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消えた一行の遺書

作者: あーちゃん
掲載日:2026/06/07

人は、最後にどんな言葉を残すのだろう。


この物語は、

“書かれなかった一行”を巡る、

小さな後悔と、静かな愛の話です。


読み終えたあと、

あなたの中にいる「忘れられない誰か」を

少しだけ思い出してもらえたなら嬉しいです。


 雨の日だった。


 東京駅のホームに吹き込む湿った風が、朝倉真琴の頬を撫でる。灰色の空は重く垂れ込み、遠くで鳴る発車ベルさえどこか鈍く聞こえた。


 スマートフォンの画面には、短い通知が残っている。


『神崎湊さんが亡くなりました』


 たったそれだけだった。


 送り主は高校時代の同級生、三浦遼。

 本文のないその連絡は、逆に現実味を帯びて真琴の胸を締め付けた。


 神崎湊。


 十五年前、誰よりも笑っていた男。


 誰よりも人に好かれ、

 誰よりも人の痛みに敏感だった男。


 その名前を見た瞬間、真琴は理解してしまった。


 もう二度と会えないのだと。


 電車が動き出す。

 窓ガラスに映る自分の顔は、驚くほど疲れて見えた。


 出版社で校正の仕事を始めてから、真琴はずっと言葉ばかりを見て生きてきた。


 一文字の違和感。

 句読点の位置。

 消された跡。

 不自然な空白。


 他人は気づかない“わずかな異物”を探し続ける仕事。


 だからなのかもしれない。


 あの日、

 湊の遺書を見た瞬間、

 真琴はすぐに気づいてしまった。


 ――最後の一行が、消されている。


 ◇


 故郷に戻るのは十年ぶりだった。


 駅前の商店街はシャッターが増え、

 昔あった古本屋はコンビニになっていた。


 高校時代、湊と二人でよく歩いた川沿いの道だけが、変わらず雨に濡れていた。


 葬儀場には静かな音楽が流れていた。


 白い花。

 線香の匂い。

 すすり泣き。


 祭壇の中央で笑う湊の遺影は、生きていた頃と同じように優しかった。


「真琴……久しぶり」


 振り返ると、黒い喪服姿の女性が立っていた。


 柏木理子。


 湊の婚約者だった女性だ。


「……久しぶり」


 理子は微笑んだが、その目はひどく疲れていた。


「来てくれてありがとう。湊、真琴が来るの待ってたと思う」


「そんなわけないよ」


 そう言った瞬間、自分でも驚くほど声が冷たかった。


 理子は少しだけ目を伏せた。


「……ごめんね」


「いや」


 謝られる理由が分からなかった。


 だが、理子はなぜか最初から“何かを知っている人間”の顔をしていた。


 焼香を終えた後、

 真琴は控室で湊の遺品を見せられた。


 財布。

 腕時計。

 スマートフォン。

 そして、一通の封筒。


「これ……遺書」


 理子が小さく言った。


 真琴は封筒を受け取る。


 中には一枚の便箋。


 震える字で書かれた文章。


『ごめんな。俺はもう疲れた。

 みんなを傷つける前に終わりにしたかった。

 本当にごめん』


 そこまで読んで、

 真琴の視線が止まる。


 文末。


 不自然な空白。


 紙の繊維。


 そして、便箋の下端だけが微かに破れていた。


 真琴の背筋を冷たいものが走る。


「……これ」


「え?」


「最後、切れてる」


 理子の表情が固まった。


「え……?」


「一行あるはずだった」


 真琴は便箋を光に透かした。


 校正の仕事をしていると、

 紙の違和感に敏感になる。


 これは自然な破れじゃない。


 誰かが意図的に切った跡だ。


「そんな……警察は何も」


「気づかなかったんだろ」


 真琴は低く呟く。


「最後に何が書いてあった?」


「知らない……!」


 理子は突然声を荒げた。


「私、本当に知らないの!」


 周囲の視線が集まる。


 理子は慌てて口元を押さえた。


 真琴は彼女を見つめる。


 泣き腫らした目。

 震える指。

 青ざめた唇。


 だがそれ以上に、

 何かに怯えているように見えた。


 ◇


 夜。


 真琴は実家へ戻った。


 古びた木造住宅。

 湿った畳の匂い。


 居間では父の朝倉恒一が煙草を吸っていた。


「帰ったか」


「……うん」


「湊のこと、災難だったな」


 元警察官の父は、それ以上何も言わない。


 昔からそういう人だった。


 感情を表に出さず、

 必要以上に踏み込まない。


 真琴は荷物を置き、

 遺書のコピーを机に広げた。


 違和感は消えない。


 文字数。

 文章の流れ。

 余白。


 どう考えても、

 あの文章は途中で終わっている。


 その時だった。


「それ、もう触るな」


 父の低い声。


「……なんで?」


「終わった話だ」


「終わってない」


 真琴は即座に言い返した。


「遺書の最後が消えてる」


 父の眉がわずかに動く。


「……誰が言った」


「見れば分かる」


「警察は自殺で処理した」


「だから?」


 真琴は父を見る。


「父さんも気づいてたんじゃないの」


 沈黙。


 雨の音だけが部屋を満たす。


 やがて父は煙草を揉み消した。


「深入りするな」


「なんで」


「お前は昔から余計なことばかり気づく」


 その言葉が胸に刺さる。


 真琴は昔からそうだった。


 空気の違和感。

 嘘。

 沈黙。


 誰も触れないものばかり見つけてしまう。


 だから友達も少なかった。


 だが湊だけは違った。


『真琴ってさ、人が見ないもの見てるよな』


 笑いながらそう言った。


『でも俺、それ嫌いじゃない』


 その言葉に、

 どれだけ救われたか分からない。


 真琴は遺書を握り締める。


「俺、調べるから」


「真琴」


「湊はこんな終わり方する奴じゃない」


 父は何も言わなかった。


 だがその横顔には、

 明らかな動揺が浮かんでいた。


 ◇


 翌日。


 真琴は三浦遼の店を訪ねた。


 駅裏にある小さなバー。


 昼間の店内は暗く、

 アルコールの匂いが残っていた。


「……真琴か」


 カウンターにいた遼が顔を上げる。


「久しぶり」


「こんな形で会いたくなかったな」


 遼は苦笑した。


 高校時代より痩せていた。

 だが目元の鋭さは変わらない。


「湊、死ぬ前に会ってたんだろ」


 真琴が切り出すと、

 遼の手が止まった。


「誰に聞いた」


「理子」


「……あいつ余計なことを」


「何話した?」


 遼はしばらく黙っていた。


 やがてグラスを磨きながら言う。


「湊、変だった」


「変?」


「ずっと何かに怯えてた」


 真琴は息を呑む。


「仕事のトラブルかと思った。でも違う」


「何が」


「“消える”って言ってた」


 真琴の鼓動が跳ねる。


「どういう意味」


「知らねえよ」


 遼は苛立ったように言った。


「でも最後にこんなこと言った」


 遼は視線を落とす。


『もし俺に何かあったら、あのノートを燃やしてくれ』


「ノート?」


「見てない。どこにあるかも知らない」


 真琴は黙り込む。


 遺書。

 消えた一行。

 謎のノート。


 点と点が、

 ゆっくり繋がり始めていた。


 その時だった。


 店のドアベルが鳴る。


 入ってきた男を見て、

 遼の顔色が変わった。


「……あんた」


 男は黒いコートを着ていた。


 三十代後半。

 細い目。

 笑っているのに冷たい顔。


 男は真琴を見る。


「朝倉真琴さん?」


「……誰ですか」


「新聞社の者です」


 だが、その名刺に書かれていた会社名を見た瞬間、

 真琴の背筋が凍った。


 ――神崎湊が働いていた新聞社。


 男は静かに笑った。


「少し、お話できますか」


 その瞬間、

 真琴は理解した。


 湊の死は、

 まだ終わっていない。


 そして、

 “消えた一行”には、

 誰かが隠さなければならない理由がある。


 雨がまた降り始めていた。


 まるで、

 全てを隠すように。

『消えた一行の遺書』を読んでくださり、

本当にありがとうございました。


言葉は、ときに人を救い、

ときに傷つけ、

そして伝えられないまま消えてしまうこともあります。


それでも、

誰かを想って書いた言葉は、

きっとどこかで誰かの心に残る。


この物語が、

あなたの中の“大切な言葉”を思い出すきっかけになれたなら幸いです。

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― 新着の感想 ―
息が詰まるようなお話でした。 というか、途中から息をするのを忘れていました。短編でよかった……。 この続きが読みたい!と思ってしまいましたが、ここで終わる短編だからいいのかな? 悩ましい感じです。
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