紫〈愛憎〉①
〈茜〉
七色機関派遣課の第二支部は、教育課の支部とそう離れてはいなかった。
押切駅の裏手にこっそりと着陸した俺達は、早朝の陽射に微笑みつつも、早足気味に目的地へ向かった。
週も明け、月曜日を迎えた道中は登校、出社へ赴く人波がめまぐるしく街中を行き交っていた。
「ここが?」
「そっ、派遣課の第二支部だよ」
立ち止まるミニスにつられて、目の前のビルを見上げた。
何の変哲もないオフィスビルが視界を縦に線引いている。
教育課も見た目に反して、内観が壮大だった事を思い出し、連鎖的に菜子の顔が浮かんだ。
あの時、どうしてあいつは俺を教育課へ連れ出したんだろうか?
適正値を調べたかったのかな?
もし俺が適正値を測定していたなら、結果はパターン怪人を示しただろう。
それが意味するのは、既に過適合しているという事実。
本来なら過適合者は過適合を果たしたEinsを所持している時、他のEinsを一切発動できないとされている。
だが〈鬼の末裔〉は特別だった。体内へ直接埋め込む事により、異なるEinsを装備したところで相互干渉が起きないのである。
つまり、先述した過適合者が別のEinsを発動できなくなるという法則は、Eins同士の距離感に所以している。
指輪型のEinsはどうしたって、お互いに放射線がぶつかり合ってしまう。
その時に元々の過適合したEinsの波長だけがEins細胞へ目覚めを呼び掛けるのは、ある人曰く先刻の利なんだとか。
「あ、おい!!」
堂々と正面から入ろうと、歩を進めるミニス。
慌ててその背中を追う。
「大丈夫なのか?」
「うん。昨日の今日だし、あおいちゃんの件はまだ広まってない筈だよ」
「葵はどこに?」
「んー、たぶんだけど、ずっと上の階だろうね。ここは31階まであるから……あたし達〈七極彩〉の常勤階層も28階から上だし、さっさとエレベーターで上がっちゃお」
「監禁とかされてんのかな?」
「あはは、幾らなんでもそれはないと思うよー。仮眠室とかもあるし、案外、ゆったりとくつろいでるんじゃないの?」
牢屋に監禁された姿を想像していた俺は、内心、ほっと胸を撫で下ろしていた。
「叶子さんはシグナル・イエローって言ってたけど、それってどういう意味なんだ?」
フロントの受付嬢と一礼を交わしつつ、ミニスは意外そうに口を開いた。
「あれ、知らないんだ?Einsの資格を持ってない人が変身した場合だよ。その時点ではまだ善悪の判別は難しいけど、一部のヒーローには変身確認での身柄拘束権限が与えられてるの」
「それで葵は。けど、そもそも庄土葉洸の奴が!!」
「叶子さんの思惑は分かんないけどさー、洸はあかねを何らかの形で疑ってたんでしょ?」
ミニスの問いに沈黙を返す。
あの時、庄土葉洸は俺と孤児院〈宿り木〉の関係を疑っていた。
結果的に俺は〈宿り木〉の━━つまり、厳密にはあの孤児院から生まれた〈鬼の末裔〉では無かったのだが。
しかし、葵が〈宿り木〉と無関係かどうなのかは不明だった。
咄嗟に誤魔化したが、その嘘だって見破られていない自信はない。
俺が〈災厄〉の日、雨頃親子と遭遇したのは〈金〉や〈鵺〉との対峙を終えた後の出来事だった。
当時、葵が変身しなかったのは、部外者である俺に出くわしたからか、それとも既に変身が強制解除されていたか。
どちらの理由なのか、或いはまったく異なる原因があるのかも定かではないが。
葵が、俺と同じくEinsを埋め込まれた過適合者であることは間違いない。
俺が〈銀〉だと正体を明かした今、庄土葉洸が瞳に映す対象は葵に変わった筈だ。
一刻でも早く助けたい。
「あかね、あんまり怖い顔しちゃ駄目だよ」
ミニスは横目に俺を見つめつつ、声を潜めて囁いた。
「あぁ、悪い」
幾つかのエレベーターが横に並ぶスペースには、俺達の他にもスーツ姿の大人が何人か疎らに立っていた。
自販機がごとんと缶コーヒーを吐き出し、それを片手に拾い上げ、眠そうに欠伸する男性へ目がいく。
俺もいつかはあんな大人になるのかな。
学校に通ってるだけじゃ想像に浮かばない、現実的な未来の姿が。確かにそこにはあった。
スマートフォンをじっと覗き込んでいる女性。
目頭を軽く揉んでいる青年。
彼等は〈七極彩〉の一端であるミニスに気付いても、あまり態度を改めなかった。
「なんか拍子抜けだな」
「現実なんてこんなもんよー」
あっさりと28階まで辿り着いてしまい、困惑の息を漏らした。
「こっから先は『ヒーロー』を除けば、ごく一部の人間しか立ち入れないからね。ちょっと用心しといて」
「お、おう」
用心しろと言われても、どうすればいいんだろうか。
とりあえず俯いてみた。
そして、ミニスの背中に隠れるようにして肩を縮こまらせる。
「逆に怪しいって」
警戒する素振りもなく、八重歯を尖らせてからからと笑うミニス。
「で、どう探すつもりなんだ?」
「いちおー思い当たる場所がちらほらあるから、ひとつずつ回ってみるつもり」
壁際に窓も無く、蛍光灯に照らされただけの通路はどこか仄暗く寂れた雰囲気を纏っていた。
道の突き当たりは離れ過ぎて小さくなっており、昇降口らしき空間がぽっかりと薄闇を広げていた。
通路内は静まり返っており、下で感じていた人の気配も霧散してしまっている。
“派遣課”と括られる人達が、普段どんな職務に準じているのか。
実の所、あまりよく知らない。
そういえば、すっかり忘れていたが……ミニスに会ったら派遣課の仕事ぶりについて尋ねてみるつもりだったのだと思い出す。
「なぁ、派遣課って文字通りの人材派遣の他に、普段は何をしてるんだ?」
「うーん、あたしも免除されてる部分があるから詳しく説明できないけど、下の人達は主に派遣契約の営業とか打ち合せ、Einsの不正を調査したり、後は片付いた『怪人』案件をまとめて開発課へ提出したり……ヒーローの場合は、定期的に変身の状態を確かめたり、訓練だってしてるよ」
ミニス自身、あまり馴染み深くないのか、こめかみに指を立てて唸りつつ、必死に情報を寄せ集めている印象だった。
「一つ上の階は過適合者の訓練用施設が大半だねー」
「……訓練か」
変身は回数を重ねる事により適正値が微増していくとされている。
幅は個々にも依存するが、大抵は低品位な鉱石から金を精錬するのにも似て、途方もなく微々たるものの積み重ねらしい。
「訓練は適正値を増やすというよりも、変身を如何にして上手く使いこなすか。の意味合いが強いかな」
「やっぱ教育課の時、本気じゃなかったろ?」
「当たり前じゃんかー。あたしが本気でやってたらあかね達なんて秒殺だよー、秒殺ー」
けどさぁ。とミニスは付け加える。
「あかねも本気じゃなかったでしょ?あたしの喉元に突きつけたのだって……たぶんさ、〈銀〉だった頃の癖だったんじゃないの?」
人を殺す事をさ、体が覚えてたんじゃないの?
遠回しにそう言われてる気がした。
どうだろうか。
確かにあの時は必死で、切っ先をどこに向けるかなんて二の次だった。
「ひどいよねー。もしEinsが解けなかったら、あのまま、あたしの喉を突くつもりだったの?」
「そんなつもりはっ!!」
「あはは、冗談だって。あんま気にすんなー。あたしにはまだ奥の手もあったし、絶対に負けなかったからさ」
ミニスは通路を右に曲がると、足を止めた。
目の前には飾り気のない扉が佇んでいる。
「さっき言ってた仮眠室」
「仮眠室かー。そういうのも必要なんだな」
「優遇されてる証拠なんだけどね」
ここで待ってて。と目配せされ、俺はミニスが仮眠室へ入り込むのをじっと見守っていた。
扉を半開きにして、奥へ顔を埋めるミニス。
背中では金糸の様に綺麗な髪がさらりと靡いていた。
「誰も居ないねー」
ミニスは予想通り。とでも言いたげな面持ちで踵を返した。
「次は?」
「訓練施設の奥にも、休憩用の個室が幾つかあるの。そっちが本命」
「個室って……すげぇな」
「すげぇよー。パソコンもあるし、漫画本とかも資料室にまとめてあるから、漫喫とか行くよりずっと快適だぜー」
「漫喫?」
聞き返すと、ミニスは信じられないと瞠目した。
「漫画喫茶だよ。ネットカフェともいう」
「あー、行った事無いなぁ……」
「あかねは人生の半分を損してるねー」
え、半分も?
「あたしとの初めてのデート先は漫喫で決まりだねっ」
そんな初デートは嫌だ。
「えっちな事もできるよ?」
にやぁ。と口角を僅かにつり上げ、挑発的な視線を向けてくるミニス。
俺は素知らぬ振りをして、さっと前に出た。
「ほら、さっさと行くぞ」
「無視が一番傷つくんですけど」
階段を上がる間は終始無言。
振り返ると、ミニスは唇をぎゅっと結んだまま、萎んだ目先を床に向けていた。
そんなにまじでしょげなくても。
「……今回の件は感謝してるし。そうだな、漫画喫茶も一回ぐらいは行ってみたい。かな」
「あかねっ」
ぱぁっと、しょぼくれていた花が満開に咲き誇った。
「ただし、変な事はしないからな!!」
「男じゃないねー」
「これでも堪えてるんだよ!!」
あ、言っちゃった。
「えへへー、あとちょっとかな?」
「俺には葵がいる」
「大丈夫。あたし達なら三人でも仲良く暮らせるよー」
「お前は葵に変な事を教えそうだから却下だ」
「ぶー。あたしは別に……あかねがなえから借りたえっちぃビデオを堪能してた事ぐらいしか話さないけどなー」
「すいませんでした」
「なえが置いてっただけだ」
いつかの俺の台詞らしい。ってか、声真似うめーな。
「なーんてクールに言ってたけどさー、謝るって事はやっぱ見てたんだ」
「……」
黙秘権を行使します。
「あ、こっち」
曲がり角の先でミニスが立ち止まった。
「どうしたんだ?」
俺も続けて、角を折れると━━通路の先に、一つの小さな影が見えた。
影の奥には、まだまだ通路が伸びており、突き当りには大きめの扉が見受けられる。
「忘れてた……そっか。今は第二支部に常勤してたんだっけ?」
「……ミニス。お兄さんをこっちに渡して」
「嫌だって言ったら?」
非常に小柄で、人形のように華奢な体。
伸びっぱなしの黒髪は所々の毛先が跳ねている。
『めでたい』で会った乞食幼女が、あの時と変わらぬ姿で俺達の前に立ちはだかっていた。
「お前……なんで」
俺の上擦った声を耳にしたミニスが一瞬だけ首を曲げようとした。
しかし、彼女は正面の人物から視線を逸らしてはいけないと判断したのか、すぐに首を戻した。
俺を質す事を断念したミニスは代わりに。
「あおいちゃんの居場所を知ってるなら、教えて欲しいんだけど……命琉」
そう相手の名を呼んだ。
まさか。
「〈七極彩〉だったのか?」
ミニスや俺の質問に対して乞食幼女は無反応だ。
対するミニスが首肯し、彼女の正体を明かす。
「うん、この子は〈紫〉の黒鳴命琉。〈鬼祭り〉の唯一の生き残りヒーローにして、とーまに次ぐ適正値を叩き出した天才……まったく嫉妬しちゃうぜー」
おどけて喋るミニスだが、強張った両肩からは緊迫感がひしひしと伝わってきた。
「……ロリコンのお兄さん。たい焼きありがとう。美味しかった。でも、この先は駄目」
「なんでだよ」
「……そういう命令なの」
命琉の返答を鼻で笑うミニス。
「あんたさー、もうちょっと自分の意思とかないわけ?」
「……言われた事をちゃんと守る。それが私の意思」
「はいはい、そーですか」
━━数瞬。
ミニスと命琉は同時に動き始めていた。
既に解けていた髪へ手櫛を通しながら「チェンジ・オーバーっと」呟くミニス。
右手を口元へ近付け、人差指の指輪へ「……変身」と囁き、そっと口づける命琉。
細く狭い通路が極光に満たされていく。
光が薄れ視界が戻ると、反射的に、変身を遂げた命琉の姿を確かめていた。
〈紫〉の変身姿は真っ黒だった。
先端が僅かに折れている巨大なとんがり帽子、袖口や裾がゆったりと広がったエプロンドレス。レース生地の手袋が指先までの素肌を覆っており、ドレスの裾から垣間見える足回りも皮靴とタイツによって露出を遮っていた。
エプロンドレスには少しだけ純白のフリルだったりの装飾が見受けられるが、全体的にほぼ黒で統一されており、まるで葬儀に赴くかの出で立ちだ。
帽子によって目元が隠れ、影によって表情を窺う事ももままならない。
「……ミニス。もう一度だけ言う。お兄さんをこっちに渡して」
「嫌ですぅー」
ゴスパンク姿に変身したミニスは、腰に片手をあてて、短めのスカートをひらりと揺らした。
それから、たった一度。瞬いた間に景色が一変していた。
「……っ!?」
蜘蛛の巣にも似た形状で紫色に発光している何か。
ひっきりなしに空間を切り裂いている鋭い音色が、雷鳴に似ていると思い至るのに数拍を要した。
縦横無尽に、大小様々に、俺達を囲むように張り巡らされた紫雷の網。
絶え間ない放電が可能とする半永久的な雷。
それは〈七極彩〉の〈紫〉を冠する乞食幼女━━黒鳴命琉のEins〈紫雷〉であり、彼女が俺達の葵奪還を阻もうとしている証拠に他ならなかった。




