赤〈創生〉③
〈茜〉
「茜お兄ちゃん!!な、何が起きてるですかっ!?」
致命傷の疼きに耐えられず、蹲ってしまった叶子さん。
俺が変身していないから〈浄化〉の銀焔の勢いは弱いだろうが、それだって時間の問題だ。
七色機関派遣課第二支部の崩壊を告げる振動と轟音。
目を覚ましたばかりの葵は状況がのみ込めず、目を白黒させていた。
「俺にもわからない……とにかく、このまま居たら危険だ。叶子さん、動けますか!?」
口角から血を引きながら、叶子さんは毅然と答えた。
「……私はいい。置いていけ」
「できませんって!!」
腕を掴み上げ、強引に背負い上げる。
叶子さんの身体は予想以上に軽かった。というか、え、これ━━。
状況は一刻を要するのだと言い聞かせ、今は疑念を払いのける。
唐突な重心の傾きに足元をすくわれそうになりつつも、俺達はなんとか部屋の外へと抜けた。
「おーい!!あかねー!!」
「ミニス。それに命琉と……」
命琉と……えっと、うん。誰だ?
〈七極彩〉の〈紫〉━━黒鳴命琉をお姫様抱っこして、ミニスの傍らに立っているスーツ姿の男。
なんだか『上京に失敗した田舎ホスト』みたいな格好だった。
「あおいちゃんも無事でよかったー」
「ミニスさん。これはどういう状況なのですか?」
「おめぇら俺の周りに集まれっ!!」
二人の会話を遮って、男は声を張り上げた。
暗晦が通路を占めていく。
視界が暗闇に閉ざされ、葵が短く悲鳴を上げた。
「……安心して。これ、お父さんのEinsだから」
命琉がぼそりと呟く。
ん、お父さん!?子持ちにしてはちょっと若過ぎないか?
「叶子。おめぇ、その傷は……」
見えない筈の闇の中で、男が叶子さんに呼び掛けた。
「どうやら……蒼乃介の〈凍結〉が……解けたみたいだ」
「蒼乃介。やられてねぇべな」
「……わからない」
叶子さんの息遣いはか細く、語勢も弱々しかった。
「ねぇ、どうするつもりなの?」
ミニスが不審そうに声を潜めて訊ねた。
「俺のEinsでやり過ごすべ。いいか?ぜってーこの暗闇から出んなよ」
独特な訛り口調と、光を発するのではなく闇を纏う稀有な変身方法。
「そうか、あんた……」
かつての〈七極彩〉の〈紫〉であり、Eins〈黒渦〉の過適合者。
「〈鬼〉━━東雲紫於か」
「んだ、そういうおめぇが夕藤茜だな?」
「なんで俺の名前を?」
「おめぇは有名人だべ」
二年前に〈鬼祭り〉で世を騒がした〈鬼〉に言われると、なんだか皮肉っぽい。
ってか……。
「あんた、生きてたんだな」
確か当時のメディアは、〈鬼祭り〉における過適合者の生存者を黒鳴命琉たった一人だと報じていた記憶がある。
「まだ死ねねぇべ。やり残してる事が山ほどある」
「……私も一緒。忘れないで」
「んだな」
「……嬉しくなさそう」
「んなことねぇって」
「……もっと喜んで」
「おらは幸せもんだー」
ばちん。と乾いた音が暗闇に響いた。
「いでぇ!!命琉、なして殴った!?」
「……私じゃない」
「んな乱暴な女、おめぇしかいねぇ!!」
ばちん。あ、また。けっこう痛そう。
昔の〈紫〉と今の〈紫〉のやり取りはどこか微笑ましかった。
この二人……実の家族には見えないが。どういう関係なのだろうか。
「叶子さん、大丈夫ですか?」
「……あまり」
ぐったりと俺の背中に身を預けている叶子さん。
「庄土葉洸の連絡先教えて貰ってもいいですか?」
「iPhoneなら……胸ポケットだ」
その胸が、俺と密着してる訳で。なので……その。
「あ、あたしが取ってあげるよ。あかね、どこ?」
俺の困惑を察してくれたのか、ミニスが率先して役を買い出てくれる。
「こっちだ。ありがとな」
声を頼りに暗闇を蠢く気配。
肩に手が触れ、そのまま鎖骨を撫で、すっと服の内側にひんやりとした指先の感触が滑り込んできた……そして。
「って!!ちょっ!!違うから!!それ俺だからっ!!」
「てへっ」
舌をぺろりと覗かせて笑うミニスの姿が目に浮かぶ。
「だから、そこ、あっ!!やめてっ!!」
「えへへーごめんごめん」
「葵もやるです!!」
いや、なにをだよ!!
「お前らなぁ、状況を考えてくれ」
「お楽しみのところわりぃが、能力解くべ」
紫於の一言と同時に明暗が逆転する。
闇が晴れていき、光が満ちていく。
俺達は瓦礫の山の上に立っていた。そして気付く……崩れ落ちていたのは七色機関の支部だけじゃなかった。
「嘘だろ……」
ざっと見渡すだけでも幾つもの高層ビルが倒壊している。
交通の安全を守る為の信号機は柱が折れ曲がり、自動車のフロントガラスを突き破っていた。
陥没し罅割れた路面に横たわるオートバイと、逆さまのワークデスク。
断面に鉄筋を晒す破片が横断歩道を塞いでおり、散乱した硝子片の上には逃げ遅れた誰かが横たわっていた。
屋上に設置されていたと思わしき貯水槽は、腹部を大きく窪めており、落下の衝撃の凄まじさを主張している。
喫茶店の洒落た空間に焙煎の香りを漂わせていたであろうコーヒーミル。
直前まで営業先との打ち合せにファンを唸らせていたかもしれないパソコン。
口一杯まで吸殻を押し込まれ、煙を燻らせている灰皿。
辺りに錯乱するそういった小物が、日常の崩壊を……そのおぞましさを物語っていた。
一望できる光景はどうしたって、ミニスと一緒に支部を訪れた時の朝とは重なり合わない。
不意に、二つの〈赤〉が視界を横切った━━。
「おい、あれって」
その速さは、常人の域を遥かに凌駕していた。
見覚えのある真っ赤なマフラーが、鮮やかな残像を描いている。
鏡写しと見紛うような、瓜二つの容貌。
押切駅無差別惨殺事件の回想が、眼前の実景と結びついた。
「━━赤神灯真なのか?」
〈赤〉
瞬きすら許されない熾烈な猛追。
〈歪曲〉による瞬間移動も軌跡を辿られてしまう。
空間を歪ませる〈歪曲〉のEins。
歪みを超越する〈超人〉のEins。
私と〈赤〉の能力には明確な格差が生じていた。……当然か。
「邪魔をしないで貰いたいものだな」
首を曲げて、拳打を避ける。
風切り音が鼓膜を揺すり、かすめた頬が微熱を帯びる。
「貴方はなぜ〈罪色樹〉に……」
距離を取って〈赤〉と向き合う。
一瞬、鏡の前に立っているかの錯覚に襲われた。
私と同じ顔をした〈赤〉は、私が作る事がないであろう苦悶を表情に滲ませている。
「答える必要があるのか?」
「僕は……貴方を兄の様に慕っていました」
それなのに、どうして〈罪色樹〉なんかに。表情と共鳴がそう訴えかけていた。
「私達は兄弟なんかじゃない」
細胞が共鳴し、私に一抹の哀しみを与える。
構わず、空間に歪みを……波紋を表出させた。
数秒前。
私は〈赤〉の追撃から逃れつつ、それを横目に確認していた。
崩れ落ちる建材を喰らいながら肥大化していく真っ黒な空間。
ゆっくりとした降下は、どこかUFOの着陸を連想させた。
あのブラックホールさながらの巨大な円盤状の闇は、東雲紫於のEins〈黒渦〉によるものだろう。
闇の退いた場所を凝視すると、瓦礫の小山に複数の人影が見えた。
あの中に夕藤茜の姿もある筈だ。
数十分前。
私は〈銀〉として覚醒した夕藤茜を守る為〈緑〉に接触していた。
奴は自身のEins〈灰燼〉で、支部ごと彼らを葬り去ろうとしていたのだ。
夕藤茜の変身を踏み止めている要因である〈藍〉の問題については、椚と干鉛に動いて貰っている。
一方で、私の目的は〈三森〉の先手を封じる事だったのだが……そこで〈赤〉が姿を現したのだ。
守矢夜森による干渉は、案ずる必要もないだろう。
だが、〈三森〉の残り二人。
懐森檜士と森堂玲は別だ。
むしろ、あの二人がなにかしら策を講じてくるであろうことは明らかだった。
結果的に〈緑〉の干渉は防げなかったが、紫於が既に動き始めていたのが僥倖となり救われた。
七色機関の支部だけを的確で崩さなかったのは、後の事を考えてだろう。
被害を範囲に拡大することで的を散らし、突発的な『怪人』による災害でした。とでも説明する魂胆なのだ。
〈緑〉は昔から、そういう奴だ。
波紋に身を投じていく。
空間を超えて、支部の跡地へ……彼らの元へ移動する。
「おぅ仁衛。相変わらず無表情だな」
「紫於、お前には礼を述べておく」
一見して、面識のある人物は紫於と夕藤茜ぐらいだ。
夕藤茜の背後にぐったりと身を預けているのが式咲叶子だな。
どうやら、あっちは予定通り〈青〉を始末できたようだ。
干鉛も向かわせたのだから、当然か。
「えっ、とうま?」
私の瞬間移動に驚いて瞠目している少女が〈赤〉の名を口にする。
「ミニス。違うんだ。この人は……赤神仁衛。〈罪色樹〉なんだよ」
「うっそでしょ?とうまにそっくりじゃん」
そこに〈赤〉が追いつく。
やや離れて並ぶ私と〈赤〉を見比べて、先程の少女が「え、えぇ!?」と驚きを強めている。
「〈七極彩〉が新旧含めて四人。僕と兄も加えれば六人ですか……」
「わわっ、そっくりさんです」
ん、あの子供は……。いや、気のせいか。
「ちょうど良かった。〈緑〉から彼の身柄を拘束するように頼まれているんだ。ミニス、命琉。君達の力もかしてくれ」
「あー、あたしはもう変身できないよー」
成程、彼女はザッハの娘か。言われてみれば目つきがよく似ている。
「……灯真」
で、もう一人の方が〈鬼祭り〉の生還者……黒鳴命琉か。
「命琉、どうかしたのか?」
〈赤〉は、その先に続く言葉をまったく疑っていない様子だった。
他人である私でも一目に予想できるというのに。
「……私は〈七極彩〉を辞める」
「何を言っているんだ?」
「……もう、必要無いから」
長い。とても長い静寂だった。
各々の息遣いだけが、荒廃した都市の地に沈み、今回の━━七色機関による不条理に巻き込まれた死者達へ黙祷を捧げているかの時が過ぎた。
誰も口を開かないのは、開くべき人物が誰なのかを察しているから。
開くべき人物が黙しているのは……。
私は〈イヴの共鳴〉が乱れていくのを自覚していた。
「実際に会うまでは信じたくなかった。君達は……本当に七色機関と敵対するつもりなのか?」
誰も口を開かない。いや、今度は開けないのだろう。
「叶子さんも、そのつもりなんですか?」
夕藤茜に背負われている叶子の眼差しは朧げで、もはや言葉を返す気力も残っていないようだった。
遠く、駅の方角から甲高いサイレンが鳴り響く。
「そんなことをして何になるんですか?七色機関が『ヒーロー』を派遣する事で、この国の平和は守られています。それを『ヒーロー』の最高峰である〈七極彩〉が自ら乱すだなんて……とても、正気の沙汰とは思えない」
━━貴方達の企ては立派な『怪人』行為です。僕は……『ヒーロー』として貴方達の身柄を拘束します。
たとえ孤独であろうと。たとえ敵中にあろうと。
たとえかつての仲間が敵になろうと、たとえ慕っていた兄が敵になろうと。
己の信義を真っ直ぐに貫く姿は、完璧主義の正義超人として色の頂点に君臨する〈赤〉の冠にこの上なく相応しくあり……私からしてみれば、それが酷く滑稽だった。
背後に潜む深淵には目もくれず、傀儡の如く心身を削る愚者。
そんなものまで救うつもりはない。
「夕藤茜━━〈三森〉の守矢夜森は……いや。夕藤守は今も中央区の本部地下でEinsの研究を続けている。機関の地下道は紫於も知っているだろう。〈赤〉は私に任せろ」
「けどっ!!叶子さんを先にっ!!」
「気付いている筈だ。式咲叶子の肉体はとうの昔に死んでいる」
その言葉に━━誰もが釘付けとなる。あの紫於でさえも微かに瞳孔を揺らしていた。
「〈無詠の蝶〉についてどう聞かされているか知らないが、あれは催眠だけが目的じゃない。式咲菜子は式咲叶子の精神をこの世に繋ぎ止める為の憑代なのだ」
私が話したのは、元は干鉛による裏付けなき推論でしかない。だが、真偽の程など重要ではなかった。要は夕藤茜が変身を拒む『原因』を排除できるかどうかなのだ。
「式咲叶子は見捨てろ。そして〈銀〉の力で七色機関を━━中央区に残るEinsを全て葬れ。夕藤茜……それはお前にしかできない事だ」




