消えない景色 【月夜譚No.182】
あれは狂気の沙汰だった。今思い返してみても、身の毛がよだつ。
日当たりの良くない薄暗い部屋に充満する鉄の臭い。壁に触ってしまった手には粘り気のある液体が付着し、気持ちの悪さに吐き気を覚える。
そして部屋の中央に立つ背の高い影が、ゆっくりとこちらを振り返る。一番に目を引いたのは、充血した真っ赤な双眸。見開いたその下から涙のように赤が滴り、それを追って視線を下げると手に握られる朱に染まった包丁に行き当たる。床の上には、元は人だったのだろう塊が静かに横たわる。
――きっとそれは数秒の出来事だったのだろう。しかし、記憶をまさぐるともっと長い時間だったように思える。
俺は一目散にそこから逃げ出して、彼奴が追ってきていないか入念に確認しながら自宅に帰った。今は、狭い部屋の隅で縮こまって震えるしかできない。
彼奴も塊も、誰なのかは判らない。だが、あそこにいたということは、知った誰かである可能性は高い。
頭を過る顔触れに震えつつ、俺は目を瞑った。
見たものが夢ならいい。現実であっても、記憶から抹消したい。
だが、あの時見た光景は脳裏に焼き付いて、一生消えないような気がした。