金〈決別〉①
〈黄〉
枕に後頭部を沈めたまま、ぼんやりと天井照明を見つめていた。
LEDの薄ら白い発光が眠気を誘う。
昨夜は何をしてたっけな……。あぁ、夕藤茜を確かめに行ってたか。
夕藤茜は芽鶴の情報通り━━Eins無き変身を遂げる〈鬼の末裔〉だったが。
正体は俺の予想違い━━『宿り木』とは無関係な〈銀〉だった。
そういえば、あいつ『〈銀〉を託された』とか言ってやがったな。
元々、〈銀〉は違う奴のEinsだったのか?
夕藤茜が〈災厄〉における〈銀〉だったのかどうか……。
少なくとも、俺のEins〈再生〉により、剥落の記憶を取り戻した夕藤茜は、〈災厄〉の〈銀〉である事を自覚してるみたいだったが。
だが〈災厄〉と一口に括られる中央区のいざこざは、内情を知る者からすれば幾つかに細分化される。
〈金〉と〈銀〉による『怪人』の大量覚醒と大量殺戮。
〈鬼〉による『宿り木』などの施設破壊。
シグナル・シャドウによる〈七極彩〉の殺害。
干鉛鉛治郎と赤神仁衛の七色機関離脱。
〈青〉と〈緑〉による生存者の記憶の部分的な凍結と末梢。
そして、何者かのEinsによる中央区から半径20キロメートルの物理的閉鎖。
そういや━━雨頃葵か。
一度だけ『宿り木』で雨頃透と雨頃葵に出会った記憶がある。
ほんの一言、二言交わしたぐらいだし、四年も前の話だ。覚えてる方がおかしい。
それにしても、まさか……あの子供も〈鬼の末裔〉だったとはな。さすがに驚いた。
不意に。枕元のスマートフォンが綿越しに鈍い振動を伝わせた。
手探りで掴み上げると、照明を遮るようにして頭上へ掲げる。
着信を告げる画面には式咲叶子の名前。
ったく、まだ何かあんのか?
俺は液晶部を指の腹でさっと払い、通話を繋げた。
『もしもし、洸? 叶子さんを助けてっ!!』
途端、とても叶子とは思えない。寝起きのぼやけた脳みそを揺さ振る、耳障りな黄色い声。いや、こいつの場合は橙色とでも言うべきか。
「……ミニスか。てめぇ、なんで叶子の番号からかけてきてるんだ?」
『あたし、今さ、叶子さんと一緒に居るんだけど……まともに喋れないくらい重傷なの。だから、洸、お願い。叶子さんを助けて……』
「……めんどくせぇ。病院に行け」
『そんな余裕なんてないの!!洸だけが頼りなの……お願い。なんでも言う事を聞くから』
「くくっ、おいおい、いいのかぁ?年頃の女が安く吐く言葉じゃねぇぞ?てめぇはその言葉を三度後悔することになるかもしれねぇぜ」
『それでも叶子さんを助けたいの』
助けたい……か。
━━あの日。
「……なんだよ。こりゃあ。……おい。なにがあったんだよ……」
〈災厄〉がまだ人知れず、水面下で中央区を侵食してた昼過ぎ。
孤児院『宿り木』は跡形もなく、瓦礫の山と化していた。
白銀の雪景色の中、散乱する小さな焼死体。黒く焦げた四肢。皮膚の爛れた顔面。
「……ふざけんなよ。畜生……誰が、誰がやったんだ……」
いつか夢見てた。
『宿り木』の子供達を救う為に、俺に何ができるか?
金だ。とにかく莫大な金が必要だった。
なりたくもない〈七極彩〉になり、大好きだったギャンブルもやめて。
『宿り木』を七色機関から買い取る為には、それ相応の金が必要だった。
あの孤児院はそもそも〈鬼の末裔〉の研究対象に……隠れ蓑に選ばれる以前から、孤児院として身寄りを失った子供達を養っていた。
俺も『宿り木』から大人に成長した一人の子供だった。
たまにふらりと顔を見せれば、こんな俺にも嬉しそうに近寄ってくる弟と妹達。
だからって訳でもねーが。けど、俺は子供達の笑顔を失いたくはねぇと思った。
だが、唐突に起きた〈災厄〉は、俺の願いを嘲笑うかの如く、守るべき場所をごっそりと奪っていった。
なにもかもが手遅れだった。
『ヒーロー』なんて仕事を受けて、見知らぬ人達を助けておきながら、本当に救いたかった居場所は守れなかった。
もう俺に誰かを救えるとは思えなかった。思いたくなかった。
柄にもねぇ事はするもんじゃないな……そう諦めた。
残されたのは、無価値な守銭奴が独りだけ。
通話先が雑音で騒がしい。
『おい、庄土葉洸。聞いてるか?』
ミニスとは違う。敵意を隠し切れていない尖った物言い。
「……てめぇ。年上には敬語使えって言ったよな?」
『頼む。叶子さんを救うには、あんたのEinsが必要なんだ』
「……それが人にものを頼む態度か?あぁ?夕藤茜っ!!」
『……どうか、お願いします。俺達に力をかしてください』
「やればできるじゃねぇか。けど、駄目だな……」
『なっ……んで、ですか?』
「……俺がてめぇらを助ける理由がねぇ」
『理由が必要かよ』
「必要だな。……500万だ。俺を動かしたいなら、今すぐ用意してみせろ」
『ふざけんなっ!!』
「ふざけてんのはどっちだ?人の命を救いてぇんだろ?これでも良心的な価格だと思うがな」
『……』
押し黙る通話先。二人とは違う誰かの声が微かに漏れていた。
『おぅ、洸。久しぶりだべ』
上半身が跳び上がる。眠気が瞬く間にさめていく。
「……東雲紫於」
〈鬼の末裔〉の研究、実験に加担した元〈七極彩〉の〈紫〉。
数年前と何も変わらないふざけた喋り方。
「なんで、夕藤茜達と一緒にいる?」
『成り行きだども。なぁ洸。おめぇはまだ俺を恨んでるだか?』
「……」
『茜から聞いた。まだ『宿り木』の生き残りを探してるんだべ?』
「うぜぇな。てめぇには関係ねぇだろうが」
『一人だけ知ってる言ったら、おめぇはどうする?』
「ふざけてんのか?」
『理由にならねぇが?』
「……さっさと教えろ」
『俺達はこれから中央区に向かう。教育課第二支部の地下で合流すんべ』
「そうじゃねぇ。そいつの名を教えろって言ってんだ!!」
『おめぇ、それが人にものを頼む態度か?知りてぇなら、先に叶子の命を救え。したら教えてやる』
「……覚えとけよ。終わったら、必ずてめぇはぶっ殺す」
『追手から逃げてる最中だ。あんま待てねぇからな』
「……追手だぁ?」
『時間切れだべ。せば教育課でな』
ぶつり。と一方的に途切れる通話。
「……くそがっ!!」
振り下ろした拳が、羊毛の詰まった敷布団を叩く。
ベッドのスプリングが短く悲鳴を上げ、暴力反対!!出て行け!!と言わんばかりに俺の尻を弾ませた。
耳を澄ますと、押切駅の方角から甲高いサイレンが鳴り響いている事に気付いた。
「叶子……本当にいいんだな?」
当然、返事はない。
ベッドから立ち上がると同時に。再び……スマートフォンが震え出す。
「……んだよ」
横目に画面を見やれば、次なる着信の相手は警視庁過適合対策課━━六課の長内芽鶴だった。
〈茜〉
派遣課第二支部が崩壊した一方で、教育課の支部はというと……予想に反して、代わり映えのない外観を保っていた。
両脇にはそれぞれ葵とミニスが立っており、やや後方に命琉をお姫様抱っこした紫於が控えている。
背中で気を失っている叶子さんは異常に軽い。
希薄さも相まって……いつ燃え尽きても不思議に思えなかった。
何度も、不安に駆られては首を曲げて彼女の姿を瞳に確かめた。
〈罪色樹〉の赤神仁衛が言い残した━━胡蝶の現。
真偽を問い質したくても、叶子さんは既に口も開けない状態だ。
今、赤神仁衛は俺達を逃がす為に赤神灯真を足止めしている。
〈七極彩〉の〈赤〉であり、史上最強の完璧超人。
変身した赤神灯真が纏う気配には、うまく言い表せないが……何か、運命を捻じ曲げるかのような。次元の異なる畏怖を受けた。
それ故か、容貌は瓜二つでありながら、俺にはとても……赤神仁衛の勝つ姿が想像できなかった。
それはたぶん、俺だけじゃなく。
赤神仁衛が別れ際に見せた表情。
塗り固められた仮面のような無表情の隅に垣間見えた罅割れ。
あの人もまた……敗北を既に自認していたのではないだろうか?
結果を受け入れた上で〈銀〉に願望を託したのかもしれない。
隔離閉鎖された筈の中央区。
その奥に潜む守矢夜森の研究を━━Einsの抹消を可能とする唯一のEins〈浄化〉に。
俺はEinsを憎んでいる。
母親を実験体にしてまでEinsの進化を選んだ夕藤守。
〈災厄〉の日にその事実を知った俺は〈銀〉を受け入れた。
自ら生み出したEinsによって、全てを失ってしまえばいい。
それが当時12歳の俺が抱いた歪な復讐心であり、未だ心底に燻ぶる銀の焔の存在意義だ。
俺は夕藤守に対する恨みから、中央区で起きた〈金〉による突発的な過適合者を銀の焔で手当たり次第に葬っていた。
式咲菜子は、姉である叶子さんに致命傷を負わせた俺を酷く恨んでいるだろう。
菜子は、きっと俺を許さない。
俺達が分かり合うには。時間が足りなすぎた。
「そういえば、あたしがあかねと再会したのも、教育課だったね」
「あぁ、あの時はやたら馴れ馴れしい奴だと思ってたな」
「まだ気付いてなかったけどね」
「そうなのか?けど……じゃあ、なんで俺に……」
口にし掛けて我に返る。
葵が妬ましげに目を細め、俺を見上げていた。
マイ天使。誤解だよ。無言の弁明。
大丈夫、俺と葵の間柄だ。きっと伝わる。
あ、顔を背けられた。
死にたい。
「一目惚れですよ。えへへ、同じ人に二回惚れるだなんて運命だよね。ね?」
「ちょ、今、そういうのはいいって」
「……今だからだよ」
力強い口調にあてられて、反射的に視線が引かれた。
頬が微かに攣っており、口の端が普段よりも下がっている。
淡い光を吸い込んで儚げに潤む瞳。
なんだか今すぐにも泣いてしまいそうに見えた。
「いきなりどうしたんだ?」
「あかね。もし菜子と会ったら……どうするつもりなの?」
教育課に向かう道中。俺達は情報共有に時間を割いていた。
専ら、話したのは俺か紫於だった。あとは〈鵺〉についてミニスが少し補足したぐらいだ。
それは俺達の共謀を意味し、もう後戻りができない事を示唆していた。
「もし、あいつがEinsを手放さないとしたら……」
束の間の静寂。
俺の返答を一字一句聞き逃さまいと、誰もが黙して先を待っている。
「俺は、あいつと決着をつけなきゃいけない」
その言葉とは裏腹に心中を渦巻いたのは、級友としての式咲菜子を信じたい。という願望だった。
知っている。式咲菜子が自ら望んで〈金〉として覚醒した訳じゃないと。
期待している。あいつが〈金〉としてのEins〈因子〉を放棄してくれると。
けど、それと同じくらい覚悟していた。
〈金〉と〈銀〉の宿命が、どちらかに血を流す可能性を。
「……そっか」
ミニスはそもそも東京に引っ越してくる以前から、式咲姉妹と旧知の仲だ。
俺の決意は、彼女の懸念を裏切らなかったのだろう。
教育課支部から視線を伏せるミニス。その横顔は暗く沈んでいた。
「洸の奴、もしかしたら先に着いてるかも知れねぇ。さっさと入るべ」
いつまでも足を止めたままでいる俺達を横切って、先導を引き継ぐ紫於。
押切駅の方角からは、絶え間ないサイレンが鼓膜を震わせていた。
派遣課第二支部周辺の建物崩壊とは別件で、既に公的機関が動き出しているのだろうか?
細身の真っ黒な背広が教育課支部の入口へ吸い込まれていく。
葵の不安そうな表情が視界の隅にちらついていた。
「ほら、俺達も行くぞ」
二人の追及から逃げるように、紫於の後を追う。
入ると、建物の内部は不気味な静けさに包まれていた。
受付ロビーは無人。
巨大な円柱型エレベーターは静止しており、その正面以外には人ひとり見当たらない。
「……あかね」
ミニスが俺の名前を呼んだ。
そんな声を出すなよ。
覚悟が揺らぐだろ。
エレベーターの正面には幾つかの人影。
まるで初めから、俺達が訪れるのを待っていたかのように━━あいつらは毅然と立っていた。
「てめぇら。俺を呼び出しといて遅刻かよ……なめてんのか?」
決して声量は大きくないが……相手を脅迫する事に慣れている。低いのに、よく通る声音だ。
庄土葉洸はコートのポケットに両腕を突っ込んで、猫背気味に首を竦めていた。
派手な大きさのサングラスによって目つきが遮られているが、薄ら笑いに歪む口元は、俺に嫌な印象しか与えない。
そして、庄土葉洸の隣に見知った顔が三つ。
いや、二人と一匹か。
「……ピノ君?」
命琉が小さく、決して相手に届かないであろう声でその名前を口にした。
「東雲紫於……ずっと探してましたデス」
ピノは今まで俺が見てきたような無垢で温かい笑顔とはとても結びつかない……薄氷の如く冷めた表情をしていた。
なんだか溢れ出る感情を必死に押し殺しているように見える。
その両腕に抱かれたトルテは、ただでさえ大きな双眸を更に丸く見開いていた。
ピノは制服姿だ。
そうだよな。平日だし、本来なら登校してるべきだもんな。
「茜君。━━お姉ちゃんをこっちに渡して」
同じく制服姿で立つ式咲菜子の眼光は鋭く、真っ直ぐに俺を睨んでいた。




