糸渡り
北斗星君は、現在では北極星と呼ばれている天の玉座にこしかけて、Y氏のたましいを迎えた。
Y氏は、悪人である。目の玉の飛び出るような悪事は働いていないが、こつこつ堅実にせこい悪事を積み重ね、地獄行きの判決がほぼ確定している。
北斗星君は、透明の衣を身にまとい、顔中がしわで隠れてしまうような老人の姿をしていた。Y氏は、恐れて平伏していた。
「面を上げい」
重々しい声で北斗星君が語りかけると、Y氏はためらったのちに、おそるおそる顔を上げた。小男の顔は蒼白になっていた。
「汝は生前、一千万回にもわたって下らぬ罪を積み重ねたな。それらはすべて三尸によってわしに伝えられておる。ここで罪状を読み上げることは省き判決を下す」
「地獄行き」
Y氏の顔が紙のように白くなった。
「と、言いたいところであるが。わしのもとに、阿弥陀如来から汝を極楽へ引き渡すようにとの要請が来ておる。なんでも汝は、生涯のうちに一度だけ、南無阿弥陀仏ととなえたことがあったそうではないか」
声はなかったが、Y氏の顔が少しだけ血の気を取り戻した。
「実のところ、法と秩序を重んずる身としては迷惑でならぬ話だが、仏直々の頼みとあれば無碍にいたすわけにもゆかぬ。さらに」
と北斗星君は言葉を続ける。
「汝は生涯のうちに一度だけ、蜘蛛を殺さずに見逃してやったことがあろう。それも、無視することはできぬ」
Y氏の顔には、希望が戻りつつあった。
「よって、斯様にいたす」
北斗星君は、Y氏に背後を見るよう手で促した。Y氏が振り返ると、そこには、真っ暗な闇と、遙か先にわずかに見える清らかな光と、その光に通じる糸のように細い線があった。
「下は地獄じゃ。そして、それに見える光は、阿弥陀如来の極楽の光。汝はこれより、蜘蛛の糸を綱渡りにわたって、極楽にゆくのじゃ。失敗すれば無論のこと」
地獄に堕ちる。Y氏はごくり、と生唾を飲み込み、ふたたび振り返ったが、もう北斗星君も、彼のこしかけていた玉座も、そこにはなかった。
Y氏は覚悟を決めると、白い光の線としか見えない蜘蛛の糸に、はだしの足をのせた。糸が、足の肉にぎりぎりと食い込み、Y氏は激痛に悲鳴を上げた。
極楽はまだまだ遠い。
不思議に、バランスを崩すようなことはなかった。蜘蛛の糸も、見た目の頼りなさに反して丈夫で、切れる気配はなかった。
一歩踏みしめるたびに、Y氏の犯したつまらない罪が脳裏によぎった。中学生の頃に万引きをしたこと、高校生のころにかつ上げをしたこと、鞄をひったくったこと、空き巣に入ったこと、詐欺を働こうとして失敗したこと。
足の痛みから気を逸らそうと、Y氏は下の様子を伺った。針の山とか血の池とか言う割に、地獄へ続く闇は恐ろしく静かだった。
一見して何もないようだが、何かと目があったような気持ちにとらわれて、Y氏はあわてて目をそらした。
極楽はまだ遠い。
足の裏の皮が裂け、むき出しになった肉を、糸がきりきりとえぐる。血がしたたり、糸を伝って、Y氏の通ったあとは、赤く細い線が続いている。
Y氏はあまりの痛みに、長いうめき声をあげた。それでも、歩みは止めなかった。
極楽は遠い。
ついに糸が肉を切り裂き、足首のあたりにまで上がってきた。もはやY氏は、脚の肉で糸を挟んでいるようなものであった。だが、ただ極楽に行きたい一心で、否、地獄に堕ちたくない一心で、Y氏は歩みを続けた。
Y氏の頭には、延々と、生前の罪がよぎりさってゆく。自分でも驚くほど、それらは生彩に思い出された。
極楽はもう遠くない。
希望の光と、涼風とがY氏の頬をなで、わずかな希望が彼を奮い立たせる。糸はふくらはぎに達し、ほとんど大腿の力だけで動いている。脚は半ば、二つに裂けているのであった。
Y氏は諦めなかった。瞳には、生前はついぞ見せることのなかった意志の光が宿っているらしかった。
極楽はあと少し。
糸は膝を割り、大腿の骨に食い込んでいる。
痛み、というものとはもはや違う。それは単なる熱として知覚された。歩くのではなく、血塗れの糸の上を、上半身を引きずるようにして、粘液の代わりに肉片と血液とをのこす凄惨なカタツムリのようになって、Y氏は歩み続ける。罪も、だんだん思い出せなくなってきた。
極楽まで、あと一歩。
もはや上半身も糸につけ、腕と側体を切り裂かれながら、Y氏は這った。片目はつぶれ、頬は骨まで裂けて、髄が見え隠れしている。そうして。
Y氏はようやくの思いで、光の中にたどり着いた。
暖かな光がふりそそぎ、Y氏の肉体は、一陣の涼風とともに癒された。切り裂かれ、垂れ下がる肉片と化していた脚はふたたび大地を踏みしめ、片目は丸さを取り戻し、頬はふさがり、腕も十全となった。
解放感に息をつくY氏は、頭上から降りかかる厳かな声を聞いた。
「常識を持って考えれば」
Y氏ははるかな上空をふりあおいだ。
「蜘蛛を一匹助けた程度で、罪が帳消しになるはずもない」
「南無阿弥陀仏と一度唱えた程度で、如来が天帝を説得できるはずもない」
そう聞こえたと思ったら、周囲の様相は一変していた。
赤黒い肌や青黒い肌をした鬼たちが、ずらりとY氏を取り囲んで立っていた。
「は、話が違うぞ!」
「愚か者め、嘘に決まっておろうが。わしは、60年にわたってきさまの下らん罪を延々一千万回聞かされ、ほとほとうんざりしておったのだ。それだけで地獄行き確定じゃ。たとえ天地が蒸発しても、きさまだけは絶対に逃がさん。この等活地獄で、十億年苦しむがよいわ。わはははははは!」
北斗星君の哄笑が響きわたる。
鬼たちがじりじりとY氏にせまった。
こうして、Y氏は全く常識通りの判決を受けたのだった。