◇おまけ
【とある日常の裏側/『糧召喚』拍手お礼おまけ】
「……ナユ様はお眠りになられたのですね」
「ああ」
那由を強制的に眠りにつかせてから間を開けず、扉を叩く者がいた。
短く入室の許可を出せば、忠実に仕事をこなす執事のクウィデアが姿を現し、開口一番にそう言った。
手には茶器を乗せた給仕カートがある。
暇を持て余す那由の話し相手を兼ねたお茶汲みに来たようだ。ついでに、サボり魔な主の動きもよく把握しているようで、カート上にはしっかり二つのカップが用意されている。一つはもちろん那由の分であり、もう一つはローディハイの分で、クウィデアのカップはない。那由はよくクウィデアも一緒にと誘うのだが、お堅い執事は職務中を理由に頑なに断り続けている。
かちゃり、とごく僅かな音をさせてクウィデアが茶の用意を始めたのを横目に、ローディハイは那由を抱えたまま、予備動作もなく上体を起こした。人を抱えながらの動きとは思えない自然な動作だ。
ローディハイの身体は鍛え上げられたものではない。“鍛え上げた”のではなく、“鍛え上がっていた”のだ。
魔界の将軍職を勤め上げるローディハイは元来、残忍で気の短い男だ。剣と言わず手近なものならなんでも適当に振り回し、屈強で同じく気の短い魔界の並み居る男どもや小賢しい人間を薙ぎ払ってきた結果、ローディハイの身体は望むでもなく勝手に鍛え上げられていた。鍛錬の賜物とは言えない、もっと実践的な筋肉が備わっている。
ローディハイは当然のように那由の細い肩を支え、立てた己の片足に寄りかからせた。
自然な眠りではないから扱いに気を遣わずとも目を覚ますことはないだろうが、人である那由は力加減を間違うと簡単に壊れてしまう。
誰かを壊さぬようにと気を回す己を胸の内で密かに哂いながら、それでも静かに腕に収まる那由を眺めてローディハイは満足げに金の瞳を細めた。
力なく仰け反る白い首筋が目の前に晒されている。
ほんの少しの力で潰れてしまいそうな頼りない首だ。いつでも壊せる。しかしまだそのときではない。
ローディハイは引き寄せられるように、白く香り立つ首筋に唇を這わせた。
薄い皮の向こうに熱い血潮を感じる。
違和感があるのか、眠る那由が小さな声を上げて喉を鳴らした。
こくり、と唾液を嚥下した喉の動きを唇で追い、ローディハイは少しだけ顔を上げた。
仰け反っている所為で那由の前髪は横に流れ、まろやかな額がのぞいている。普段隠されている部分が見えているだけで、肉感的な場所でもないのに色香を放っているように感じるのは何故なのか。
目を眇めながら、ローディハイは那由の首を支えるのとは逆の手で那由の前髪を梳いた。流れのままに髪に手を埋め、もう一度首筋へと顔を埋める。
小さく口を開け、ねっとりと舐め上げた。知らず、熱い吐息が零れる。
この場所を震わせ、甘く芳しく、爪の先までをも満たす美酒を漂わせるのだと思えば、噛み千切りたくなる凶暴な嗜虐心もなんとか抑えられる。
魔界の平定とともに抑圧された破壊衝動は、那由の出現によりいまだ爆発の兆しを見せない。美味い食事としても極上ではあるが、那由の声には鎮静効果すらもあるのか。
眠る那由の声は誰の耳にも届くことはない。だというのに、白い首筋を這うローディハイの舌先からは甘い充足感が流れ込み、体内の奥深く、腹の底を重く熱く刺激する。
さらなるものを求めて首筋から顎先へ、舌は貪欲になめらかな肌を滑っていく。
じんわりと、ローディハイの金の瞳の奥から赤が滲み出した。
滲み、ゆらりゆらりと揺れながら金を侵食していく。まるで機嫌のいい猫が緩く尾を振るように。
ひんやりとした艶のある黒髪に差し込んでいた手を抜く。
その手は勿体つけるように首筋を撫で、襟と皮膚の際を辿り、胸の中心で止められたボタンに指を掛けた。
「――ローディハイ様」
濃密な気配を漂わせていた空気を掻き分けるように掛けられた声。
ローディハイはいまだ瞳の奥で揺らぐ赤をそのままに、ちらりと視線を投げた。テーブルにはいつの間にか紅茶のカップが一つ置かれていた。
「僭越ながら、それ以上はお止めになった方がよろしいかと」
「…………」
面白みのない諫言に興味を失ったよう、ローディハイは執事から視線を外した。
ぷちり、那由のボタンが一つ、容易く外される。
ボタンの一つ程度では、秘された白い肌は晒されることはない。
「ローディハイ様。お食事の質を落とすことに耐えられますか」
静かな声はさらに追い縋る。
この場合の食事とは当然、那由の歌声のことだろう。
ローディハイの答えなど百も承知で問うてくるのは、つまり暗にこれ以上の行為は止めろと言っているのだ。
那由を好き勝手に扱えば、那由はローディハイのために歌うことをしなくなる。となれば、魔族の誰をも魅了するかつてないほどの美食は失われる。
「……鳴かせる方法などいくらでもある」
それは事実だ。
那由は所詮、何の力も持たない、ただの人間だ。この魔界では女にすら敵わない。まして、ローディハイが本気で掛かれば、いくらでも口を開きたくなるよう事態を引き起こすのは簡単だ。
ローディハイの指が、わずかに寛げられた襟元を撫で、二つ目のボタンに掛かった。
「……。それで、ご満足なさる自信がおありなのであれば」
「…………」
満足。
満足などするはずがない。
那由の意思で発された声でなければ、喉を刺すような不快な苦みが混ざる。
それでも他に比べれば格段に美味い食事ではあろうが、一度最高を知った舌と身体が落ちた味に耐えられるわけがないのだ。
ローディハイは慇懃に頭を下げ続ける執事を鋭く睥睨し、那由の顎先をひと舐めすると緩慢な動作で顔を上げた。
気怠げに漆黒の髪をかき上げる。
執事が佇む方向からごく微かに零された安堵の吐息などには興味はない。
ローディハイはいまだ安らかな寝息を立てる那由を見、一拍置いて再び顔を下していった。今度は執事の制止もかからない。
ゆっくりと、薄く開いた桜色の唇に触れる。
薄皮一枚が重なるだけの、あるかないかの感触。
数度瞬く程度の間を開けて、直ぐに唇は離される。
ローディハイは指で那由の顎を引き、大きく息を吸った。
と同時に、那由の開かれた口から黒い靄のようなものがずるりと這い出し、ローディハイの口中へと吸い込まれていく。
異様な光景に、疑問を呈する者は誰もいない。
やがてすべてが那由からローディハイへと移った。
腕の中、静かに呼吸を繰り返す那由の頬は眠る前よりも血色が良くなり、薔薇色に染まっている。
ローディハイは満足げに那由の頬を舐め上げ、再びソファへ那由ごと身を横たえた。今度こそ、目を閉じ惰眠を貪る態勢に入る。
すかさず掛けられた柔らかい感触を鼻で笑い、音もなく部屋を出ていく気配を意識の片隅で確認したローディハイは、静かに微睡の中へと沈んでいった。




