中二病
体育館の舞台の上、大時計の真下の壁に『死ね』と何度も書いた。
進まない時計を確認しながら、見えない文字で何度も殴り書きのように『死ね』と書き続ける。
卒業式の予行演習が始まった今朝から、ずっと。
「心強い先輩に指導を受け!」
遠くで誰かが立ち上がり、声をあげる。
「頼れる後輩の手を借りながら」
答辞と送辞。
卒業生と在校生が全員で一言ずつ言葉を紡ぎながら、三年間の思い出や先生への感謝を綴っていくのだ。
もし『死ね』なんて文字が突然浮かび上がったら、こんな退屈で抑圧された卒業練習は中止になるだろう。
また声が上がる。
「初めての校外学習!」
「最後の校外学習を」
起立、話す、着席
今は三年生と一年生の掛け合いだ。
私たち二年の順番は、一年が全員言い終わった後。順番はまだまだ先。
それまでずっと憂鬱な気持ちで聞き続けないといけない。
いや、楽しみに自分の順番を今か今かと、わくわくした気持ちで待っている子も居るかもしれない。でも、それは私じゃない。
自分の番が来れば速やかに席を立ち、大きな声で送辞を述べる。たったそれだけの事がこんなにも背筋を真っ直ぐにさせるなんて。
卒業式の前に練習なんてしないで、ぶっつけ本番でやれば一度で終わるのに。
失敗があったとしても、それが思い出になる。なんて思うのは言い分けなのかな。
だってハプニングがあった方が忘れないから。
今、この体育館には百人を超える人間がいると思えない。しんと静寂に包まれ、順序の良い起立と着席の音、そして生徒の抑揚の無い声だけが不気味に響いていた。お腹の音が鳴っただけで、きっとこの場に居る全員に聞かれてしまうのだ。そう思うと、ぎゅっと胃が痛くなる。
春と呼ぶには早い二月最後の日。冷え込んだ体育館は足元から冷気がやってくる。
震えているのは寒さからなのか、緊張のせいか。はたまたその両方なのか分からなかった。
「ちーちゃん、寒くない?私、眠くなっちゃった。でも寝たら死んじゃいそうだよね。寒くて」
隣で座っている岡ちゃんが肩を揺すりながら話しかけてくる。私が手をすり合わせているのが目に入ったのだろう。
岡ちゃんは言いたい事をぽんぽん言う。そして一人で笑う。
私の書いた『死ね』は岡ちゃんには『凍死』なのかもしれない。
私も「寒いね」と、正面を向いたまま小声で答える。
話しかけないで。
その本音は岡ちゃんには言えない。だから、曖昧に頷く。
順番が来て立ち上がり、大きな声でセリフを喋る事より、本音を主張する事の方が難しいかもしれない。 女の子って大変なんだ。
「早く終わらないかなぁ、飽きるよね」
岡ちゃんは私の気持ちを察してはくれず、おしゃべりを続ける。
全員に一フレーズの割り振りがあるせいか、普段はざわついている男子も今日は緊張感を持って静かに順番待ちをしているのに。岡ちゃんは空気が読めない。
もしかしたら岡ちゃんは自分の番が楽しみで、私の緊張感と憂鬱さが分からないんだ。
きっと、私とは別の星の生き物。
「ご卒業おめでとうございます」
「夢にくじけそうになったら、いつでも頼ってください」
一年と三年の掛け合いが終わり、いよいよ二年。私たちの順番が来る。
出席番号はあいうえお順。男女交互に進み私、加納千秋は15番目。隣の岡ちゃんは岡田だから13番目。それでも一番最後の三組だからまだまだ先だ。
「私たち二年生は心から門出をお祝いします」
去年同じクラスだった一組の阿部君が二年生の先頭を切って立ち上がった。
もし私が阿部君だったら。そう、思うだけで胸が締め付けられた。
三年生は二順目に入る。三年一組の出席番号一番が立ち上がった。
来年の自分を思うと、今から溜息が漏れた。通路を挟んで隣に座る一年生の気の抜けた様子が目に入る。
去年の私たちはどうだったろうか。経験したはずの去年の事と、まだ知らない来年とが同じように思い浮かばない。
私は去年も酷く緊張していたから、緊張のしすぎて忘れちゃったのかな。
今日と本番を無事に終えれば今の緊張も忘れてしまうはずだ。
……これからは最上級生としての自覚をもって。
これが私の台詞。
何回も繰り返し練習している。
たった、この一行に数日前から悩まされているなんて、なんて馬鹿らしいんだろう!
死刑を待つ囚人はこんな気持ちに違いない。どれだけ祈りを捧げても死は確実に順番に訪れる。
私は罪を犯していないのに、殺される。
私の書いた、見えない『死ね』はきっと体育館からのメッセージだ。
悪あがきせず諦めて死ね。
逃れることの出来ない罰ゲーム。
『死ね』『死ね』『死ね』『死ね』
急に去年の、一年生の春に受けた予防接種の事を思い出した。
小学生から中学生になり、今と比べればまるきり子供のような私達は、保健室の外廊下に一列に並び、これから注射針で刺される予定の腕をさすりながら待っていた。
また一人また一人と保健室の中に消え、列は短くなっていく。
消毒綿を腕に抑え付けながら戻ってくるクラスメイトに「痛かった?」「すぐ終わる?」と声をかけるが注射からは逃れられるものではなかった。
ああ、いよいよ私の番だ。覚悟を決め注射器を持つ先生の前に左腕を差し出す。
消毒液が容赦なく擦り付けられ、冷やりと気化していくのと同じように、自分の気も一緒に遠くなって注射針が皮膚を破る前に--
私は倒れたのだ。
「先輩方は常に私たちの模範でした」
「伝統と新たなる創造を繋げて行くのは在校生の皆さんです」
いつの間にか一組の渡辺さんが着席していた。
一組が終われば私の番まで、後は僅か74番目。
ここで中止にならないかな。
急に進みの早くなった時計を見上げ、また『死ね』を思い浮かべる。
『死ね』ではなく『死ぬ』なのかもしれない。
ねぇ、お願い。誰か助けて、私には耐えられないよ。
30人足らずの教室でさえ、手を上げて自分の意見を述べる事も出来ないのに!
こんな大勢の前で声をあげるなんて出来ない。
もし、立ち上がってから声が出なかったら?セリフを忘れてしまったら?
今まで誰も失敗していないのに、私だけが失敗してしまったら?
予防接種の時のように倒れてみるのはどうだろう。でもそれでは、注目を浴びてもっと恥かしい。
ドキンと心臓が早くなる。
静かな体育館に、私の心臓の音が聞こえそうな位高鳴る。
呼吸が浅くなっているのが自分でも分かった。
時間は容赦なく進んでいく。
ふと、二階の窓を見上げる。陽を遮光している黒いカーテンが僅かに揺れていた。
どこかから風が入っているのだろうか。
もし、誰かが潜んでいるのだとしたら私の順番が来る前に暗殺者のよう飛び出して、私をさらって消えて欲しい。
バスケットゴールを足場にすれば私の座るこの席まで五メートル。そう遠くは無いのだから。
天井の水銀灯が落ちてくればこの練習も卒業式も中止になるかな?
少し真面目に考え、天井を見上げると、落下防止のワイヤーが見えた。これが落ちるなんて事は、まずなさそうだった。
今度は舞台用の照明装置が目に入る。
四色のセロファンを突き破り破り、もくもくと黒い霧が溢れ出し、体積を積み上げ、まるで蛇が這うよう黒い霧は足元から体育館を包みこむのだ。そうすれば闇の中に私を消してくれる。
「ちーちゃん顔色悪いよ」
岡ちゃんが急に私のわき腹を突いたので、驚いて声が漏れそうになり慌てて口を紡いだ。
ダイジョウブ。そう口を動かす
「ちーちゃん去年は具合が悪くて練習と卒業式はお休みしたから、ちょっと心配してんだよねー、私」
え?去年の卒業練習、私も出たよね?
今すぐ聞き直したいが言葉が出てこない。
だって、休んだ覚えは無かった。
去年も酷く緊張して……でも、去年の私のセリフは思い出せない。
そういえば予防接種の注射、私が倒れた後どうなったんだっけ。
思い出せない。私は逃げられないはずのから『死』から逃げて……
シュッと布が擦れる音が耳元で聞こえる。
岡ちゃんが立ち上がった音だと我に返り、目線の高さにあるスカートの裾をぼんやり見つめた。
14番目の岡村君が終わったら15番目の私の番だ。
また頭が真っ白になる。
私の前の三年生のセリフは、こうだ『在校生の支えとなり未来へ繋げて下さい』
その、頭文字が聞こえたタイミングで立ち上がらないといけない。
岡ちゃんがまたシュッと音を立てて座って「緊張したー」と歌うように楽しく言う。
あれ……?
今、岡ちゃんは横で何を言ったんだろう?何度も一緒に練習したのに、思い出そうとしても思い出せない。
突然、プールの中に頭から浸かってしまったように、音が遠くなり、声らしき音は拾えるが、何を言っているのか理解ができなくなった。
目は開いているのに、視界は白くなって判別が付かない。
ぐわんぐわんと聞こえる、この低い声は岡村君?それとも三年生?
私のセリフ……思い出せない。
胸が締め付けられる。呼吸が荒くなる。
失敗したくない。目立ちたくない。
『死』
『死』
『死』
『死』
舞台の上、大時計の真下の壁に、赤い文字で書いてある。
ただ、それだけが目に見えた。
岡ちゃんが私の制服の裾を引く。
きっと私の番なんだ、立ち上がらないと!でも足が動かない、腰が抜けて力が入らない。
立ち上がって言わないと。私のセリフ。
思い出せない。私のセリフ。何度も練習していたのに、何も思い出せない。
何もかも思い出せない。
聞こえるのは心臓の音。鼓動で体全体が揺れているような感覚だけだ。
「キャー!」
轟々と体育館中に悲鳴や、椅子を引き立ち上がる幾つもの音が沸きあがり、その音で私の止まっていた現実が動き出した。
岡ちゃんの悲鳴も耳に届く。
パイプ椅子を蹴り倒し、みんな私の横をすり抜け出口を目指して走っていく。
慌てない!そう叫ぶ先生の声も裏返って擦れている。
あ……。
いつもの大時計の真下の壁には赤い字で『死なない』と書いてあった。
良かった。また、死なずにすんだんだ。
やっと安心して胸を下ろすと、私は誰かの腕に抱かれ、黒い空の中を飛んでいた。