……そう、当たり前のようにあって、だがしかし目に見えぬそれは、生命に計り知れない恩恵をもたらしているというものの、〝誰もが全く気にしない〟のだ。空気の事を気にかける時といえば、窒息しかけた時くらいなものだろう。
「勿論、加護は悪いものではない。むしろ人間にとっては良いはずのものだよ。でも解るね? 例えば不眠症の人にとっては欠かせない睡眠薬。ヴァイロが良く知っていると思うけれど、あれを過剰に摂取させる事で人を殺す事が出来てしまう」
アルイロは加護を短絡的に凶悪なものとは捉えず、あくまでも〝使いよう〟によっては、と念を押す。
「刃物も然り、か。便利なものは結局のところ善意に委ねられる部分が多いからな」
至極納得だ、とゼスファーは大いに頷く。造る側である彼は、利便性を提供する傍ら、常に悪用を危惧する立場でもある。生活の質の向上に貢献する事もあれば、使い方によっては誰かの命を奪いかねない事にもなるのだ。まさに昨日の出来事こそは危惧が早々に現実化してしまった例といえよう。
「そう、そして加護も例に漏れず、悪意のある者に使われればお察しの通りになってしまう。だけどまだ止められる。その為にももう少しだけ人手が必要なんだ。一人でも多くの真実を知る者が欲しい。だから今日は――まだ〝戦うか否か〟は別として、とにかく君達二人に〝正しい加護の使い方〟を教える。それから考え直してもらっても構わないからね、うん」
アルイロは熱っぽく語ってから、鎖に縛られていた書物を開錠する。講義は終わり、いよいよ実技に入らんとする合図だ。
「加護には加護で対抗……か」
ゼスファーはふむ、と腕組みをしながら納得すると同時にリリーシアのほうを流し見る。それに気付いた彼女もまた腕を組み、ふむふむ、とやけに気難しそうな表情で納得したような素振りを見せた。
彼女は話を理解しているのか、というよりも納得しているのだろうか、とゼスファーは悩む。話を聞いて理解しているならば、『神と永刻を頒つ者』の話とも合わさって、とりわけ際立った能力もない一般的庶民である二十歳にも満たない男女が、生死に関わる危険な物語に首を突っ込みかけているという事くらいは理解出来よう。そしてそれがどれだけ無謀な話であるかという事も。
だが悩める事に、その無謀に挑むか否かの決定権はゼスファーにある。当然リリーシアの意見も尊重するのだが、やはり最終決定権は彼にある――というよりかは彼に任されているといっていいだろう。ともかくこの五年間はそうやってきた。
少々古臭い考えを持ち出すならば、それが〝良妻〟のあるべき姿なのかもしれない。――結果論、ゼスファーが納得すればリリーシアも納得する。彼が歩みを進めれば彼女もまた後ろに付いてくるのだ。――必ず。
(何を言っても納得するんだろうな……)
ふっ、とゼスファーは短くこぼして笑う。
「ん、なぁに?」
「いや、なんでもない。――アル、それが例の?」
リリーシアの反応を流してから、ゼスファーは意識を切り替えて開封された書物を指差す。進むべき道を照らすのは自分の仕事だ。その仕事が出来てもいないのに、あれやこれやと文句を言う資格はない、と。
「これは神の加護について書かれている写本。無論、原本は入手不可能だからあれやこれやで何とか写しだけ入手に成功したものでね。それについては長くなるからまたの機会に。はい、じゃぁ第一段階、『加護の存在を知る事』。これは突破したね、うん。次の段階は加護を使ってみる事。言わずもがな相手は加護を知り、使ってくる。対応するにはこちらも加護を利用するしかないんだ。発動の手順はここに書いてある通り」
ゼスファーはめくられた頁の中央にでかでかと書いてある、『祈祷開始』と自分達が読める言語での読み方が書かれた文字を見つけた。ウァーレとラティアが加護を纏う際に放っていた言葉で、見た事も聞いた事もない言語だった。
「そういえばこれ、わたし達が使ってる言葉じゃないけど昔の言葉なの?」
「古語だね、うん。この大陸で最初に使われたという『神の舌足らず』と呼ばれる言語だよ。解読もほぼ終わっていて辞書もあるから、今度読んでみるといい」
「舌足らず? あは、それって幼稚な言語ってこと?」
「また君はいいところを突くね。そうとも、人間でいう赤ちゃん語。人類の赤ちゃん語ってところかな、うん。今僕らが喋っている言語は全く違うように見えて実は元になっているんだよ。ま、つまり僕達人間は、全能なる神様が用意してくれたものじゃ物足りなくなって、勝手に使い易くしてしまった訳だ」
「傲慢は人間の特権だな。これを言えばもう使えるっていうのか?」
ゼスファーは濃い麦色の髪を片手で梳きながら眉根に皺を寄せる。実際にその光景を見たからには信じないわけにはいかないのだが、自分自身がこれから実行するともなると、胡散臭さは黴のように鬱陶しく残ってしまう。
問われたアルイロは席を立ち、本に書かれた文字にわざとらしく指を這わせながらそれを読み上げる。
「祈祷開始」
薄っすらと、アルイロの痩身が淡い白色光を帯び、薄暗かった訓練所の一部がにわかに明るくなった。〝簡単過ぎる〟、とゼスファーは訝る。だが優れた教師が魅せる手本の要とはまさにそれだ。如何に簡素に誇示出来るか――これなら僕にも私にも出来そうだと思わせる方法であれ、僕では私では出来ないと思わせる方法でも、とにかく興味を持たせる事が肝心だ。
後にも先にも現れないであろうほどの純情生徒――リリーシアは既にその両拳を握りながら次の教えを待っている。アルイロが優秀であるという証拠としては、生徒の持ち前の性格上からして不充分かもしれない。だがゼスファーに興味を持たせる事が出来たのならば、それは充分な証拠と成り得るであろう。
「願いを要求する前にまずは祈りを。勿論、慣れればこの決まり文句を口にする必要は無くなるよ。けれど力を貸してもらうのなら宣言するほうが〝より具体的になる〟」
曖昧さの削減。要求の明確化。それがより洗練されたものを得られる手法。例えば、無言で手を差し伸べるより、それをこっちに貸して、と一言添える事。そして慣れれば手を差し伸べるだけで要求が得られるようになる。そんな日常で執り行われる常識は、非日常で繰り広げられる非常識にも適用できるのだ。
「体がこのような光を発する状態が、いわゆる加護を纏っている状態と僕らは定義する。ほら、騙されたと思って、さぁさぁ!」
ひとまず理論なのか奇跡なのか判断し難い話を聞いたうえに実践までされてしまっては、もう疑いに徹する意味はない。
「やってみるか……」
ゼスファーがようやく重い腰を上げ始めた途端、彼のすぐ隣で、すぅっと勢いよく息を吸う音が聞こえたかと思えば――――
「祈祷開始!」
リリーシアによる宣言が高らかに響く。――間髪を入れずに彼女の体を白色光が丁寧に包み込む。
「なっ……!?」
「……………………!」
リリーシアはただただ無言の感動を示していた。彼女は装束よりも白い、白雲の光を纏いながら、己の身に起こった奇跡を吟味している。纏えたのだ。本当に。
出鼻を挫かれたが、こいつが成し遂げたならば己に出来ぬわけがない、とゼスファーも続いて鼻息も荒く宣言する。
「プ、祈祷開始!」
どもりながら言葉を発した直後、揺、と一度だけ心臓が高鳴る。刹那、あらゆる革新の奔流がゼスファーの心身その末端までをも走破する――――
「――っ!?」
体の内側を風圧のようなものが奔った。直後に皮膚が一枚分膨れ上がるような張りのある感覚。
心臓から開放された無彩色の光が衣服のようにして全身を纏い込む。一切の熱量が無いその光は触れる事が出来ず、喩えるのならば可視の空気を纏っているのに近い。
精神的超越――あらゆる雑念が根絶され、脳内に生まれる瞭然とした広大無辺の空間。思考回路は三六〇度に細く枝分かれし、あらゆる可能性を同時並行で彼に示す。
身体的超越――血流の加速により血管が轟と唸る。筋肉はより引締まり頑強に。神経はより多く精確な情報伝達を可能に。視力聴力の上昇。瞳が捉える景色はいつもより鮮烈に、物と物の境界が明瞭に。さっきまで聞こえていなかった屋外の鳥のさえずりさえも耳につく。
全ては一瞬だった。それでいてその一瞬に起こった革新をいくつにも分解して理解する事が出来た。
常識の外側に、一歩踏み出したのだ。
「…………なんだ、これ……。別人になったみたいだ……!」
「なんか、うずうずする!」
二人は加護の恩寵によるあまりの変貌ぶりに愕然とする。自己は一新され、まるで見知らぬ他人に生まれ変わったかのような新鮮さ。今までの自分が忽然と姿を消したというある種の恐ろしさすら感じた。
だが、決して生まれ変わったのではない。単に、超越したのだ。
「どうだい? 初めて加護を纏うって感覚は。それが神の加護の恩恵だよ。それじゃぁ試しにほら、二人とも向こうの壁まで全力疾走してごらん。それ!」
超感覚に慣れぬうちにアルイロが手を叩く。ものは試しと二人はそれを合図に走り出す――が、いきなり体の平衡感覚を失い、二人はつんのめるように揃って転倒した。
『――っあれ?』
最初に感じたのは痛みでもなんでもなく、言うなれば肩透かしを食らったかのような感じだった。どこか、有り余っているような感覚がある。
「うん、期待通りありがとう。いつもと力の入れ具合とか変えないと、初めのうちは体が制御できない。今の君達の肉体はいつもの思考と一致しないんだ」
つまるところ、二人は有り余った能力を制御出来ていなかった。例えば名剣をちんぴらが振り回すような状態に近いか。どれほど良い製品を手に入れようが、扱い方を全く知らねばそれはただの飾りや置物と変わらないのだ。
リリーシアは手の平を握ったり開いたりして、通常時との違いを改めて認識する。一方でゼスファーは目を閉じて感覚器官の超越を味わう。――まずは、変わり果てた自分自身を知る必要がある。
「ん…………痛っ?」
ひとたび落ち着いたリリーシアは、今頃になって先ほどの転倒で膝に傷を負っていた事に気が付く。だがその傷口は既に加護による恩恵を貰い受けていた。血液は重力に従い脛の方へと流れているが、傷は既に〝治ろうと〟しているのだ。
「もう治ったのか?」
目を瞠るような超高速の自然治癒はものの数秒間で完了した。機敏な止血は瘡蓋の過程を省略させ、肌は通常とは比にならない速度での再生を可能とする。傷は目視不可能となり、流れ出た血の跡だけを残して綺麗な膝頭は再び現れたのだ。
「傷はなくなったみたい。でもまだちょっと痛いかなぁ。くすぐったかったよ。ちーっちゃな虫が歩いてるみたいで」
今しがた起こった一連の流れに感動していたリリーシアは小指で血を拭い、何事もなかったかのように肩を竦める。
「その程度の傷なら加護の恩恵のひとつである『想起治癒』の許容範囲。外的治療をせずとも体を構成する組織が元の配列を〝思い出して〟復元してくれる……と、ヴァイロは言っていたよ。ただし痛みは治るものじゃなく感じるものだからそれは我慢。重症の場合は第七刻を、死に関わる怪我なら神療者の助けを借りなければいけない。過信は禁物だよ」
ただし、治療の適用限界は〝原型を留めている事〟――と既にヴァイロから釘を刺されていたゼスファーは改めて縮こまる。何しろ適用限界が判明しているという事はすなわち…………。
「……なるほど。それで、加護って他にはどんな力を得られるんだ? これだけじゃないんだろう? ウァーレみたいに翼を生やしたりとか」
我ながら加護を纏えたのが嬉しく、ゼスファーは新たなる可能性をとアルイロを急かす。
「それは定義のひとつ。僕達はいくつかの定義に従って様々な能力を得る事が出来るようになる。第一刻から第十二刻まで。想像し易いものを簡略化というかたちで定義して、それらを上手く使っているんだ。
そうだね、今日練習してもらうのは十二の定義のうち、第一刻『神鎧』、第五刻『神腕』、第八刻『神具』、第九刻『神感』の四つ。これらをお試しでやってみようか」
アルイロは重厚な本をめくりながら次々と加護の定義を挙げていく。その数多の定義はウァーレを筆頭に組織で考案されたものであり現役。その定義を熟知した者達が大陸を救わんと世間の裏を日々奔走しているのだ。
「数学の公式と同様に。決め事があってそれを覚えてさえしまえば、人はそれを素早く容易く扱えるようになる。慣れてくればいちいち公式を言わず書かずとも頭の中で紡げるからね、うん」
「あぁ、簡略化させれば取り扱いは容易になるからな。そりゃちゃんと踏まえるべき手順を全部やればそれ相応にはなるけど、時と場合によっちゃ省くことが必要になるのは解るよ。臨機応変、その都度最良の選択を行うってやつ」
ゼスファーの言葉に、その通り、とアルイロは頷く。状況によっては時間の損失か品質の低下か、そのどちらかを選択しなければならない時もあるのだ。
「それじゃまず第一刻の加護『神鎧』からやってみよう。僕達が真っ先に会得しなきゃいけないものだから絶対に覚えなくてはね。ゼスファー君、ちょっとそこを読んでみてくれるかな?」
「えー……第一の定義『神鎧』。『加護の硬化。発動者の体表に無重の加護の鎧を展開する。我々が最初に会得すべきもの』。……へぇ、無重の鎧、か」
示された本の箇所をゼスファーが流し読むと、そこには人間が白い鎧のようなものを身に着けている挿絵があり、彼は俄然それに興味を示した。何せ鎧とは重厚の代名詞でもある。軽ければ軽いほど命の危機は増す。すなわち重さが無いという事は着ていないのと同義だ。
「守護の祈りを具現化する加護。加護の光は流動及び〝硬化〟可能だ。定義をうまく使うには加護を纏った状態で想像を脳内で固めると同時に、心で祈り、発動の旨を要求する」
加護の光の硬化。まさしくウァーレが半獣の攻撃を防いでいたものの正体である。その形容は絢爛たる宝石のようでいて、だがしかし硬度はそれ以上。獣の筋力を以ってして穿たれた槍すらも破砕する絶対的な護り。
「鎧の形状や硬度は人それぞれ臨機応変千差万別多種多様。さぁこの部分を読んで、それから想像してごらん。『神鎧』は君の命を守る為の祈りだ」
『祈り……』
その言葉にゼスファーとリリーシアは昨日の襲撃を思い出す。そういえば、あの時は不確かな神に助けを乞うたっけ。結果、祈りは通じて二人の命は助かった――のみならず、今はこうして不確かだった、想像を絶する神の加護という奇跡を身に纏うにまで至る。
当然、祈りは都度本気の願いを伴ったものでなければならない。明確な目的のない、釈然とした形式的な祈りは〝形式的な加護〟となってしまう。火を見るよりも明らかな目的と、紅蓮のように燃ゆる、あるいは鋼のような毅然たる意志を伴った祈りこそが、その身に纏う光を揺るぎないものにする。
ならば、なにも改めて意識して考えるまでもない。そんなのは、いつも思っている事だ。
(……あぁ、神よ。〝暇なら俺の祈りに応えてくれ〟……!)
――――少年は装束を翻し、その身に宿さんとする光の守護を想像する。何にも換えられぬ――否、価値概念の適用出来ぬ尊厳の根源に鎧を。彼の目的は陽を見るよりも明らかだ。その意志は紅蓮の炎さえも焼き焦がし、鋼すら容易に穿ち貫く。
己を護る加護なのに、護りたい対象は己ではない。得た力を以ってして、もう二度と、彼女を危険な目に遭わせはしない。表にこそ出さないが、彼女を想う気持ちが誰かに負けるはずがない。
「――――神宣告――第一刻『神鎧』!」
直後、加護の光は命を護る無重の鎧となりて彼の身に顕現する――――