椚〈惨殺〉②
〈茜〉
平日の昼時前にして、押切駅の地下通りは人が吐く息で蒸し返し、旺盛さに満ちていた。
学校を休み、この時間帯に押切駅を散策するのは久しぶりだった。
まだいちょうの葉が緑豊と茂っていた記憶があるから、少なくとも一ヶ月は経っている。
寒冷さを増す街中に反して、地下通りはふんわりと暖気に包まれており、心なしか、交錯する人々の足取りも力強く感じられた。
マクドナルドでコーヒーを啜りながらノートパソコンへしかめ面を向ける男性のなで肩や、化粧品売り場で、口紅を掌に転がす老婦人のずんぐりとした丸い輪郭。
人が集まりやすい駅の特色上なのか、多種多様な人間の生活模様というやつが断片的に覗えた。
そこにささやかな非日常感を覚えた。或いは、おぼろげな解放感を。
昨夜、古賀大臥さんと待ち合わせを取り決めた喫茶店は、地下道の奥にひっそりと紛れ……いかにも、オーセンティックな雰囲気を漂わせていた。
高校生が一人で入るには些か敷居が高い印象だが、まぁ、待ち合せだからな。仕方ないよな。
などと、可愛らしい色使いと筆記体で出迎えてくれているウェルカムボードへ言い訳し、扉を押し開ける。
ちりん。とまたベタに鈴が鳴り、室内にはジャズだろうか?あんまり詳しくはないのだが、それっぽい曲調がのんびりと浸透していた。
唇の上にお茶目なひげを蓄えた老人が、しゃがれた声で歓迎してくれる。
「えっと、待ち合せなんですが……」と、店内を見回せば、すんなりと大臥さんは見つかった。
大臥さんは今日もスーツ姿だ。相変わらず真っ赤なネクタイが派手に映る。
色素の焦げ落ちた頭髪は所々毛先が跳ねてはいるが、過度に伸びておらず、清潔の範疇にしっかりと収まっている印象だ。
おはようございます。と軽く会釈し、テーブルを挟んで反対側に座る。
「おはよう、茜君。突然すまなかったね……学校は、本当に良かったのかい?」
「まぁ、前からサボり癖はあったので、大丈夫です」
「ははっ、あまり感心はしないなぁ」
とは言いつつ、穏やかに笑う大臥さん。
注文を受けに来た女性にとりあえずホットコーヒーを頼む。
「あ、僕にも同じものを」
見れば、大臥さんのカップは既に底が覗いていた。
「俺に話したい事って……なんですか?」
いきなり本題へ切り込んだ。
昨夜の通話において、君に話したい事があると告げた時の大臥さんの声色は、どこか深刻さを帯びていた。
今までの関わりから、彼が演技をする類の人間とはあまり思えない。いや、信じたくない……になるのか。
だから、俺は疑心を挟む余地もなく応じたのだ。
「あ、先にさ、これ、もし良かったら受け取ってくれないかな?」
まるで恋人へ記念日の贈り物を渡すかのような言い草で、大臥さんは脇に寝かせていた紙袋をこちらへ差し出した。
黙って受け取る。
大臥さんは「この前、実家から届いたんだけどね、僕一人じゃあ中々食べきれないし、菜子ちゃんから聞くに、君は一人暮らしなんだろ?困った時にでも活用してくれ」と付け加えた。
確認してみれば、レトルト食品が詰まっていた。普段、まず自分で買う事はないから、素直に嬉しい。
「大臥さんはいつ頃から『ヒーロー』として働いてるんですか?」
なんとなく、俺の口をついたのはそんな質問だった。
「高校卒業してからだね。もうすぐ二年になる」
「えっ、まだ二十歳なんですか?」
「そうだよ。Einsに過適合したのは、高校一年の頃だった。あれがなければ、僕は公務員として働いていたか、今もまだ浪人していたか。たぶん、そのどちらかだったのだろうね」
「公務員ですか……」
「父親が警察官なんだ。だからさ、今はちょっとだけ喧嘩中になるのかな」
リアルな背景を誤魔化すように頬をぽりぽりと掻く大臥さん。
警察官と『ヒーロー』の相互関係は基本的に険悪だとされているが、大臥さんの場合も例に漏れず、家族だろうと、その確執は拭えないのだろうか。
お待たせしましたーと黄色い声でカップを置いていく女性には目もくれず、大臥さんは続けた。
「茜君、君はさ『ヒーロー』になりたいかい?」
たぶん、それは職業として……将来的に『ヒーロー』として生計を立てていきたいのか。という響きを込めた質問だ。
「正直……まだわかりません」
「ならどうして、あの時……君は、模擬戦に参加したいと言ったんだい?」
やはり、そこか。下心とはさすがに言えない。
「大切な人が居るんです。俺……〈災厄〉で記憶を失ってるんですけど、それからの四年間で、たった四年間でも、大切にしたいと思える人に出会えたんです。なのに、そいつにちょっと見栄をはっちゃって」
「だから、コスプレまでして『怪人』に立ち向かってたのか」
「馬鹿らしいですよね。けど、今はもうただの嘘じゃなくなってきたって言うか、もし俺に『ヒーロー』という選択肢があるのなら、頑張ってみるのもありかなって、菜子とか見てて思い始めたんです。きっかけは嘘だったけど、なら真にしちまえばいいじゃねーか。って安易な発想なんですけどね」
「僕は、『ヒーロー』に求めるものって、正義だけじゃないと思っているんだ。ヒーローって単語には、それまで培われてきた先入観がつきまとっているだろ?けどさ、頑なに正義を志す『ヒーロー』なんて、ほんの一握りだよ。僕等は仕事として生活する為に『ヒーロー』を名乗っている訳だし、大切な人の為に『ヒーロー』を目指すのも、人間らしくて素敵だと思うよ」
コーヒーを一口。喉を潤おし、答えた。
「どうしたいのか迷ってるってのが正直な感想です」
「僕も正直に話すけど『ヒーロー』ってのは、ただEinsの資格を取得するよりも数倍、道のりは険しい。運命的な〈過適合〉に出会えれば、ぐっと距離は縮まるけど、誰もがそうじゃない。資格だけ取って挫折するケースがほとんどだ」
それでも……と大臥さんは表情を引き締め、言い放った。
「君には素質があるよ。あとは君自身が信じ切れれば、きっと『ヒーロー』としての素質は開花する」
「どうしてそこまで……」
「勘。……だとあんまりだよね」
大臥さんはどこまでも黒く濁ったカップの表面を凝視し、唇を噛んだ。
言葉を吟味するかの様な静かな間に、金管楽器の音色が波を打っている。
「今はまだ、君を唆したくはないんだ。君が自分の口で『ヒーロー』になりたいんだと告げてくれた時、僕が話せるだけの事を君に話そう」
「それだけ言われると、なんか意味深で、生殺しなんですけど」
「ははっ、ごめんね。うーん、そうだなー……じゃあ、一言だけ」
その瞬間だけ、大臥さんの目つきが変わった。
遠景に郷愁を馳せているような、寂しげな瞳。
「夕藤茜君。君の母親はとても綺麗な人だったよ」
ちくり、と針に刺されたような激痛が脳を襲った。
「……っ」
何かが━━断片的に明滅した。
思い出せない。
俺は……、何をしていた……?何かを……、恨んでいた?
「やっぱり余計だったか。茜君、さっきの言葉は忘れてくれ」
「なっ、忘れろって言われてもっ!!」
「本当にすまない、もうこれ以上話せる事はなにもないんだ。……そうだな、明後日、30日に〈七極彩〉が仮本部へ召集されるのは知ってるかな?もし君の中で答えが出たのなら、30日……日曜日にまた会おう。代金は払っておくから、できるなら今からでも学校に行きなよ」
そこまでを一方的に言い残し席を立つ大臥さん。
俺はその後ろ姿を無言で見送ることしかできなかった。
〈藍〉
ん、と私は人知れず小声をもらした。
休日、押切駅近くの書店にて、作家『安藤誠一』の新著を買い求めた帰りの道中。
二両車線を挟んですれ違う、見覚えのある制服姿。
黒髪はぼさぼさと無造作に伸びており、痩せた体躯が頼りなく映る。
腕時計を見やれば、時刻はまだ昼過ぎだ。
菜子は普段通り登校していったし、テスト期間だとか、そういった類の話は聞かされていない。
まさか、さぼりか?
ふと興味を引かれた私は踵を返し、少年の背中を追う事にした。
車道を隔てて彼との距離を縮める中、私は数日前に教育支部で繰り広げられた模擬戦を思い出していた。
「最高値は……あの」
「どうした?先を続けてくれ」
言い淀む男性の背中へ、報告を促す大臥。
茜君に渡したEinsは、適正訓練用に造られた擬似的なもので、それ自体が検知器の役割を果たしているものだった。
「100%です。安定域も±0……『怪人』と同じパターンです」
「馬鹿な……」当惑した表情で、大臥はじっとモニターを……映り込む茜君を一心に見据えている。
結果はミニスの勝利に終わっていたが、過程には幾つかの感服すべき場面があった。
とても初めてEinsに触れたとは思えない判断力、思考力、そして二度の発動を遂げたEins。
パターン『怪人』とされる適正値と安定域だが、正確には『怪人』以外にもその数値を叩き出す事は可能だ。
現在、過適合者とEinsの相互関係には、複数の法則が炙り出されている。
第一に……過適合者は、過適合したEinsを装着している限り、別のEinsを一切発動できなくなる。
次に、過適合したEinsは対象となる過適合者が生きている限り、他者には反応を示さなくなる。
また過適合者が他界した場合、過適合したEinsはその能力の形を残すが、次なる過適合者を見定めるまでは元々の通常変化しか見せない。
そして、過適合者は、過適合したEinsを外している時に限り、通常変化に限定して別のEinsを行使できた。
その際に適性を測れば、必ず『怪人』と同様、最高値100%、安定域±0となるのだ。
つまり、どうやら本人は無自覚らしいが、夕藤茜なる人間は既に過適合者として覚醒しており、現在は過適合したEinsを手元に残していない。という推測が立つ。
これは現時点で言えば、かなり信憑性の高いものだ。
では、なぜ彼は現在、過適合した筈のEinsを所持しておらず、そもそも自らが過適合者である事を忘れているか。になるが、菜子の話を聞くに、彼は〈災厄〉にて記憶を失っているのだとか。
それが真実であれば、結論付けも容易だった。
━━夕藤茜は、〈災厄〉の被災者である以前に〈災厄〉における〈金〉に蝕まれた犠牲者なのだ。
だとしたら、胸をきつく締め付けるものがある。
記憶の喪失は蒼乃介によるものだろうか?
蒼乃介のEins〈凍結〉であれば、忌まわしき〈災厄〉の記憶を冬眠させる事も可能だろう。
事実、〈災厄〉へ遅れて駆け付けた蒼乃介は多くの生存者の記憶を凍てつかせていた。
〈七極彩〉として七色機関に属する手前、罪悪感にも苛まされる。
〈災厄〉の全貌は私にも分からないし、〈七極彩〉があの日について、それぞれ黙秘している限りは、真相は隔離された中央区と共に埋もれたままだろう。
ただ、間違いなく……元凶は七色機関にあるのだ。
それを掘り返さないのは、もはや善悪などで推し量れる境界を逸脱しているからである。
私は〈災厄〉にて、誰にも明かせない秘密を抱えている。
それは大切な居場所を守る為、半ば幻となってしまった生涯において背負い続けなければならない業のようなものだった。
〈茜〉
「茜君」
「ひぁっ!!」
完全に……上の空だった。
突然、背後より呼び止められた俺は、口を縦に広げ、びくりと肩を痙攣させた。
「すまない、驚かせるつもりはなかったんだ」
振り返れば、菜子の姉であり〈七極彩〉の〈藍〉こと式咲叶子さんの姿。
ん、今日はスーツじゃない。
淡い茶色のシャツに、ベージュのカーディガンを重ね、細みのジーンズを履いている。
スーツの時よりも、知的な雰囲気が倍々だ。
大人びた表情で、まっすぐにこちらを見つめてくる。
また心臓を脈打つ感覚が短く刻み出す。
駄目だ、この人と向き合うと、どうも緊張する。
「学校はどうしたんだい?」
「さぼりです」
あっけからんと呟く俺に、やや呆れた様子の叶子さん。
大臥さんとの接触については伏せておく。
「一年生の頃からそれじゃあ、先が思いやられるな」
「ははっ、ほんとそうですよね」
叶子さんに訊ねてみたい事はたくさんあった。
ミニスのこと。
〈永久切〉のこと。
〈罪色樹〉のこと。
そして……。
「あの、叶子さんって〈災厄〉の時〈七極彩〉として中央区に居たんですよね?」
俺の問い掛けを受けて、叶子さんは中々口を開こうとしなかった。
道端に立ち止まる俺達の脇をぽつぽつと通り過ぎていく人影。
赤縁眼鏡の奥に覗く山吹色の瞳は、先を虚空に彷徨わせていた。
話すべき箇所を慎重に吟味し、どうすべきか決めかねているかの沈黙。
Y字交差点の枝分かれ部分に聳えるビルの壁面へ立て掛けられた巨大なモニターが連続猟奇殺人犯〈永久切〉について報道していた。
「茜君。君は〈災厄〉について、どこまで知っている?」
やがて、叶子さんは街中に漂う喧騒に紛れて、ぽつりと零した。
「中央区を中心に半径約20kmが立入禁止区に指定された。って事ぐらいは」
言われてみれば〈災厄〉について説明できる部分なんてほとんどなかった。
ただ漠然と、結果だけが残され、過程についてはほとんどが隠蔽されているからだ。
「なぜ立入禁止区にされたのか、わかるかな?」
「えっと、一説によればあらゆる生物が住み着くのが困難になったとか、なんとか……ですよね?」
「それは後始末に過ぎないんだよ。〈災厄〉の地から生物が消えたのは〈七極彩〉の〈緑〉による仕業なんだ」
「〈緑〉って、たしか七色機関の派遣課総責任者である懐森檜士ですか?」
━━懐森檜士。
〈三森〉の一人であり〈七極彩〉の〈緑〉。
七色機関の重鎮であり、『ヒーロー』の最高齢者だと言われている。
決して表舞台に立たず、その容姿はほとんど謎に包まれていた。
名称だけが各方面へ独り歩きしている人物だ。
「そう、彼のEinsによって〈災厄〉の地は死に絶え、〈災厄〉の真相は塗り変えられた」
「それって……」
どう考えても機密事項だ。軽々しく口外すべき情報じゃないよな。
叶子さんが俺の懸念を肯定する。
「〈災厄〉に関与していたごく一部の者しか知らない事実だよ。〈災厄〉の後に〈七極彩〉へ選ばれたミニスや命琉も知らない筈だ」
「どうしてそんな事を俺に?」
「菜子から聞いたよ。君は〈災厄〉で記憶を失ったのだろ?」
「はい」
「たぶん、それは失われたのではなく、故意に消されたものだ」
俺はずっと、自分を襲った悲劇……記憶喪失を〈災厄〉による二次災害だと思い込んでいた。
しかし、叶子さんは偶然を否定し、作為だと主張する。
大臥さんとの接触時に襲われた頭痛。その奥に垣間見えた光景を必死に思い出そうとする。
「ぐっ……」
また鋭い痛みが脳を奔り、思わず膝が折れた。
「茜君。ときには忘れたままでいた方が幸せになれる場合もある。君には大好きな妹さんがいると聞いたよ。よく考えてみてくれ。私は一度、仮本部へ足を運ばなければならないから、次に会えるとしたら月を跨いでからになるが、もし、今の日常と、消された過去とを秤にかけて、それでも〈災厄〉について知りたいと願うなら、私なりに答えてあげようと思う。だから、じっくり考えるといい」
屈んだ俺を置き去りに、人波へ紛れ遠のいていく叶子さんの影。
その日、大臥さんが、そして叶子さんが去り際に残した命題は、俺の鼓膜にこびりついたまま、いつまでも消えなかった。




