第1話 二人の天才
須藤海斗がそれを見たのは、登山計画が完全に狂った日のことだった。
天気予報は晴れ。風速も問題なし。だが標高一八〇〇メートルを越えたあたりで、突然、空気の密度が変わった。音が、吸い取られたように消えたのだ。
「……え?」
足を止めた瞬間、視界が歪んだ。
透明でも、発光でもない。背景の山肌が、まるで水面のように揺らいでいる。カメラのオートフォーカスが合わない時の、あの不快な違和感。だがこれは、目の錯覚ではなかった。
岩壁の一部が、存在してはいけない形を描いていた。
巨大だった。
細長く、流線型で、岩の中に埋まっているはずなのに、輪郭だけが浮かび上がっている。
それは潜水艦に似ていた。だが、海にあるべきものが、山の中にある。
——原子潜水船。
後に須藤海斗がそう呼ぶことになる存在は、その時、完全に停止していた。
不可視迷彩が、ほんの数秒だけ解除された――観測事故。
次の瞬間、頭の奥に直接、情報が流れ込んだ。
〈下位文明個体を確認〉
〈識別番号未付与〉
〈本個体、観測対象外〉
意味は分からない。
だが須藤は直感した。
見てはいけないものを、見た。
そして、見られてしまったのだ。
――約四四〇〇年前。
それは、ノアの方舟が造られる少し前の時代。
後に「神の裁き」と呼ばれる大洪水が、
まだ予兆としてしか存在していなかった頃の話だ。
当時の人類は、今の歴史書が語るほど未熟ではなかった。
少なくとも、
世界の理を理解しようとする者たちは存在していた。
乾いた大地の奥深く。
岩盤を削り出して造られた巨大な地下研究施設。
そこに、二人の若き天才がいた。
一人は――ジェレス。
物質の最小単位、原子にまで思考を巡らせる科学者。
彼は常に言っていた。
「力は支配のためにあるんじゃない。
誰もが等しく使えるものであるべきだ」
自由、博愛、平等。
その思想は当時としては異端であり、
同時に、あまりにも未来的だった。
そしてもう一人――カイザー。
ジェレスと同じ師のもとで学び、
同じ実験台に向かい、
同じ失敗と成功を積み重ねてきた男。
彼はジェレスよりも現実を見ていた。
「人は放っておけば争う。
ならば、争えない状況を作るしかない」
圧倒的な力による統率。
恐怖による秩序。
それが、彼なりの“平和”だった。
この時点では、
二人はまだ対立していなかった。
研究室には笑い声があり、
夜明けまで続く議論があり、
世界の未来を語り合う時間があった。
巨大な装置の前で、
ジェレスが興奮気味に言う。
「見てくれ、カイザー。
原子の結合を一時的に解けば――
物質は、物質でなくなる」
カイザーは目を細め、装置を見つめた。
「……すり抜ける、というわけか」
「そうだ。
壁も、岩盤も、海も。
人類は“場所”という制約から解放される」
その瞬間、
二人の脳裏に浮かんだ未来は――
まったく同じ技術でありながら、
まったく違う世界だった。
やがて空は曇り始める。
海は静かに不穏なうねりを見せ、
動物たちは理由もなく移動を始めていた。
それでも、この時の二人はまだ知らない。
この研究が、
この友情が、
やがて人類を
地上と地下に分ける決定的な分岐点になることを。
そして――
神話に語られる大洪水の裏側に、
彼ら二人の選択が深く関わっていることを。




