利害の一致
やった……! 悟、バカでありがとう!
兄として喜ばしいことではないが、男して喜ばしいことに心の中でガッツポーズをした。
なんでもない顔をするのが難しいくらい嬉しい。
母親がこっちを見ていないが、小さいころからつまみ食いをするたびに背中越しに怒られていた。「背中に目がついてるからね」と不敵に笑った母親だ。あながち嘘じゃないかもしれない。ここでにやけたりしようものなら、いつもみたいにいろいろ詮索されるにきまってる。
「えー、おれ、嫌だよ」
「あんたの意見は聞いてないの。このままだったら留年よ? 高校留年! そんなお金はうちにはないの!」
包丁を持った母親が振りかえり、びしっと言い放つ。母親の勢いに包丁も加わったことに、悟がたじろぐ。
問答無用、どんだけ足掻こうと無駄な努力だよ、弟よ。おれ、大賛成。
悟は陸上競技が認められ、私立中学校に入学した。おれが運動音痴なのはきっと母親の腹の中に運動神経にまつわるすべてを置いてきたからにちがいない。そのあとに腹に入った悟がおれの分まで吸い込んだって思ったら、同じ兄弟にして、これだけ違う理由ができる。
それ以外に違うところはあるが、少なくとも頭が悪いのは兄弟の共通点。
その悟も、高校に上がる少し前に靭帯を傷つけてしまった。切れるところまではいかなかったが、短距離走がメインだった悟にとって、靭帯への損傷は選手生命の終幕を示していた。
当の悟は悔しがる様子も一切見せずに「仕方ないよね」と言って、高校からダンスを始めていた。小学生のころから足が速いと称えられていた悟だが、実際にやりたかったことではなかったのかもしれない。
陸上部に入っていたときは期待の選手ということで、勉強ができなくても授業中に寝ていても教師は多めに見てくれていたのだが、高校に進学し、部活も辞めたとなれば、そうはいかない。
今までサボっていた分、急に勉強しろって言われてもすぐできるわけがない。悟はもはや留年の危機を迎えていた。
そして、その危機を救うために悟の家庭教師に凛が選ばれた。凛は地域で一番偏差値の高い高校に行き、一浪したが、名の通る大学に進学した。
中学校を卒業して以降、凛ちゃんに会う機会もめっきり減った……。ため息も心の中でつく。
だからこそ、母さんの選択は最良で、最高! ケータイの交換もできるし!
「兄ちゃん、顔が緩んでる」
低い小さな声にはっとする。目の前の悟がテーブルに突っ伏しながら、片目だけこちらを見ている。
ぎくっとしたが、悟はそのまま顔を自分の腕の中にうずめた。どうやら、よほど嫌らしい。必死の抵抗があっけなくて砕け散ったんだ、無理もない。助けの綱と思った兄もこんな調子だ。
諦めよ、弟よ。ふっと笑ったら「何、笑ってるの、たっちゃん」と嫌な笑顔を浮かべた母親が包丁を持ちながらこっちを見ていた。
はぁぁぁ……。
腕の中にため息を落とす。
どうしてこうなっちゃったんだろうなぁ……。いや、理由はわかってるんだけど。
原因が同じでも、こう切り替わるとは思ってもなかった。
凛ちゃんが家庭教師ね~……。
腕と腕の隙間から兄ちゃんの様子をうかがう。相変わらず締りが悪い顔をしている。
凛ちゃんを家庭教師に選んだ理由はもちろん頭がいいから。
だけど、母さんの隠れた意図を感じる。長年片思いを続けている兄ちゃんを可哀想に思った母さんが少しだけ手助けをした形だ。
頭が良いだけだったら、結ちゃんだって、皐月ちゃんだってあり得る。凛ちゃんを選んだ理由がそこにある。
はぁぁぁ……。
ため息しか出ない。
凛ちゃんが家庭教師ね~……。
凛ちゃんの顔をつぶすわけにはいかない。そうしたら、母さんだけじゃなくて、兄ちゃんにも殺されかねない。
はぁぁぁ……。