表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

世界の裏側を継ぐ者

作者: necorcaりりん
掲載日:2026/01/09

告げられた瞬間

私の人生は私の知らないところで流れ出していた


『お前は選ばれた。

我が契約者として、この世界の裏側を継ぐために』


「……、………、…は?」


間抜けな声が、ようやく喉から零れた。


唐突に告げられた言葉。

それなのに私は、驚くより先に "またか" と思ってしまった。


これまでの人生で、私は重要な場面ほど、いつも結果だけ、決定事項だけ知らされてきた。

進路も、配属も、人間関係の終わりも。

選択肢が用意されているようで、実際には決まっている——そんな場面ばかり。


驚くべきなのだと理解してから、ようやく感情を探し始める。

けれど、彼が神だと名乗ったことよりも、私が、なぜか断れない立場に置かれていることの方が、ずっと現実的だった。


「ちょ、ちょっと待ってください。

契約って、そういうの、裏を継ぐって——」


言いかけた言葉は、途中で止まった。

拒否する理由はいくつも浮かんだのに、不思議と受け入れない理由だけが、最後まで見つからなかった。


『契約に同意は必要だ。だが選定はすでに終わっている』


淡々と告げる声に、感情はない。


それは人が感情を抑えているのではなく、最初から感情という概念を持たない存在の声音だった。

それが余計に現実味を帯びさせた。

どうやら私は、とんでもない相手と一方的な契約を結ばされるらしい。


——そう思ったとき、なぜか少しだけ笑ってしまった。


「……っ、その。…私たち、どういう関係になるんですか?」


視線を逸らし、言葉を選ぶ。

答えが貰えると思ったわけじゃない。

ただ、間違えたくなかっただけだ。


「契約上の立場として、私は何になるんでしょうか」


『役割を共有する存在だ』


「共有って……なにを…」


『情は不要だ。この契約は、役割の共有に過ぎない』


言い切られて、胸の奥がわずかに軋んだ。

安心したのか、失望したのか、自分でも分からない。


感情を必要とされない関係。

それは、私が慣れ親しんできた距離感でもあった。

—— 一緒にいても、心は別の場所にある。

名前はあっても、実体のないつながり。


「……分かりました」


なぜか、了承の言葉が出た瞬間、私はもう後戻りできないのだと理解した。

契約だけの関係。

名前のない関係。

それでも、不思議と恐怖はなかった。


蒼牙と名乗ったその存在は、人の形をしていながら、どこか世界の一部のようでもあり、世界のどこにもいないようにも感じる。

彼の言葉も、視線も、沈黙さえも、すべてが "決まっている" ように見える。


「後悔するかもしれませんよ」


思わず口にした反抗に、蒼牙はわずかに目を細めた。


『後悔は人の感情だ。それを抱くかどうかは、お前次第だ』


守ると言われたわけでもない。

優しさを示されたわけでもない。

それでも私は、その言葉を否定しなかった。

信じていいのかは分からない。

けれど、拒む理由も見つからなかった。


『契約に偽りはない。

お前は我が唯一の契約者であり、我はお前を守る。』


その宣言は、約束というより事実の確認だった。

その言葉を聞いて、私は一つ、息を吸った。


「……一つだけ、…確認してもいいですか?」


蒼牙は、否定もしなければ促しもしない。

ただ、私を見た。


「この契約をすると、…私は、…どうなるの?」


しばらくの沈黙。


『変わらない。——今は、まだ』


「なら——」


言葉を選ぶ。

いつもの癖だ。


「私を守る判断を、私の知らないところで勝手に決めないでください」


口にした瞬間、胸の奥がひどくうるさくなった。

それでも私は、言葉を削るようにして口を開いた。


「私は、守られる“対象”じゃなくて、契約を共有する“当事者”でいたい」


再び、沈黙。

——拒否されてもおかしくない。

それでも、私は目を逸らさなかった。


『……了解した』


蒼牙の声は、初めてわずかに揺れた。


『以後、判断は共有する』


その瞬間、契約の輪郭が、ほんの少しだけ変わった。


——選ばれない人生、選べない人生に慣れていた私が、初めて "選ばれてしまった"瞬間。

蒼牙に選ばれた、唯一として。

世界の裏側を継ぐ者として。


私は、まだ何も分からないない。

ただ、その場所に立っているだけだ。


ーーーーー


その日から、世界が変わったわけじゃない。

朝は来て、夜は来る。

日常は、驚くほどそのままだった。

ただ、見えない前提が一つ、増えただけで。


蒼牙は、必要以上に干渉してこなかった。

命令もしないし、説明もしない。

それが、妙に居心地がよかった。


「何もしないんですね」


そう言うと、彼はわずかに首を傾げた。


『お前が壊れないよう、世界の裏側を調整している』


——それを “何もしない” と言うなら、私は今まで、守られたことなど一度もなかったのかもしれない。


その夜、理由もなく息が詰まった。

眠りに落ちかけた瞬間、胸の奥が、ひやりと冷える。

——寒い、わけじゃない。

怖い、でもない。

まるで、誰かの “終わり” が、世界のどこかで静かにほどけたのを、身体だけが先に拾ってしまったような感覚。


私は布団の中で身を起こし、無意識に名を呼んでいた。


「……蒼牙」


少しの間を置いて、声が返る。


『境界が揺れた』


それだけだった。

詳しい説明も、理由もない。

けれど不思議と、それで十分だと思えた。

私は自分の鼓動が落ち着くのを待ちながら、ぼんやりと天井を見つめた。


——これが、継ぐということか。


何かを “する” のではない。

何かを “見る” のでもない。

知らなくていいズレを、感じ取ってしまう側になること。

それでも、恐怖はなかった。

むしろ私は、この感覚に、どこか覚えがある気がしていた。


契約に感情は含まれない。

そう、彼は言った。

けれど私は、この関係を冷たいとは思えなかった。


名前のない関係。

役割だけの共有。

それでも、私がここにいる理由にはなっている。

蒼牙に選ばれた、唯一として。

世界の裏側を継ぐ者として。


私はやっぱり、何も分からないまま。

——それでも私は、この契約を "共有する" ことを選んだ。


ーーーーー


その日から、私の日常は少しだけ歪み始めた。


世界が変わったわけじゃない。

朝は来るし、夜も来る。

電車は揺れ、信号は赤になる。

コンビニのコーヒーもいつもと同じ味。

日常は、驚くほど変わらない。


それを自覚したのは、通勤途中。

ホームに立っていた。

アナウンスが流れ、到着メロディが流れる。


理由もなく、足がすくむ。

急がなきゃ、と思うのに、身体が言うことを聞かない。

——嫌な感じがする。

説明できない。

音でも、匂いでもない。

ただ、胸の奥がざわつく。


思わず私は一歩、後ろに下がった。

次の瞬間、目の前を、何かが落ちた。

正確には、人。


悲鳴。

制動音。

ホームがざわめく。

幸い、命に別状はなかったらしい。

転落したのは、私が立っていた場所の、ほんの数歩先。

もし、あのまま進んでいたら。

そう考えて、背中が冷えた。

——今のは、偶然?


私は無意識に、名を呼んでいた。


「……蒼牙」


返事はない。

それでも、いると分かった。


「今のは、…避けた方が、よかったんですか?」


しばらくして、静かな声が響く。


『結果としてな』


その言い方が、少し引っかかった。


「……結果論、嫌いなんですけど」


『だが、有効だ』


短く、迷いのない断定。

私は自分の足をを見下ろしながら、自分の鼓動が落ち着くのを待った。


「今みたいなの、これから増えます?」


『増える』


即答だった。


「……減らす選択肢は」


『お前が壊れる』


淡々と告げられて、思わず息を呑んだ。

壊れる、という言葉が、比喩じゃない気がしたから。


「それ、私に選ばせるって言いましたよね?」


一瞬の間。


『……判断は共有する、と』


「なら、説明してください」


私は、立ち止まったまま言った。


「今の私は、何を感じて、何を背負わされ始めてるんですか」


蒼牙は、すぐには答えなかった。

その沈黙が、以前よりも少しだけ “考えている” ように感じられた。


『歪みに対する、均衡を保っている』


私は、眉をひそめた。


「……それを、感じてる!?」


『正確には、お前の存在が、境界に触れている』


触れている、という言い方が、妙に生々しい。


「触れたら、どうなるんですか?」


『放置すれば、いずれ顕在化する』


——事故になる。

——誰かが死ぬ。

そこまで言われなくても、分かった。


「だから、避けた」


『だから、止めた』


蒼牙の声は、変わらない。

けれど私は、それを "正しい" と思えなかった。


「……それって」


言葉を選ぶ。


「私が、見えない地雷を踏まない役になってるってことですか?」


『近い』


否定しない。

胸の奥が、少しだけ重くなる。


「でも」


私は続けた。


「今の人、助かりましたよね」


『命は保たれた』


「なら、それで——」


『均衡は崩れた』


はっきりと言われて、言葉を失った。


『助かった代わりに、どこかで、帳尻が合わされる。それが、裏側だ』


私は、その場に立ち尽くした。

——助かることが、必ずしも善じゃない世界。

それを、私はこれから、“感じてしまう側” になる。


「……嫌ですね」


思わず漏れた本音に、蒼牙は初めて、何も言わなかった。

私は、小さく息を吐いた。


「でも」


視線を上げる。


「だからって、何もしないのは、もっと嫌です」


この言葉は、彼に向けたものでもあり、自分に向けたものでもあった。


「判断は、共有するんですよね?」


確認するように言うと、少しの間を置いて、答えが返る。


『……ああ』


短い肯定。

けれど、その一音には、以前よりも、確かに重さがあった。


——このとき私は、まだ知らなかった。

この "共有" が、どれほど重い選択になるのかを。


ーーーーー


それが起きたのは、帰宅途中の、何でもない夜。

残業で遅くなり、駅前の人通りもまばらになっていた。

いつもの道。

いつもの信号。

いつもの帰り道。

——なのに。


胸の奥が、嫌な音を立てた。

ぎし、と。

何かが、ずれる感覚。

小さな裏の歪み。

私は足を止めた。


「……来た」


誰に言うでもなく、そう呟いていた。

視界の端で、街灯の光が一瞬だけ歪んだ気がする。

錯覚。

そう思おうとした瞬間——泣き声が聞こえた。

子どもの声だった。


反射的に、路地の奥を見る。

そこに、小さな背中があった。

小学生くらいの女の子。

ランドセルを抱え、しゃがみ込んでいる。


「……どうしたの?」


声をかけた瞬間、胸の奥のざわめきが、強くなる。

これは、この間のホームとは違う。

避ける、ではない。

もっと、はっきりした——


『関わるな』


蒼牙の声が、低く響いた。

私は、一瞬だけ固まった。


「……なんで…」


『この先は、均衡が崩れている。

放置するだけだ、この子は、ここで消える』


心臓が跳ねた。


「消えるって……」


『事故として処理される』


淡々とした言い方。


私は、女の子を見る。

小さな肩が、震えている。


「……助けたら?」


聞かなくても、答えは分かっていた。


『別の場所で、歪みが生じる。規模は——』


「いいです」


私は、彼の言葉を遮った。


「規模の話、今は聞きたくない」


自分でも驚くほど、声が震えていた。

【判断は、共有する】そう言ったのは、私だ。

——なら。


「蒼牙」


名を呼ぶ。


「私は、この子を見捨てる判断を、“共有”した覚えはありません」


一瞬、空気が張り詰めた。


『……感情による判断だ』


「分かってます」


即答した。


「でも、それでも」


私は、女の子の方へ一歩踏み出す。


「私が選ばれたなら、最初の判断くらい、私にさせてください」


蒼牙は、答えなかった。

沈黙。

——拒否される。

そう思った瞬間、


『……許可する』


短い言葉が、落ちた。


『ただし、結果は、共有する』


「はい」


私は、女の子の前にしゃがみ込んだ。


「大丈夫? お家、どこ?」


女の子は、涙でぐしゃぐしゃの顔を上げた。


「……分かんない」


迷子。

それだけのこと。

けれど、この場所には、“裏側の歪み” が溜まっている。


私は、女の子の手を取った。

その瞬間。

——世界が、軋んだ。

視界が一瞬、反転する。

街灯の光が、影になる。

影が、何かの形を取りかける。


「……っ」


頭が、割れそうに痛い。


『朝凪』


蒼牙の声が、近い。


『引き受けるな』


「無理、です……!」


私は歯を食いしばる。


「だって、もう触っちゃった」


胸の奥が、熱い。

誰かの“終わり”が、私の中に流れ込もうとしている。

——これが、代償。

助けた分だけ、誰かの不運を、引き受ける。


「……っ、蒼牙!

判断を——共有するって、こういうことですか!」


一瞬の沈黙。

そして、低く、はっきりした声。


『……違う、これは、お前一人に背負わせる判断じゃない』


次の瞬間、痛みが、半分ほど消えた。

重さが、分かたれた感覚。

私は、思わず息を吐いた。


「……っ、ずる……」


『契約だ』


淡々とした声。

けれど、その距離は、確実に近かった。

女の子は、何も知らないまま、私の手を握っている。

——助かった命。

——残った歪み。

私は、まだ震える指を見つめた。


胸の奥が、また小さく鳴った。

——まだ、終わっていない。

私は、思わず周囲を見回す。

駅前の交差点。

信号待ちの人影。

自転車に跨ったまま、スマホを見ている青年。

その一人に、

薄く、影が重なって見えた。


「……蒼牙」


声が、震える。


『気づいたか』


「今度は、誰ですか」


『均衡の回収先だ』


胸が、きしんだ。


「……止められます?」


『今のお前には、難しい』


私は、唇を噛んだ。

——さっきは、助けた。

——今度は、助けられない。

信号が変わる。

自転車が走り出し、車も止まらない。

次の瞬間、バランスを崩す。

転倒。

派手な音。

けれど致命傷ではない。

周囲がざわつき、誰かが駆け寄る。


「……それで、帳尻ですか」


『最小限だ』


淡々とした答え。

私は、目を閉じた。


「……全部は、無理なんですね」


『ああ』


否定しない。

その正直さが、逆に胸に刺さった。


「でも」


私は、女の子を見る。


「今日、これを知らなかったら、私は今の転倒すら “ただの事故” だと思ってました」


蒼牙は、答えなかった。

けれど、その沈黙は、肯定に近かった。


「……これが、裏側を継ぐってことなんですね」


『そうだ』


「思ってたより、最悪です」


正直な感想に、蒼牙は、ほんのわずかに間を置いた。


『……否定はしない』


その一言で、胸の奥が、少しだけ軽くなった。

——ここから先は、もう後戻りできない。

私は、初めてはっきりと理解した。

選ばれたのではない。

選び続ける側に、立ってしまったのだと。


ーーーーー


女の子は、ほどなく家族の元へ戻った。


警察に説明する間、蒼牙は表に出てこなかった。

——正確には、私が "感じなくていい範囲" に押し戻していた。

頭の痛みは消え、身体に残ったのは、ひどい疲労感だけだった。


「……思ったより、しんどい」


帰宅して、靴を脱いだ瞬間、膝から力が抜けた。

床に座り込んだまま、天井を見上げる。


「今日は、もう何もしたくないです」


返事はすぐに来た。


『適切だ』


短い肯定。

私は、少しだけ笑った。


「 “休め” じゃないんですね」


『命令は、契約に含まれない』


「……ははっ」


思わず笑いながら、私はその場に転がった。

静かだ。

世界は、何事もなかったように回っている。

——さっきまで、あんなに歪んでいたのに。


「……ねえ、蒼牙」


『何だ』


「今日の判断」


言葉を探す。


「……間違ってました?」


少しの沈黙。

私は、否定される準備をしていた。


『最適ではなかった』


予想通りの答え。


『でも』


一拍置いて、続く。


『契約違反ではない』


その言い方が、少しだけ優しく聞こえた。


「……それ、褒めてます?」


『事実だ』


私は、くすっと笑った。


「じゃあ、今日は引き分けってことで」


『勝敗は設定していない』


「じゃあ、初回テストは合格、で」


返事はない。

けれど、沈黙が拒絶じゃないと分かる程度には、私は彼に慣れてきていた。

しばらくして、ふと、気づく。

胸の奥が、静かだ。


「……半分、引き受けてくれたんですよね」


『必要な範囲だ』


「それでも」


私は目を閉じた。


「……ありがとうございました」


言った瞬間、自分でも少し驚いた。

お礼を言うつもりは、なかったはずなのに。

蒼牙は、すぐには答えなかった。

そして、ごく低い声で言った。


『次からは、先に呼べ』


その一言で、胸の奥が、きゅっと鳴った。


「共有、でしたね」


『……ああ』


それだけ。

それだけなのに、私は少しだけ、安心していた。

——世界の裏側を継ぐということは、完璧な判断をすることじゃない。

間違える可能性を、一人で背負わないこと。

誰かと、判断を並べておくこと。


私はまだ、何も分からない。

それでも。

この契約を、"一緒に引き受ける相手" がいる。

その事実だけで、今夜は、眠れそうだった。


ーーーーー


人混みの中で、ふと足が止まった。

——あ。

視線の先に、見覚えのある後ろ姿があった。

数日前の夜、路地裏で泣いていた女の子。

今は母親に手を引かれて、歩いている、笑っている。


良かった。

ちゃんと、日常に戻っている。

……はずなのに。

胸の奥が、妙に冷えた。

女の子が、立ち止まった。


「どっち行く?」


母親が、何気なく問いかける。

右か、左か。

それだけの、どうでもいい選択。

けれど。

女の子は、答えない、空虚な目。

首を傾げ、母親の顔を見上げて、そして——そのまま、母親の指差す方へ、黙って歩き出した。


違和感。

あの日の “迷子” の女の子とは、質が違う。

私は、無意識に蒼牙の名を呼んでいた。


「……蒼牙」


『見えているか』


静かな声。


「……あの子」


喉が、少し詰まる。


「あの子、何か…」


蒼牙は、すぐには答えなかった。

その沈黙が、答えだった。


『代償』


低い声。


『均衡の代償として』


私は、女の子を見つめる。

ソフトクリームを指差す母親。

選ばない女の子。

母親の後ろを、影みたいについていく小さな背中。


「……それって」


言葉を探す。

彼女は、選ばない。

お菓子を前にしても、

進路を尋ねられても、

誰かに声をかけられても。


「この先も、ずっと?」


——違う。

それは、選ばないんじゃない。

選ぶ衝動そのものが、削られている。

胸の奥が、ひどく冷えた。


『選択を迫られる場面で、自ら決める衝動が、極端に弱くなる』


「……」


ああ、知っている。

これは、私が長い間、抱えてきた感覚だ。


『善悪ではない、ただ、そういう “流れ” になる』


「……代わりに、なにを、」


『選択に伴う “痛み” だ』


蒼牙の声は、静かだった。


『世界は均衡を取った。助けた結果だ』


助けた結果。

誰も傷ついていない。

誰も泣いていない。

それでも、確かに何かが、失われている。


「これは……正しいんですか」


『正しさではない。維持だ』


私は、女の子から視線を逸らした。

助かった命。

引き換えに、失われたもの。

事故にもならない。

病名もつかない。

誰も責められない。


でも——戻らない。


迷子になった子どもが、本来の道を外れ、世界の裏側に触れてしまった。

現実は、命の危険も何事もなく修復された。

——表側から見れば。

でも…


「……私が、助けたから?」


そう聞くと、蒼牙は、はっきりと否定した。


『違う、助けた結果だ』


その言い方が、胸に刺さる。


「……最悪ですね」

——まるで、前の私の人生だ。


本音だった。

——分かってしまった。

裏側を継ぐということは、こういうことだ。

誰かの人生から、名前のない何かを、静かに引き抜くこと。

あの日の私は、そこまで引き受ける覚悟が、あっただろうか。


蒼牙は、何も言わなかった。

私も、何も言わなかった。

ただ、その場に並んで立っていた。


『否定はしない』


私は、女の子の背中が人混みに消えるまで、動けなかった。

——選ぶことができない人生。

今までの私の人生。

それが、裏側の帳尻。


「……でも」


小さく、息を吐く。


「判断を共有するって、言いましたよね」


蒼牙が、こちらを見る。


「次は……私にも、考えさせてください」


しばらくの沈黙。


『……ああ』


それだけだった。

それでも、その一言で、十分だった。

名前のない関係。

役割だけの共有。

それでも私は、一人ではなかった。


蒼牙に選ばれた、唯一として。

世界の裏側を継ぐ者として。


私は未だに、何も分からない。


——それでも私は、この契約を「共有する」ことを、確かに選んだ。


ーーーーー


人混みに、あの子の姿はもうなかった。

代わりに残ったのは、喉の奥に引っかかるような感覚と、胸の底に沈んだ、名前のつかない重さ。


——世界は、何事もなかったように動いている。

救急車も来ない。

ニュースにもならない。

誰も傷つかず、誰も責められない。

それが、裏側の均衡。


「……ねえ、蒼牙」


私は歩き出しながら、ぽつりと呼んだ。


「次に、同じことが起きたら」


答えは、すぐには返ってこなかった。

以前なら、この沈黙は "決定事項" だった。

聞く必要のない問い。

共有されない判断。

けれど今は違う。


『可能性は、複数ある』


静かな声。


『どれを選べば、誰がどう失うか。その全てを、お前は感じ取ることになる』


「……正解は、ない?」


『ない』


はっきりと言われて、私は少しだけ笑った。


「ですよね」


正解がない選択。

失わない未来がない世界。

——それでも


「それでも、考えさせてください」


蒼牙の歩調が、わずかに緩む。

人混みの中で、私と並ぶ位置に立った。


『お前は、迷わないな』


「迷いますよ」


即答した。


「ずっと、迷ってきました」


選ばされて、

決められて、

流されて。


その結果が、“前の私” だ。


「でも」


一歩、踏み出す。


「迷うってことは、選ぼうとしてるってことですよね」


蒼牙は、何も言わなかった。

けれど、その沈黙は、拒絶ではなかった。


『……ああ』


短い肯定。

それだけで、胸の奥に張り付いていた冷えが、少しだけ、ほどけた気がした。


「じゃあ」


私は前を向く。


「次は、もっとちゃんと悩みます」


『覚悟か』


「いいえ」


小さく首を振る。


「まだ、覚悟なんてないです」


それでも歩く。

立ち止まらない。


「でも、当事者でいるって決めたので」


蒼牙の気配が、ほんのわずか、近づいた。


『それで十分だ』


その声は、今までで一番、人に近かった。

蒼牙は、ただ朝凪を見ていた。


——選ばれない人生。

選べない人生。

そこから、完全に抜け出せたわけじゃない。

それでも私は、もう一人で立ってはいない。

名前のない関係。

役割だけの共有。

それでも、判断を預け合う場所がある。


蒼牙に選ばれた、唯一として。

世界の裏側を継ぐ者として。

私は、この世界で、選び続ける。


——前の私ではない、“今の私” として。

私は次の一歩を選んだ。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ