出来る人と出来ない人
ほんのちょっとしたことで、彼への想いも、長かった髪も断つことは出来たのだ。
それをしなかったのはただ名残惜しかっただけ。
今ではもう長かった髪の面影はどこにもない。
彼への想いもまた同じ。
でももし、この髪が前よりも長くなったのなら、その時私は前よりも彼のことが好きになっていると思う。
――ねぇ、修ちゃん。
◆ ◆ ◆
こんな田舎の村で時の流れを感じる方法は、それが一年であれ十年であれ、人の顔を見て判断する他ない。
見知った顔がすっかり老け込んでいれば、移り変わった季節は一体どの位であったのだろう。
時にはもう一度会う事なく、この村の土に還ってしまう人もいる。その時は過ぎ去っていった日々を嘆くより、この地を離れていた事に後悔したりもする。
小さな村だから、そこに住んでいる人の顔は皆が皆互いに知っていて、その顔に表れる時の流れは人によって大きく異なる。
そしてその時、僕は時の流れが一様でないと確信するのだ。
舗装されていない道の上を並んで歩く二人の影は照りつける陽の光によってはっきりと地に映し出されていた。その光は日頃の雨雲で地上を照らせなかったのを補うかのように、激しく二人を照りつけている。いかに山奥とはいえ気温が低いわけでもなく、逆に太陽が近づいた為かかえって暑さが増している。
「この先にある神社で式が行われるって話だよ、伊予ちゃん」
並んで歩いていた内の一人が隣の少女に向って声をかけた。伊予と呼ばれた少女と話しかけた青年とは背が離れており、青年は少々見下ろす形で少女に話しかけている。
二人は互いに手を取り合い並んで歩いている。ただ互いの背の関係上、少女は手を上にあげなければならない。青年と繋ぐその手とそこから見える腕には大きな傷がいくつもあった。
それでも二人は手を離す事などしなかった。
「この村から結婚する人が出るのは……六年ぶりかな。その時の事はさすがに伊予ちゃんは覚えていないよね。」
青年は少女の返事を聞かず、一人淡々と話を進めている。もしこの場に少女がいなかったら、青年は一体どう見られるのであろうか。少女の方も青年の話に相槌を打つ事なく、青年と並んで歩くだけである。
二 人の歩幅が違うにもかかわらず、少女が躓く様子がないのは青年が少女に合わせて歩んでいるに違いない。
二人はゆっくりとしかし着実に目的地である神社に向って歩みを進めている。
そ の間、少女は一度たりとも口を開く事はなかった。
二人は照りつける陽の光を背中に受けながら、とある場所で歩みを止めた。場所は目的の神社の前にある石造りの階段。段数は優に百を超えており、一段あたりの高さも通常の倍ほどもある。少女が自力で登るにはかなり不都合であった。
「どうしよう……。伊予ちゃん、僕がおぶろうか」
青年の申し出に少女はほんの少しだけ首を横に振った。その拍子に少女の長い髪が左右に振れる。その動作がなければ、少女は人形と見間違えるほど動きに欠けていた。
「……わかった。じゃあ、ゆっくり登ろうね」
青年は少女の意見を尊重し、並んで階段を登っていく。
ここに来るまで一人で勝手に喋っていた青年もさすがにその口を閉ざした。とたんに、辺りに響く音は一つもなくなった。青年も少女もその事に気付きもせず、一心に階段を登っている。
照りつける太陽は疲れを知らず、空にあり続ける。
どの位経っただろうか、二人はやっとの思いで階段を登り切り、神社の境内に足を踏み入れた。が、二人はまた歩みを止め、そこに立ちつくした。
青年の顔には先程の運動とは別の冷えきった汗が流れていた。少女は青年と繋いだ手をさらに強く握り締めた。
二人の眼前には白い鳩が群がっていた。
そしてそれらは全て翼を広げ、地面に突っ伏していた。
境内に敷き詰められた石畳は全て鳩に覆われ、その姿を見る事は出来ない。
鳩の白さは花嫁の着る着物の白にとてもよく似ていた。
青年の顔を見た者は、いつの間にこんなにも時が経ったのだろうと心に思い描く。それ程までに、青年の顔は生気に欠けていた。
二人が鳩の死骸を見つけた後、物事は二人を置いてどんどん流れていった。
二人は境内に立ち尽くしていた。
そこに神主が現れた。
神主は驚き、そして人を呼びに行った。
農作業をしていた村人が来た。
遊んでいた子供が来た。
家にいた老人が来た。
村役場の人が来た。
二人は境内に立ち尽くしていた。
皆が皆もっと人を呼びに行った。
働きに出ていた大人が帰って来た。
駐在所の警官もやって来た。
隣の村からも人が来た。
二人は境内に立ち尽くしていた。
保健所の職員が来た。
県の役人もやって来た。
二人はいつまでも境内に立ち尽くしていた。
――結局何もわからなかった。
ただ、予定されていた式は後日に延期となった。いつになるかはまだ決まっていない。
青年と少女はまたも二人手を繋いで歩いていく。ただし今回は行き先が違った。二人は道を下っていく。目的の場所へ向けて。
「……アキさん、大丈夫かな」
青年は少女に問いかけるでもなく、まるで自分に言い聞かせるように言葉をはき出した。少女も相変わらず口を閉ざしたまま歩みを続ける。その顔は以前よりも血色が悪くなっていた。
この後、青年が淡々と独り言を呟きながらも二人は道を下っていく。目的の花嫁のいる家へ向けて。
「こんにちは、アキさん」
引き戸を手で叩き、外から家の中へ声をかける。すると青年は躊躇いもなく戸を開け、屋内に入り込んだ。少女もそれに続く。青年と手を繋いでいるためだ。
しばらくすると、家の奥から一人の女性が現れた。見かけは二十四、五で色白の肌にやつれた頬をしており、体は背丈にそぐわぬほどやせ細っていた。
女性――花嫁は、やってきた二人に一生懸命微笑みかけた。
「こんにちは、修くん。久しぶりね。伊予ちゃんもよく来てくれたわ」
血色の欠けた頬にやつれた微笑を浮かべた女性の顔はあまり見れたものではなかった。
二人は家の奥へと通され、しばしの談笑を楽しんだ。通された部屋には陽の光が差し込んでおり、屋外とさして変わらぬ状態であった。
二人は特に目的があってここに来たのではない。しかし、しいて上げるなら一つだけ目的となりうるものがあった。
ただ青年は花嫁にどう尋ねるべきか悩んでいた。青年は花嫁の顔を見つめたかと思うと下へうつむき、隣の少女に助けを求める様な目をなげかけた。その間少女は黙々と煎餅を食べ続けた。
花嫁は青年の様子を見つめ、そして落ち着いた声で口を開いた。
「神社の事について聞きたいんでしょう」
青年は顔を上げ花嫁の顔を見つめ返し、少々躊躇ながらも花嫁の言葉にうなずいた。
「……アキさんはどうして鳩があんな事になったか知っていますか」
室内であるにも関わらず差し込む陽の光はまぶしく、青年と少女を照らしつける。ただ、二人の向かいに座っている花嫁の顔は逆光によって表情がつかみにくい。
「……ごめんなさい、私もよく知らないの。神社からは式を延長したいという話しか伝わらなかったし、 近所の人も気をつかってか何も言ってくれないし、それに元々私は情報に疎いから……」
花嫁はうつむきがちに言葉をはき出した。
「元々あの神社に白い鳩が多くいるから、あの神社で式を挙げようと思ったのに……。彼に我侭言って私の地元で式を挙げてもらうようにして、ううん、別に彼は自分の地元が良いって言った訳ではなかったのよ。でもね、ほらやっぱり彼だって自分の地元で、って思うじゃない。なのに、なのにね……」
「アキさんが結婚する人ってどんな方なんですか」
青年は花嫁の様子からこれ以上聞かない方が良いと判断し、話題を変えた。二人が話している間、少女は一言たりとも口を開いたりはしなかった。ただ、煎餅をほおばり続けた。
「……そうね、一言で言えば優しい人かな。」
花嫁は少しずつ相手――花婿について話し始めた。
相手は背が高く、優しい目をしている事。隣の県に住んでいる事。相手の住む村はここと同じくらい小さな村で、冬にはたくさん雪が降る事。農業をしており、村の作物の出荷の全てを担っている事。年は二つ上であり、見合い結婚である事。両親は既に亡くなっており、兄弟もいない事。
「そんな人だから……」
花嫁は話しながらも段々うつむき始め、しまいには唇を噛み締めて話を打ち切ってしまった。
二人は相槌を打つ事も出来ず、花嫁の話に聞き入っていた。始めに出されたお茶は冷えきっており、差し込む陽の光は新たな光を含み始めていた。
暖かい逆光の中、花嫁の頬には一つだけ流れていくものがあった。それはとても美しく輝いていた。
しかし、美しいものが必ず良いとは限らない。
その後はまた他愛もない話をし、少女は煎餅を食べ続けた。花嫁の顔からは先程までのかげりもなくなり、少しだけ笑みを取り戻したようだった。
それからしばらくして二人は日が暮れた事もあり、花嫁の家を後にした。
二人はそれから毎日のように神社を訪れた。特に何がわかるわけでも、わかったわけでもなく、それが日課となりつつあった。
そしてある時、二人が神社を訪れると一人の先客がいた。境内に一人たたずみ空を見上げていた先客――花嫁はこちらに気付く事もなく、ずっと空を眺め続けている。花嫁は黒一色のワンピースを身にまとい、 手には緑のラベルが貼られたビンを握り締めていた。
「アキさん!聞きましたよ、結婚式の日取りが決まったそうですね。おめでとうございます」
青年は花嫁の方へ近づきだし、またもや一人勝手に話を進めた。
「一事はどうなる事かと思いましたけど、無事に決まってよかったですね。アキさんの希望も通ったわけですし。まあちょっと季節が変わってしまいますけどね」
青年は一人で話し続ける。少女も相変わらず返事をする事ない。花嫁は一言も口を開かず、上を仰いでいた顔を青年の方へ移した。花嫁は青年の顔を見つめ、そしてまた空を見上げた。
「そんな人だから……」
「お話に聞いたとおりの方らしいですね。皆もそう言っていましたよ。誠実で礼儀正しくて年上の人への配慮もあるそうじゃないですか」
青年は花嫁の言葉を遮り、自分の思いをつらつら述べる。それは話しかけているというよりも、自分の思いを口にする事でそれを確認しているようだった。
日は西へ傾き、ちょうど花嫁の後ろにあった。そのために青年は花嫁の表情を読み取る事が出来なかった。隣に立っていた少女は一言も喋る事もなく、花嫁の顔をじっと見つめていた。
花嫁は空を仰いでいた顔をもう一度青年の方へ向け、先程と同じ言葉を口にした。
「……そんな人だから、断る事が出来なかったのよ!」
一人で話し続けていた青年の声を、花嫁はまた同じ声というもので遮った。青年は花嫁の声量により話を中断させられたが、その後は花嫁の言い放った内容に言葉を失った。
「……アキさんそれってどういう――」
やっとの思いで言葉を吐き出した青年は逆光の中にたたずむ花嫁の顔に明らかな怒りの表情を見出した。
「言い人だから断れなかったのよ!少しでも欠点があったなら、そこに難癖つけて破談にするつもりだったわ。欠点がなくても、たいした長所がないのなら断る余地だってあったのに!なのに、なのに……、なんで非の打ち所のない様な奴が私の所に転がり込んでくるのよ!何でこんな小さな同じ村の奴の所に嫁がなくちゃいけないの。なんで私の人生をこんな息苦しい小さな村で終えなくちゃいけないのよ!」
花嫁は小さい体で一息にまくしたてた。誰に言うでもなく、今まで自分の中に溜めこんでいたものを吐き出すように大声で叫んだ。青年は花嫁の発言に驚きをあらわにした。しかし少女は身じろぎもせず花嫁を見つめ続けていた。
花嫁は再び空を見上げ、そして青年の顔を見つめ直し言葉を続けた。彼女の見上げた方向とは正反対に太陽はあり続けた。
「修くん、あなたにはわからないでしょうね。あなたは東京へ出て、その後そこで就職して住み着いて結婚して……、二度とここへ戻る事ないでしょうね。そんなあなたに私の気持ちなんか、こんな場所で死ぬしかない私の気持ちなんかわかるものか!私はこんな村早く出てしまいたいのよ。早く広い町へ、東京へ出たいのよ!少しでも結婚するのを遅らせて、その間に断ろうとしたのに……、周りが勝手に話を進めて、気が付いたら結婚ですって!何でそんなお節介をするのよ。私の人生を勝手に決め付けるな。私はこんな村で人生を終わらせたりなんかしない。あと少し時間があれば、周りの邪魔なんかなければ断れたのに!だから、結婚式を遅らせるしかなかったのよ」
花嫁の顔には鮮やかな笑いがこぼれていた。それは今までで一番生き生きとした花嫁の表情であった。
「そうすれば時間が出来るでしょう。その間に破談にしようとしたのに、なんですぐに式の日時が決まるのよ。なんで鳩が死んだ神社で式を挙げる事に決まったのよ!」
隣にいる少女は何一つ動く事なく花嫁を見つめ続けていた。
畳み掛けるような花嫁の発言に驚きながらも、青年は一つだけ花嫁に尋ねた。
「……鳩を、ここの鳩を殺したのはアキさん、あなたなのですか」
青年は徐々に冷静さを取り戻していった。対して花嫁は今まで以上に嬉々とした声でそれに応じた。
「そうよ、私が殺したのよ。だってそれが一番じゃない。鳩が死んだ不吉な神社で式を挙げようなんて、 一体誰が考えるの。ここの人は皆狂っているわね。」
花嫁は声を上げて笑った。その声はどこまでも、どこまでも響いていった。花嫁は手にしたビンを眼前に上げ、青年を挑発するように左右に振った。
「この薬を餌に混ぜたのよ、このビンに詰まった薬をね。面白かったわ。だって餌を食べた鳩は踊り狂ってどんどん死んでいったのですもの。まさか鳩の絨毯が出来上がるとは思わなかったけれどね!」
青年はその答えを聞くと、花嫁を見る事もなく少女の手を引いて神社を後にしようとした。その背中に 花嫁の声がかかる。もう、あの落ち着いた声色はどこにもない。
「どうせあなたは二度とここには戻らないさ。そしてこの村の事なんか忘れて幸せになるのだろうね。あぁ、お幸せにね。あなたは出来る子だものね。あんたにはこんなちんけな村より、広い広い町の方が、東京の方がお似合いさ!」
青年は花嫁の言葉を無視し、もと来た道を戻り始める。しかし青年は戻る事が出来なかった。少女が動こうとしなかったのだ。
「……伊予ちゃん、どうしたの」
青年の問いかけに少女は答える事はなかった。そして追い討ちをかける様に花嫁が言葉を続ける。
「伊予ちゃん。あなたには私の気持ちがわかるよね。あなたも私と同じ出来損ないだよ。この村から動く事なんか出来ないのさ。あなたの大好きな修くんは出来る子だからね、あなたなんか忘れちゃって二度とこんな村には戻らないさ。伊予ちゃん、あなたはどうせ捨てられるのさ!」
青年は花嫁の最後の言葉に激怒し、花嫁の方へ足先を変えた。しかし、その時には少女は花嫁の方へと走り出していた。少女は青年と繋いでいた手を躊躇いもなく振り払ったのだ。
唖然とする青年をしり目に、花嫁の隣へとたどり着いた少女はか細い声で喋り始め、その声は徐々に大きくなっていった。
「修ちゃんは……私を捨てていく。修ちゃんは……私を忘れていく。私は……どうせいらない子。修ちゃんは出来る子だから、もうここへは戻らない。修ちゃんは二度とこの村には戻らない。……修ちゃんも、私を捨てるんだ!」
少女の体からは想像出来ない程大きな声が辺りに響いていた。少女の顔は一息に言葉を吐き出した事により、赤く上気していた。ただ、少女の瞳は乾いており、そこには何も映ってはいなかった。
青年は少女の言葉を聞くと、花嫁へ向けた足をそのまま進め始めた。その姿は誰も遮る事が出来ない様な凄みを帯びていた。一歩、また一歩と歩みを進める青年の様子に花嫁は後ずさりをした。しかし、青年の瞳は何人もこの場から逃がす事を許してはいなかった。
花嫁と少女の前で立ち止まった青年は目の前の二人に向って言い放った。
「僕はこの町が好きだよ。ここにずっといるつもりさ」
青年はそう言って、花嫁が握っていた緑のビンを奪い取った。青年はそのビンの蓋を開け、花嫁へ向って言葉を投げかけた。
「町は……広くても、何もありませんよ」
青年はそう言って、目の前で固まっている花嫁を無視して隣にいる少女の方へ向き直した。
「伊予ちゃん、僕は君を捨てないよ。僕は君を愛しているよ。だから……またね、伊予ちゃん」
青年は少女に微笑みかけ、そしてビンの中身を全て飲み干した。
「愛してるよ、伊予ちゃん」
そう言って、青年はその場に倒れ込んだ。
青年の顔にはいつもと変わらない笑みがあり続けていた。
◆ ◆ ◆
今、私は修ちゃんよりも年上になったよ。
以前の面影はもうほとんどなくなっちゃった。でも、まだ修ちゃんの方が背は高いんだよ。
今の私は、昔の私と全然違うんだ。
それでも、修ちゃんは私のことを前と同じあの声で呼んでくれるよね。
――ねぇ、修ちゃん。
―終―
各登場人物の名前の後ろに『カン』とつけると、別の名前になります。
修くん ⇒ 週刊
伊予ちゃん ⇒ 伊予柑
アキさん ⇒ 空き缶
こんな小細工が大好きです。ごめんなさい。
過去の作品を再掲しております。発表時とは名義・表現・タイトルが異なっております。