終戦へ①
カノンはグランドールの病のことも、公爵家の謀も何も聞かされないまま、ただいつもの日々を送っていた。
領地経営は長男ブルーノが中心になっていて、カノンの仕事は少なくなっていた。自分はもう五十代となった。昔みたいに活発に動けないので、かえってありがたかった。
一番上の孫は十七才になり、おなかに赤ちゃんもいる。今度はひいおばあちゃんだ。
(ひいおばあちゃんか……わたしも年を取るはずよね……)
ひ孫まで抱かせてもらえるなんて、よい人生だ。
カノンはくすりと笑って、のんびり編み物をする。これは、今度、産まれてくるひ孫のための靴下だ。赤子の足は冷えやすい。冷たい雨季になるから、この靴下があたたかさを与えてくれたらと願っていた。
のんびりと幸せを噛み締めていたカノンだったが、駐屯地には決戦に向けて兵や物資、そして最新鋭の大砲などが運び込まれていった。のんびりしていたはずのカノンにも、その緊張感は伝わってきた。
そして、アレグロから決戦の話を聞かされたカノンは酷く動揺した。身を震わせて、彼の言葉を繰り返し口にした。
「……前衛に出るんですか……?」
アレグロは意思の強い眼差しでカノンを見据えていた。
「今度の戦で、敵を一網打尽にする。勝利すれば戦いは終わるだろう」
カノンがひゅっと息を飲んだ。
戦いが終わる。それは願ってもないことだが、でもならばなぜ、アレグロが前に出るという話になるのだろう。
「……あなたは、お義父様のことを悔やんで、前には出ないものかと思っていました……」
カノン自身も前に出るなと言われたことがある。前に出るのを躊躇っていた彼にどんな心境の変化があったというのだろう。
「そうだな……俺は自分が生き延びることを優先してきた……」
彼は自分の今までの人生を振り変えるような顔をする。
「前に出たくともいつも堪えた。……だが、今度の戦。なんとしても勝利せねばならんのだ」
アレグロはカノンへグランドールの病のことを伝えた。そして、今度の戦の勝利をもって王都へ凱旋し、次期国王になる礎を作るという。
「……殿下がご病気……そんな……」
カノンはショックで口元をおさえた。体が小刻みに震えだし、手先の感覚がなくなっていく。震えるカノンにアレグロは淡々とグランドールが描いているシナリオを告げた。
「殿下は王位に就くが、それはあくまで次の治世の為の繋ぎだ。……殿下の次に王位に就くのはバロックだ」
その言葉にカノンは目を見開いた。
「……殿下のたっての願いだ。バロックならば、殿下の志を引き継ぎ、戦が終わった世を安定させるだろうと……」
アレグロは無念さを滲ませた顔をした。その言葉にカノンも同じ気持ちになる。グランドールが生きて王になることを、カノンもまた夢見ていたから。
「……戦でバロックは俺の役割。総大将の役目をおう。……息子のはなみちを作ってやりたい……」
それは父親としての思いだろう。しかし――
「……いや、それは表向きの話だな……俺は……俺は今までの失った兵の分まで敵をこの手で引きずり出したい!」
アレグロの瞳に激情が宿る。彼の目には怒りと憎しみ。そして、深い後悔があった。
「俺のこの手で、兵を殺す指示を出した奴を引きずりだす!」
アレグロは顔を上げて、カノンに懇願する。
「俺を前に出させてくれ!……頼むっ……カノン……」
前線に出るということは、死ぬ確率が高まるということだ。今回は終戦をかけてのもの。激しさは計り知れない。
それでも前に出たいとアレグロは願ってくる。
自分を置いて逝くかもしれないから、こうして頼んでいるのだろう。
(バカ、バカ、バカっ! 本当に頑固で戦バカな人……!)
カノンは双眸から涙を流しながら、アレグロを睨み付けた。気持ちは痛いほどわかる。わかるから、カノンはアレグロを止められなかった。
「いってきてください……」
毅然と言うと、アレグロは大きく瞳を開いて、息を飲んだ。カノンは腹に力を込め、彼の妻として、この土地を愛する者としての言葉を告げる。
「あなたが死んでもわたしがこの土地を守ります。絶対に守りきってみせます!」
アレグロが眉根をひそめ、苦しげな顔をする。カノンは涙を拭うことをせず、次は彼を愛するただの女としての言葉を口にした。
「でも……必ず帰って来てください……」
彼を失うかもしれないのが怖くて、唇が震えた。それでも、言わずにはいられない。だって、自分は彼を愛している。その思いは揺るいだことがないのだから。
「足がなくなっても、腕がなくなっても、それでもいいから、生きて帰って来てください……!」
「必ず、生きて帰って来てください……!」
泣きわめくのがみっともなくて、口元を覆う。
涙を止めたくて目を瞑る。
震えを止めたくて身を縮める。
いい年してこんなに泣いて。
もっと毅然として見送れればいいのに。
そう思うのに、気持ちだけが膨らんで止められなかった。
咽び泣くカノンにアレグロが駆け寄る。
約束するように、強く全身を抱きしめられた。
「……生きて戻る。必ずだ……」
カノンは子供みたいに泣きじゃくりながら、それでも頷いて、返事をした。
***
戦に出る前、アレグロは長く顔にあった髭を剃った。
髭を生やしたのは父が亡くなってからだ。二十二歳でこの土地を守る役目を背負った時、伸ばし始めた。若い領主では何かと周囲の目も厳しくなる。若さゆえになめられることもあった。見せかけだけでも、威厳があるようにするために伸ばした髭。それを今日は剃った。
この戦では自分は前衛を任される、ただの兵士だ。髭を剃ると、領主としての役目を終えるような気がした。
自分に何かあった時は待機させているブルーノが地位を受け継ぐ。それは事前に言ってある。
色々、片付いたら自分はもう前にでずに、後ろで控えているのがよいだろう。地位は死んでからではないと受け継げないが、領主としての実権はブルーノに任せてしまってよいだろう。
自分も五十を過ぎた。
戦が終わって新しい時代を築くのは、子供達に託せばよいだろう。
***
アレグロを見送るとき、カノンは髭の無くなった彼の顔を見て、年甲斐もなくはしゃいでいた。
「まぁ、いい男になって。髭がないほうがやっぱりいいですね」
ふふっと笑うと、アレグロの耳が動く。カノンは愛しげに見つめて、いってらっしゃいのキスを彼の頬にした。アレグロは顔だけは恥ずかしそうに眉根をひそませる。カノンは弾むように笑うと、最愛の夫に声をかけた。
「いってらっしゃいませ」
「あぁ……」
「帰ってきたら、ひいおじいちゃんになるんですからね。ひ孫に元気な顔を見せてください」
「あぁ……」
ツルツルになった肌をそっと指でなぞる。
髭がないほうがキスがしやすい。だから、髭は嫌いだった。でも、この髭が彼の強くなろうという心を支えてくれていることも知っていた。だから、嫌いだけど、何も言わずにいた。
(いい男になったっていうのに……あまり見えないのが勿体ないわね……)
カノンの瞳にはこぼさないように涙がたゆたっていた。歪んだ視界は愛する人の顔をよく見せてくれない。
それでも、腹に力を込めて、口の端を上げる。
「お帰りをお待ちしていますわ」
そう言うと、歪んだ視界の先で愛しげに見つめられた気がした。
するりと離れた手は前にしっかり握った。震えさせないように前で固く握る。
見送るまでは口の端を持ち上げていよう。見送るときは笑顔で。それが今の自分にできることだ。
こぼさないように、涙をこらえていると、ふと彼の足が止まった。踵を返して戻ってきた彼はカノンの頭を引き寄せると、唇を重ねた。
その拍子にぽろりと、一粒の涙がこぼれ落ちる。
クリアになった視界の先にいたのは、最愛の人の笑顔だった。
「待っていろ。必ず帰る」
それだけ言うと、アレグロは駐屯地に行くため、馬車に乗り込んだ。馬が声を出して走っていく。
カノンは口元を覆い、その場に崩れた。
(こんな時にキスするなんて……バカ、バカ!)
何年かぶりの彼からの口づけは優しいものだった。
愛してるの代わりのようなそれに、カノンの涙は止まらない。
泣きわめきながら、愛する人の生還をただ祈っていた。




