「黙って笑えないならいらない」と捨てられた八歳の公爵家五女、辺境の魔女先生に鍛えられて王都の大人たちを黙らせる
【短編版】「黙って笑えないならいらない」と捨てられた八歳の公爵家五女、辺境の魔女先生に鍛えられて王都の大人たちを黙らせる
一 黙って笑えない五女
「リゼット。あなたは、どうして普通に笑えないの」
お母様の声は、いつもきれいだった。
今日も、きれいだった。
だからこそ、その声で責められると、胸の奥がきゅっと小さくなる。
お茶会の午後だった。
家庭教師のラングレー先生が、古い詩を読んでくれていた。
王国の始まりをたたえる、有名な詩だ。
先生の声は銀の鈴みたいに響いた。
姉様たちは背筋を伸ばし、扇で口元を隠して、上品に微笑んでいた。
私は、ただ一つだけ言った。
「先生。その年号は、間違っています」
それだけだった。
その詩の中では、初代国王が即位したのは、雪解けの春だと語られていた。
でも、王立年代記の第三巻には、雪が降る前の秋だと書かれていた。
王国暦の年も、月も、合わなかった。
どちらかが、嘘だった。
私は、嘘が好きではなかった。
だから、聞きたかっただけなのだ。
「先生。どうして、年代記と違うのですか」
ラングレー先生の声が、そこで止まった。
部屋の空気が、急に冷たくなる。
姉様たちの扇が、ぴたりと止まった。
長女のアデライード姉様は、目だけで私をたしなめた。
次女のベアトリス姉様は、ため息を隠すように紅茶を口に運んだ。
三女のクラリス姉様と、四女のディアナ姉様は、扇の陰で小さく笑った。
お母様は、笑わなかった。
ラングレー先生は、薄い唇をきゅっと結んだ。
「リゼット様。私には、もう、教えることができません」
「え」
「教えるべきことが、多すぎるようです」
先生は、私のほうを見なかった。
お母様に深く礼をして、その日のうちに帰ってしまった。
夕方、私はお母様に呼ばれた。
「リゼット。あなたは、どうして普通に笑えないの」
お母様の白い指が、私の頬を撫でた。
撫でているのに、ちっとも温かくなかった。
「ただ黙って、可愛らしく笑っていればいいだけなのに」
私は、口の端を持ち上げた。
笑ったつもりだった。
でも、お母様の顔は、もっと冷たくなった。
「そういうところよ」
そういうところ。
私は、その言葉が嫌いだった。
どこが悪いのか教えてくれないのに、全部が悪いと言われている気がするから。
「お父様がお呼びです」
そう言われて、私は書斎へ向かった。
お父様の書斎は、いつも煙草のにおいがした。
重い扉の前に立つと、足がすくむ。
中に入る前から、もう叱られることが分かっていた。
「入りなさい」
低い声がした。
私は扉を開けた。
お父様は、大きな机の向こうに座っていた。
私の背では、机の上の書類はよく見えない。
でも、机の端に置かれた紙に、赤い封蝋が押されているのは見えた。
深く、深く押された、オルブライト公爵家の印。
その時の私は、まだ知らなかった。
大人たちは、子供を動かす時にも、紙を使うのだ。
「リゼット」
お父様は、私を見なかった。
書類を見ていた。
「はい、お父様」
「お前の目は、よく物を見る」
褒められたのかと思った。
「帳簿のずれも、歴史書の矛盾も、大人の建前も見抜く」
胸の奥が、少しだけ明るくなった。
でも、次の言葉で、その明かりは消えた。
「だが、それは公爵家には不要だ」
お父様の指が、書類の上で止まる。
「貴族の娘は、嘘に気づいても、気づかないふりをして微笑むものだ。お前の目は、家に敵を作る」
「お父様」
「辺境のクロウ女史に預ける」
私は、顔を上げた。
「辺境……?」
「マグダレーナ・クロウ。王立学院の元主席教官だ。お前の頭には、ちょうどいい鞭になるだろう」
鞭。
その言葉が、胸の中でぐにゃりと曲がった。
「お父様。私、もう、空気を読みます」
声が震えた。
「ちゃんと黙ります。お母様にも、笑ってみせます。ちゃんと、笑えます。ですから――」
お父様は、ようやく私を見た。
私と同じ灰青色の目。
でも、少しも似ていない目だった。
「リゼット」
「はい」
「お前は、笑えない」
それだけだった。
私の荷物は、もう廊下に積まれていた。
小さな鞄が二つ。
着替えと、本が少し。
お母様は、見送りに来なかった。
姉様たちは、階段の上から扇の向こうで小さく手を振った。
私は、いらない子供だった。
馬車が動き出す時、私は窓から屋敷を見た。
白い壁。
広い庭。
何度も歩いた石畳。
もう戻ってはいけない場所になった。
お父様の机の上にあった、封蝋の紙。
あれはきっと、私を辺境へ送るための紙だった。
子供一人を運ぶにも、大人は紙を使う。
私は、娘ではなかった。
私は、荷物だった。
二 荷物ではなく客人
北は、寒かった。
馬車の窓から見える木は、だんだん低くなっていった。
屋敷も、花壇も、きれいな噴水も消えた。
代わりに、灰色の空と、白い雪が増えた。
使者のおじさんは、私とほとんど話さなかった。
私が寒くて外套を握ると、
「お嬢様、お疲れでしょう」
と言った。
私が食事を残すと、
「わがままはいけません」
と言った。
私は疲れていた。
寒かった。
お腹もすいていた。
でも、それは言ってはいけないことなのだと、なんとなく分かっていた。
馬車が止まった時、外はもう夜だった。
大きな門が開く。
雪の上に、黒い長靴が立っていた。
長靴の主は、大きな男の人だった。
お父様よりも背が高い。
肩が広い。
黒い外套に雪が積もっている。
髭の端まで白く凍っていて、まるで冬の森から出てきた熊みたいだった。
辺境伯ギデオン・レーヴェン様だった。
使者のおじさんは、馬車を降りると、深く礼をした。
「辺境伯閣下。オルブライト公爵家より、この荷物をお届けに参りました。どうぞ、適当にお扱いください」
荷物。
その言葉は、私の頭の上を通って、雪の中に落ちた。
私は、何も言えなかった。
ギデオン様は、しばらく黙っていた。
それから、低い声で言った。
「荷物?」
使者のおじさんは、笑った。
「ええ。公爵家としては、もはや家名を冠することもためらわれる、その――」
「荷物?」
ギデオン様は、もう一度言った。
声は大きくなかった。
でも、使者のおじさんの笑顔は、すうっと消えた。
ギデオン様は、私の前に膝をついた。
それでも、私のほうが見上げる形になった。
「お嬢さん。名前は」
「リゼット・オルブライトです」
「リゼット嬢」
ギデオン様は、私の目を見た。
ちゃんと、私の目を見てくれた。
「この子は、荷物ではない。客人だ」
それから、使者のおじさんに向き直る。
「ここでは、身を寄せた客人を荷物扱いしない。お引き取りいただこう」
使者のおじさんは、何か言いたそうだった。
けれど、ギデオン様の顔を見て、口を閉じた。
馬車が、雪の中を帰っていく。
その音が遠ざかるにつれて、私は急に怖くなった。
王都に戻る道が、なくなった気がしたからだ。
でも。
荷物ではない。
客人。
その言葉だけが、胸の奥に残っていた。
屋敷の中は、暖かかった。
豪華ではなかった。
王都のお屋敷のような絵も、金色の飾りもない。
けれど、石の壁は厚く、隙間風は入ってこなかった。
暖炉には、太い薪が赤々と燃えていた。
私は、暖炉のそばに座らされた。
分厚い毛布を、肩にかけてもらった。
それから、湯気の立つ皿が、私の前に置かれた。
スープだった。
ジャガイモと、お肉と、知らない香草が入っている。
スプーンは大きくて、私の口には入らないかと思った。
でも、ちゃんと入った。
熱かった。
おいしかった。
一口飲むと、お腹の底まで温かくなった。
私は、なぜか涙が出た。
王都のお屋敷でも、スープは出ていた。
もっときれいなお皿で、もっと薄い味のスープが出ていた。
でも、こんなに熱くはなかった。
「お代わりは要るか」
ギデオン様の声がした。
私は首を横に振った。
それから、すぐに縦に振った。
自分でも、どっちが本当なのか分からなかった。
ギデオン様は何も言わず、お皿にもう一杯、スープをよそった。
その夜。
寝室に通されたあと、扉が小さく鳴った。
入ってきた人は、黒い服を着ていた。
頭から足まで、まっすぐな黒。
髪は後ろで一つに結ばれている。
銀縁の眼鏡の奥の目は、冬の空みたいな灰色だった。
「マグダレーナ・クロウです。明日から、あなたの教師となります」
冷たい声だった。
私は、毛布の中で膝を抱えた。
この人が、お父様の言っていた鞭なのだと思った。
魔女先生は、ベッドの横に立った。
椅子には座らなかった。
「リゼット嬢」
「はい」
「泣くなら、今夜のうちに」
私は、まばたきをした。
「明日からは、泣いた理由を説明していただきます」
それだけ言って、先生は出ていった。
扉が、ぱたん、と閉まる。
私は、毛布の中で縮こまった。
泣いてもいいのだ、と思った。
でも、明日からは説明しなければならないのだ、とも思った。
私は、その夜、たくさん泣いた。
王都で泣けなかった分まで、泣いた。
ここも怖い場所かもしれない。
そう思った。
でも。
私は、荷物ではなかった。
ここでは、客人だった。
それだけが、毛布の中の小さな灯りだった。
三 赤インクと踏み台
翌朝、教室に通された。
教室には、黒い机が一つあった。
椅子も一つ。
奥には、大きな黒板。
王都の遊戯室のように、花も、絨毯も、甘い紅茶の香りもない。
魔女先生は、もう待っていた。
「お座りなさい」
私は座った。
机は、私には少し高かった。
それでも文句は言わなかった。
「王国法典、第三章。自由意思による陳述に関する条文を書きなさい」
私は、ペンを取った。
その条文なら知っている。
お父様の書斎で、こっそり読んだことがあった。
全部、覚えていた。
私は、一字も間違えずに書いた。
文字の形にも気をつけた。
はねも、はらいも、王都で習った通りにした。
最後の句点を打って、ペンを置く。
「書けました」
先生に紙を渡した。
先生は、紙を受け取った。
黙って読んだ。
それから、机の上に置いた。
赤いインクの瓶のふたを、ぱちん、と開ける。
ペン先を、赤いインクに浸した。
先生は、私の紙の上に、ぐっと太い斜線を引いた。
赤い線が、私のきれいな文字を横切った。
「不合格です」
息が止まった。
「先生。私、一字も間違えていません」
「ええ。一字も間違えていません」
先生は、私の目を見た。
「では、その条文のどこが、あなたを守る盾になりますか」
私は、答えられなかった。
「どこが、あなたが無理やり連れていかれないための盾になりますか。どこが、あなたが嘘の数字に気づいた時、口を開くための土台になりますか」
私は、首を振った。
分からなかった。
ただ覚えていただけだった。
きれいに書けるようにしていただけだった。
先生は、冷たい声で言った。
「言葉の羅列を覚えるだけなら、鳥にもできます」
胸が、きゅっと痛くなった。
「知識は、飾るものではありません。自分を守るために使うものです」
涙が、ぼろぼろ落ちた。
王都では、泣くと叱られた。
お母様は「みっともない」と言った。
姉様たちは、扇の陰で笑った。
ここでも叱られるのだと思った。
でも、先生は怒鳴らなかった。
代わりに、白い紙を一枚、私の前に置いた。
「泣いた理由を説明しなさい」
「え……」
「泣いている理由を書きなさい。できるだけ正確に」
私は、しゃくり上げながら、紙に書いた。
『悲しかったからです』
赤い線が引かれた。
「不合格。やり直しなさい」
私は、もう一枚、書いた。
『認めてもらえなかったからです』
赤い線が引かれた。
「不合格。やり直しなさい」
私は、ペンを握りしめた。
鼻水が出た。
手の甲で、ごしごしと拭いた。
それでも、先生は白い紙をもう一枚置いた。
「悲しかった。認めてもらえなかった。それは嘘ではありません。ですが、一番奥ではない」
一番奥。
私は、考えた。
赤い線が怖かったのではない。
先生が怖かったのでもない。
本当に怖かったのは。
私は、震える手で書いた。
『完璧にできないと、また、いらない子として捨てられると思ったからです』
紙を、そっと押し出す。
先生は受け取った。
赤い線は、引かなかった。
「よろしい」
それだけだった。
先生は、その紙を机の引き出しにしまった。
ぱたん、と閉める。
抱きしめてはくれなかった。
頭も撫でてはくれなかった。
「そんなことはない」とも言わなかった。
それでも、その紙はゴミ箱には入らなかった。
私の本当の言葉は、捨てられなかった。
その日の午後。
私は黒板に条文を書くよう言われた。
黒板は高かった。
私の背では、半分より上に手が届かない。
背伸びをした。
腕が痛くなった。
チョークの線は曲がった。
王都なら、きっと叱られた。
「見苦しい」
「もっと美しく」
「公爵家の娘でしょう」
そんな声が聞こえる気がした。
けれど、先生は何も言わなかった。
ただ、私の答えの中身だけを見た。
その日の授業は、それで終わった。
次の日。
教室に入ると、黒板の前に小さな木の踏み台が置かれていた。
ちょうど、私の背丈に合う、低い踏み台だった。
角は丸く削られていて、乗ってもぐらつかなかった。
「黒板に、昨日の条文を書きなさい」
先生は、何も説明しなかった。
踏み台のことには、一言も触れなかった。
私は、踏み台に上った。
ちょうどよかった。
手を伸ばせば、黒板の上のほうにも字が書ける。
私は、書いた。
今度は、ただの条文ではなかった。
『自由意思による陳述は、何人もこれを妨げてはならない』
書きながら、考えた。
この条文は、大人だけのものではない。
八歳の子供にも、口を開く権利があると言っている。
私は、その文字を、いつもより丁寧に書いた。
先生は、踏み台のことを最後まで何も言わなかった。
でも、私の足の下には、確かに踏み台があった。
私は、その日、初めて思った。
この人は怖い。
今でも、怖い。
でも、この人は、私を見ている。
そして、この人は、私の口をふさがない。
四 数字の嘘
辺境での日々は、王都とは何もかも違った。
朝は、雪かきから始まる。
朝食は、堅いパンと熱いスープ。
食事のあとは、勉強。
机の上だけでは終わらない勉強だった。
ある日、先生は言った。
「今日は薪を運びなさい」
私は外に出た。
雪の中で、村の子供たちが薪の束を運んでいた。
私と同じくらいの背丈の男の子が、頬を赤くして働いている。
私は、自分の身長の半分くらいしかない束を一つ運んだ。
それだけで息が切れた。
その子は、私の三倍の束を軽々と背負っていた。
「お嬢ちゃん」
男の子は、私を見て、にっと笑った。
「それ、二束で一回ぶん。三束で半日ぶん。十束で、明日の朝までの分だよ」
私は、ぽかんとした。
その子は、薪の束で時間を数えていた。
火がどれくらいもつかを、体で知っていた。
私は、暦で日にちを数えていた。
本に書かれた数字で、世界を見ていた。
どちらが、本当に役に立つ数字なのだろう。
王都の家庭教師の前では、私はいつも一番だった。
でも、ここでは、薪の束の計算で、平民の子に負けた。
悔しかった。
でも、それよりも不思議だった。
私は、数字を知っているつもりだった。
でも、数字が何を数えているのかは、知らなかったのだ。
数日後。
ギデオン様の執務室に、王都から書類が届いた。
『水路再編計画書』
そう書かれていた。
辺境の貧しい村を救うため、王都から予算をつける。
そういう計画だと、ギデオン様は説明してくれた。
書類には、地図もついていた。
村の名前、川の位置、畑の広さ、工事費。
難しい言葉は多かった。
でも、数字は読めた。
先生は、私の後ろに立った。
「リゼット嬢。この書類を読みなさい」
「私が、ですか」
「ええ」
「でも、これは領主様の書類です」
「数字は、相手を選びません」
私は、机に近づいた。
地図と数字を、交互に見る。
最初に変だと思ったのは、工事費だった。
「先生」
「はい」
「この数字、変です」
私は、指で工事費を押さえた。
「王都のお屋敷で、石の門を直した時、帳簿に出ていた金額より、ずっと高いです。ここの水路は、その門より短いのに」
「水路と門は違います」
「はい。でも、石の量も、人の数も、ここに書いてある日数も、合いません」
先生は、地図を私の方に押し出した。
「他には」
私は、地図をなぞった。
川から村まで、水路を引く線がある。
でも、その線は、途中から丘を上っていた。
辺境に来てから、私は雪解け水を見た。
屋根から落ちた水が、低いほうへ走るのを見た。
村の子が、雪をどけて水の逃げ道を作っていたのも見た。
水は、低いほうへ行く。
「この線、坂を上っています」
「ええ」
「水は、坂を上りません」
「他には」
私は、もう一度、書類を見た。
そして、薪を運んでいた男の子の言葉を思い出した。
束の数。
運ぶ回数。
半日ぶん。
明日の朝までの分。
数字は、物の動きと一緒に見るものだ。
「ここに、荷馬車の道がないです」
私は、地図の白い部分を指さした。
「でも、この計画書には、ここを毎日、荷馬車が二十台通ると書いてあります」
「道のないところを、荷馬車が二十台」
「はい」
私は、指を村の畑へ動かした。
「水路を引くって書いてある場所、村の畑です。畑の真ん中に水路を作ったら、畑が潰れます」
喉が、少し乾いた。
「村を救う計画なのに、畑が潰れます」
先生は、何も言わなかった。
私は、書類を握った。
「先生。この計画、村を救う計画じゃないかもしれません」
静かだった。
ギデオン様が、低い声で唸った。
「……予算の流れが、王都の商会に戻る形になっている。村を救う名目で土地を潰し、あとで買い叩く気か」
私は、その先のことはよく分からなかった。
でも、悪いことが書類の中に隠れていることだけは分かった。
「リゼット嬢」
先生が、私を見た。
「見つけたのは、あなたです。ならば、あなたの言葉で書きなさい」
「私が、ですか」
「ええ」
「でも、私、八歳です」
「八歳で見つけたのなら、八歳の言葉で書きなさい」
「ギデオン様のお名前で出したほうが、効くのではありませんか」
「閣下が出せば、領主同士の争いになります。あなたが出せば、これは、子供にも気づける嘘だった、という証拠になります」
先生は、私の前に新しい紙を置いた。
「誰かの後ろに隠れていては、あなたの目は武器になりません」
私は、ペンを取った。
最初は震えた。
でも、書いた。
『水は、坂を上りません』
『道のないところを、荷馬車二十台は通れません』
『畑の上に水路を引けば、畑は潰れます』
難しい言葉は使わなかった。
私が見たこと。
私が数えたこと。
私が変だと思ったこと。
それだけを書いた。
最後に、署名の欄が来た。
ペンが止まる。
オルブライトの名前を書いていいのか、分からなかった。
私は、もう捨てられた娘だった。
公爵家の名前を使うのは、ずるい気がした。
先生は、私の手元を見て言った。
「その名前は、あなたを縛る鎖にもなります」
「はい」
「けれど、あなたが自分の意思で書いた時、それは、あなたの盾にもなります」
私は、息を吸った。
そして、書いた。
『リゼット・オルブライト』
字は少し震えていた。
それでも、自分の名前だった。
報告書は、王立学術院に送られた。
数週間後、裁定が届いた。
水路再編計画は、白紙撤回。
村は、潰されずに済んだ。
私の報告書は、正式な証拠として受理された。
王都の財務局と、ある商会が調査の対象になったとも書かれていた。
ギデオン様は、書類を読みながら、ふん、と鼻を鳴らした。
「八歳の署名で、王都の蛇が一匹、引きずり出されたな」
先生は何も言わなかった。
でも、その日の昼食には、いつもより一切れ多く、お肉が入っていた。
私は、それが先生のやり方なのだと、もう知っていた。
そして、もう一通、別の手紙が届いた。
オルブライト公爵家からの手紙だった。
ギデオン様は、それを読み終えると、私の方を見た。
「リゼット嬢」
「はい」
「父君が、お前を取り戻したいそうだ」
五 私は帰りません
その日、王都教育評議会の役人が、辺境伯邸に来た。
馬車が三台。
護衛が何人もついていた。
役人は、白い髪のおじいさんと、若いお役人と、書記の三人だった。
白髪の役人は、私を見ると、にこにこと笑った。
その笑顔は、王都のお茶会でよく見た顔と同じだった。
口は笑っていて、目は笑っていない。
応接間に、私たちは集まった。
ギデオン様。
マグダレーナ先生。
私。
そして、もう一人。
お父様だった。
エドガー・オルブライト公爵が、応接間の奥の椅子に座っていた。
私は、お父様の顔を久しぶりに見た。
書斎で、最後に見た時と同じ顔だった。
何も変わっていないように見えた。
ただ、あの時と違って、お父様は私を見ていた。
「リゼット嬢」
白髪の役人が、丁寧に言った。
「我々は、あなたを保護しに来ました」
「保護……?」
「ええ。あなたは、まだ八歳です。実家であるオルブライト公爵家を離れ、辺境の地で、見知らぬ女性教師に教育を受けている。これは、未成年令嬢の保護環境として、適切とは言い難い」
役人は、机の上に紙を置いた。
王家の紋章が押されていた。
赤い蝋で、深く、深く押されていた。
私は、その紋章を知っていた。
私を辺境へ送るための紙にも、同じような印が押されていた。
今度は、私を王都へ連れ戻すための紙にも、同じような印が押されていた。
紙は、いつも同じ顔をしている。
「王立学術院の認定は、あくまで学問上の評価に過ぎません」
役人は、にこにこと続けた。
「未成年令嬢の保護環境を判断する権限は、我々教育評議会にあります。あなたは、洗脳されている可能性があります」
「洗脳」
「ええ。冷たい教師に、長期間、厳しい教育を受けている。子供らしく扱われていない」
私は、先生を見た。
先生は、いつもの黒衣で、まっすぐに座っていた。
何も言わない。
ギデオン様も、口を開かなかった。
胸が、痛くなった。
王家の紋章が怖い。
この紙一枚で、私はまた連れていかれてしまうかもしれない。
その時。
ギデオン様が、低い声で言った。
「リゼット」
「はい」
「お前が、自分で決めろ」
私は、ギデオン様を見た。
ギデオン様は、私の目をちゃんと見ていた。
「お前の署名があるなら、俺は領主として盾になる。だが、その盾を出すかどうかは、お前が決めることだ」
白髪の役人が眉を動かした。
「辺境伯閣下。それは――」
「俺は、客人の口をふさがん」
役人の笑顔が、少しだけ固くなった。
先生が、初めて口を開いた。
「リゼット嬢」
いつもの冷たい声だった。
「泣いた理由を説明できたあなたなら、帰らない理由も説明できます」
私は、思い出した。
赤いインクの斜線。
白い紙の上で震えるペン。
『完璧にできないと、また、いらない子として捨てられると思ったからです』と書いた、あの日の自分。
私は、机の上に紙を置いた。
昨日の夜、先生に教わりながら、自分で書いた紙だった。
陳述書。
その隣に、王立学術院の受理証を置いた。
水路計画を白紙撤回させた報告書の写しも置いた。
正式な教育委託状も置いた。
白髪の役人が、紙を手に取る。
応接間は、しんとしていた。
私は、息を吸って立ち上がった。
椅子の上に、ではない。
床の上に、自分の足で立った。
私は八歳だった。
背は低かった。
でも、もう踏み台がなくても、自分の言葉は出せた。
「私は」
声が、少しだけ震えた。
でも、止めなかった。
「私は、帰りません」
役人が、紙から目を上げた。
「お父様たちは、私に、笑っていてほしかっただけです。間違った数字を見ても、きれいな嘘を聞いても、何も言わない子にしたかったのです」
私は、お父様の方を見なかった。
役人を見た。
「でも、先生は違いました」
先生の名前は出さなかった。
それでも、応接間にいる全員が、誰のことか分かった。
「先生は、私が泣いた時、慰めませんでした。代わりに、泣いた理由を書きなさい、と言いました」
「私が嘘の答案を出したら、赤い線を引きました」
「でも、先生は、私の口をふさいだことは一度もありません」
役人は、笑顔をなくしていた。
「私は、自分で考えて、自分で報告書を書きました。村を救うと言いながら、村を潰す計画でした。私は、それに気づきました。八歳でも、気づけました」
「王都に戻れば、私はまた、黙って笑うだけの子供に戻されます。間違った数字を見ても、見ないふりをする子に戻されます」
私は、もう一度言った。
「だから、私は、帰りません」
「リゼット」
お父様の声がした。
低い、よく知っている声だった。
書斎で、私を辺境に送ると決めた、あの声だった。
「お前の力は、オルブライト家に必要だ」
応接間の空気が、少し変わった。
役人が、お父様をちらりと見る。
先生は黙っている。
ギデオン様も黙っている。
お父様の目は、もう私を見ていた。
書斎の時とは違う。
ようやく、私を見ていた。
でも。
私は、首を横に振った。
「お父様」
「リゼット」
「私は、必要だから帰るのではありません」
自分の声が、ちゃんと出ていることに驚いた。
「私を、いらない子として捨てたあとで、必要だからと呼び戻す。それは、私をまだ、荷物として扱っているだけです」
お父様は、何かを言いかけて、口を閉じた。
「私は、もう、捨てられた時の私ではありません」
「リゼット」
「私を、いらない子としてではなく、一人の人間として扱ってくれる場所にいます」
胸の奥が、熱くなった。
あの日のスープみたいに。
「ここでは、私は、荷物ではなく、客人です」
私は、まっすぐ立った。
「私は、ここで学びます」
お父様は、何も言わなかった。
私を辺境へ送ると決めた時と同じくらい長い沈黙が流れた。
けれど、今度は違う。
黙ったのは、お父様の方だった。
白髪の役人は、しばらく紙を見ていた。
それから、若い役人と書記に、小さな声で何かを確認した。
最後に、深いため息をつく。
「本人の署名。王立学術院の受理証。正式な教育委託状」
役人は、紙を机の上に戻した。
「これを無視して強制執行すれば、評議会側の手続きに瑕疵が出る」
その言葉の意味は、全部は分からなかった。
でも、分かったことが一つだけある。
この人たちは、もう私をそのまま馬車に乗せることができない。
「命令書は、一時凍結とする」
役人は、立ち上がった。
笑顔は、もう作っていなかった。
去り際に、もう一度だけ私を見た。
「リゼット嬢。あなたは、八歳とは思えない」
私は、答えた。
「八歳です。ちゃんと、八歳です」
そして、少しだけ息を吸った。
「ただ、私の言葉を奪わなかった大人がいただけです」
役人は、何も言わずに部屋を出ていった。
お父様は、最後まで何も言わなかった。
帰り際、私の横を通った時、一瞬だけ立ち止まった。
何かを言いたそうだった。
でも、言わなかった。
ギデオン様も、先生も、私の代わりに何も言わなかった。
それでよかった。
これは、私の口で終わらせる話だった。
次の日。
教室に行くと、黒板の前に、まだあの踏み台が置かれていた。
先生は、いつもの黒衣で、いつもの場所に立っていた。
「リゼット嬢」
「はい」
「昨日の陳述書、誤字が三箇所ありました」
赤いインクの瓶のふたを、ぱちん、と開ける音がした。
「不合格です。最初から、やり直しなさい」
私は、笑いそうになった。
王都では、笑えなかった。
ここでは、笑えた。
おかしなことだった。
私は、踏み台に上った。
チョークを握った。
先生は、今日も褒めなかった。
けれど、私の足元には、あの日と同じ踏み台があった。
私は、もう、黙って笑うだけの子供ではなかった。
間違いを見つけたら、言葉にする。
泣いた理由も、帰らない理由も、私の口で説明できる。
だから私は、チョークを握って、黒板に向かった。
赤い線を、恐れずに。
ここまでお読みいただき、ありがとうございました。
このお話は、連載版の導入を短編として再構成したものです。
連載版では、リゼットが辺境の教室でさらに学び、王都の「正しいふりをした大人たち」と向き合っていきます。
赤インクの先生。
無口な辺境伯。
雪の土地で出会う子供たち。
そして、リゼットを「いらない子」として捨てた公爵家との本格的な決着。
短編では描ききれなかった部分を、じっくり連載版で書いていく予定です。
「この子がこの先どう成長するのか気になる」と思っていただけましたら、ぜひ連載版も読んでいただけると嬉しいです。
連載版はこちらです。
【連載版URL】
https://ncode.syosetu.com/n8732mi/
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