紫〈愛憎〉③
〈紫〉
━━青い空を風船が揺蕩っていた。
絵具を塗りたくったかのように鮮やかな紫色をした風船が、ゆらゆらと空を泳いでおり、時折、絶好の波を捕まえたサーファーみたいに、風波にすっと攫われていた。
ぼんやりと眺めていると、頬が冷たい感触に襲われ、私は逃げるように全身をびくりと震わせた。
「んな、ぼけーっとして、なに見てだ?」
「風船。ほら、もうあんなにちっちゃくなっちゃった」
どこだべ?と、空を仰ぐお父さん。
あっちっ!!と、爪の生え際よりも小さくなってしまった風船の方角を指差した。
「おとーさん。今日はピノ君と遊べるかな?」
「んだな。二人しておれらの邪魔すんなや」
「うん、大丈夫」
ずいっと差し出された缶ジュースを両手で受け取って、私は微笑む。
「ありがとー」
それはまだ、野良猫が陽気な日差しに尻尾を振っていて、街中には手を繋ぐ親子が珍しくなくて、毎月9の付く日には大好きなクレープが半額になっていて、デパートの屋上では遊具の周りに子供達が群がっていて、そして、なによりも……家族という幸せがまだ身近だった頃。
あの別れが━━〈鬼祭り〉が起きるよりも一年ぐらい前の風景だった。
〈橙〉
声の主を確かめようと、背後を振り返れば、そこには『上京に失敗した田舎ホスト』みたいな男が立っていた。
口の端には煙草を咥えており、はだけた胸元からは薄っすらと鎖骨が覗いている。
やぼったく伸びた黒髪に、だらしなく着飾った黒のスーツ。
命琉にも似て悪趣味な黒一色の出で立ち。
目を凝らせば、口周りに無精髭が見つけられた。
顔立ち自体は悪くないと思う。あかねに比べたら天地の差だけど、たぶん、身嗜みをきっちり整えれば映えるタイプだ。
「おめぇがザッハの娘か……外人いうから、もうちっと色っぺぇの想像してたんだが、まだちょしがいもねぇ子供だねが」
うん、なんか悪口を言われてるっぽけど、よくわからん。あたしが帰国子女だからかな?
とりあえず睨んでおく。
「おーこえ。んな睨むな。俺はおめーを助けに来たんだ」
「……お父さん」
と、命琉が呼んだ。
「おめぇも一緒にくるか?」
男は煙を吐いて、命琉へ手招く。
「……自分勝手。いっつもそう。〈鬼祭り〉の時に私を置いていって、今更、迎えに来たの?」
「んだ。説明したべ?俺は〈鬼祭り〉の主犯にでっちあげられて追われる身になった。いつ死ぬかもわからねがった。そんな日々はご免だベ?」
━━鬼祭りの主犯?
「まさか東雲紫於……なの?」
男はあっさりと認める。
「おう。よろしくな。めんこちゃん」
「めんこちゃん?」
「……可愛いって意味」
命琉が翻訳してくれた。
「……今まで何してたの?」
「一生懸命逃げてたべ」
「……なんで、東京にきたの?」
「灯真が失踪した聞いてな。〈三森〉か〈罪色樹〉か……或いは両方か。動き出したんだとしたら、俺もふらふらしてらんねぇからな」
まるで別れ際の恋人同士の問答だなぁ。とちょっとだけ吹き出してしまう。
そんなあたしに怪訝そうな視線を向けつつも、紫於は真面目な口調で続けた。
「叶子にも会った。あいつ、変わったなぁ。でな色々と聞かせて貰ったべ」
あたしも命琉も口を挟む素振りが無いのを確かめてから、紫於は再び口を開いた。
「俺は〈三森〉を止めるべ。んや……今なお中央区でEinsの研究を続けている守矢夜森に会って、ある事を確かめねばなんねぇ」
そう告げる彼の瞳は、どこか混濁した輝きを放っていた。
「けんどな、奴と決着をつけたいのは俺だけじゃねぇ筈なんだべ。んだから、俺はそいつの意思を確かめる為、ここに来た。守矢夜森の子供に会うためにだ」
七色機関開発課総責任者━━守矢夜森。
〈七極彩〉の〈橙〉でも、その正体は知らなかった。
だが〈鬼〉の符丁を与えられし東雲紫於が、深々とその謎を暴いていく。
「この世界にEinsを齎した天才こと守矢夜森。その真の名は夕藤守……わかったべ?俺は奴の子供である夕藤茜に会いに来た」
あかねのお父さんが〈三森〉の一端!?
「それ、あかねは知ってるの?」
「んや、しらねぇだろうな。叶子が言うには記憶喪失なんだべ?」
「ううん。あかねはもう記憶を取り戻したよ」
「あれ、そだったのか。んなら尚更、急がねぇと手遅れになるかもしんねぇな。記憶を奪うだけにしたのは、それすらも実験の一部だったのかもしんねぇけど。思い出しちまったら、きっと消しにくるべ。守を除く〈三森〉の二人は手段を選ばねぇからな」
━━失敗した。
紫於の懸念を受けて、あたしの鼓動は早まっていた。
あかねを一人にすべきじゃなかった。
すぐに追いかけないと……。
爪先を僅かに浮かした瞬間、あたしの眼前を炸光が阻んだ。
再び変身を遂げた命琉が紫の極光幕と黒羽の翼とを背後に広げて、通路の先を遮る。
「……駄目」
咄嗟に変身を試みたが、やはりEinsは応じてくれなかった。
六課からの逃走に始まり、絶対真空の発動に終わってしまった変身時間。
あたしの再変身規制時間は少なくとも二時間は超える。
「邪魔しないで」
「……お兄さんの事は、私には関係ない」
決して道を譲ろうとはしない命琉。
己の無力さからくる苛立ちに、奥の歯の根を噛んで、固く拳を握りしめた。
「ったく、おめぇ、気に入った人を家族呼ばわりする癖はまだ直してねぇのか。んなら、なして、そなに怒ってるんだ?」
「……わからないの?」
「わかんねぇなぁ」
「……お父さんは私を見捨てた。それからの二年間が。〈七極彩〉の〈紫〉としての私が、どんなに……苦しかったのか。どんなに寂しかったのか。本当にわからないの?」
初めて遭遇する命琉の激情に、驚きを隠せなかった。
「悪かったとは思ってる。けど、あれがおめぇを守る為の最善手だったんだ。わかるべ?」
かつてない慟哭に紫雷を爆ぜる少女へ、鬼は説きかける。
「……わかんない」
二人を繋ぐ確執が……〈鬼祭り〉の真相を知らないあたしは戸惑いから口を噤んでいた。
「俺と一緒に来れば、おめぇは追われ人だ。んだども、〈七極彩〉として七色機関に属せば、その間は安全だ」
「……そんなの。私は望んでなかった」
「家族を守りたかった俺の気持ちが、なして理解できねぇ?」
「……家族と離れたくなかった私の気持ちを、どうして分かってくれないの?」
あーもー。歯痒いなぁ。
「あのさぁ……」
「「なによっ!!(なんだべっ!!)」」
二人の喝が重なった。
「どう考えても、悪いのはあんたでしょ」
指差された紫於は、柳眉を微かに逆立てた。
構わず続ける。
「だってさー、大切なら……守る事を他人任せにしちゃ駄目じゃん。それに、やっぱり家族は一緒に居るのが一番だよ……死んじゃったら、もう二度と会えないんだからさ」
あたしは〈災厄〉からの四年間━━あかねに会うまで、何度も何度も。あの日の悪夢にうなされていた。
覚めると、いつも眼尻には涙が滲んでいた。
泣いてる姿なんて誰にも見られたくなかったから、あたしは叶子さんの優しさからも逃げて、ずっと独りで眠る事を選んできた。
死んじゃったら、いくら会いたいと願ったって……もう夢の中でしか会えなくなるんだよ。
白雪に残る足跡は、もう二度と交わらないんだ。
命琉は、まさか味方してくれるとは思っていなかったのか、目を丸くさせていた。
「幸せになる権利は誰にだってあると思うの。でも、権利って、誰かと一緒にいてこその権利じゃない?」
「……」
押し黙る二人。
短くない静寂を挟んで、先に口を開いたのは紫於の方だった。
「っはは。んだな。命琉、その、なんだ……悪かったな」
「……それだけ?」
「この戦いが終わったら、また東北さ戻るつもりだった。あっちはまだEinsの犯罪が多発してるからな。んだから、一緒にけ。俺を手伝ってくれ」
「……お菓子。毎日買って」
「んな!!おめぇ〈七極彩〉で儲かってるべ?俺だば、暫く働いてねぇから、もう貯金ねぇって」
「……甲斐性なし」
ぼそりと吐き捨て、変身を解く命琉。
ぎゃあぎゃあ言い争う二人。
喧嘩するほど仲が良いっていうあれかな。
でも、ほとぼりが冷めるのを待ってる余裕なんてない。
「ほら、さっさとあかねを追いかけるよー」
「……お父さん、抱っこ」
「はぁ!?もう12歳だべ?自分さあしで走れ」
「……無理。三秒も走れば息できなくなる」
「おめぇ、あれほど運動しろって言ったべさ!!」
ちらりと後ろへ視線を流せば、なんだかんだで結局、紫於が命琉をお姫様抱っこして走っていた。
いいなぁお姫様抱っこ。
あかねに頼めばしてくれるかなー。
なんて妄想をしていると、突然━━建物全体が大きく沈下した。
〈茜〉
ホテルにも似て清潔で飾り気の無い部屋。
ほんのりと甘い香水が室内には染み込んでいる。
俺は息を切らしながら、葵の姿を探しに部屋の中へ踏み込んだ。
ベッドに寝かされている葵を見つけ、胸底に沈んでいたしこりが、ひとつ消える。
━━待っていたよ。茜君。
初めて会った時と然程変わらない……淡白な声色。
彼女は窓際の椅子に腰掛けて、分厚い本へ視線を落としていた。
「お久しぶりです……叶子さん」
「〈永久切〉の件では迷惑を掛けてしまったね。すまなかったよ」
「叶子さんが謝ることじゃないですよ」
彼女は本をぱたん。と片手で閉じると、傍らの四角いサイドテーブルへ寝かせた。
「安藤誠一を知ってるかな?」
「……作家ですよね。名前ぐらいは」
「彼は……知的好奇心こそが人類を脅かす最大の毒だと語っていた」
「何が言いたいんですか?」
「また第三次世界大戦について尋ねられたアインシュタインはこう答えた。━━第三次世界大戦では分らないが、第四次世界大戦では、人間は多分、石ころを持って投げ合うだろう。と」
「科学の発展が人を滅ぼすとか、そういう事を言いたいんですか?」
赤縁眼鏡の奥に覗く双眸を細める叶子さん。
「Einsは開発されるべきじゃなかった。……茜君。君はそうは思わないかい?」
「……」
沈黙。
「洸から聞いたよ。まさか、君が〈銀〉だったとはね」
「俺を。……恨んでますか?」
「……もう一つぐらい言葉を借りようか。音楽家のロベルト・アレクサンダー・シューマンの言葉だ」
━━誰かが僕の敵であろうとも、べつに僕がその男の敵にならなくてならぬ。ということはない。
誰かの言葉を借りて、そして、叶子さんはふっと優しい笑みをたたえた。
「私は〈銀〉を恨んではいないよ」
「けど、俺のせいで叶子さんは」
「君も菜子も〈災厄〉の時はまだ12歳だった。……私は子供を責めたくはないんだ。それに、真に追及すべき相手は、もっと別にある。君も思い出したんだろう?」
「━━夕藤守」
叶子さんは頷き、言尻を引き継ぐ。
「Einsなどという毒を生み出した〈三森〉の一人。そして……その毒を強めた〈三森〉と広めた〈三森〉」
幼い頃の俺へ、父さんの研究を明らかにして復讐心を植え付け……そして〈銀〉の移植を示唆したのもまた〈三森〉の一人。森堂玲だった。
「私は〈藍〉をやめて、〈災厄〉の地へ向かうつもりだ。昨日はすまなかったね……洸よりも先に君達と接触するつもりだったんだが、僅かの差で間に合わなかった」
「それ、菜子には話したんですか?」
「いや……まだ話せていない」
微かな語調の弱まりに、確かな憂いを感じ取った。
「どうするつもりですか?あいつは……俺を許しはしないと思いますよ」
「私にも罪はある。私は今まであの子を騙し続けてきたんだ。だから、式咲菜子の事は私に任せてくれないか?」
彼女の決意を推し量るように、その眼鏡の奥を見据える。
菜子とそっくりで綺麗な山吹色の瞳には、力強い輝きが秘められていた。
「それより、ミニスは一緒じゃないのか?」
「〈紫〉と遭遇してしまって、あいつは俺の為に……」
「そうか。紫於が間に合っていればいいが」
突然の名に驚いて、吐く息が弾んだ。
「紫於って〈鬼〉の。あの東雲紫於ですか?」
「あぁ、その悪鬼だ。つい最近、再会したんだ。で、今は協力関係にある。彼も一緒に〈災厄〉の地へ向かう手筈になっているよ」
「庄土葉洸は!?あいつはどこに!?」
「洸は休みだよ。まったくそういうとこだけは律儀な奴なんだ。それに、洸にしても、葵ちゃんは的外れだったらしい」
「そうでしたか……」
幸せそうに眠っている葵へ近寄る。
「ったく、どんな夢を見てるんだか」
━━っ!!
小さく、細かな泡が破裂するような音が聞こえた。
続けて液体が飛び散った時の、あのなんとも不快な音が重なる。
「なっ……これはっ」
叶子さんの声音が酷く掠れていた。
振り返ると。
「叶子さん!?」
彼女は血を吐いて、両眼を大きく見開いていた。
「蒼乃介のEinsが、〈凍結〉がっ、━━っ!!」
繰り返し口元からは血が溢れ、見れば白いシャツの腹部が赤く濁り始めていた。
そこは。俺が〈災厄〉の日。日本刀の切っ先で貫いた部分だ。
「大丈夫ですかっ!?」
「……くっ。私はいい。茜君、葵ちゃんを連れて、はやく━━っ!!」
止め処ない吐血が、床の絨毯をおぞましく染めていた。
なんでいきなり〈青〉のEinsが解けた!?
朝霧蒼乃介の身に何かが起きたのか!?……それとも、まさかっ!?
終には蹲ってしまう叶子さん。
庄土葉洸だ!!あいつのEinsなら、叶子さんを助けられる!!
「葵、起きろっ!!」
その時━━視界が縦にぶれた。
「なっ、これは!?ビルが崩れてる……のか!?」




