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神葬の代行者  作者: カオスベイダー
『序刻』
11/29

第九刻『浴場での逢着』

 こんこん、という控えめなノックの音に、二人はふっと現実に引き戻されるのを感じた。

「入っても平気か?」

 扉の向こうからチックの曇った声が聞こえる。

「あぁ、大丈夫だ」

 チックが扉を開けると、部屋の中では少年と少女が、共に疲れきった表情を浮かべて、くたびれた老木のように立ち尽くしていた。うち一人は着ている服に乾いた血がこびりつき、端から見れば何やらひと悶着あったのかと思わせる。

「――で、話は終わった?」

 だが事情を知るその第三者はさっと本題に入った。

「見ての通り。どっちかっていうと中断だけど」

 ゼスファーは開け放された窓に視線を向けて肩を竦める。そこで肌寒さを感じたリリーシアが窓を閉めに行くと、風の音が消え、部屋の空気の循環が凪ぐ。

「あー……急務かな。ウァーレにとって窓は出入り口みたいなものさ。ほんと、いつ休んでるんだかわからないや」

 哀れみよりも呆れが上回る声音でチックは眉根を寄せた。その様子から先ほどのは日常茶飯事なのだとゼスファーとリリーシアは理解する。

「いっつもあんな感じなの?」

「うん。〝支部〟ができてから少しはマシになったけどさ、寝てるところ見たことないや、おれ」

「……そんなに、そんなにまずい状況なんだな」

 ゼスファーは言葉にして改めて危機感を募らせる。何が起こっているかはっきりと知れない以上、具体的な危機感を抱く事はなかなか難しいものがあるが。

「ウァーレがいてこの組織があるから平和が保たれてるようなものさ。あ、そうそうとりあえず二人の部屋に連れてくよ。きて!」

 チックは義足をやかましく鳴らしながら――誰もやかましく思う者などいやしないが、ウァーレの部屋を出て、廊下の突き当り付近まで行き、一番奥の部屋に二人を案内した。

「今点けるよ」

 チックは壁際に置かれている細長く軽い金属棒を手に取った。棒の先に火打ち石が取り付けられた非常に簡易的な着火棒である。それを天井に取り付けられているランプの縁に強く当てると火花が飛び、器内の光魚脂(こうぎょし)が発火して、部屋はたちまち穏やかな光で満たされた。

「まぁ綺麗っ!」

 ランプの灯が床や壁にゆらゆらと踊り子のような影を落とす室内は幻想にほど近い。雄大なる自然と厳たる秘密を隔てる一枚の境界――窓には三人の姿が朧げに映り込み揺れている。

 部屋はウァーレの部屋と同じ造りであり、簡単な家具が一式揃っているだけの状態だった。机の上には部屋の扉にかける名前の板版が一枚だけ置かれ、今はそれに何も書かれていない。かくしてそれにゼスファーとリリーシアの名が刻まれるか否かは、当事者含め、まだ誰にも分からぬ事である。

「こんなとこ、使っちゃっていいのか? べつに廊下で寝たって構いやしないけど」

「ちょうど一部屋だけあまってたんだ。運がよかったよふたりとも。できればずーっと使っててほしいんだけどな!」

 意味深な笑みを浮かべながらチックは椅子に腰掛け、ゼスファーとリリーシアをベッドの下段に座らせた。

「で、なんの話をしてきたんだ?」

 チックは興味深そうに、けれど九割方内容は分かっているふうに質問した。

「とんだ神様の話さ。ありもしない永遠を求めてただ命を奪ってる。最後にはそいつ以外残らない。俺も、リリーも、チックも。みんな消えていなくなる。そこまでは聞いた」

 それはざっくりと理解した事。けれど大筋はそれで合っていて、その序章はとっくに始まっているときたものである。

「じゃぁ〝手伝って〟くれるの!?」

 がたんと椅子を鳴らしてチックが尋ねる。ゼスファーは彼の爛々と輝く青い瞳から思わず視線をずらした。

 ――――手伝う。そう言えば簡単な事に聞こえるかもしれないが、それが如何な危険をもたらすものなのかは計り知れない。だが代償がどうであれ、自分はそうするべきであってそうしたい。だが、それにリリーシアを同伴させるわけにはいかない――というのがゼスファーの真意であった。仮に死と常に隣り合わせなんていう必要性があるとしたら、そんな事はもってのほかである。

 相反する意は、真実を耳にした時からゼスファーの胸の内で剣戟を交え続けていた。しかし、結果は見えているからこそなお悩ましい。〝何をどう足掻いても〟彼女はついてくる。絶対についてくる。それを解りきっているからこそ、悩みが尋常ではないのだ。

「……真実を聞いたからには何もしないわけにはいかないさ。〝救われっぱなし〟は性に合わないしな。だけど、俺達は加護なんて使えない。昼間みたいなやつと敵対するなんてことになったらなにも出来ない。それにリリー、俺はおまえが――……その、だから、あんまり危険な……首を突っ込んでほしくないっていうか……」

 決め所をちぐはぐごにょごにょとしてしまったゼスファーは、結局結論を述べる事なく口をつぐんだ。まだ二人きりならもう少しまともに言えたかもしれなかったが、何しろ今はあまりその手の話題を聞かれたくない第三者が目の前にいる。特に、そこのにたにたと笑っている少年とか。

「はい、はい」

 と、リリーシアはゼスファーの危惧を理解したうえで箒で掃くように軽くあしらい、そんな二人にどことなく年配夫婦の掛け合いを重ね合わせたチックが吹き出した。

「ぷっ……わかったわかった。なにも今すぐ決めろなんて言わないよー。無理強いはしないって。あ、そうそう二人ともさ、気分転換として湯に浸かっておいでよ。でっかいのがあるんだ。今は男が入れる時間だからさ、先にゼスファー行ってきなよ。一階の一番奥にあるから」

 チックは話題をすっぱりと切り替え、机の上に置かれていた時計をちらりと確認してゼスファーを促す。丁度さっぱりして眠りに就きたい時間帯である。

「お、そりゃありがたいな。いい加減この血を落としたい……。それじゃ悪いけど先に行ってくるよリリー」

 一人で考えを整理したかったゼスファーは願ってもない提案に素早く応じる。

「はーい。それじゃわたしはチックとお話してるね」

「そそのかされるなよ、リリー」

「はい、はい」

 またしてもチックが吹き出す。

 それからゼスファーはチックから白い寝巻きを一着受け取り、浴場とやらを探しに部屋をあとにした。


 ◇


「ここ……か?」

 ゼスファーは建物の一階を散策し、ようやくそれらしき場所に辿り着く。一階の一番奥、やや入り組んだ所にそれはあった。

 チックの義足と同じような、光沢のある波目模様が特徴の木の扉。付近に僅かな湿気が感じられるところ、恐らく間違いないだろう。

 がららら、という独特の音と共に横開きの扉を開けると、すぐにもわりとした湿度の高い空気を肌で感じる。一歩進んで辺りを見回すと、湯気が漂うこじんまりとした空間があった。いくつか棚が設置してあって、その棚に木の皮で編んである洒落た木籠がふたつ置かれている。

 何だろう、と手近な木籠の中身を覗いてみる。するとその中には折り目正しく折り畳まれた白装束が見え、もう片方を覗いてみると、こちらは乱雑につっこまれていた。どうやらここは脱衣場で間違いはなさそうだった。――と、いう事は浴場には既に二人の男性がいるというわけだ。

 入り口の扉から脱衣場を挟んだ向かい側に、もうひとつの扉があった。どうもこの湯気はその扉の隙間から漏れているらしく、その先に浴場があるという事が分かった。

 木籠をひとつ拝借し、ゼスファーは血に汚れた作業服一式と靴を脱ぐと、こんなにも己は軽かったのかと驚きすら覚えた。

「明日洗わなきゃな……」

 作業服を片手に呟く。父親であり、母親の形見でもある作業服は、主要な部位の生地と下地の間に極薄鉄板が挟み込まれている一種の防護服でもあった。だがそれでも普通の服よりやや重いと感じる程度で作業にはまったく支障が出ない。素材を生み出したのは父親であり、縫い上げたのは母親。それを日々着こなしていたのが父親だった。

 故に、ゼスファーが着るには気持ち大きく、生地の余りがやや目立つ部分もある。だがひとたび鍛冶道具を片手にすると、その姿は随分と様になるものであり、自分ではまだまだ甘いと謙遜しつつも、少なくともリリーシアは彼の亡き父親の姿を連想させると絶賛していた。

 世代交代の時期が訪れたら譲り受けるつもりでいたが、まさか身体が成長しきる前に、しかも形見として身に着けようとは……ゼスファーは微塵にも思ってもいなかった。

「……よし」 

 棚の一番端には白雲のようなふわふわとした布が何枚も畳んで置かれていた。それを見つけたゼスファーは、布を一枚拝借してしっかりと腰元に巻き付ける。真裸で挑むのは一向に構わなかったが、先客は男とはいえ見知らぬ赤の他人。ひとまず無難に隠しておくに越したことはない。

 脱衣場と浴場を隔てる扉を開けると、すぐさま大量の湯気が視界を覆った。左右の壁際には人の頭大の巨大なランプが置かれており、光魚脂を用いたそれは湯気を切り裂くように光を放ち、浴場を真昼のような明るさに保っている。

 ぺたん、と。一歩進むと足の裏が水気を帯びた冷たい大理石の床に触れる。視界の開ける場所まで行こうとニ、三歩進むと、突然――前方からゼスファーの方へ向かってくる足音が聞こえてきた。そして、その足音は彼の足音に気が付いたのかぴたりと停止する。

「……? お姉ちゃん?」

 湯気をか細く貫く透き通るような――――〝女声〟。その声にゼスファーは咄嗟の判断で拳を口に突っ込んで声を押し殺した。そのあまりの勢いに、どこから出たのか鉄の味がする。

(――――待て待て待てよ? 〝女〟だって!?)

 ゼスファーは絶対的絶望に絶叫しかけるも絶句で済ませる。――――話が違う。

「おーいナティア、どうした!?」

 そして、追い討ちをかけるように轟く女声。ゼスファーの頭蓋に響く警鐘。

「いえ、今、誰かが……」

「んぁ? ラティアじゃねぇのか? あっ、そうだもしかして例の新人か!? 確か〝女だって聞いた〟な!」

 好奇心旺盛な声色に続いて浴槽から出たらしい水しぶきの音。ここでゼスファーは焦りを通り越してかちんときた。

(いやいやいや。待てよ、チック。今は男の入れる時間帯じゃなかったのかよ!?)

 いわゆる洗礼ってヤツなのだろうか。いや、それにしては厳し過ぎやしないだろうか。よりにもよって浴場と女性の組み合わせなぞ他に例を見ないもっとも危険な……。おまけに敵は二人いる。何ひとつとして己に有利な状況がない。

 そう考えているうちにも足音は容赦なく接近する。もうもうと渦巻く湯気のおかげで未だに互いの姿は見えないが、どちらにせよ時が過ぎればゼスファーは間違いなく、臨終する。その恐怖の度合いたるや昼間の死に際に近いものがあった。

 ひとまず刹那の判断で、腰に巻いた布をもう一段階きつく締める。あらぬ事態が訪れようとも、これで最悪の事態だけは免れるはずだ。

 だが良い結論は浮かばず、ゼスファーまず逃亡を選択した。ばれないように足音を殺して一歩だけ引き下がる。すると、ぽよん、と背中に〝間隔の空いた張りのある妙な柔らかさ〟を感じた。

 ――――昼間の恐怖を超越した。

(い、いつの間に――!?)

「よっ! 新人さん!」

 頭の真後ろから声をかけられ、背骨がぞくり(おび)えぱきり鳴る。次いで目の前にも薄っすらとした人の輪郭。――――挟まれた。

「ん? どうした?」

(もう、無理……か……!)

 そう諦めたゼスファーは潔く――〝男〟である以上は非を認める事を決意した。

「あ、あの! 俺……その……あの、ごめんなさい!」

 悲鳴と万が一の衝撃に備える為に、ゼスファー目を閉じ、舌を噛まぬよう引っ込めて歯を食いしばる。――が、代わりに聞こえてきたのは背後からの軽快な笑い声だった。

「あっはっはっは! またまたぁ、男っぽいヤツは嫌いじゃないよ。あたしも似たようなもんだからな。ほれ、ご対面ご対面ー」

 何者かによって後ろから肩を掴まれたゼスファーは、固まって動かなかった両足を軸に軽々と後ろ向きに回された。――途端、息を呑む音。

「………………あらま、ほんとみたいだね。わりわり、その、ほら髪が長かったもんでさ、つい。ちっ、どうも誤報だったみたいだな……」

 ゼスファーと対面を果たした〝女性〟は、肩口で揺れる白色混じりの金色の髪をくしゃくしゃと揉みながら、唇の間から覗く歯列を悪戯に光らせる。

 一方でゼスファーは目を閉じるか寄り目にして視界をぼやけさせたかった。現れた女性は研ぎ澄まされたその肉体に乱雑に布を――つまりは色々とぎりぎりで纏っており、それでいて平然としているのだから……すなわちそういう性格なのだろう。

「――っておい、よく見りゃあんたその血……」

 男性を匂わせる強く鮮麗とした(みどり)色の双眸がゼスファーの胸元を注視する。乾いてどす黒くなった血痕がべっとりと付いたままだったのだ。

「あ、いや、これはもうヴァイロに……」

「へぇ、(なお)せる程度で済んだのか。――よし、それじゃちょっと来なよ」

「は?」

「せめて自己紹介くらいさせてよ、な? ちょっとだけ! どうせ〝これからここで暮らす〟んだろ?」

 凛然とした風貌を構えるその女性は、ゼスファーをあまり男として認識していない――否、むしろその逆で己を女と認識していないようにも見える。ここまで男勝りな気性を持った女性にはどう対応していいものか、ゼスファーにはまったくの不明だった。おまけに新人だのここで暮らすだの、彼を完全に身内扱いにしようとしている。

「それは……まだわからないけど、じゃぁ、ちょっとだけなら」

 郷に入っては郷に従え。ひとまず反抗的な態度は鞘に納め、ゼスファーは保守的に素直に従う事にする。

「よしきた! こっちだ」

 ゼスファーは歓喜に飛び上がる女性に手を取られ、大人十名が余裕で入れそうなほどの浴槽に飛び込むようにして浸かった。

「――っぷは! どうだ? 気持ちいいだろ? このお湯はすぐそこを流れてるリベール川の水さ。栄養分たっぷりのな」

 ほのかな森の香り。それは木製の浴槽から湯気に絡まるようにして漂い、二人の鼻をくすぐる。溢れんばかりにたゆたう煌く湯は、痛んだ肉体を優しく撫でてくれているように柔らかい。ゼスファーは体が浸かっているというよりかは、心が丸ごと湯に浸かっているような感覚すら覚えた。

「あぁ……いい湯だ」

 思わず口に出る。その言葉に傍らの女性は満足げに笑った。

 ゼスファーの隣にいる人物といえば――さすがに胸元腰元は布で隠しているものの、女性が美妙な肢体を惜し気もなく伸ばしてくつろいでいるのだ。それはそれは男であればさり気無く目玉のみ動かすような絶景ではあるが、彼はそもそもその美しさよりも、よくよく見ると――不本意ながらだが、脚や腕に傷跡が多い事に気付く。

「疲れが食われてくだろ? 〝戦闘後〟はここですぐに回復さ。ところで、あたしはミナローサ・アルミリアってんだ。ミナって呼んで。あんた名前は?」

 聞かずとも早々と知れた傷の理由に戦々恐々しながら、ゼスファーも自己紹介をする。

「俺はゼスファー・レアミッド。本当なら昼過ぎに死んでたんだけど、ウァーレに助けられてここに来た。よろしく、ミナ」

「ゼスファーか、よろしくな。……ま、そりゃ幸運なこった。誰もが生きれるわけじゃない。ウァーレが〝右を向いたか左を向いたか〟だけの違いさ。――しっかしあんた……体はそこそこ上等な筋肉ついてるのに綺麗な顔してんなぁ……」

 ミナローサはそこで言葉を切って、ゼスファーの体の至る部分を観察するように順繰りに凝視し、それから素直な感想を述べる。

「よく女と間違えられないか? さっきみたいにさ」

 その質問にゼスファーは砂利を噛んだ時のような顔をした。

「それ、間違えられるのは一番嫌いなんだ……。でも、どこへ行っても必ず間違えられる」

 ミナローサの指摘通り、ゼスファーの筋力は仕事柄故に大の大人と渡り合えるほどにある。しかし根本的に大柄な体系ではない――さらに言えば細身よりである為、迫力が薄いといえばその通りであった。加えて彼の肩口にかかる濃い麦色の髪は男として長髪の部類に入るし、彼にとっては不運な事に、駄目押しの美男子である。背後から見ればではなく、下手すると正面から見ても光の具合によっては女性と間違えられる始末であった。

 だがどうも、大衆的な羨望の的になるはずのそれらがゼスファーはとことん気に食わなかった。〝幼い頃のトラウマ〟とは一般的な良し悪しさえも逆転させるのだ。

「おっと、そりゃさっきは悪かったな」

 素直に謝るミナローサに、ゼスファーはとんでもないと首を横に振る。

「悪いのはこっちだ。そりゃ間違えるだろうさ。〝男が入っちゃいけない時間〟だったみたいだから……」

「あー……いや、そういうのはないんだけどさ。おーいナティア、説明してやりなよ」

 ざばっ、と驚いたかのような水音が浴槽の端で鳴る。

「……はい」

 独特の空間の中でもはっきりと聞き取れるその声の主は、ようやく浴槽の端の方から姿を現した。その輪郭が公になった途端、ゼスファーは目を疑う。

「あれ……ラティア?」

 姿を現した少女はラティア・エテルラと瓜二つだったのだ。

 大人しく、こっそりと、湯気の間に覗く黒い瞳はまるで興味があれど警戒心の勝る小動物のよう。淡い小麦色の髪は長いのか襟巻きのようにして首に巻き、布で隠し切れぬ部分であらわになる美肌たるや、太陽が己の火力を疑うほどに清く白い。

 ゼスファーは一瞬、昔読んだ絵本の中の存在である〝妖精さん〟の姿を重ねた。確か小さく可憐で歌が上手くて――けれどこちらを覗いてくるだけで、人の前には決して姿を現そうとしない神秘たる存在。まさに少女はその通りだと言えた。

「い、いいえ。違います」

 ラティアをひと回り小柄に、胸周りを四、五回り控えめにしたような少女は、なるべく肌を隠そうと湯に深く浸かるのに必死になっていた。湯気が濃く漂う浴槽内でのその様相は、まるで生首がふわふわと浮いているかのようである。

「ラティアは私のお姉ちゃ――姉です。私は妹のナティア・エテルラ。よろしくお願いします、ゼスファーさん」

 声量は小さくもその玲瓏(れいろう)たる美声の聞き取り易さが勝り、ゼスファーは耳を澄ませなくともナティアの言葉を充分に聞き取る事が出来た。そして彼女は姿こそ隠してはいたものの、ゼスファーの名前はきちんと聞き取っていた。

「よろしく。ほんと……ごめん、なんか俺は入っちゃいけない時間だったみたいで……。〝チックが〟今は男が入れる時間って言ってたんだけど」

 減刑を目論んだゼスファーはチックの名前に力をこめた。我ながら酷い奴だと思いはしたが、今回ばかりは被害者としての自覚が十二分にある。

「……いえ、そのような規則はありません。入浴時間は個人の自由です。定刻を設けても任務によっては帰って来られるとは限りませんから……」

「ま、そういうこっちゃ。あいつはまた意地悪しやがって。さっきあいつとすれ違ったからな。あたしらがいるって分かってたんだろ。なに、一枚巻いておいてくれりゃ誰も気にしないよ。巻いてなきゃ体にもうひと穴加えてやるだけさ!」

 あっはっは、と楽しげに笑って、ミナローサは湯に拳を打った。――――まさか一瞬とはいえ水に綺麗な穴が開くところを見られるとは思ってもいなかったゼスファーであった。

「任務、か……」

 ゼスファーがぽつりと呟く。そういう言葉は……まだなるべく耳にしたくなかった。

「興味あるか?」

 ずい、とミナローサがゼスファーの側に寄る。

「神とやらを葬るんだろう? その為にいったいどんなことをしてるんだろうってさ」

 (むご)たらしい回答を予想しながらゼスファーが問うと、ミナローサはやや悔しげに首を振った。

「いや、〝あたしら一般人に神は殺せない〟よ。だからあたしらはその取り巻きを〝救う〟。助けるのさ。……まぁ、向こうは本気で殺しにかかってくるから難しいんだけどな。殺し合いに発展しちまったら神側(あっち)の思う壺だよ」

「……そう、か。それが目的なんだよな。その救うってのは、誰にでもできることなのか?」

「んぁー……加護は訓練と適正次第でどうにもなるっちゃなるが、それは相手も同じことだよ。ま、努力は必要だな」

「努力は――なんとかなるとしても命は……」

「そりゃ命かかるような場面もたまにあるけどさ、それを回避する鉄則がこの組織にはあるからな。相当な鈍間(のろま)か自殺願望がなきゃ死なないよ。今まで誰一人として死んでないし、殺しもしてない。それにあんたはもう体験済みだろ? 原形さえありゃうちの名医がちょちょいのちょいさ」

 ミナローサは朗らかに答えるも、ゼスファーはもうあれ以上の怪我は被りたくなかった。

「――おっと、ちょっとナティアがのぼせかけてるから、あたしらは先に失礼するよ」

 いつの間にか口元まで湯に浸かっていたナティアの瞳は虚ろになり、解けた髪が水面を優々と泳いでいた。あがろうとしたところでゼスファーの登場があった為、彼女は入浴を続行せざるをえなくなってしまっていたのだ。

「お、おい大丈夫なのか?」

「大丈夫。この子はしっかり者だから」

 それは性格的なものとかであって、身体的には違うんじゃないか、とゼスファー思ったが口には出さなかった。どう見てもミナローサは野外活動系だし、ナティアは室内活動専門に見える。

「運ぼうか?」

「いんや、こんくらい余裕だよ。じゃ、またな!」

 ミナローサはぐったりとしたナティアを、宣言通り軽々と抱えて浴場から撤収していった。

「ふぅー…………」

 思わぬ出来事に強張っていた筋肉が完全に弛緩し、思わず安堵のため息がこぼれる。思っていたよりも大事にならなかったし、むしろ組織のまだ見知らぬ人の口から直接話を聞けて少し安堵したほどだ。

(やっと一人になれたな……)

 ゼスファーは湯と感傷に浸りながら、広い空間の占有を満喫する。べつに一人になりたかったわけじゃないが、やっぱり他人がいると自分なりに落ち着けない。加えてあろう事かここにいたのは女性陣である。男として色々な意味で落ち着けない。

 浴槽のふちに両肘を乗せ、これでもかと天井を仰ぐ。もうもうと立ち昇る湯気は天井まで辿り着くと、形を崩して左右に広がり吸い込まれるようにして消えていく。その様子を見たゼスファーは、暗い森の中、何も無い所から湯気が立ち昇っていく景色を想像した。例の加護とやらによって他人からは建物、及びその屋内の物や人間が見えないと仮定すると、その加護の領域から脱したものは見えてしまうのではないだろうか、と。そうともなればそれは隠しているどころか、より目立ってしまうのではないだろうか?

 いったいあのチカラはどこまで融通が効くのだろう? そもそもあのチカラは何なのだろう? 現(よわい)十八、赤子の頃の記憶を除いたとしても十年強。ゼスファーは今まであのようなチカラは一度たりとも見た覚えがなかった。本日、全てにおいて初体験である。

(しっかしこんな所でのんびりと湯に浸かっていていいのか……?)

 次第に考えは煮詰まり、心身ともに完全に温まったところで執拗な眠気が遅い来る。だが今ここで寝ればとんでもなくおもしろい事態になってしまうに違いない。そう思ったゼスファーは意を決して立ち上がった。

「うぉぁっ!」

 充分に吸水して重みを増していた布が、腰から一気にずり落ちた。せっかく温まったのにまた鳥肌が立つ。幸い、見られては風穴開けられかねない人物は撤退済みではあるが……。

 ――――そう、孤独とは言うほど悲観的なものではない。孤独とは時に救いにもなるのだ。

 この名言を今度誰かに言ってやろうとほくそ笑んで、ゼスファーは浴槽をあとにした。


 ◇

 

 ゼスファーは肌寒い廊下を足早に歩き、ようやく部屋に辿り着いた。

「おっ、帰ってきたな」

 部屋では、リリーシアとチックがベッドの枠に腰掛けて楽しげに話し込んでいた。

「で、〝どうだった〟?」

 ゼスファーはチックのそのしたり顔を今すぐ金槌で叩いて延ばしたいとさえ思った。

「だましたろ……」

 むっと告げるとリリーシアがけらけらと笑い始める。どうやらチックの策略は彼女にも伝わっていたらしい。

「そう怒るなよー。お約束ってヤツだよ。お約束。どこでもあるだろ? そういうものってさ」

「…………」

 反論するのも馬鹿らしく――というよりかは眠気が勝り、ゼスファーはチックをリリーとの間に挟んでベッドに腰掛ける。

「で、誰かいた?」

「いたよ。ミナローサって人とナティアっていうラティアの妹」

「げ……よく生きてたな」

 わりと本気の危惧に近い焦り顔になるチックを尻目にゼスファーが盛大にあくびをかます。それを見たリリーシアが立ち上がる。

「よっし、じゃぁ次わたしお風呂行ってくるね」

「あぁ、いい湯だったよ」

「そんじゃおれはヴァイロのところに行ってくるから。明日はゆっくり寝てていいよー。おやすみ!」

 チックに挨拶を交わす余力なくして、ごにょごにょと呻きながらゼスファーは純白の柔らかな世界に飛び込み、眠りの姿勢についた。酷く、疲れている。

 きっと目が覚めたら、皿を洗って、パンケーキを食べて、それから仕事に向かう日が始まるんだろうと、夢の終わりを思わせぶりながら――――


 ◇


「ふん、ふん、ふーんっと。気持ちよかったなぁ。ただいま、あなた」

 ばたん、と扉が開き、入浴を終えたリリーシアが鼻歌交じりに部屋に戻ってきた。ただ部屋からは幼馴染――否、彼女にとっての夫の反応は無い。

「…………ほょ?」

 リリーシアはにわかに立ち上る白い湯気と借りた寝巻きを身に纏い、腰元まで直向きに足を伸ばす栗毛色の髪を艶やかに揺らしている。その様子はまるで一枚の美しい絵画のようで、質素たる部屋が彼女の登場で、あくまでもさり気無く華やぐ。

 どこか幼く、時に大人びて。その黄金の瞳と純粋無垢なる笑顔の対比は太陽と青空の関係に似ている。太陽の現るところに光が射すように、また誰もがその青空の恩恵にあやかれるように。彼女の登場はすなわちあらゆる曇天を晴天に変える。天の名を冠してもなんら不思議はないほどである。

 ――ところでリリーシアは化粧のひとつやお洒落のひとつを楽しんでみたい年頃にあった。現に彼女と同年代の知り合いは、とうにあれやこれやと身だしなみを改変し、試行錯誤の結果をちょっと離れた街の舞踏会で試してみたり――というのは話に聞くばかりで、彼女本人が実際どうこうしたというのは今まで一度たりともない。

 ……もとより、リリーシアに派手なイヤリングや絢爛たるドレスは不要だった。彼女の唯一の装身具――――その笑顔を前にしては、名立たる宝石さえいとも簡単に白旗を揚げるからだ。彼女がひとたび質素な庶民的服装で舞踏会に参じようものなら、入場を拒否されるどころか舞台中央で踊るよう急かさせるのは間違いなかった。

 外見を磨く云々よりも、まず夫の為に――少なくとも自分はそう思っているが、内面を磨かなければならない。と、リリーシアはゼスファーと二人で暮らし始めた時からそう心に決めていた。化粧が出来て、料理が出来ない妻がいるものか――無論、どちらとも出来れば良いに越したことはないが、だがしかし現状では料理の段階で(つまづ)いているところがなんとも悩ましいところでもある。

「…………あらら」

 耳を澄ましても聞こえてくるのは微かな寝息のみ。ベッドに近付いてよく見ると、そこには毛布もかけずに完全な眠りにつくゼスファーの姿があった。

 その疲れきった寝顔――いつもの寝顔に、リリーシアは思い出したように安堵の笑みを浮かべる。

「ありがとっ」

 リリーシアはゼスファーの耳元でそう囁いた。それには二つの意味があった。

 昼間、もしもゼスファーがリリーシアの手を取って逃げていなかった場合。あの家を真っ二つに切断した『神と永刻を頒つ者(ディヴィディオン)』の一撃によって、リリーシアの体もまた真っ二つになっていた事だろう。

 もうひとつは、つい先ほどの事だ。リリーシアが危険な事に首を突っ込むことをゼスファーは好ましく思っていない。それほど大事に思われているのか、単に足手まといになるからか。あるいはその双方かもしれない。だがどちらにせよ、それは自分の事を思っていてくれる事の他ならないのだ。

 それは、本当に幸せな事。けれどその幸せが、その日常が脅かされているというのはどうやら事実らしい。如何に究極的楽観主義な彼女であれ――〝生まれてこの方一度たりとも怒った事がない〟というある種の奇跡でさえ、どうにも看過出来ないものもある。そしてそれはつい先ほど耳にしてしまったのだ。

 故に、リリーシアは真実を耳にした瞬間から、既にゼスファーよりも素早い決断を済ませていた。組織は大陸を救うという。ならば――何も、思い悩む事はなかった。しいて言えば、ゼスファーの説得に一日くらい時間を費やす必要があるだろうなという所存があったくらいか。

「ふぇあ……」

 リリーシアは遠慮の欠片もない幼子のようなあくびをし、二段ベッドに立て掛けてある梯子に手を掛ける。が、その手はすぐに離された。

「あむぅ……」

 視線を床に向け、だめだめ、と首を左右に振る。それから親指を下唇に沿わせ、ふむ、とやけに凝った仕草で考えを巡らす。

 何を隠そうリリーシアは極度の高所恐怖症であった。こればかりは楽観的な性格ではどうにもならない身体側の問題であり、二段ベッドの上段程度の高さでも躊躇うほどの重症である。足がどうしようもなく震えてしまうのだ。それは〝空でも飛べる〟のならば克服出来たも同然なのだが、生憎と彼女には翼は生えていないし生える予定もまたない。

「うん。しょうがない」

 呟いて、リリーシアはゼスファーの眠る傍らに、照れる様子も見せずにさも同然と潜り込む。だがしかしそれを(とが)める者は既に夢の中。妻よりも先に眠った罰、よって一緒に眠る刑に処す――などなど彼女は愉快顔で勝手に断罪する。

 リリーシアが足元に畳んであった毛布を一枚広げて二人にかぶせると、数枚の白い羽毛が寝床に花を添えようとひらり舞う。その舞に笑いかけ、彼女もまた純白の柔らかさに身を沈める。

「おやすみなさい。良き夢をっ」

 さ、明日は私が先に起きてお皿を洗わなくちゃ――――


 ◇


 舞った羽毛が全て落ちる頃、歌う寝息は二人分。


 運命の歯車の一片が、この世のどこかでかちりと静かに噛み合った。

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