第零刻『刻の主』
ぎぃ――――――
鋼の扉が軋む音。重厚である筈のそれは、部屋の内部からする怪音に飲み込まれ、刹那のうちに畏縮し鳴り響く事を控えた。
カチカチカチカチカチ――――――
そんな機械的な音が絶え間無く、寸分の隙間も無く、乱れ無く、規則的に。部屋の中は鳴り止まぬ事をまるで知らない異音で満ちていた。
カチカチカチカチカチ――――――
音の正体は部屋の壁一面、高い天井にも隙間無く埋め込まれた〝時計〟であった。時計は各々ひとつずつ形が異なり、外装に絢爛な装飾が付いたものや、派手な色や地味な色の文字盤、加えて秒針の形が複雑な曲線を描いているものまである。それら意匠は人間のもつ多様な個性を具現化したかのようであり、どれひとつとして同じ姿は無かった。
数えるのも愚かしい程に連なる無数の時計が、常に奇怪な音色を奏でている部屋。時間は寂寞たる揺らぎの中を流れ、鳴り狂う時計の音に時軸までもがその角度を歪ませようとしている。まるでここだけ世界から切除されたかのように、極めて異質な空気が漂う空間。
そう、此処はあらゆる自然の理を超越した誰かの住まい。
――――此処には、〝神〟と〝時間〟のみが在る。
「失礼致します」
その神域内、大理石の床を這うように伸びるどす黒い血糊色に染まった絨毯の上に、純白の白装束を身に纏った男が足を踏み入れた。
この薄暗い中でも装束が揺れるたびに煌くその美装は、纏う者を一目で高位に位置する人物だと理解出来よう。そして、その男が纏っている装束の背面には、時計の文字盤を模した黒い紋章が描かれていた。……しかし不思議な事に、そこには時計の象徴である針がいずれも描かれていなかった――――。
そして、高位に位置するであろう男が軽々と膝を折り、装束を翻し絨毯に片膝をつけ、深々と頭を垂れた。
「報告に参りました…………っ」
男の吐く息は白く、静かに繰り返されるそれは絨毯に触れぬうちに自らの顔を撫で上がっていく。背骨を順繰りに這い上がってくるような身体的寒さからか、時計の織り成す異音が及ぼす精神的不安からか、あるいは最も根源的な畏怖からか。男の背筋はぞくり震え体の軸はぐらり傾斜する。
病的なまでに侵された空気は肺を漂い、鼓膜を執拗に穿つ時計の余響が纏わりついて離れない。瞳孔は暗がりのなかで光を得ようと広がるどころか、はっきりと迫り来る恐怖に畏縮する。各感覚器官がそれらの異常を報告せねばと脳髄へ駆け込み、殺到する悪報に男は否応無しの吐き気を覚えた。だがそれを理性の総動員によってかろうじて制し、無理矢理に姿勢を正す。
ただでさえ、ここでは立っているだけで〝何かを削り取られてゆく〟ような感覚を覚えるというのに――――。
「主よ、我々の理想を疎外しようと試みている者が大陸各地にいるとの噂が…………」
男の滑舌こそは整っていたものの、絶え入るような声色は時計の生み出す音に嘲笑うかのように害された。
「………………」
姿の見えない相手――――〝主〟はその報告をしかと聴き取ったのかどうか、男は判断のしようがなかった。
「わ、我々はどのように?」
だが男は主が聴き取ったものと仮定して、その場しのぎの対策を案じる。そう、出来る限り沈黙は避けたかったのだ。声を出していないうちは頭痛をきたす怪音が容赦なく耳に雪崩れ込んでくるが故に。
「………………何も」
かつん、という無機質な足音に混じり、同等の質を持った低い男声がする。
「………………しなくていい」
呟くような声に追従するかたちで、部屋の奥から濃い銀色の装束を纏った人物が現れた。途端、室内の空気がおぞましく変化する。無論、男はそれに顔を上げるわけにもいかず、頭を垂れた姿勢を頑なに維持した。
堂々たる闊歩。その足音には周囲の時計も縮こまってしまったかのように、音が止み、部屋全体に静謐の帳が降りる。
この部屋の主たる者が綽々と放つ威厳の度合いは、世界を均等に牽引する重力さえも蹂躙してしまうほど。男の体はあらゆる方向からの威厳の重力に圧搾され、危うく気を失いかねない状態にまで陥った。
もはや人ならざるモノが近づいてくるのを感じた男の体躯は恐怖から折れ、頭蓋の頂点は絨毯を擦った。全身を襲う豪然たる圧力に息遣いは荒くなり、体中を巡る血液は今にも沸騰せんとばかりに激しく波打つ。
「はっ……で、ですが主よ、す、既にその者達は行動――――を…………」
もはや息も絶え絶えに報告しようとする男を、主は寡黙なる視線を向けただけで制する。視線という見えぬ重圧に男は、声だけでなくその心音までもが凍てつきそうだった。――これ以上、口は開いてはいけない。
そこでようやく男は自分の失態に気付き、頭を下げたままずるずると後退し、謝罪の言葉も赦されぬまま逃げるようにして部屋を去っていった。
開け放されたままの扉と、その先で起こるであろう光景を推知し、主と呼ばれた者はそれをただ単に、嗤う。
「〝死に生き急ぐ者達〟よ。私は何刻でもその意を迎えようぞ」
時計の音が再び動き出す――――
◇◆◇
主に忠告をするなど、死んでもしてはならない行為だったというのに――――。
報告を〝無事〟に終えた男は、部屋の外で荒い息遣いのまま床に折れ崩れ、そのままの姿勢で懺悔をした。黒大理石の廊下の上に震える両膝を落ち着かせ、目を閉じて両手を胸の前で組む。
「……あぁ、我が主よ。浅はかなわたくしめをどうかお赦し下さい。――――否、この罪、〝我が刻〟を捧げて償う事を誓いますゆえ…………!」
呻きに近い宣告を終え、男は装束を翻したかと思うと、腰に携えていた短剣を小刻みに震える両手で引き抜き、刃を横にして一切の躊躇い無しに自分の胸元へと突き刺した。的確で確実な位置へと向けて。
「――がっ……は……あ……ぁああ……っ!」
廊下に喉を引き裂かんばかりの断末魔の叫びが木霊する。だがそれを聞きつけて駆け付ける者などいやしない。
幸か不幸か、刃はうまく骨を避けたものだった。幾重もの皮膚、幾層もの筋繊維、幾筋もの血管。それらを慈悲なく貫いたうえで、生の鼓動の起点を断割したその行為は、ずぶ、というひとつの鳴動となり、男の末世を厳かに告げた。
胸元に墓標が突き立てられたかのようにして、短剣は柄の部分まで深々と埋まり、生々しい傷跡からは辿るべき道を失った、まだ体内の温もりを保持している鮮血がなみなみと溢れ出す。やがてその液体は自然の摂理に従い黒大理石の上をぬめり滑っていく――――はずなのだが。
異様な事に、床に向って滴るはずの血液は、〝上へ上へ〟とまるで天に誘われているかのように気化されていく。胸元から止め処なく流出する血液は、しずくの一滴たりとも落とさず床を汚さない。
さらに、怪異はそれだけで終わらなかった。死して数分後もなお、男は両手で短剣の柄の部分を握ったまま相変わらず膝着きの姿勢を保っていたのだ。さすがに、死後の硬直現象と言うには早過ぎる。
そんな死体の異常は装束の隙間から覗く男の足首が物語っていた。本来であるならばまだ血色の良い肌色をしているはずが――――〝黒色〟に、変色している。
そう、例えるならば石造といったところであり、男は今まさにそれへと成り果てようとしていたのだ。変貌は男の生命活動が停止した瞬間から始まっていたらしく、足先から順に、今しがた首筋を変色させ、そして顔全体、最後には灰色がかった頭髪その全てを黒色へと変えてしまった。
――――やがて、それは廊下を無邪気に走る事情の知らない風に吹かれ、未練の余韻に浸れるわけでもなく、儚げに崩れ舞う灰のごとく早々と散っていった。
◇◆◇
主の声が響く。
「…………また、刻が延びたか」
そう知れたのは、部屋の壁の一角に周囲の時計を押しのけて〝ひとつの時計が現れた〟からだった。その時計の外装に、先程の男が纏っていた装束と同じ白色の装飾が施されているところ、時計と男の間にはなにかしらの因果が成立していると見ていいだろう。
新たに現れた時計はかちりかちりと秒針を踊らせながら、いつ鳴り止む事を赦されるか分からぬ〝刻〟を、列を成す数多の時計と共に刻み始める。
それを見届けた銀色の装束に身を包んだ人物は、両手を背後で組みながら緩慢な動作で部屋内を歩み始めた。視線は左右の壁から天井へ、無数に並んだ時計をさも満足げに眺めながら。
その人物が向かった先は細長い部屋の最奥だった。そこには場違いな純白の大理石で造られた祭壇が腰を据えていて、その上には豪勢な木枠にはめ込まれた巨大な砂時計がひとつ置かれていた。
砂時計の大きさは大人が見上げてしまう程もあり、赤く透き通る血の滴のような砂粒を、時計の奏でる音に合わせて下へ下へと降らせている。極めて細いくびれを隔てた上部にはまだ九割以上あり、下部はまだ砂粒を目視するのが難しい。
黙々と深紅の砂粒を落としていく砂時計を見ながら、『神』は深く長く感嘆のため息をつく。祭壇の上に鎮座する蠱惑的な輝きを魅せるそれは、まるで持ち主の意に首肯の微笑を浮べているかのようだった。
そして、神は両手を翼のように広げ、砂時計を抱くような仕草を以ってして、今此処にひとつの宣告をする。
「――――さぁ、再び創めようではないか。私に『永久の刻』を。故に『万死の開闢』を」