茜〈邂逅〉③
〈茜〉
ばんっ。と机を叩かれて、まどろんでいた意識がすっと呼び戻される。
「茜君、起きて。授業終わったよ」
目尻を人差し指で擦りながら、欠伸を噛み殺す。
「ん、あー」
見上げれば両腕を腰に当てて立つ式咲菜子の姿。
なんか随分と印象変わったな。
初対面時に抱いた清楚なお嬢様像はもう何処とやら。
「なっ、おい、茜!!どういう事だよ!?」
がたっ、と後ろの席の告蜜苗が身を乗り出して俺の耳元へ囁く。
「知るかよ。こっちが聞きたいって」
「今日は教育支部に行くって約束したでしょ」
「約束した覚えはこれっぽっちも無いんだが」
「え、ひどい。茜君、私の事を騙したの?」
ぐすん。と泣き真似を始める菜子。そんなあからさまな演技に誰が騙されるんだよ……。
「おい茜。てめぇだけは許さねぇ!!」
後ろに居たわ。
心なしかクラスメイトの男子達から刺々しい視線を感じる。
「茜の奴、転入生を散々弄んで、ぽい捨てか?これは学級裁判だな」
やばい。このままじゃ磔にされる。
いや比喩じゃなくて、奴らはやりかねない。
学園祭の時に葵が遊びに来て、手を繋いで校内を歩き回り、いちゃらぶデートを堪能した翌日。
俺は登校するなり身柄を拘束され、縄紐を窓に通して廊下の柱へ磔にされた。
朝礼の為にとぼとぼと猫背で歩いてきた瓶底眼鏡の担任が「あー……茜君……えっとぉ……学園祭は……終わったよぉ」と擦れ声で呟き、対する俺が「うぃっす」と返事した時の、あの凍えた空気と先生の蔑んだ表情は今も忘れられない。
どうやら性格悪そうって印象だけは間違っていなかったらしい。小悪魔だ。
「よくわからんが、七色機関の教育支部へ行かなきゃ駄目らしい」
「あ、そうなの?」
苗の視線に気付いた菜子が力強く頷く。
「うん、そうなの」
「苗も行くぞ」
「うーん……いいや。俺はパス」
「なんでだよ」
「教育支部なんて行っちゃうとさ、また『ヒーロー』に憧れちゃうかも知れないし、なによりも親父を死なせた組織なんかと関わりたくないんだ」
苗の口調には微かな敵意が含まれていた。
菜子の姉はその七色機関に所属する〈七極彩〉の〈藍〉だ。
目の前で家族の職業を否定されたら、菜子も機嫌を損ねるのではないかと危惧する。
「そっか。じゃあ、茜君行こ」
杞憂だったか?
「いや、だから俺も。って、引っ張るなよ!!」
手首を掴まれ、強引に引き摺られる。
「わ、わかったから。行くから……放せって」
廊下に抜けると同時に、血流が絞められる勢いで握られていた手が、ぱっと解放された。
やっぱり怒ってるっぽいな。
「ごめんな、苗に悪気はないんだよ。あいつも複雑なんだ」
「わかってる」
振り向かず、さっと髪の毛を耳元へかき上げて歩き出す菜子。
俺はやれやれ。と肩を竦めながらも、菜子の後姿を追った。
押切区は七色機関第二支部の拠点地となっている。
七色機関本部と第三支部は〈災厄〉に飲み込まれ、現在は機能を失っており、臨時設立された仮本部を考慮しても、第二支部は〈災厄〉を経て最も大きく成り上がった支部だ。
押切区を中心に多摩区から神奈川区近辺までが第二支部の管轄内とされていた。
まぁ管轄範囲で言えば、第二支部を上回る支部なんて国内各地に数多く点在している。
それでも〈七極彩〉の誰かが必ず常駐するのは、仮本部か第二支部だけだ。
式咲姉妹が押切区に引っ越してきた理由もそこ辺りに絡むのだろう。
押切駅の東口からは建ち並ぶオフィスビルが一望でき、駅前のタクシープールは客待ちする黄色で隙間なく染められていた。
「あれが教育課第二支部なの」
菜子が指差す先は、変哲もない灰褐色のビルだ。
「駅前なのか」
「便利だしね」
昨日と同じく、菜子と肩を並べて歩く。
なんだか妙な気分だった。
交差点で信号待ちをしていると、反対側にも他校の制服姿の男女が並んでいた。
ただ、あっちは手を繋いでいる。
「なぁ、菜子って恋人とかいるの?」
「い、いきなりっどうしたの?」
あからさまに狼狽え出す菜子。
お、これは弄り倒すチャンスか?
俺はにやにやとした笑みを浮かべつつ、追撃の手を緩めない。
「いやさ、菜子ってかなり可愛いだろ?」
「か、かか。可愛いって……そ、そんなの。よく、本人を目の前にして……その」
「だって事実だし。すげーモテるだろ?」
「も、もももてない……よ」
頬が桜色に染まり、高揚しているのか呼吸も荒い。
「謙遜しなくていいって。ちょっとだけスタイルは残念かもしれないけどさ、それだって……」
言い掛けて、俺の顎が開いたままぴたりと硬直した。
あ、やばい。目が死んでる。
信号が切り替わる。
「あ、いや、その……ほら、信号変わったし、行くぞ」
微動だにしない。
菜子はへらっ。と枯れた花弁の様にしょぼくれた乾笑で何やらぶつぶつと唱えていた。
聞き取れば「……私だって、あと二年もすれば、いや、四年待てば……お姉ちゃんみたいに……」と意味不明な供述を、壊れたテープみたいに繰り返し垂れ流していた。
「なんかごめん。超ごめん。菜子、教育支部に連れて行ってくれるんだろ?早く行こうぜ」
駄目だ、反応を示さない。
ちょっとからかうつもりだったのに、どうしよう。やりすぎたみたいだ。
信号が再び切り替わり、先程の男女が怪訝そうな眼差しをこちらへ投げ掛けていた。
「喧嘩かなぁ?」
「僕達とは大違いだなぁ」
などと惚気た会話が聞こえたが、今は構っている暇なんてない。よし、見逃してやるから末永く爆発しろ。
「こんな所で、何をしているんだい?」
困り果てて立ち尽くす俺と、虚ろな菜子の元へ、見覚えのある男性が歩み寄ってくる。
「あ、えっと……」
「古賀大臥だよ。……久しぶりだね、夕藤茜君」
〈ヒーロー五人伝〉の時とは服装が異なり、今は清潔感漂うスーツ姿だ。真っ赤なネクタイがやや派手に映るが、もしかしたら七色機関の規定なのかもしれない。
「あれ、俺、名乗ってましたっけ?」
「あぁ……菜子ちゃんから聞いたんだ。同じクラスなんだろ?……っと、それよりも、菜子ちゃん、どうしちゃったんだい?」
「ちょっとからかい過ぎちゃって」
「虐めはよくないな。ほら、菜子ちゃん。今日は適正値を計る予定だったろ?」
優しく菜子の肩を揺すぶる大臥さん。
「あれ?大臥さん?いつの間に?」
正気を取り戻した菜子は、突然の大臥さんの出現に驚いて目を丸くしている。
「本当に茜君を連れてきたのかい?」
「……はい」
「ん、どういうこと?」
「前に菜子ちゃんが君を教育支部へ連れてきてもいいかって僕に確かめていたんだ」
「た、大臥さんっ。それは内緒にしてくださいって」
菜子が俺を教育支部に?なぜに?
俺は別に過適合者でもなければ『ヒーロー』志願者でもない。
コスプレしてまで『怪人』の前に立ったから勘違いされてるのか?
だとしても、その誤解は昨日の時点で解けている筈だ。
「とにかく支部へ行きましょう」
信号がまたまた切り替わり、率先して渡り出す菜子。
今度は大臥さんがやれやれといった様子で肩を竦ませていた。
教育課第二支部は、外見上はうまいこと都市景観に馴染めていたが、内観は俺の想像と大きくかけ離れていた。
内壁には頑丈な鉄板が張り詰められており、厚ガラスを嵌め込んだ窓には更に鉄の格子が設けられている。
受付ロビーは端に据えられており、中央には巨大な円柱エレベーターがどっしりとビル内部を縦に貫いて鎮座していた。
ガラス面を挟んで、ワイヤーが軋んだ音を上げている。
透き通ったエレベーターの中には数十人単位で人影が数えられる。
「第二支部は階層毎に教育分類されてるんだ。今日は元々、菜子ちゃん達の適正値を計る予定だったから、三階だね」
「適正値?」
エレベーターに乗り込みつつ、大臥さんは丁寧に説明してくれる。
「そ、なんとなく察しはついてると思うけど、文字通りEinsの適正を数値化したものだね。普通は0~100%で示される。ちなみに一般的な合格ラインは70%以上だ」
「普通は?」
首肯し、大臥さんは続ける。
「普通はだ。……僕達、過適合者の場合。適正値は100%を超える。範囲は100~200%だね。200%というのは〈七極彩〉の〈赤〉こと灯真さんが叩き出した数値だ。だから、今のところ、それが限界だと言われている」
完璧超人こと赤神灯真の逸話はこんな所にも隠されていたのか。
「適正値が意味するのは、変身時間や自制心だ。だから過適合しても抑制できずに『怪人』化してしまった場合、適正値は100%の域を外れない」
「けど『ヒーロー』が細分化できるのと同じで、『怪人』もまた幾つかに分類できる筈ですよね?」
「へぇ……うん、その通りだよ。まず『怪人』と呼ばれる定義だが、これは元来よりこの国で定められている法律を逸脱するかどうかだ。で、大雑把に線引きするなら『怪人』は二分される。Einsの過適合に蝕まれ、自我を見失った存在。まぁ、僕達『ヒーロー』が誕生した原因だね。それとは別に、Einsを悪用して犯罪を起こす者達も、警察の手に負えない場合は『怪人』として処理されている。こっちは〈災厄〉以降、特に目立つようになったケースだ。今、話題になってる〈永久切〉も『怪人』の疑いが濃厚だね。そして茜君の疑問通り、後者の場合は当然、適正値も100%を超える」
「その、適正値って、俺みたいな一般人でも計れるんですか?」
「可能だよ。Einsの資格を求める人達だって、最初は君と同じで、Einsなんて触れたこともない状態なんだから。むしろ過適合者なんて存在の方が圧倒的に稀有さ」
言われてみれば確かにそうだ。
感覚が麻痺しつつあるのだろうか。
〈災厄〉からの四年間、俺は〈過適合者〉と身近に接した経験はなかった。
平凡な筈の日常が……日常だと判断する基準がずれ始めてる。
緩やかに速度を落とす箱、閉じ込められている俺達に微々たる負荷が掛かる。
透きガラスの扉がスライドする直前、菜子が「あっ」と上擦った声を上げた。
俺はすぐにその意味を理解する。
「おっそーい!!あたし達を待たせるなんて、いい度胸してるじゃない」
「ミニス。まったく……君は勝手についてきただけだろ」
見知らぬ二人組が、俺達の行く手を阻む様に立っていた。
じろじろと眉間に皺を寄せてこちらを見回す金髪少女。お前は不良か。
鮮やかな金色の頭髪は真っ赤なシュシュでサイドに束ねられており、蜜柑色の瞳はやや吊り目気味で鋭い。
フリルがしつこい桃色のミニスカートの上に黒革のジャケットを重ねていた。
一方の大人びた雰囲気と、知的さとを兼ね備えている女性は、菜子に似た濃紺色の髪を首回りに切り揃えており、赤縁の眼鏡がよく似合っていた。
眼鏡の奥に覗く山吹色の双眸がどうしても菜子と重なり込む。
大臥さんと同様にスーツ姿だが、膨らんだ胸元がやや窮屈そうだ。髪色に近い紺色のネクタイを結んでいる。
「お姉ちゃん!?どうしてここに?」
「いやなに、今日は適正値を計るって話していたろ?私も気になっていたからね。見学だよ」
菜子が眼鏡の女性を見つめて、お姉ちゃんと呼び掛けている。
まさか……。
「お久しぶりです。叶子さん」
深く頭を下げる大臥さん。
「ん、大臥か?元気そうで何よりだ」
「はい、叶子さんもお変わりなく」
「それで、そっちの君は?」
不意打ちの如く、彼女と視線が交わる。
値踏みするような、訝しげな眼差し。
「あ、俺は。ただの……」
〈七極彩〉に気圧され、一般人です。と口にしかけた瞬間。
その言葉を遮って、菜子が代弁した。
「クラスメイトの夕藤茜君。ほら、この前話した……」
「あぁ、コスプレ少年か」
なんだか切なくなる呼称だった。
「茜君。紹介するね。こっちが私のお姉ちゃん」
「式咲叶子だ。よろしく」
握手を求めて、腕を伸ばしてくる叶子さん。
「……夕藤茜です」
握り返すと、叶子さんの口元が僅かに綻んだ。
心臓がばくばくと脈打っている。すげぇ緊張してる。
「で、こっちが……」
なんだか菜子の声色が沈んだ。
金髪少女は八重歯を尖らせて、薄い胸を張った。
菜子と双璧を成せるな。
「あたしは〈七極彩〉の〈橙〉、ミニス・ヴァリア・レインよ。よろしくねー、あかね」
いきなり呼び捨てだった。
ってか……。
「〈七極彩〉なのか!?」
「そうよー!!跪きなさいよー」
〈七極彩〉━━〈藍〉の式咲叶子と、〈橙〉のミニス・ヴァリア・レイン。
『ヒーロー』の最高峰こと〈七極彩〉との出会いは、唐突にふって訪れた。