末息子が生まれたときの話④
戦から帰ったアレグロは、土嚢小屋の出産の話を聞いて烈火の如く怒っていた。
「馬鹿者が! あれほど無茶をするなと言っただろう!」
怒鳴られ、カノンはしゅんとうなだれ……なかった。ベッドに寝ていた彼女は突然の怒号に体を起こして、同じように烈火の如く怒り狂った。
「何よ! 無事だったんですから、いいじゃないですか!」
出産を祝うわけでもなく第一声が怒号。それにカチンときてしまったのだ。
「結果論だろうが! 万が一ということを考えなかったのか! 出産だぞ! 命を落とす危険性が充分にあるんだ。土嚢小屋など……医師もいないところで出産するなど、正気とは思えぬ!」
「川の氾濫があったんです! 人手が足らず、町の男たちが必死にせき止めていたんですよ! 豪雨の中、作業する人たちを労って何が悪いというのですか!」
「でかい腹でうろつかれる方が迷惑だとは考えてなかったのか! 今回はよかったものの、馬車に乗っているときに産気づいたらどうする! 豪雨の中で産気づいたらどうする! お前の出産で、その場は混乱して、作業が遅れ、被害が拡大していたかもしれないんだぞ!」
その言葉にカノンは唇を噛み締めた。アレグロは悲痛で顔を歪める。
「俺は……! お前をすぐに守れる場所にいられないんだ! 助けに駆けつけられないんだ! お前も前に出るな! お前まで……お前まで……あいつらと一緒になるな……」
アレグロは目を真っ赤にさせて、腹の底から声を出した。
「カノンまで死に急ぐな……!」
その言葉は、戦で前に出られないアレグロの心の叫びだった。
アレグロは父の死から、決して前衛に出ようとしない。アレグロは武芸に秀でていた。兵の中では一番といえる存在だ。本来なら、自分が斬り込み隊長として出れば、前に出る兵士の生存は高まるかもしれない。
しかし、自分が前に出て死ねば隊は混乱する。
兵の死を前にしても、自分は前には出れない。それが隊を預かる身とはいえ、アレグロは割り切れない思いを抱えていた。
「……アレグロ様……」
カノンは大きく瞳を見開き、夫の心を聞いていた。
「っ……」
アレグロは興奮した体を静めようと椅子に座り、頭を抱える。
冷静に彼の姿を見れば、戦闘服のままだった。重い戦闘服を身につけたアレグロは、その服を脱がず、食事もせず、風呂にも入らず、カノンと息子を案じて馬を飛ばしてきたのだろう。
土で汚れたままの靴が彼が急いで帰ってきたことを物語っていた。
目の奥がツンとする。
自分は正しいことをしたと思ったが、それは間違いだったのかもしれない。アレグロの言うことは厳しいが、正論だ。みごもの自分が出ていっていいタイミングではなかった。
この人が戦うなら、自分も戦いたかった。剣は取れなくても、この土地を守れることをしたかった。
(……でも、そういうことじゃないのね……わたしがやるべきことは、この人が安心して戦いに行けるように、元気で待っていることなんだわ……)
カノンは背筋を伸ばして、まだ苦悶の表情をするアレグロに声をかける。
「アレグロ様……」
「…………」
「……アレグロ様。わたしは、もう前にはでませんわ」
アレグロがゆっくりとこちらを向く。捨てられた子犬のような不安げな瞳を見て、カノンは少しだけ笑った。
「わたしが浅はかでした。ごめんなさい。叱ってくれてありがとうございます」
頭を下げた。すると、アレグロが近づく気配がした。
彼は床に膝をついて、カノンの両手を大切でたまらないもののように手でくるみこむ。包まれた両手は、アレグロの額にあたった。
深いため息を出される。気持ちを整えたのか、アレグロは呟くような声を出した。
「……怒鳴って悪かった……すまない……」
小さな謝罪にカノンは微笑む。アレグロは深く安堵のため息をはいた。
「カノンと子供が無事でよかった……」
包み込まれた両手におでこをつける。
「ごめんなさい……あと、子供は娘じゃなかったの。それも、ごめんなさい」
謝るとアレグロが顔を上げて、不思議そうに眉根をひそませた。
「娘を抱かせてあげたかったわ。これでも頑張ったんだけど……」
肩で大きく息を吐くと、アレグロの耳がひくっと動く。
「……そんなこと気にするな。子供はみんな可愛い」
「そう? 女の子が欲しいと思っていたわ。ふふっ。デレデレするあなたの顔が見たかったのよ」
アレグロの耳がピクピクと動きを激しくする。視線を逸らされ、彼の眉間には深い皺が刻まれた。
「……息子なら鍛えがいがある。この土地を支える者は多ければ多いほどよい」
耳を動かしながらそんなことを言う彼にカノンは肩をすくめた。
(娘もいいなって言えばいいのに……頑固な人)
でも、気を使ってくれていることがわかり、カノンは目を細めた。
その後、末息子はバロックと名付けられた。土嚢小屋で産まれたにしては彼は元気よく、すくすくと育っていた。
揺りかごの中で、大きな茶色い瞳で自分を見つめるバロックに、アレグロは父親の顔を見せた。彼が武骨な中指をバロックに見せると、バロックはそれを、きゅっと握った。
「可愛い子だ……」
隣にいたカノンもそれを聞いて微笑む。
「ねぇ、あなた。わたし、この前の自分の無鉄砲さを振り返ってみたの」
アレグロはバロックに指を掴まれながら、顔だけをカノンの方に向ける。
「わたしはお義母様に似てるから、あなたの忠告をまた無視してしまうかもしれない。だからね、わたしが無茶しないように治水工事をやってみたいわ」
アレグロの思いは理解してはいるが、カノンは自分の性格もよくよく理解していた。だから、これをきっかけに予算が割けないと反対された工事を進めたらよいと期待したのだ。
アレグロは片方の眉を上げて、考え込んでしまう。また叱られてしまうだろうか、とカノンは少し不安になった。
アレグロはバロックに指をにぎにぎされながら、深いため息をついた。
「……姉上とブリオ卿とよく話し合って計画案を出してくれ」
ふいっと逸らされた視線。それにカノンは頬を紅潮させて、アレグロの首に抱きついた。
「……おいっ……こらっ……バロックの前だぞ……!」
非難の声を出されるが、彼の耳は赤くなり激しく動いている。
カノンはぎゅうぎゅうにアレグロを抱きしめながら、幸せそうに微笑んだ。
「アレグロ様、ありがとうございます。大好きです」
弾む声で言えば、アレグロは視線をさ迷わせる。
アレグロがふと視線を落とせば、バロックがくりんとした眼差しのまま、負けじと彼の指を掴んでいた。
妻に抱きつかれ、息子に指を掴まれながら、アレグロは大きく息を吐き出す。
でも、どちらも振り払うことはせず、空いていた手でカノンの背中をポンポンと、撫でたのだった。
カノンたちが提案した治水工事は、戦の劇化で一時、中断となり、二人の代では完成をしなかった。
しかし、次のブルーノの代で、工事は再開された。完成した川は、その後、この土地に豊かで安全な水を与え続けるのだった。