灯〈序幕〉
〈緑〉
「なぁ、見逃してよかったのかよ?あんたのEins〈灰塵〉なら、安藤誠一よりも先に茜達を分解せたんじゃねぇのか?」
〈永久切〉こと、萩原椚の飄々とした問いかけ。
無論、いつでも細菌を散布する心構えだった。
理由があるとすれば、僅かな気の迷いから生じた……たった数秒の遅れ。
「そうだな。ちっとばかし、俺の……いや、私の昔話に付き合ってくれないか」
どうやら喋る行為は許可されているらしい。
やはり安藤誠一もまた、守とは違う意味で天才だ。
━━十年前。夕藤守が七色機関にやってきた。
当時はまだ、七色機関などという名でもなく、小さな人材派遣会社だった。
懐森檜士は、派遣元責任者として、経営を盛り上げる為に尽力を惜しまなかった。
派遣先との契約の為に方々を訪れては、登録してくれた労働者達の働き口を開拓する日々。
ある日、見知らぬ若者に「搾取社会の象徴だ」と罵られた。
またある日、初対面の婦人に「人を選ぶな」となじられた。
人材派遣会社の風評は酷なもので、以前にテレビで見かけた専門家などは、犯罪増加の一端を担っているとまで言い切っていた。
職に困る人を救えれば。ただその一心で努めてきた。
起業の際に必要とした負債が主な原因となって、妻子は離れていった。
その後、再会した旧友の告密大海が、方向性の誤りを指摘した。
人材派遣は職に困る人を救えない。より怠けさせるだけだと。
そして、どうして起業する前に相談してくれなかったのかと嘆いていた。
現代社会は、インターネットの普及などに沿って、知りたくもないものまで目にしてしまう機会が増えた。
なら検索しなければいいだろうと嘆息したのは、やはり大海だった。
しかし、好奇心とやらは、そう容易く御しきれないものだ。
検索の先は、社会的立場の弱い人達の叫喚で満ちていた。
それから数日後に悲劇は起きた。
臨時派遣の男性が、派遣先で問題を起こしたのだ。
派遣先の社員から、連日通して仕事とは無関係な罵倒を受け、ついには耐えきれず暴力に出てしまった。というのが男性の主張だった。
一方で、派遣先の言い分は、度重なる遅刻や、勤務中に携帯電話をいじり出すなど、不真面目と見て取れる態度を注意した所、癇癪を起された。との話だった。
私は彼の言葉を信じて、もう一度だけ機会を……と懇願した。
だが結果は望まぬ終結を辿り、派遣先との契約は破棄されてしまった。
その軋轢は、それで終わったものだとばかり思っていた。
離婚した妻からは、月に一度だけ娘との面会を許されていた。
その日も、今までと同じく。
私はたった一人の娘と幸せな一時を過ごす予定だった。
が、それは叶わなかった。
━━逆恨みだった。
裏切られただけならまだしも。
その矛先は誰に向けられるべきだったのか。
とても言葉にしたくない。
あの日、私は壊れた。
害を被るのは、いつも弱者だ。
私には、何も覆せない。
何も……救えない。
救えないならいっそのこと、この国を壊してしまいたい。
そうとしか考えられなくなってしまったあたり、やはり、私は壊れてしまっていたのだろう。
私の独自を阻むように、椚が高々と笑い声を上げた。
「……あぁ、気を悪くしないでくれよな。俺、僕は他人の不幸を聞くと笑っちゃう癖があるんだ。ほら、先を続けてくれよ」
さすが〈永久切〉だ。性根が腐ってる。
そのような折、大海の紹介で、夕藤守と対面した。
アインスタイニウムの放射線が人体に及ぼす変化。
細胞を膨張させ、部分的な具体化を促すIncarnateの可能性。
大海の紹介でなければ、とても信用などできない。
妄想の類だとしか思えなかった。
理論を証明するには、施設も資金も足りず。
結局の所、その馬鹿げた妄言を鵜呑みにしてくれる所がなくて困っているのだと、夕藤守は明るい口調で話していた。
半ば自棄になって、開発課を設立。
研究は極秘裏に進められた。
告蜜大海は遠野浅海として。
夕藤守は守矢夜森として。
そして、私は懐森檜士として。
開発課は奇人の集まりだと囁かれ、私の肩入れも不安を煽ったのか……派遣課を辞職するものも多かった。
しかし、守の勧誘で、安藤誠一や雨頃透が加わるなど、共謀者も一人、また一人と増えつつあった。
やがてEinsの雛型が完成し、実用を間近に控えつつあった。
━━私が過適合するまでは。
まるで特撮もののヒーローが変身する時みたいな発光が起きたのだ。
だが、私の姿は、それこそ怪人の如き邪悪なものだった。
Eins細胞が呼び起こす突然変異。
これさえあれば、この国の縦社会を壊せるかもしれない。
弱者という立場さえ霞むほどの、誰もが畏怖し、手と手を取り合って立ち向かおうとする圧倒的な脅威を。
私は過適合にある可能性を━━『世界の敵』を見出した。
Einsの公表後、守を筆頭に据えて特異班を再編、密かに過適合の研究を継続。
その後……過適合者の協力も得て〈鬼の末裔〉やEins細胞を移植したクローンの創造にも成功。
私の野望は着実と、その日を迎えようとしていた。
研究過程として誕生した……Eins細胞を発症させる粒子を撒き散らし、自らIncarnateを放射する〈戦女神〉計画は失敗に終わってしまった。
「……が、守は最終地点に辿り着いた。なぁ、安藤誠一。守との最後の口論を覚えてるか?」
あの日、安藤誠一は。いや、干鉛鉛治朗は夕藤守に言い残した。知的好奇心こそが人類を脅かす最大の毒だと。
「覚えているよ。彼は……人類にとって最もな脅威は自然だ、と返したね」
「あぁ。地震だったり、津波だったり。人類なんてもんは自然の気まぐれで滅ぶ……ってな。守は自然の力を崇拝してた。だから、もし世界の敵なんてものを人の手で生み出そうとするならば、自然の力を借りるのが一番手っ取り早いと言ってやがった」
「その成果が、中央区なんだね」
「……そうだ」
「なら、どうして。それを世に撒かないのかな?」
「……死んだ。守は結果だけを残して死んじまった。どうすれば、あれを再現できるのか。もう誰にもわからねぇんだ」
だから、中央区にもう未来はない。
守が死んでから、中央区の時間の流れは止まったままだ。
残っているのは……。
どちらにしろ〈災厄〉の真相は、世間に隠し通していくべきだ。
七色機関を背負う〈三森〉として、せめてもの償いなのかもしれない。
壊れた心を癒すのは何か。
たぶん、それは……時間だ。
そう思えるようになったのが、つい最近のことだった。
「なぁ、終活って知ってっか?……就職の方じゃねぇぞ」
ミニスがはいっ!!と挙手。
「シューカツって名前のキャラは知ってまーす」
椚がそれだっ!!と掌を拳で叩く。
「さすがミニスちゃん。ぜってーそれだよ」
「人生の終わりのためのの活動で、終活だ。けっこう話題なってんだろうが」
「知らねーし。シューカツでいいだろ」
いや、よくねぇよ。質問したのこっちだから。
「たい焼き屋。わりと性に合ってたんだよ……人生わかんねぇもんだよな」
「へぇ、食べてみたかったな」
「……安藤誠一。お前はなにを企んでる?」
「人聞きが悪いな。僕はただ、蒐集癖を満たしたいだけだよ」
「世界の敵に相応しいのは、案外、お前みたいな奴なのかもな」
「やめてくれ。僕にそのつもりはない」
「っは!!〈七極彩〉を次々と生贄にしながら、よく言うぜ」
腹から笑いながら茶化す椚と、唇を噛んで何やら考え込んでいるミニス。
「さて、長話が過ぎたな」
「そうだね」
「〈永久切〉。いや、椚か。さっきの質問なんだけどな。一応は試したんだよ。けどな、もう〈凍結〉してたんだ。……おめぇら、朝霧蒼乃介を殺しただろ?」
ミニスも、椚も、安藤誠一も何も答えなかった。
「七色機関の壊滅は、この国を……いや、世界を乱すぞ」
「……興味無いよ」
安藤誠一が溜息まじりに呟いた。
彼の指が、ゆっくりと顎に触れる。
その瞬間、四肢が〈凍結〉し、意識だけが取り残された。
見開いたまま硬直した瞳孔に、金銀糸を編み込んだかのようにきめ細かな光沢を放つ安藤誠一の虹彩が映り込む。
「さぁ━━僕の瞳をみて」
━━そういや、珍しく予約の電話多かったな。たい焼き……すまねぇなぁ。
〈茜〉
荒廃した人工物を染め上げる雪化粧。
見渡す限り、白銀の世界が広がっていた。
四季を通じて降り積もる残雪には足跡もなく、命あるものの撤退を証明している。
都会特有の空気の淀みも薄れており、息を吸えば、清らかさが肺に沁み、心の汚れまでも洗い落としてくれるようだ。
「ここが━━中央区なのか?」
「そうみたい」
すぐ隣からの返事が、耳をくすぐった。
控えめに視線を流せば、式咲菜子もまた、中央区を占める雪景色に目を奪われていた。
どうやら……俺達が立っている場所は、どこかの交差点の中心らしい。
四方から伸びる信号機は、己の役割を忘れてしまったのか。
或いは、この閑静を破らない事に新たな生甲斐を見出したのか。
一貫して沈黙を守っていた。
広大な雪原を思わせる景色の角に、形を残す建造物を見つける。
整然と視界の奥までガラス窓が続いており、正面には、押切駅前にも現存する有名百貨店の看板が大きく飾られていた。
〈災厄〉の影響で、建物は崩れ、植物は枯れ、動物は滅び、人間は退いた。
そう語られる顛末にやや違和感を覚える。
確かに、多くの建造物は崩壊しており、街路樹も見当たらない。
もちろん、生命の気配など、微塵も感じ取れない。
だとしたら、なんだ……。
なにを疑うのか?
自問するが、先入観でがちがちに塗り固められた脳では、どうしたって答えが見つからない気がした。
吐く息は白いが、吹く風は弱く、肌に感じる寒さは、雪景色の相程を呈する反面、あまり堪えないものだった。
「お姉ちゃんは雪を調べろって言ってたけど……」
膝を曲げて、足元の雪をすくい上げる菜子。
色白で痣一つない手首は、真っ白な雪にも見劣りしない美しさを秘めていた。
「菜子、手……綺麗だな」ついセクハラしたくなる。
「い、いきなりなによ。そんなことより、茜君、これ……触ってみて」
手の平に残る雪は、日光を浴びて眩しい煌きを放っていた。
小さな雪山の一角を指で崩す。
あれ、これ……。
上目遣いで俺の意見をじっと待っている菜子。
「……冷たくない、のか」
自分の感触が信じきれず、確かめるように呟いた。
「やっぱりそうだよね。まったく溶けないし……どういうことなのかな」
「そもそも雪なのか、これ」
「うーん」
「俺達じゃわかりそうもないな。俺の父親を……夕藤守を探そう」
「うん」
こくりと頷く菜子の返事は、なんだか上の空だった。
色々と整理できてないんだろうな。
共感とは言えないが、同感はできる。
澄んだ静寂が、息苦しい沈黙へ変わっていく。
残雪を靴底で踏み潰す小気味良い音だけが、遠くへ波を立てていた。
ちらりと背後を振り返れば、お互いの足跡が、常に微妙な距離感を保っている。
菜子にはまだ一筋の希望が残されているが。俺の場合は……。
〈災厄〉の真相へ辿り着いたとして、それで過去の罪が消える訳じゃない。
押切駅無差別惨殺事件で〈永久切〉を糾弾しておきながら、俺だって……。
━━待てよ。
唐突な呼止め。
心臓が飛び跳ね、つられて両肩も大きく弾んだ。
声自体はとても小さく、ぶっきらぼうで、中央区の静けさでなければ聞き逃してしまいそうなものだった。
まるで、様々な犇めきが織り成す喧噪を一度も知らぬかの声音。
━━なぁ、あんたら、どっから入ってきたんだ?
口調は変わらずぞんざいなのに、民俗の叙事詩を読み伝う詩人を連想させるような温和な響きをしている。
高めで透明感ある声質から、女性だと判別できた。
「えっ、ど、どこ!?」
声の主を瞳に映そうと、必死になって辺りを見回している菜子。
俺も日本刀を右手に構え、気配を探っていた。
━━そっか。視覚がずれてるんだな。
声の主は、ひとり納得した素振りを見せ、
「……これでどうだ?見えるか?」
と訊ねた。同時に、眼前の景色が揺らいだ。
蜃気楼のように輪郭を滲ませていく。
幻は陰影を孕み、一人の人間を描いていく。が、画家が飽きたのか、姿は半透明なまま定着を迎えた。
時々、輪郭線が乱調を来している。
「よかった。見えてるみたいだな。で、もう一度聞くけど、あんたら、どっから入ってきた?部外者なら、すぐに気付く筈なんだけどな……」
声の正体は、全身黒ずくめの少女だった。
背中越しまで伸びた黒髪、黒曜石のように淡い光を灯す双眸。俺の変身姿にも似た漆黒の外套。
呆然と、言葉を失っている俺と菜子へ、少女は柳眉をひそめた。
「あぁ、この姿が珍しいのか。安心しろよ。俺は幽霊なんかじゃない。幽体ってやつだよ」
少女は可愛らしい見た目に似合わない物言いで、自らを『俺』と言い表す。
なんだろ……誰かに似てる気がする。
「過適合者なのか?」
「へぇ。外の世界だと過適合者って言ってるのか。……たぶん、あんたらの想像通りだ。俺は〈災厄〉の生き残りだよ」
「生き残り……」
菜子の小声を受けて、少女は首を傾げた。
「あれ、そっちだと〈災厄〉ってどういう解釈されてるんだ?」
「四年前から封鎖されてて、ありとあらゆる生命が息絶えた地……って事になってる」
俺の説明を聞きながら、少女は「そうなのか」と神妙な声をもらした。
「ただ、七色機関の守矢夜森が中央区の地下施設に身を隠しているって聞いて、それで俺達はここに来たんだ」
「守矢夜森……あぁ、守のことか」
「知ってるのかっ!?いま、どこにいるんだ!?」
━━あいつなら死んだよ。
少女のあっけからんとした一言。
それが耳を通した瞬間。さぁっと血の気が引き、眩冒から視界が暗転しかけた。
「あ、茜君。大丈夫?」
菜子が慌てて、左の肩を支えてくれた。けど、そっちは関節が外れてる方だ。
神経が鋭く刺激され、忘れかけていた痛みがこれみよがしに蘇る。
「悪い、平気だ」
どうして、そんな症状に襲われたのか、ただただ困惑が募る。
たぶん、傷口から血が抜けすぎた為だろう。そう言い聞かせた。
俺の心情などお構いなしに、少女は会話の矛先を移す。
「そうだ。なぁ、あんたら、古賀大臥って知ってるか?」
「大臥さんは……その」
言い淀む菜子。
「死んだんだ」
言尻を引き継いで、俺は答えた。
今度は少女が微かに表情を曇らせた。
「古賀大臥のEinsが必要だったんだ。けど、そうか、死んだのか」
「もしかして〈銀〉のことか?」
「〈銀〉……?」
「あぁ、ほら」
と、俺は右手で握ったままの太刀の先端に、銀色の焔を焚いた。
「ふぅん。古賀大臥だけじゃなかったんだな」
揺らめく銀の焔をぼんやりと見つめている菜子。
少女は幼さの残る大きな両目を瞠って、ぼそりと呟いた。
「なぁ、あんたが古賀大臥とどういう関係だったのかは知らないけど……もしよければ、古賀大臥がすべきだった役目を果たしてくれないか?」
「大臥さんの役目?」
「内側の世界は〈災厄〉からの四年間。時間を止めたままなんだ」
少女は視線を足元へ……降り積もる残雪へ落として、先を続けた。
「全部、雪を模造したアインスタイニウムなんだよ。だから〈浄化〉のEinsでなきゃ熔かせないんだ」
これが全部、Einsなのか!?
見渡す限りを染め上げている残雪。
「ってことは、やっぱり菜子は……」
〈災厄〉の元凶は……。
無差別な過適合者の乱出の原因は〈金〉じゃなくて〈雪〉だったのか?
俺の疑問を受けて、少女はうーん。と唸った。
「たぶんな。少なくとも……俺達は〈雪〉が原因だと睨んで、この四年間を生き抜いてきた」
守は天候を利用して、世界中にEinsをばら撒くつもりだったんだよ。
だから。
「━━俺達が殺した」
少女が言う。
「……」
菜子は押し黙っていた。
「あんた……何者なんだ?」
少女へ問い掛ける。
「俺の名は……灯。守の娘だから、本名は……
あぁ、誰に似てるのか。ようやく気付いた。
この少女は、俺に似てるんだ。
いや、俺が……。
少女は淡々と名乗る。
その名が、何を意味するのか。
今はまだ分からない。
━━夕藤灯だ。




