藍〈胡蝶〉②
〈藍〉
私は〈災厄〉の日━━〈金〉を庇って、〈銀〉の焔をその身へ宿した。
式咲菜子は私だった。
幼い頃、父が交通事故に遭った。
当時、自分が何歳だったのかもうろ覚えだ。
営業マンである父は、コンバインを代表とする農機の訪問契約をしており、その日も広大な田畑を有する農家の元へ足を運んだ帰りだった。
農家が密集する地域は、広々とした田畑に反して、町村の道が狭く複雑に入り組んでいる事が珍しくないのだとか。
父を轢いた軽トラックの運転手は、常日頃から通っている田舎道だという事もあり、油断から速度制限を無視していたらしい。
信じられない事だが、運転手の男性は父を轢いた事にも気付かず、そのまま自宅まで引き摺って帰ったのだと供述した。
偶然、一部始終を眺めていた村人の証言によると、既に父は原型を留めておらず……助かる可能性は絶望的だったらしい。
後々、発覚するのだが、運転手の男性は前日の晩から早朝まで同級生と酒を飲んでおり、酒気帯び運転が疑われた。
男性は「仮眠も取ったし、酔い覚めを自覚していたから無関係だ」と主張し、母は慢心だと泣いて訴えた。
油断と驕りで人が死ぬのだから、この世は無情だ。
そして、翌年に母が自殺した。
もし……父の死に方が違った形であれば、きっと母も死ななかったのではないか?……そう、今でも思う。
母の衰弱はなぜかよく覚えている。
最初は母も必死に戦っていた。何と?諸悪の根源とも呼べる運転手の男性とだったり、生活を阻む報道陣とだったり、愛娘である私とだったり、幸せの余韻だったり。たぶん、生きる為に全てと向き合おうとしていた。
半年もすると、夜な夜な啜り泣く症状が始まった。
それまでは私がよく泣いていたのだが、私が落ち着くと、今度は母が崩れたのだ。
更に数ヶ月後。母は癇癪を起こすようになった。もう父が生きていた頃の優しい母の姿は消えていた。
一年後の朝、起きてみると母は居間で息絶えていた。
大量の向精神剤が散らばっており、警察は自殺だと私に話した。
私にとっての幸せな日常は呆気なく失われた。
18歳を迎える迄の間、私は転々と住処を変えていた。
元々、両親が親族と疎遠だった為か、率先して私を引き取ろうと言ってくれる人が居なかったのだ。
親戚から友人へ。友人から恋人へ。そうやって私は自分という存在を疎かにしてでも生き延びた。
たぶん、私を置いてこの世を去った母に対するせめてもの反抗心だったのかもしれない。
そして18歳の春、私はなんとか就職へ漕ぎ着けたのだ。
当時、二年前にEinsを公表し、順調に利益を上げつつあった七色機関だ。
最終学歴が中卒の私を採用してくれた理由は単純明快だった。
私が教育支部で過適合を果たしたからだ。
元々はEinsの資格を取って、就職活動を有利に進めようと考えていただけだった。まぁ、結果的に近道ができたのだ。
当時はまだ数えるばかりだった過適合者。
私のEinsには〈胡蝶〉の固有名詞が与えられ、同時に〈七極彩〉の一端を担う〈藍〉の府庁が授けられた。
そしてある日、〈緑〉は私へある協力を願い出た。
雨頃透から〈鬼の末裔〉計画について聞かされた今だから理解できる。
〈緑〉はEinsを直接内蔵する〈鬼の末裔〉とは違う方向性をも検討していたのだ。
〈災厄〉の一年前……私はまだ19歳だった。
私の知り及ばない裏で〈鬼の末裔〉計画が着実と進展する中、私は〈緑〉が示した別の可能性に貢献していた。
それは神の領域だった。
過適合者のクローン体を創造する実験。
私が協力したのはEins細胞の提出と、Eins〈胡蝶〉による催眠だ。
正直、実験自体にはあまり興味も無く、詳細の把握は怠っていた。まさか、今更、それを後悔するとはな。
ただ……〈緑〉が「家族が欲しくはないか?」と私に持ちかけたのが決定的だったのだ。
家族が欲しかったのだと初めて自覚した瞬間だった。
研究が進めば、いつかまた父と母に会えるのではないかと、柄にもなく恋い焦がれてしまった。
今からでも人生をやり直せるのだとしたら、やり直したい。そう切に願った。
だが、神様は決して微笑まなかった。
第一個体━━消失。
第二個体━━消失。
第三個体━━。
定期的に〈緑〉が報告してくれる結果はいつも同じだった。
過酷な人生経験から夢を抱くことを忘れた私は、既に諦めようとしていた。
やはり、そんなものは実現不可能だ。
だが第六個体で変化が訪れ、第七個体の報告には、こう記されていた。
第七個体━━誕生と。
偶然か、第七個体は私の細胞を元型に生み出されていた。
第七個体の成長速度は常人を遥かに上回っていた。
半年も経過すると、既に見た目が10歳相当まで進んでいたのだ。
〈緑〉が話すには、元型となる人物から細胞を搾取した瞬間の年齢が、一つの到達点になっているらしい。
知能の発達や、人格の形成においても上記の特性が該当するようで、第七個体は凄まじい速度で到達点へ近付いていた。
ただ、成長は徐々に減速していき、やがては世の常に馴染むかの如く衰えた。
そうして第七個体こと式咲菜子は生まれたのだ。
望んでいた幸せとは形が違ったが、それでも私にとって菜子は大切な家族となった。
だが、それも束の間。殺害された夕藤楓の代わりに菜子はEins〈因子〉を埋め込まれ〈金〉として暴走したのだ。
雨頃透は〈因子〉の移植が失敗したのだと説明していたが、私からすると菜子にも原因は疑われた。
第七個体━━誕生。
それは完成を意味する符号ではない。
クローン体の実験は段階としては未完……第七個体は、人間と呼ぶにしても、過適合者と呼ぶにしても、まだ不完全だったのだ。
急遽、人柱として〈因子〉のEinsを埋め込まれた第七個体は、結果、理性を失い、〈金〉として失敗した。
周囲へ無作為にEins細胞を潜伏させ、覚醒をも促した式咲菜子の罪は、無自覚であったとしても、決して世間から許されるものではないだろう。
だけど、私はあの日……〈七極彩〉としではなく〈姉〉として。あの子を〈銀〉から庇った。
〈災厄〉で害を被った数多くの人々の納得よりも、私は自らの拠り所━━家族を守る道を選択したのだ。
〈緑〉も、あの日━━〈災厄〉の悲劇は、秘密裏に事を終えたかったのだろう。
私達は互いの過ちを追及せず、〈金〉である式咲菜子は経過観察処分。そして、私は〈金〉の監視者として生き永らえる事となったのだ。
〈無咏の蝶〉とは、私がEins〈胡蝶〉によって菜子へ施した永久の催眠。
あの子は、自分も〈災厄〉における被害者の一人だったのだと思い込んでいる。
式咲菜子がクローン体である事実を知っているのは、私と〈緑〉だけだが。
式咲菜子の正体が〈金〉だと知っているのは、加えて〈青〉こと朝霧蒼乃介も含まれる。
蒼乃介は、〈金〉を庇って私が受けた〈銀〉のEins〈浄化〉の焔を傷口共々凍結してくれている。いわば命の恩人なのだ。
〈銀〉のEins〈浄化〉の焔は、Eins細胞を沈静化、及び抹消する。
過適合者にとって唯一、天敵と呼べる過適合者だった。
私が〈七極彩〉として。
━━〈藍〉の式咲叶子として、今まで語らずにいた〈災厄〉の真相。
紫於は、そんな私の独自に口を挟む事も、相槌を打つ事もせず、地蔵の様に厳として耳を傾けていた。
〈茜〉
叶子さんが生きている。
それが……どれほど奇跡的な事なのか。
庄土葉洸のEinsによって記憶を取り戻した今だからこそ理解できた。
〈災厄〉の日。
〈金〉を殺そうとしていた俺を阻んだのは三人の〈七極彩〉だった。
〈藍〉の叶子さん。
〈青〉の朝霧蒼乃介。
〈橙〉のザッハ・ヴァリア・レイン。
あの時はフルフェイス型のヘルメットを装着して正体を隠していたから、たぶん……叶子さんは俺が〈銀〉だったとは知りもしないだろう。
〈浄化〉の銀焔を灯す日本刀に心臓を貫かれた筈の叶子さんがなぜ生きているのか?
大よその見当は付く。
朝霧蒼乃介のEins〈凍結〉による延命処置だろう。
だが、それも俺が変身してしまえば、呆気なく解けてしまう。
俺のEins〈浄化〉の焔は対象のEins細胞を燃やし尽くすまで決して消えない。
変身に呼応して銀焔が活性化すれば、例え全ての流動を止める〈凍結〉のEinsであろうと無意味だ。
事態は停滞を迎えていた。
芽鶴さんはどちらの味方をするか定かでないし、期待しない方が身の為だろう。
一方で七色機関側の両名。〈七極彩〉の庄土葉洸と叶子さんの敵対心は明白だ。
二人は俺達の身柄を拘束しようとしている。
「おい、叶子。横槍さすんじゃねぇよ」
「文句は〈緑〉に言ってくれ。私だって不本意なんだ」
「……ちっ、うぜぇな」
包帯ぐるぐる巻きの〈黄〉と、蝶の羽を広げる〈藍〉に挟まれ、退路は断たれていた。
自らの記憶から手掛かりを掘り起こそうと、俺は躍起になって過去を振り返っていた。
〈災厄〉当時の〈七極彩〉のEinsには全て覚えがある。
庄土葉洸のEins〈再生〉は、傷の治癒に留まらず、包帯で繋がった相手の古傷や心傷の再生など幅広い応用が利くものだ。
叶子さんのEins〈胡蝶〉は、羽の鱗粉を操って、相手に幻覚症状などを引き起こす催眠系統の能力だ。
どちらも〈七極彩〉を冠するに相応しい最高峰の過適合だった。
俺が変身すれば、それだけで叶子さんの無効化が期待できる。
大切な葵を守る為に一刻も早く変身すべきだと、かつての俺が囁いている。
だが、その選択肢を〈災厄〉以降に培ってきた夕藤茜が拒んでいた。
へぇ……随分と暢気な考え方をするようになったもんだ。
「葵、壁に穴をあけれるか?」
「はいです」
「なら、強行突破だ。とにかく逃げるぞ!!」
「……逃がさねぇよ」
凄んだ声で、庄土葉洪は再び包帯を踊らせ始めた。
庄土葉洸の気性の荒さを体現する包帯の乱舞。その風切り音を遮って、銃声が轟いた。
「ってぇな、おい!!芽鶴、てめぇまさか……」
庄土葉洸の左鎖骨辺りを覆う包帯が赤く濁っていく。
もう一度、どこかで銃声が唸った。
今度は庄土葉洸の右太腿の包帯が血を吸っていく。
「六課を呼んだなっ!?」
「さあ。どうでしょう」
包帯にきつく縛られている芽鶴さんは苦しそうに呼吸を乱しながらも、気丈に振舞っていた。
銃声が続き、庄土葉洸を占める色合いが赤へ偏っていく。
「茜君、今の内に逃げてっ!!」
不意を突いて芽鶴さんが叫んだ。
俺は反射的に葵の手を引いていた。
〈黄〉
いてぇ……くっそがっ!!六課。利用できると思って放置してきたが、調子くれ過ぎだっ。まじでぶっ殺す。
「六課め。私達の能力が届かない距離を見定めて狙撃しているのか。とても警察とは思えない手口だな」
「六課の虎さんは容赦ないよ。不用意に動かない方が身の為ね」
ガキ共が走り出していた。
葵とかいうチビが、Einsによるしゃぼん玉を幾つも飛ばしている。
「洸、六課はお前に任せるぞ」
芽鶴の脅迫を無視して、茜と葵の元へ歩いていく叶子。
その足元を銃弾がかすめた。
「不用意に……か。同じ言葉をそのまま返すよ。どうやら君達は私の鱗粉の飛散速度と距離を見誤っているようだな」
しゃぼん玉のほとんどが的外れな方角を彷徨っていた。
そして、ガキ共がその場に倒れ込んでいく。
チビの変身が解け、六課の銃声が止む。
「さてと……おい、芽鶴。俺を撃った奴を探すの付き合えよ。今頃、狙撃銃担いだまま寝てるだろうからよ。一緒に起こしに行こうぜ」
芽鶴の表情が見る見る内に青褪めていくのが、なんとも痛快で、笑いが止まらなかった。




