黄〈強襲〉②
〈茜〉
━━昔の夢を見た。
きっと……葵に会ったからだ。
夢の中の俺は、まだ12歳だった。
「自分の名前は言えるかい?」
白衣の男性が、俺にそう問い掛けている。
「茜……夕藤茜。です」
「そうか、茜君か」気難しい顔で、白衣の男性が俺の名前を口にする。失敗したのかな?よくわからないがそう思った。
白衣の男性の表情が、あまり嬉しそうに見えなかったからだ。
「君の両親の名前を教えてくれるかな?」
「……えっと」
あれ?お父さんとお母さんって、どんな人達だったっけ?
ぼんやりと浮かび上がる二人の顔は、曇った鏡みたいに霞んでいた。
喉まで出掛かって、詰まる言葉。
とても大切なものに思えた。それなのにどうして思い出せなかった。
取り残された寂しさのようなものが胸をきつく占める。
叫びにもならない。涙にも満たない。夢にも映らない。虚無感が慟哭していた。
淡々と問答は続く。
俺は白衣の男性の質問へ、機械的に答え続けていた。
「全健忘か」やがて、彼はぽつりと。無表情に呟いた。
まさか自分が記憶喪失になるとは……失われた俺は、夢にも思わなかっただろう。
どうして自分が記憶喪失になっているのか……失われた俺が夢でも見ているのだと思いたかった。
━━景色が移ろう。
たくさんの桜の花弁が舞っていた。
風波に攫われたといった感じではなく、雨粒にもがれたかのように……静かな散り様だ。
映り込むは寂れた公園。人の姿は途切れがちだった。
今は母親と小さな女の子が手を繋いで公園を横切っているだけで、他には誰も見当たらない。
俺は小さなブランコに、身体をねじ込んで、呆けていた。
時折、砂を爪先で蹴っては、ブランコを漕いだ。
記憶喪失だと診断されたばかりの頃の俺は、行動に一貫性が無く、部屋にこもりっきりの日もあれば、こうして当てもなくふらりと外へ逃げる日もあった。
欠け落ちた何かを拾いたかった。
それに……雨頃家でじっとしていると、葵がよく喋り掛けてきた。
あの頃は、それがどうしようもなく億劫に感じた。
「あぁ」とか「うん」とか、「へぇ」とか、吐息と大差ない相槌を返すばかりだった。
舞い散る桜の花弁。季節が俺を追い越していく。
遠ざかっていく親子の幸せそうな後姿が、じわりと眼球に熱を残す。
いつも先に反応するのは、心じゃなくて身体だった。
空っぽな心を満たそうと、頬を伝い落ちる水滴。
独りぼっちの公園が、俺を哀しみの底へ沈めていく。
〈災厄〉に奪われた幻が、どうしても形にならない。
「見つけたですっ!!」
不意を突いて、背後から温もりに襲われた。
首筋に絡まる幼い腕。
「葵ちゃん」
「茜お兄ちゃん、そろそろ晩御飯の時間です」
首を曲げて振り返れば、儚げな横顔がすぐ傍にあった。
「……俺はいいよ」
「駄目ですっ!!」
背中により強く、ぎゅっと抱きつく葵。
「ほっといてくれ」
「ほっとけないですっ!!」
どうしてだよ。
俺とお前はつい最近知り合ったばかりだろ?こんな卑屈な奴、ほっとけよ。
「なんで……そんなに必死なんだよ。俺の事なんて、そんな知らないだろ?無理しなくていいから、もう俺に関わるな。どうせ、すぐに居なくなるよ」
本心だった。
雨頃家は俺の居場所じゃない。居るべき場所じゃない。仮宿なんだ。いつかは出て行くつもりだった。でも、いつかって、いつだ?
結局は甘えてる。そんな自分が嫌いだった。
「茜お兄ちゃんはもう家族なのですっ!!葵にとって、たった一人の……お兄ちゃんなんですっ!!」
なんて安っぽい言葉だろう。
純粋無垢な子供の悲鳴を、素直に受け取れない自分がいた。
「俺が……兄になんかなれるか」
「葵がお兄ちゃんだって言ったら、お兄ちゃんなのです!!」
「んな、無茶苦茶な……」
「茜お兄ちゃんは葵にとってのヒーローなのです。茜お兄ちゃんが覚えてなくても、葵はいつまでもずっと忘れないのです」
……葵は、そんな事を言っていただろうか?
時が凍りつく。
近くで俯瞰していた俺へ、夢の夕藤茜が真っ直ぐに問い掛けてくる。
━━俺達が夕藤茜を忘れてしまっても、誰かが夕藤茜を覚えているんだ。
夢は再び、振り子を揺らす。
「今度は葵が茜お兄ちゃんを救う番なのです。だから、絶対に諦めないのです」
薄々、違和感はあった。
葵も、ミニスも、菜子も。
〈災厄〉よりも昔の俺を知っている節がある。
俺が『出会い』だと認識していた日は、彼女達にとって『邂逅』だったのだろうか?
ならどうして……俺に教えてくれないんだ?
「ずっと一緒です。葵が茜お兄ちゃんを守りますから、茜お兄ちゃんはずっと葵を守ってくださいです」
葵は気恥ずかしそうに、だけど、恥じらうことなく。更に力強く俺の頭を抱き寄せた。
凍てついた鎖が解けていく。
空っぽの心を満たすのは、涙だけじゃないと知った。
苦しみが、半分になった気がした━━。
〈藍〉
車が過ぎる度に、私の立つ空間が震えているようだった。
公衆電話ボックスの中はひんやりと肌寒く、周囲の雑音を鈍くさせている。
視覚と聴覚との差違が、息詰まる窮屈さを強めた。
ぼんやりと、流れる人や車を眺める。
一瞬、自分だけが別の次元に取り込まれて、身動き取れずに立ち尽くしているかの錯覚を抱いた。
街はすでに薄暗さを纏っており、夜の気配を覗かせ始めている。
時々、車のライトがボックス内を透過し、私の目を眩しく照りつけた。
日中、七色機関第二支部へ出社した際。久しぶりに命琉と会話をした。
どうやら〈一区一色〉として押切区に派遣されていた『ヒーロー』は赤色に分類される大臥のみだったらしく、彼女は、次の〈一区一色〉が選出されるまでの間、第二支部所属とされたらしい。
現在、第二支部を拠点とする〈七極彩〉は私と彼女の他にミニスもおり、また、なぜか今日は洸とも遭遇した。
ここまで〈七極彩〉が一ヶ所にかたまるのは極めて異例だ。
先月末、〈永久切〉の対策を主に開かれた臨時会議の名残でもある。
本来ならば〈七極彩〉は満遍なく、国内へ配属されるのだが……派遣課の慌ただしい雰囲気から察するに、暫くはこの不均衡状態が続くと思われた。
派遣課は〈七極彩〉の〈赤〉についても議論を重ねている最中だった。
つまりは、失踪した灯真の処理について決め兼ねているのだ。
派遣課は、多大なイメージダウンと大幅な損害を齎した彼の影響力を考慮して、安直な切り捨てへ踏み出せずにいる。
「きっと彼の失踪には何か理由があるに違いない」と、後ろ向きな期待から手離せないでいる。
そろそろ約束の時間だろうか。
飾り気のない腕時計を見遣る。
私は仕事を半日で中断すると、派遣課のデーダベースと〈七極彩〉としての権限を利用して、ある人物について調べ上げていた。
━━雨頃透。38歳。現職は塾講師。そして……茜君の現親権者。
これも因果なのだろうか。
茜君と雨頃透の接点は、嫌でも〈災厄〉の裏側を予感させた。
〈災厄〉以前の記録が抹消されている開発課副責任者こと雨頃透と、〈災厄〉以前の記憶を失った子供━━夕藤茜。
二時間ほど前、入手した雨頃透の個人情報から電話を掛けてみると、彼は予想に反して、すんなりと応じてくれた。
ただ、予定があるから……と、彼は掛け直しを要求し、こうも告げた。
「次は公衆電話から掛けるようにして欲しい」
約束された時刻を数分過ぎた辺りで、私は公衆電話へ硬貨を落とした。
呼出し音が数回続き、声を通して、空気が繋がる。
『式咲叶子君かな?』
「自己紹介が遅れた……ました。現在は七色機関の派遣課に勤めています」
『ははっ、僕なら気にしないから、無理に敬語をあてなくてもいい。それより、現在もだろ?知ってるよ。〈胡蝶〉の〈藍〉……いや、〈金〉の監視者』
なぜ知っている?━━鼓動が早まる。
監視者の役割を知っているのは檜士や蒼乃介だけの筈だ。
『それで、何が知りたいのかな?』
「単刀直入にお伺いする。元開発課副責任者、雨頃透。━━〈災厄〉について、貴方の知っている限りを教えて貰いたい」
『覚悟はあるのかい?』
「覚悟?」
『そ、覚悟だ。言い方は悪くなるが〈災厄〉は終わってしまった出来事だ。今更、それを掘り返して、知識欲は満たされるかもしれないが、ひきかえに大切なものを失うかもしれないよ。君に、その覚悟はあるのかい?』
「私には妹が居る。たった一人の大切な家族なんだ。……家族の過去を知りたいと願うのは罪だろうか?」
家族……か。受話器の向こうで、彼が溜息まじりに呟く。
『君はアインスタイニウムを知っているかな?』
「原子番号99の元素とだけは」
雨頃透は前置きだと先述し、アインスタイニウムについての説明を始めた。
元素記号Es。
発見されたのは1952年━━欧米での水爆実験で、塵の中から確認された。
放射性元素であり、そのままだと時間とともに崩壊していく。
だが、近年になって作為的合成が可能となり、単体金属の生成に成功したらしい。
金属の特徴としては、世にも珍しい銀白色を成しているのだとか。
『元々、七色機関が人材派遣会社だったのは?』
「知っている」
『当時、開発課とは名ばかりでね。僕達は奇人の集まりだと囁かれていたよ。七色機関がそんな開発課を設立した理由は守に起因する』
「守?」
『あぁ、今はこう言った方が伝わるのかな。七色機関開発課総責任者━━守矢夜森だよ』
彼の声は、穏やかに続く。
『守は天才だった━━。彼は独自にアインスタイニウムの金属生成を昇華させて、定着方法を見つけ出したんだ。君達もよく知っているだろう?Einsと呼ばれる指輪には、金属としてのアインスタイニウムが含まれている』
私は反射的に、自分の人差し指に嵌まる指輪を撫でた。
『そして、金属として定着したアインスタイニウムから、ある特殊な放射線が確認された』
「放射線……?」
『僕達はその放射線をIncarnateと名付けた。具体化という意味だ』
Incarnate━━具体化。心の中で、彼の言葉をなぞる。
『守はその特異性が人材派遣に利用できると説明し、七色機関から研究資金を得ていた。そして、程なくして開発課特異班が結成された。もう十年も前の話だ。僕が守と知り合ったのも、その頃だった』
「まさか……」
『Einsの原型だよ。Incarnateは人間の形状を変える。アインスタイニウムの放射線は人の細胞を侵食するんだ。当時はEins細胞と呼んでいた』
そして8年前。七色機関は、重要な部分を伏せて、Einsを公表した。
「しかし、細胞を侵すのなら……すぐに他の専門家が気付く筈では?」
『Eins細胞が目覚めるのは……変化、変身の時だけだ。それに、IncarnateあってのEins細胞だからね。どちらか一方だけでは解は導き出せない━━それこそ、天才でもなければ』
そして……。と彼は罪を告白する様に、重々しく語り始める。
『特異班は過適合者を意図的に生み出す研究を始める。Einsの変化には、アインスタイニウムの含有量や合成比率による法則性が成立していたのだけど、その法則を無視して、Eins細胞が暴走する過適合者の存在は異常だったんだ。守はその原因を突き止める為に、人体実験を試みると言い出した』
守は、様々な事情から身寄りを失った孤児達を、自らの管理下へ集めたのだと……彼は話し、先を続ける。
『表面上は孤児院を名乗り、その裏では子供達を実験材料にして、Eins細胞の研究を続けた。不適合の結果に何人もの尊い命を犠牲にしたよ。でも、あの頃の僕等には、お互いを咎めない━━暗黙の空気が生まれていた。その段階になって、突然〈七極彩〉の一部が協力を申し出た。彼等がどうやって特異班の存在に気付いたのかは不明だったが、僕達は歓迎したよ』
同じ〈七極彩〉である私には知らされていない事実だった。
「その〈七極彩〉とは?」
『当時の〈赤〉と〈紫〉。赤神仁衛と東雲紫於だ。そして実験は大々的な計画として再始動を迎えた。〈鬼の末裔 (オーガ・チルドレン)〉計画の始まりだ』
鬼の末裔計画━━オーガ・チルドレン・プロジェクト。
透の明かす過去が、拾い集めてきた欠片を少しずつ繋いでいく。
『仁衛のEins〈歪曲〉は空間を超越する。紫於のEins〈黒渦〉は現象を消滅させる。二人の過適合者の協力により、Eins細胞とは別の形で、体内へEinsを直接的に埋め込む事に成功した。それがEins生命体こと〈鬼の末裔〉誕生の経緯だよ』
ここまで話すと、聡い君なら察し始めているだろうね。
そんな彼の言葉が遠のき、目眩に襲われる。
公衆電話を囲む壁へ、肩から寄り掛かった。
私の心情など露知らず、雨頃透の自供は終わらない。
『そこへ〈緑〉である懐森檜士が現れて言った。過適合者を意図的に生み出せたなら、次は過適合を意図的に感染させる研究をしろ……と。そして選ばれたのが夕藤楓さんだった。たぶん、もうずっと前から、守は理性を失ってしまっていたんだ。……そして僕達も』
「どうして〈緑〉はそんな研究を?」
『派遣課総責任者だった彼としては、意図的に『怪人』を生み出されば、『ヒーロー』が活躍する場面が多くなり、派遣課や教育課の需要が増すと考えていたのかもしれない。要はサクラ業みたいなものだ』
特異班に携わっていた遠野浅海は猛反発していた記憶があるよ。とまで話し終えて……雨頃透は一度、深呼吸を挟んだ。
『意図的な過適合の発現を試みる研究。これには〈戦女神〉の府庁が与えられていた。そして、他者へEins細胞を潜伏させ、覚醒まで請け負うEins〈因子〉が開発された。あとは素体となる楓さんへ埋め込めば〈戦女神〉の完成だったよ。だけど、それは叶わなかった。━━〈災厄〉のあの日。楓さんが何者かに殺害されたんだ。そして〈因子〉の移植は〈金〉に試された』
「だから、あの子は……」
『暴走した。……僕達は失敗したんだ』
失敗。その言葉がなによりも辛く響く。
大人達の身勝手な理由で、子供達は地獄を見たんだ。
『それから先は知らない。僕は〈鬼の末裔〉の生き残りを子供として引き取って、七色機関を去ったからね。許されないのは分かってる。けど、どうか理解して貰いたい。今の生活は、僕なりの罪滅ぼしなんだ』
「私は、罪を咎めたくて〈災厄〉の日を追っている訳じゃない」
『そうか。僕からしてみると、君の根底には別れが垣間見える。遺言を残して彷徨っているというか……緩やかな自殺行為を結末として望んでいるように見えるよ。式咲叶子君。僕達の様な大人にも、まだ可能性は残っていると思うかい?』
「可能性……?」
『そう、可能性だ。人は大きくなるにつれて可能性を諦め出す。君は無意識に、可能性を子供達へ託そうとしているのではないかな?』
そんなことは……。
何故だろう。言葉に詰まった。
『死は救済とは無縁だ。覚えておくといい。君が救う為に命を投げ出した所で、残された子供達は決して救われない。それだけは絶対にしてはならないよ』
だが、私は既に幻となった存在だ。
本来なら〈災厄〉の日にこの世界から消えてるべき存在だったのだ。
今の式咲叶子は、蒼乃介のEins〈凍結〉によって、かろうじて幻を保てているに過ぎない。
沈黙した私へ、受話器奥の雨頃透は静かに、声を伝わせる。
『最後に一言だけ言わせてくれ。東雲紫於に━━』
その瞬間。電話ボックスが乱暴に開いた。
咄嗟に振り返ると、眼前には、喪服を装う黒で統一したスーツ姿の男が立っていた。
真っ黒な頭髪は無造作に伸びており、だらしなく開けた胸元からは、色っぽい鎖骨が覗いている。
煙草を咥えており、灰煙が電話ボックスの中に漂い始める。
ホストを思わせるだらしない出で立ちで、男はボックスの角へ腕を曲げて寄り掛かっていた。
雨頃透が受話器越しになにやら話しているが、まるで聞き取れない。
「よぉ……久しぶりだべ。叶子、元気にしとったが?」
気取った風貌に似合わない方言訛りで、男は私を鋭く見据えた。
煙草の先が燃え尽きて、灰が落ちる。
「……あぁ、久しぶりだな。今まで、どこをほっつき歩いていたんだ?━━紫於」
悪鬼こと〈七極彩〉の元〈紫〉━━東雲紫於は煙草を口元から離すと、大きく煙を吐いてみせた。




