蝶〈手紙〉
〈藍〉
━━昔の恋人の手紙を見つけた。
突然、転勤を言い渡されたのが。
先週の、昼を過ぎた頃の出来事だ。
この国の冬は年々、訪れを早めている。
十一月ともなれば、そろそろ霜が降りても不思議ではない。
だが、東京への転勤を知らされた時、外の景色を染めていたのは、
銀杏が散らせる黄葉だった。
「もー、お姉ちゃんも荷物まとめるの手伝ってよー」
耳打つ声に首を曲げれば、扉の前に菜子が立っていた。
怒ってるよ。と言わんばかりに頬を膨らませている。
まるでハムスターみたいだ。
私達の借りているマンションは、それぞれの個室を除けば、台所と居間が筒抜けた一部屋しか残らない。
先に自室の荷造りを終えた菜子は、私の部屋を確かめにきたのだろう。
「ん、なにそれ?手紙?」
私が手につまむ古びた便箋を、興味深そうに肩越しから覗き込む菜子。
咄嗟に裏返した。
「あぁ、昔の恋人のなんだ」
「へー……珍しいね」
珍しい。
菜子がぽつりともらしたその言葉は。たぶん、私が形に残るものを……残していたからだろう。
私自身も内心、驚いていた。
部屋は壁一面を埋め尽くす書棚を例外として、非常に質素だ。
無地の寝具。飾り気のないワークデスク。菜子が強引に買い置いた液晶テレビと、それを支えるオフホワイトのローボード。
テレビの脇には、菜子が気まぐれに買ってくる小物なんかが細々としていた。
「ずっと本棚に挟まっていたみたいだな」
どうして本と本の隙間に隠れていたのか。心当たりがなければ、見当もつかなかった。
その癖、なぜか文面だけは、読み返す前から滑らかに思い出せる。
「今時、手紙なんだ」
あぁ、珍しいというのは、そういう意味か。
「彼なりの最後のアピールだったんだろうね」
その手紙は、別れ際に貰った、彼との最後の繋がりでもあった。
「いつ頃の彼なの?」
にやりと小悪魔めいた微笑を浮かべつつ、菜子が訊ねてきた。
「私が〈七極彩〉になる前だな。七色機関に就職が決まって、その折に別れた」
七色機関へ〈七極彩〉の一人として就職してからは、一度も異性と交際していない。
つまり、私にとっての最後の恋人でもある。
この胸を焦がすものは決して消えないし、もう次はないだろう。
だから、最後の恋人と言い切れる。
「ふぅん、私は会ったことないよね?」
疑問符を頭上に浮かべ、人差し指を顎にあてながら子首を傾げる菜子。
そういう刷り込みはしていないから、当然の反応だ。
当然なのだが……微かに胸が痛んだ。
「彼は人見知りが激しかったからね」
「そんな人がお姉ちゃんと付き合えるなんて……ちょっとびっくり」
「どういう意味かな?」
「そのまんまの意味です」
おどけて喋る菜子に、やや大袈裟な溜息を返す。
「どんなことが書かれてるの?」
今年の春、晴れて高校生と名乗れる身分になった菜子。
しかし、まだ一度も惚気の類を聞いた覚えがない
自賛にも思えて嫌なのだが、菜子は容姿端麗、磊磊落落━━非常によくできた妹だ。
クラスの男子に言い寄られても、なんら不思議ではないのだが。
そもそも菜子にはまだそういう願望が薄いのか、或いは、高嶺の花みたいな扱いでも受けているのか。
どちらにせよ、一度くらいは、幸せそうに恋人と笑う菜子を見ておきたいものだ。
「なに……徒然と謝罪が続くだけだよ。君の苦しみに気付けなくてごめんだとか、別れを言わせてしまってごめんだとか。ただ」
「ただ?」
「最後だけ、ちょっと違うんだ」
「どう違うの?」
続きが気になる。とでも言いたげに、更に顔を近づけてくる菜子。
私達の繋がりの証明でもある濃紺色の頭髪の先が、さらりと頬をくすぐった。
花蜜のような甘ったるい香りが鼻孔の奥を突く。
「……もういいだろう。さっ、私もすぐ終わらせるから、業者が来る前にコンビニにでも行こう」
「えー」
お姉ちゃん。ずるいなー。とぼやきつつも、菜子は踵を返した。
廊下を擦る足音を耳に確かめながら、私はそっと手紙を翻す。
━━しつこいようだけど。どうか七色機関に関わるのだけは思い直してほしい。これが、僕が君に向ける最後のわがままです。
年上でありながら、どこか頼りない。いかにも彼らしい綴りだった。
そういえば、別れの発端も。温厚な彼と初めて揉めたのも。就職が原因だったな。
Einsの資格取得の為にと通い始めた教育課で、私は過適合を果たした。
当時、過適合の実例はまだ数えるばかりで……稀有な変身能力をも考慮した結果。
七色機関は、私に〈藍〉の道を示してくれた。
もし、自分が違う仕事を選んでいたなら。
もし、自分が彼のわがままに従って『ヒーロー』にならなかったなら。
私は今頃、どこで、どんな生き方をしていただろうか?
きっと、この手紙を見つけたせいだ。
私はちょっとだけ。くだらない妄想に耽っていた。
後悔はしていない。
今のこの幸せな日々は『ヒーロー』として生きる道を選んだからこそ得られたものだ。
この幸せを掴み取るために、多くの贄の山を築いていたとしても。
たとえ、そう遠くない決別が約束されているとしても。
今はただ……この日々が、なによりも大切だった。
ぼんやりと窓の外へ視線を流すと、枠隅に止まる蝶へ目を惹かれた。
燦々(さんさん)と注ぐ陽にあてられて、藍色の羽を一際輝かせている。
━━知ってる?蝶をさ、死の前兆としてみる伝承なんかもあるんだよ。真っ白な蝶々に慕われるのは、年内に亡くなる暗示だったりとか。
思い出すのは……どうしてか。昔の恋人のそんな言葉だった。