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序章

 湯気が立ちのぼる湯に、肩まで沈めた。

 あたたかさが、ひび割れた皮膚から、じんわりと染み込んでくるようだった。


 そっと目を閉じて、深く息を吐く。

 鼻腔をくすぐる湯の香りに、胸がぎゅっと詰まる。どこかで嗅いだことのある香りだった。けれど思い出そうとすると、すぐに霧のように遠のいてしまう。


 ぽとん、と頬に落ちた雫が、湯気のせいなのか涙なのか、自分でもわからなかった。

(あたたかい……)

 そのたったひとつの感覚が、今の私には、何よりも貴重だった。


 木造の浴室を出ると、宿の老いた女将が無言で乾いた布を手渡してくれた。

 ほつれた縁を見つめながら、それでも丁寧に織られた感触に、指先が震える。


 通された部屋は、質素ながらも清潔で、隅には小さな囲炉裏があった。

 膳台の上には、湯気の立つ飯と味噌汁、漬け物が並んでいる。

 それを見た瞬間、胸の奥がきゅうっとなった。なんでもない、当たり前の食卓が、どれほど遠ざかっていたことか。


 私は箸を手に取る前に、両手を合わせて小さく呟いた。

「いただきます」

 声が震え、慌てて俯く。


 湯気の立つ椀を両手で包む。根菜がごろごろと沈んだ味噌汁。大根の透き通るような切り口、人参の赤み、芋のねっとりとした舌触り。

 ひと口すするたび、土の香りと甘みがじんわりと広がり、体の芯にまで沁み込んでいく。

(ああ、これだけで十分に満たされる……)


 布団は一組。

 宿の老夫婦は奥の部屋で休むらしく、私はひとり与えられた布団に横になった。

 天井を見上げると、古びたはりの隙間に、夜の闇がじっと息を潜めている。


 外では雨が降っているようだった。

 屋根を打つ音が、静かに、途切れることなく続いている。

(雨か……)

 私は目を閉じ、ふたたび静かに息を吐いた。

 その吐息が、ほんの少しだけ、白くなった気がした。


 思えば、ずっと雨の中を生きてきた。

 心に降る雨は止むことなく、何もかもを濡らし、奪っていった。


 それでも、今日だけは違っていた。


 湯に浸かり、飯を食べ、布団に包まれて眠る。

 それだけのことが、どれほどの幸運か。

 それだけのことが、命を繋ぐ。


(生き延びて、ここにいる)

(それが、奇跡のように思える)


 老夫婦の寝息がかすかに聞こえる静けさの中、私はまぶたを閉じた。


 音もなく、記憶の底から、あの日の灰色の景色がよみがえってくる。

 焼け落ちた村。

 あの枯れ井戸。

 旅人の瞳。

 そして、あたたかい囲炉裏──

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