捜査
十月十二日 月曜日。
次の授業が行われる教室を目指し歩いていく、一行の軽やかな足音が廊下に響いていた。窓から差し込む冬の日差しが、学院の古びた石造りの壁に柔らかな影を落としている。
私達は談笑しながら廊下を歩いていたが、視線の先、廊下に誰かが立ちふさがるのを見て、思わず足を止めた。
それは先週、ある魔法についてまるで脅すような質問を投げかけてきた上級生だった。学院の制服を華やかに纏い、整えられた髪が光を受けて輝いている。まるで舞台女優のように堂々と姿を現した彼女は、廊下を歩く私たちが注目するのをさも当然だと思っているかのように、その場に立っていた。
「アルメリーさん、そろそろ答えを聞かせてもらおうかしら?」
上級生はその場から、私たちの進む先をぴたりと塞ぐように数歩動き、立ちはだかった。
私は内心ため息をつきながらも表情を変えず、彼女を睨むでもなく無視するでもなく、自然な歩調を保ちながら彼女に近づいていく。
「みんなごめん、先に行っててくれる?私はソフィー先輩とお話ししてから行くから……」
私は振り返り、戸惑う友人たちに微笑みながら言った。けれど、その表情の奥に秘められた決意を察したのか、リザベルトが率先して口を開く。
「分かったわ……。授業に……遅れない……様に、ね?」
「リザベルト様!?アルメリー様を一人で行かせていいんですか!?」
抗議をするティアネット。
彼女の口元に薄い笑みが浮かぶ。抗議をした後輩の事を歯牙にもかけず、胸の前で交差させるように腕を組み、自信に満ち溢れた表情で私の事を見つめていた。その瞳は、まるで私の瞳の奥を覗き込むようだった。
廊下に緊張感が漂う。
「ティアネット……アルメリーが……こう、言ってる……時は……きっと理由が……あるから……私たちは……先に、行って……待って、ましょう……」
「アルメリー様!絶対、絶対に早く来てくださいねー!?」
私は困った様な笑顔を浮かべ、三人を見送る。
廊下に残されたのは、私と上級生の二人だけになった。アルメリーは周囲に視線を走らせながら、
「ここでは人目もありますし、誰が聞いてるか分かりません。場所を変えませんか?」
と、切り出す。その口調には冷静さを装う努力が見え隠れしていた。
廊下には、移動中の生徒たちが散らばるように行き交っていた。しかし、そのいくつかの視線が明らかにこちらを意識しているのが分かる。特に少し離れた場所にいる数人は立ち止まったまま、わざとらしく会話を装いながらも、二人の様子を興味深そうに見つめていた。
アルメリーはその生徒たちを見て心の中で舌打ちする。表情こそ崩さないが、無意識のうちにスカートの裾を指で弄り始めてしまっていた。それに気づいた瞬間、自分自身を叱りつけるように指先をぴたりと止めた。
彼女は満足げな表情を浮かべ、口元に小さな笑みを浮かべた後、
「いいでしょう……ついてきなさい。いい場所を知っているわ?」
私が頷くと、二人は言葉を交わすこともなく人気のない校舎の一角へと足を運んだ。
その場所は、あまり日差しが届かない日陰になっており、ひんやりとしていて、反響する靴音だけが淡々と響く。
「ここなら十分静かよね?」
立ち止まった彼女の声が、校舎の冷たい石壁に吸い込まれるように消える。軽くあたりを見渡すが、周囲に人影はない。
「それで……何を話してくれるのかしらね?ウフフ……」
その言葉に、先輩は意味ありげに目を細め、ゆっくりと微笑む。その表情には、彼女自身しか知らない意図が隠されているようだった。
「これは、機密に関する事項も含まれますから、他人には決して言わないでください。約束していただけないと、ここから先は、私には言う事ができません。ソフィー先輩、誰にも言わないと約束してくれますか?」
彼女は少し考えた後、徐に口を開く。
「ええ、分かったわ。この件について、あなたから知り得た情報は口外しない。約束するわ」
「ありがとうございます。もしこのことを、他人から聞くような事があれば、私たち共に情報漏洩の罪で投獄されてしまいますからね?♡」
「……!」
私は笑顔で顔を少し傾け、おどけた様に軽くカーテシーをすると、話を続ける。
「『空を飛ぶ魔法』……それは風魔法の上級魔法に、確かにあります」
それを聞いた彼女の瞳が輝く。
「やっぱりあるのね!?」
「それは『宮廷魔導師団に入れば教わる事ができる』という事らしいのです」
彼女は驚愕し、目を見開く。
「……そう言う事なので、私から貴女に魔法を教える事は出来ないんです。なにせ、ザール王国の法に違反してしまいますから。ご納得していただけましたか?」
「……それなら……仕方ないわね。で、でもっ!その魔法について、もう少し詳しく教えてくれないかしら?このままじゃ、蛇の生殺しよ!?」
彼女は今までの自信にあふれた表情から一変して、縋るような表情でこちらに訴えかけてきた。
「で、では、少しだけ……。『宮廷魔導師団の偵察をされる方が使う為の、空を飛ぶ魔法がある』という事です」
「……さっきからあなた、『……らしい』『……という事』ばっかりね?あなたが使える魔法なのだから、そんな煮え切らない曖昧な言い方をしなくてもいいのではなくて?」
私の言葉に耳を傾けていた先輩の表情には、何かしらの答えを求めるようにその瞳は揺れ、不安定な気持ちを隠しきれないでいた。
その一方で、その言葉が本当に信じるに足るものか、迷いの色が徐々に彼女の顔を覆っていく。
「本当に……その情報は確かなの?」
眉間には小さな皺が寄り始め、瞳の揺らぎは冷たい疑念に取って代わる。先輩はじっと私を見据え、言葉の裏にある真意を測るような鋭い視線を向けてきた。
不信の色が濃くなった顔には、徐々に険しさが加わっていく。何度か深く息を吸い、彼女は言葉を飲み込もうとしたが、やがてその感情が怒りとして滲み出てきた。
「……まさか、苦し紛れのあなたのでっち上げなんかじゃないわよね?自分で責任も取れないくせに、他人を惑わすなんて許されないんだから!」
その声には苛立ちが込められ、口調も厳しくなる。先輩の目は私を鋭く射抜き、その矛先は私の言葉の確信の無さを責めるようなものに変わっていった。
「……で、ですから以前も言った通り、私自身は空を飛ぶ魔法なんて使えないし、知らないのです。『空を飛ぶ魔法』の事についても、リリアナ教官から聞いたので、間違いは無いと思いますッ!」
リリアナ教官、勝手に名前を使ってごめんなさい!でもあの部屋に一緒にいたから、教官が言ったことにしても問題ないわよね!?
その瞬間、先輩の動きが一瞬止まる。彼女の表情にあった怒りの炎が、戸惑いと驚きへと変わる気配が見て取れた。それでも完全に納得するには至らず、複雑な心境を抱えたまま、私をじっと見つめ続けた。
その緊張感に耐えられなくなった私は、話を変えようと口を開く。
「……というわけで、先ほど言った通り、宮廷魔導師団に入る事が出来れば、そこで上級魔法の『空を飛ぶ』魔法を教えてもらえます。だから先輩には勉強と魔法授業の実技を頑張ってもらって、上位の学級入りを目指すのが、その魔法を使うための最短の道だと思いますよ!私も是非それを応援します!ちなみに……先輩の魔法属性は何ですか?」
「なによ、突然ね。……私の魔法属性は『風』よ」
「良かった!じゃ、習得することに何も問題ないですね!」
私は両手の手のひらをパン!っと合わせて喜ぶ。
「ま、まあね!フフン♪」
彼女は微かに口角を上げると、手をゆっくりと持ち上げ、髪をさらりと掻き上げた。その仕草には迷いが一切なく、自信に満ちた輝きを放っている。掻き上げられた長い茶色の髪が肩から流れるさまは、不敵な余裕を感じさせた。
「……上位の学級入り……ね。今、私の成績は真ん中ぐらいだから……頑張れば何とか……なるわよね……?」
自分の考えに没頭し始めた彼女はブツブツと呟きながら踵を返し、その場から離れて行った。私は軽く手を振り、彼女を見送る。
ふー。これで後は彼女の頑張り次第よね。同じ寮だから顔を合わせることはあっても、もうこんな風に絡まれることはないはず……よね?
心の中で自分に言い聞かせるようにひと息つき、ふと空を見上げた。澄み渡る空の下で、一瞬の静けさを楽しむ間もなく、校舎から予鈴の鐘が響き渡る。
「あっ、やばっ!次の授業に遅れちゃうー!」
スカートを両手でたくし上げ、次の授業の教室へダッシュで向かうのだった。
◇
放課後、生徒会室には静けさが満ちていた。ジェレマンは机に向かい、自分に振られた事務作業を黙々とこなしている。資料の束から目を上げたその瞬間、視界が急にぼやけ始めた。
「またアレか……」
と、小声でつぶやきながら目を閉じる。
暗闇の中、視界が徐々に明瞭になり、鮮やかな映像が目の前に広がった。彼の意識は自分の体を離れ、何か別の視点からその場を俯瞰している感覚に包まれる。眼下に現れたのは、深い皺に覆われた顔と荒々しい魔力の気配をまとう老魔法使い。その後方、宙に浮くような視点からジェレマンはその様子を見下ろしていた。
視界に連続して現れたのは、次のような断片の映像だった。
薄暗い部屋の中、老魔法使いが金貨の入った袋を、怪しげな素性の知れぬ者達に手渡す取引の場景だった。その周囲には影のような緊張感が漂っている。そして、卓上に広げられた地図―――それを照らす僅かなランテルヌの明かりの中、代表者らしき人物の指先がザール王国からイグニス共和国への道筋をなぞる。その手付きは用意周到で計画的な逃避行を物語っていた。
最後に映ったのは、湿り気を帯びた暗い下水道。老魔法使いと共に暗い色の外套を纏った複数の者達が、手持ちのランテルヌの明かりを頼りに暗がりを進む姿がぼんやり浮かび、やがて地上の大河へと繋がる出口に出る場面だった。
そこで映像が途切れ、暗闇がまたジェレマンの意識を包み込む。彼は息を飲み、荒い呼吸の中でゆっくりと目を開けた。その瞬間、現実の感覚が戻り、生徒会室の机と資料が目に飛び込んでくる。だが、能力の代償はすでに現れていた。
額には熱を帯びるような感覚が広がり、脂汗が顔に滲んでいる。ジェレマンはムシュワール(ハンカチ)を掴み、深い息をつきながら額を拭った。
「……老魔法使いと、逃亡計画……」
垣間見えた場景の断片について彼はボソリと呟く。その呟きに、隣にいたマルストンが気づいた。
「ジェレマン、君……いま何か言ったかい?」
「い、いえ……何も……」
(何か胸騒ぎがする。今見た内容を会長に伝えなきゃ……)
ジェレマンは羽根ペンにインクをつけ、手近にあったメモに使っている用紙に走り書きをすると、その紙を手のひらに隠し持って席を立ちあがり、会長の机の近くにいく。そして、そっとその紙を机の上に置くと、アルベールに背を向けるような恰好で、皆の視線を遮るように机の前に立つ。
アルベールは置かれたその紙に書かれた内容を見ると、眉をピクリと動かす。
そしてすぐ、その紙を丸めて屑籠に捨てる。
彼のその様子はジェレマンの体が死角となり、他の生徒会役員にはあまり見えなかった。
「ジェレマン、ちょっと外の空気を吸いにいくか?」
声を掛けられたジェレマンは、アルベールの方に振り向くと首を激しく振り、大きく頷く。
「はい!」
アルベールは席を立つと、他の役員達に声をかける。
「みんなはそのまま作業を続けてくれ。ジェレマン、行こう」
彼がリードするまま、ジェレマンは後を追うように生徒会室を出る。一歩外へ踏み出すと、廊下にはやわらかい夕暮れの光が差し込み、静けさが広がっていた。アルベールが先導し、二人は無言のまま廊下を進む。足音だけが微かに響き、徐々に日常の喧騒から遠ざかっていく。
ほどなくして、催事準備室の前にたどり着いた。この教室は学院で催事が行われる時に組織される委員会が、その本部として使用する教室である。
現在その扉は閉ざされ、人の気配はない。
アルベールは懐から鍵を取り出し、扉を開けて中に入ると、静寂がそこに待っていた。
「好きな所にかけたまえ」
「は、はい……」
ジェレマンは適当な席を見繕って座る。
アルベールはその傍に近寄り、彼にゆっくりと語りかける。
「……ジェレマン、予知を見たのか?」
「はい……会長」
「それで……今回の予知の内容は、どの様なモノだった?」
「老魔法使いと、怪しげな集団が出てきました。その老魔法使いが、その怪しげな集団との取引をしている場景、そして場面が変わり……老魔法使いを中心とした集団で、暗い通路を通ってどこかに移動するようなモノでした」
「詳しく教えてくれるか?」
「はいッ!」
ジェレマンは力強く頷くと、先ほど見た映像の内容を語り始める。
「俺……僕が見たのは、薄暗い部屋の中で、深い皺に覆われた顔と荒々しい魔力の気配を纏う老魔法使いを、僕は少し高い所から見下ろしていました。その部屋の中で老魔法使いが金貨の入った袋を、怪しげな集団……多分、裏社会の者達だと思いますが、その集団に手渡し、何やら取引をしている場面でした。そこには何やら緊張感が漂っていた感じがしました」
ジェレマンは話しながら一瞬視線を逸らし、唇を軽く噛んだ。
それは、自分が見たものが何だったのか、はっきりと理解し切れていない戸惑いから来ているようだった。彼の手が膝の上で握りしめられる。その拳を握る力が無意識の内に少しずつ増してゆく。
彼は深く息を吸い込み、困惑が確信に変わりつつある表情でアルベールの方を向いた。
「……次に見えたのが、卓上に広げられた地図―――。ランテルヌの僅かな明かりに照らされたその地図の上を犯罪者の指先がザール王国からイグニス共和国への道筋をなぞっていました。どうやらかなり計画的な逃避行を考えてるようでした。そして……最後に映ったのは、湿り気を帯びた暗い下水道でした。老魔法使いと共に暗い色の外套を纏った複数の者達が、手持ちのランテルヌの明かりを頼りに暗がりを進む姿がぼんやり浮かび、やがて地上のかなり広い河へと繋がる出口に出る場面へと……。そこで、俺……いえ、僕が見たものは終わりです」
アルベールはジェレマンを見つめたまま、一言も発さず静かに話に耳を傾けている。その表情はいつもよりわずかに険しく、考えを巡らせていることが窺えた。ジェレマンの言葉が終わると、アルベールはゆっくりと視線を下げ、腕を組む。
「……かなり広い河か。もしかして王都の隣を流れているシルヴェーヌ川か?」
低く抑えた声で、アルベールは自問するように口を開く。
彼は瞳を伏せ、指先で軽く顎を撫でるとゆっくりと瞳を開け、天井を仰ぐように視線を彷徨わせた。
「下水道か……。確か王都の地下には広大な下水道があると聞いたことがある。そこを逃げる老魔法使い……」
独り言のように続ける言葉は、徐々に確信めいた調子に変わっていく。
「この老魔法使い、どうやら城門からは合法的に出ることができないのだろうな。それが裏路地の住人達との金銭の取引に繋がる。そして……広げた地図……ザール王国からイグニス共和国への経路か……」
一拍の沈黙の後、アルベールの目が不意に光を帯びた。
「そうか!わかったぞ!」
声に力がこもり、彼は勢いよく背筋を伸ばした。
「何が分かったんですか?」
とジェレマンが尋ねると、アルベールはひときわ明るい笑みを浮かべた。硬かった表情を一気に和らげると、彼はやや腰を屈めてジェレマンの肩に軽く手を置き、親しげに抱き寄せた。
「お手柄だ、ジェレマン!」
その声は温かさに満ち、力強さがあった。肩を抱く手はしっかり力が入っているが、どことなく優しさを感じる。それはジェレマンに自分の功績が認められた事を確かに伝えていた。
「この前、我々が学院の女生徒をゴロツキ共から救出した時に、奴等に指示を出し、あまつさえその友人の女生徒一人を殺害した容疑で、指名手配になった冒険者の老魔術士がいただろう?ジェレマン、君が予知で見たという老魔術士は……多分、そいつだ」
「!!!」
「君が見たというのは、『予知』だ。……つまりまだ起こっていない事だ。だとすれば、現在その姿を晦ましている老魔術士は、未だ王都の中に潜伏しているという事の証明でもある。……だが、その老魔術士も、王都から脱出する機会を伺っているのだろう。現実に起きるまで、あまり時間は残って無いのかもしれない。何もせず衛兵達に任せているだけなら、きっと逃してしまったことだろう。君のお陰で私自身、警戒感を高める事が出来た。私は早速、王都の暗部に詳しい部下に調査をするように指示を出す。ただの犯罪者であるなら王都の法執行機関に任せるが、この老魔術士は別だ。学院の生徒が犠牲になっている。我々生徒会も捜査に参加し、見つけ次第この老魔術士を叩くつもりだ。……戦闘が苦手なら、ジェレマン……君は安全の為、生徒会室で待機してくれていてもいい」
「俺……僕も行かせてください!予知で見た記憶が役に立つと思います!」
「決意は固いようだな……分かった。君も班員の予定に入れておこう。この老魔術士が捕まるまでの暫くの間、いつでも動けるように予定は空けておいてくれたまえ」
「はいっ!」
「……では生徒会室へ戻ろう」
アルベールは踵を返すと、颯爽と催事準備室から退出する。ジェレマンもその後について行くのだった。
◇
プロスランは、”雲雀の踊り子亭”の二階に借りているいつもの部屋の窓を開け、窓枠に肘をついて、王街の街並みを眺めていた。不意に羽ばたき音が聞こえてきたかと思うと、鳩が慣れた様子で窓枠に着地する。
「ほう、これは随分と急ぎみたいだな……」
と独り言ち、伝書鳩を優しく持ち上げると足につけられた小さな筒を外し、鳩を窓の桟にゆっくりと降ろしてから、筒の中の紙を取り出して広げる。
一読した彼の口元が、皮肉げな笑みを浮かべた。
「我らの王子様も人使いが荒いねぇ?フフッ」
そう呟くと、手にした紙を乱雑に卓上へと放り投げた。
そのまま雑に靴を脱ぐと、部屋の中央に置かれたベッドにごろりと寝転がる。両手を枕代わりに頭の下に組み、天井をぼんやりと眺めながら、大きなため息をつく。
「……伝書鳩のメモだけじゃ、情報が少なすぎるんだよなぁ」
その声には少しばかりのぼやきが混じっている。
そのまま暫く動かないかと思えば、不意にベッドから起き上がり、指先で乱れた髪を整えた。
「しゃーない、顔を出しに行くか!」
薄く笑いながらそう呟き、卓上でサッと返事を認めると、それを先ほどの小さな筒へ入れ、窓に近づいて伝書鳩の足に装着する。そして、両手で伝書鳩を優しく持ち上げると、窓の外に解き放つ。
伝書鳩は力強く羽ばたくと、真っ直ぐに学院の方向へと飛んで行く。
プロスランは飛び立った鳩が豆粒の様に小さくなるまで見送ると、剣を腰に装備して部屋を後にする。
階下へ降りる足音も、心なしか軽く浮き立つような響きを宿していた。
その足は、第一王子との密談に使われる学院の小さな教会の方へと向かうのだった。
◇
午後の陽が傾き始めた頃、その日差しが静かに降り注ぐ生徒会室。その静寂を破るように、窓枠に一羽の伝書鳩が舞い降りた。小柄で上品な姿をしたその伝書鳩は、アルベールが度々使っている賢い鳩で、生徒会役員達はその姿を見ただけで、急な連絡が入ったことを察した。
「やれやれ、いつもながら忠実な子だ」
アルベールは手を止め、余裕のある足取りで窓に歩み寄る。鳩は、彼の顔を見るなり親しげにクルクルと鳴いて応えた。アルベールは窓を開け、鳩の足についている筒を丁寧に外し、そこから小さな巻紙を取り出す。
その手紙にさっと目を通すと、納得したような表情を浮かべる。そのまま手紙を手の中で器用に巻き直し、懐に仕舞うと振り返って皆を見渡す。
「……少し所用が出来た。私はこれで失礼する。君達は各自、手持ちの仕事が片付いたら上がってくれたまえ」
彼の静かな声に、生徒会役員達は頷くだけだった。
アルベールは愛鳩の頭を軽く撫でて、鳩を再び外へと送り出した。
それを少しの間見送ると、自分の席に着く。机の引き出しから正式な書状に使う羊皮紙を取り出すと、それにサラサラと何かを書き綴り、最後に指輪の紋章を押印する。それを手早く丸めて懐に仕舞いこみ、すぐに立ち上がって背筋を伸ばすと、綺麗な姿勢で生徒会室の扉へ向かって歩いて行く。
扉へ手をかけた瞬間、彼はふと立ち止まり、顔だけを室内の方へ向ける。
一瞬の沈黙が場を包む。……皆の視線が彼に集中すると、徐にアルベールは口を開く。
「諸君、知っている者もいると思うが、前回我々がこの学院の女子生徒を救出した際に、その女子生徒を誘拐し、監禁していた”ならず者集団”に命令を出していた者がいた。『アデラース』という老魔術士だ。その女子生徒が言うには、彼女の友人を殺害した容疑者でもあるらしい」
周囲の空気が張り詰める。視線を交わし合う者もいれば、眉をひそめる者もいた。
「私は、この男が学院にとって不倶戴天の敵だと思っている。この者を放置すれば、学院の被害者が増えかねないと危惧している。現在その老魔術士は、冒険者ギルドから冒険者の資格を剥奪され、指名手配犯となってどこかに潜伏しているのだ」
彼の視線が鋭くなり、一人一人を見つめる。
「この情報は学院の教官達にも共有済みだ。いらぬ憶測や動揺を防ぐため一般生徒には伏せているが、生徒会役員である君達には再度周知をしておく必要があると思い、伝えた。……現時点では学院の生徒を保護する為、この老魔術士の動向の把握が最優先だと私は考えている」
再び視線を巡らせた後、彼は懐に手を一旦近づけたが何かを思い出したのかすぐに元に戻すと、
「……ここ数日のうちに、何か動きがあるかもしれない。諸君、無理にとは言わないが、出来れば予定は開けておいてくれ」
その一言を残してアルベールは再び前を向き、扉を開けると生徒会室を後にした。いつもより力が張っていることを感じさせる背中が、彼の意思の強さを物語っているようだった。
扉が閉まると、残された者達は顔を見合わせ、静まり返った空間を埋めるように囁き声があがる。
「何かって……まさか事件?」
「また、この前の救出作戦のような戦闘を伴う出動だったりして?」
「結局、前回の出動の時は私は留守番だったし、今回もまた留守番かなー?」
私も、何も分からない事に少し不安を覚える。
「一体、何が起きようとしているんだろう……?」
つい、ボソッと呟いてしまう。
リザベルトもそんな私を見て心配そうな顔をしている。ざわざわと重ねられる憶測の声を止める様に、明るい声が生徒会室に響く。
「はーい、皆さん手が止まってますよぉ~~?会長も、あのように言ってましたし、今日はキリの良いところまで進めて、早めに帰りましょう♪」
「わ、分かりました」
エルネットの言葉に率先してカロルが応えると、次々と同意の声が上がる。
それから、生徒会役員達は作業に集中し、いつもより作業の速度をあげてゆくのだった。
◇
アルベールの入居する寮の近くにある小さな教会と、その近くに佇む古びた霊廟。
アルベールがその霊廟の扉を静かに開くと、中から微かな光が漏れ出る。幾つもの蝋燭がささやかな明かりを灯していた。
そのひんやりとした静けさの中、アルベールは手近な壁に近づき、その背を預けると目を瞑り微動だにせず、ただ時間が経過するのを待つ。
霊廟の中には精緻な彫刻を施された石棺達が並んでいた。奥には薄明かりに照らされた祭壇があるのみ。
静寂を破るのは時折漏れる蝋燭の揺らぎと、自らの均整の取れた呼吸音のみ。
20ミニュット(約二十分)ほど時が過ぎた頃、並べられた石棺の内の一つの蓋が、ゆっくりと音を立てて動き始めた。それは見た目に比べ、随分と軽そうな音だった。アルベールはそれに驚く様子は微塵も見せず、腰に置いた手を軽く降ろし、目を開ける。
蓋の開いた石棺から、ゆらりと人影が現れる。
「……其方にしては、遅かったな?」
アルベールが微かに口角を上げながら声を掛けると、その人物は苦笑交じりに肩をすくめた。
その顔は少し疲れていたが、冗談交じりの笑みが口元に浮かんでいる。
「無茶言わんでくださいよ。これでも急いで来たんですよ?学院内ですぐ来れる貴方とは違いますよ」
アルベールはその言葉に含みのある笑みを返し、
「ははは……許せ、プロスラン」
と、短く応える。
プロスランはアルベールの顔を見据え、手を広げて溜息をつく。
「んで、何を探せばいいんですかね?伝書鳩のアレだけでは情報が少なすぎて、正直どうしろって感じですけど?」
アルベールの表情がわずかに引き締まり、声が低くなる。
「最近、指名手配された元冒険者の老魔術士を知っているか?」
「老魔術士……ああ、アデラースでしたっけ?冒険者ギルドに貼ってある人相書きを見ましたよ。それが“知っている”に入るなら、まあ知っていますが?」
「どうやら、そいつが裏社会の者達の手引きで、王都から脱出しようとしているらしい。逃げられる前に、私はそいつを捕まえたい」
プロスランは視線を逸らさず、小さくうなずく。
「……その情報の出元は?……いや、やっぱいいです。野暮な詮索はやめときますよ。フフッ。分かってますから」
アルベールはわずかに目を細め、肯定の仕草をする。
「話が早くて助かる」
「へへへ、そりゃどーも」
アルベールはさらに言葉を重ねる。
「その裏社会の者達は、この王都から我が国の北東にあるイグニス共和国へと、その老魔術士を逃がす計画を立てているようだ。……多分、逃走経路は人目につきにくい地下の下水道を使い、シルヴェーヌ川に出る……つもりなのだろう。川に出られてしまったら正直お手上げだが、奴らは何らかの理由で未だ実行に移せていない、と私は睨んでいる。きっと、王都内のどこかに潜伏しているハズだ」
プロスランは額に手をやり、少し呆れた様子で問いかける。
「それ、衛兵や王都警備隊、あるいは保安局に任せた方がいい案件なんじゃないですかね?彼らの仕事ですよ、彼らの」
アルベールは少し顎を引き、目を閉じる。深呼吸を一つ置いて言葉を続けた。
「組織は動きが遅い。普段の業務を優先して見落としや手遅れになりかねない……。それに、其方の方が、そちら方面には詳しいのだろう?」
「まぁ、そういっちゃぁそうですがね……?」
だが、次にアルベールが発した言葉は、その場の空気を一変させた。
「……後で知った事だが、その老魔術士……生徒会長として私が守るべき学院の生徒を、直接手にかけたというではないか……!」
その言葉を口にした瞬間、アルベールの体が怒りに震え出す。握り締めた拳は白く、無意識に噛み締めた奥歯が音を立てそうだった。その目には、かつて見せたことのないような深い怒りが宿っている。
プロスランは一瞬、気まずそうに目を逸らしつつも、何かを思案するように口元を軽く動かす。
「……私の名前を使っても構わん!使える物は組織でも何でも使え!王都から逃げられる前に探しだせっ!最優先でだッ!!」
アルベールの声は静まり返った霊廟に響きわたり、その怒気に空間さえ震えたように感じられた。
その強い言葉を前に、プロスランは軽く背筋を伸ばし、真剣な眼差しで応える。
「了解です」
「其方にこれを授ける。私の直筆の署名と、我が刻印入りの命令書だ。私の名前だけで動かない者がいれば、これを提示しろ」
アルベールは一拍置いてから懐に手を入れると、一通の書状を取り出し、彼の手に渡した。その厚みのある紙には端正な直筆署名と刻印が施されていた。
プロスランは紙を丁寧に開いて確認し、思わず微笑を浮かべた。
「これはこれは……。さすがですね。この国の次期国王であるお方の名前と、それを証明する王家の紋章が入った命令書だ。これを前にしては、この国に逆らえる者はまずいないでしょうね。これがあるなら随分と仕事がしやすそうだ……俺も気合い入れますかねッ!」
その言葉に、アルベールの硬い表情がわずかに和らいだ。
「頼んだぞ?」
「……お任せを!」
とプロスランが応えると、さきほど現れた時と同じ石棺の方へ軽やかに歩いて行く。彼はするりと石棺の中に滑り込み、中から蓋を慎重に閉じると、霊廟は再び静寂に包まれた。
アルベールは去りゆく彼を見届け、静かに霊廟を後にした。外は風が少し吹いており空気は冷たく感じられた。
彼はふと足を止め、空を仰ぎ見る。その瞳には決意と、微かな不安が混じる光が宿っていた。
「……見つけてみせよ、プロスラン」
吐き出された言葉は微かな霧となって空気に溶け、アルベールの静かな歩みと共に消えていった。
◇
王都が夕方に差し掛かる頃、その一角、王都保安局の広間はいつもよりざわついていた。今日はいつもの隊士達に交じり、捜査員や衛兵が次々と集まり、配置や命令を待っている。その中央で毅然とした佇まいを見せるのは、王家直属の″機関″より、その名前と役職を与えられた特務監察官『ヴァリップ』としてのプロスランだ。
彼の外見は、普段の冴えない傭兵姿から一変している。見事に整えられたオールバックの髪には薔薇蜜膏が艶やかに輝きを添え、ほんのりと赤みを帯びた光沢が灯る。
仕立ての良い黒と銀の縁飾りが施された衣装は高貴さと権威を感じさせ、腰に履く剣もその肩書・品位に合わせた一流の業物。肩に掛けられた王宮の紋章入りのサッシュが、彼の身分をはっきりと示している。
その鋭い眼差しと、無精髭を全て剃り落とした清潔感のある端正な顔は、普段の無精な印象からは到底想像できない威厳を醸し出していた。
「聞け!」
重厚な広間に響いた彼の声には、揺るぎない自信と冷徹な判断力が宿っている。全員が注意深く耳を傾ける中、プロスラン―――否、『ヴァリップ』は地図を掲げた。
彼は掲げた地図を卓上に広げると、これからの任務とその説明を始める。
「これから王都全域を調べる事になるが、アデラースが潜んでいる可能性が高いと私が睨んだ地区を重点的に調査する。ここと、ここ、それにここだ」
その市街地の地図上に、手を順に置いて示してゆく。
「これより、王都警備隊、保安局、衛兵隊それぞれから借り受けた人員を総動員して、合同の捜索を開始する。衛兵の諸君は巡回の頻度をいつもの三倍に上げろ。その分の追加手当は私が上に掛け合ってやる。王都警備隊、保安局の諸君は奴等に警戒されない様、捜査には私服で望んでくれ。その際に、王都内の短期滞在の宿泊客を受け入れている宿泊施設等にも人相書きを持っていき、聞き込みをしてくれ。相手が相手だ。武器は所持してゆけ。命令系統はすべて私が統括する――何か質問がある者は挙手しろ」
一瞬の沈黙の後、皆が口を揃えて宣言する!
「「「了解致しました!」」」
指示が的確で揺るぎない自信に裏打ちされ、堂々としたヴァリップという人物に、集まった隊士たちは不思議な圧倒される感覚を抱いていた。どこにでもいる平凡な人間ではなく、まるで長年この場を仕切ってきた熟練の指揮官が目の前に立っているかのようだった。
彼の指揮の元で、集まった人員が複数の隊に分けられる。各隊は迅速に王都の各所に担当場所を割り当てられる。
「ヴァリップ様、準備が整いました。我々はこれにて出発します」
「行け。そして見逃すなッ!」
「「「はっ!」」」
各隊の隊長は、出発の報告をするとそれぞれの隊に充てられた目的地へと散っていく。
広間から人々が消える中、『ヴァリップ』は一人地図を見つめ、革手袋を締め直すと冷静に次の一手を思案する。普段の彼を知る者がいれば驚きを隠せなかっただろう―――いつもの無精な傭兵プロスランがここまで鮮やかに変貌するとは、思いもよらなかったに違いない。
扉が閉まると同時に静寂が戻る。彼は一瞬天井を見上げ、目を閉じる。そしてわずかに微笑むように口元を上げると、再びその表情に冷徹な仮面を被り、歩き出した。
◇
十月十四日 水曜日。
テラメーラ大神殿。その敷地内にある静寂な修道院の一室で、神秘的な静けさが満ちる中、エルミーユは自室の寝室で眠りについていた。薄いカーテン越しに、昇る日の光がうっすらと差し込んでくる。それと共に彼女の夢に突然光が差し込んだ。
『……起きなさい、女神の寵愛を受けし人の子『エルミーユ』よ。我らは主天使、女神の神託を告げるために、其方の前へと降り立ちました―――』
ぼんやりとした頭に低くも透明な声が響き、エルミーユの心を揺さぶった。目を凝らすと、そこには三体の天使が浮かび上がっていた。
目をこするエルミーユは、そのあまりの現実感の無さに、自分が今いる処が夢の中なのか現実なのかわからなくなる。
性別を超越したしなやかさと力強さを併せ持つその姿は、この世のものとは思えぬ荘厳さを帯び、まるで黎明と黄昏が交差する光景を映し取ったかのようだった。淡い金色の輝きに縁どられた羽根は柔らかに揺れ、身体全体から放たれる光のオーラは周囲の暗がりを一変させ、柔らかい光の波に包み込んだ。
「えっ……?はっ……!?はい……?」
まだ寝ぼけた状態のエルミーユは主天使の威容に気圧されつつも、ようやく体を起こす。
その瞬間、主天使たちの一人が力強く言葉を続けた。
『……昨晩、この地で……ある一つの、とても強力な魔法が使われたのを……大地母神である女神テラ・メーラ様が感じ取りました。その魔法―――それは千年前、猛威を振るった魔王の眷属が一人、“第十の毒蛇”が好んで用いた魔法そのものです……』
エルミーユの全身に震えが走る。信じられない事態の報せに彼女の頭は混乱し、同時に胸の奥に不安と恐怖が広がっていくのを感じた。
『……時を越え……ついに、恐るべき魔女が甦ったのです……』
主天使は毅然とした声で告げる。その言葉は空気を震わせ、エルミーユの寝室が彼らの神秘的なオーラによって満ち、さらに濃密なものになる。
『ですが……今は、その存在を感知できません……完全には覚醒していない可能性があります……。この地……この都にいる何者かが魔女の魂を宿している恐れがあります……。エルミーユよ……彼女が完全に力を取り戻す前に、探し出さねばなりません……』
主天使たちの全ての視線が、エルミーユに注がれる。
『……女神の愛し子、エルミーユよ……この使命を果たし、女神の意思をこの地に示しなさい……』
彼女はしばらく声を出せなかった。壮絶な運命の重みが突然のしかかり、『聖女』という普段の名誉位に込められた意味とは比較にならぬ神聖な任務を課されたと悟ったからだ。
「……そのような大任、私に務まるのでしょうか!?」
震える手を胸に当て、エルミーユは戸惑いながらも決意のこもった瞳で主天使たちを見上げ、言葉を絞り出した。
「……でも……それが、女神テラ・メーラ様のご意思ならば……。私、やってみます……!」
それを聞いた主天使たちは微動だにせず、荘厳な沈黙の中、一体の主天使がわずかに微笑みながら口を開いた。
『……素晴らしい回答です。女神の愛し子、エルミーユよ……』
その言葉に鼓舞されながらも、不安が胸をよぎるエルミーユの目の前で、三体のうち、一体の主天使が静かに進み出る。その姿は光のベールを纏い、その荘厳さがいっそう際立っていた。
『……そんな其方に、女神テラ・メーラ様からの贈り物があります……。一つは助言です。近々、北東からある一団が来るでしょう。その一団の中に其方の助けとなる者がいます……其方が声をかければ、力を貸してくれることでしょう……』
主天使は一旦話を区切ると、その両手の中に眩い”光の塊”を生じさせる。”光の塊”は主天使の手の少し上に浮いて揺らめいているのが見えた。
『……もう一つは……これを……。受け取りなさい、エルミーユよ……』
主天使は慎重に、その光の塊を両手からそっと手放した。それは生きているかのように滑らかに空を漂い、暖かな光の弧を描いてエルミーユのもとに近づいてくる。彼女が息をのみ、それを受け取ろうと、おずおずと差し出した彼女の両手に”光の塊”が触れた途端、溶けるように胸へと流れ込み染み込んでいった。
エルミーユは驚きながらも己の胸に優しく手を当て、その残り香を感じるようにそっと目を瞑り、胸の奥に染みこんだ光の余韻を自らに受け入れた。
やがて目を開き、質問を口にする。
「主天使様、これは……?」
再び声を響かせたのは、彼女にその光を授けた主天使だった。
『……たった一度だけ、発動者の望む”刻”に遡ることができる魔法です……』
その荘厳な声が続く。
『……この魔法を其方に授けます……発動方法はただ一つ、『時の環を解き放て』と唱えるだけ……』
言葉の重みを確かめるように語る主天使は、さらに続けた。
『……これから先、其方には数多の選択肢が現れるでしょう。それらが運命を紡ぎ出し、その中には避けがたい後悔を伴う事態もあるかもしれません……』
エルミーユの心臓が早鐘のように高鳴る中、その警告はなおも響く。
『……ですが、気をつけなさい。この力は軽々しく使っていいものではありません……大きな力には、それに相応する代償が必要です……』
天使の光を纏った瞳がエルミーユを見つめる。その視線には無情ともとれる冷徹な真実が込められていた。
『……この魔法を使う度、一つの命が必要となります。それは……貴女自身の命か……、もしくはその場で貴女と直接触れている……魔法の代償を受け入れた者の命……』
エルミーユは凍りついたように息を止め、言葉を失った。あまりに重大な「贈り物」を託されたその実感が、胸の内に重くのしかかっていく。
『……物事を思慮深く考えなさい、エルミーユ。女神テラ・メーラの愛し子として……』
「はい……」
『……我々は……貴女が良き人生を全うできるようにと、祈っています……』
その一言が最後に響き、光の三体はゆっくりと輪郭をぼやかしながらその姿を消していった。
彼女が再び目を開けたとき、そこはいつもの寝室の暗がりの中―――。
天使たちはすでにいない。修道院の聖女個人に与えられた自室の窓から差し込む光が、少しずつ明るくなってゆく中で、彼女の鼓動だけが自分を取り巻く静けさの中に鮮明に響いていたのだった。
◇
繁華街では、店の店主やその従業員達が朝の支度を終え、ようやく人々が市場に集まり始める……そんな時間帯に、調査に来ていた制服姿の王都保安局の局員は、貧民窟の入り口で大きなため息をついた。薄汚れた帳簿に断片的な証言の数々を記すたび、焦燥と苛立ちが募っていた。
「やれやれ……一体なんだってこんな大掛かりな事件が起きるんだよ、ったく……。ここ数日はいきなりやってきた大層な肩書の『ヴァリップ』っていけすかねえ奴の為に、上は人をごっそりそっちに回して、俺らは人手不足で手一杯だってのによ……」
二人一組の彼らは周囲を見回すと、小屋の陰に身を潜めていた住民達が目に入った。彼らはその住人の方に近づいてゆく。そして住民達の中から、なにやら話したそうにしている老婆にまずは声をかける。
「婆さん……あんた何か話したそうだな?……俺達は昨晩、ここで何かあったらしいと聞いて調査に来たんだが、あんたが見たり聞いたりしたモノを、よかったら教えてくれないか?」
相方がゆっくりと老婆に話しかける。自分はペンと手帳を手に持ち、婆さんの発言を一言一句聞き漏らすまいと、しっかりと聞き耳をたてる。
老婆は震える手で胸元を握り締めながら小声で答えた。
「……あぁ、昨日の晩かぇ……。なんだかねぇ、あまりにも周りが五月蠅かったんで、あたしゃー、夜中だってのに起きちまったんですよぉ……。外に出たら辺りがメチャメチャになってて……あたしゃー、びっくりしましたよ。びっくりしたと言えば、アレもびっくりしましたわ……。闇の中にね、そいつは急に現れたんですよぉ……。赤く光る、そりゃぁ巨大な女の姿でしたぁ……。あれはまるで……神か、悪魔……なんですかねぇ……?そいつは『ファイエルブレーズの主、イスティス』と名乗っておりましたわぁ……ありゃぁ、一体なんなんだったんですかねぇ~~?」
(ばぁさん……そりゃ、こっちが知りたいよ……。)
問いかける調査員は表情を曇らせながら、確認するように問い直す。
「間違いないか?その赤い巨像、自らを『ファイエルブレーズ』の主、『イスティス』と名乗ったのだな?」
「えぇ……間違いありませんぇ……」
調査員はその後もメモを取りながら、他の住民への聞き取り調査や、魔法が発動されたその起点とおぼしき広場へと赴き、一直線に抉れたような跡の残る破壊された建物の被害範囲・状況の検分を仲間達と共に続けた。
―――数時間後、王都保安局から局長である貴族を通じて王宮に緊急報告書が上げられた。内容は驚愕の一言に尽きた。
「……ルイン地区に広がる貧民窟で、反社会組織同士の抗争があったとか……。報告書によると、その抗争の中で何者かが放った強力な魔法が、直線状の数十という家屋、建物を消し去ったと。その被害範囲についてですが、横幅は優に3カンヌ(約9m)程の幅があり、直線にして1ヴィル(約108~109m)を越える長さに及ぶ、と書かれております。また、その効果範囲との境界部に残っていた残骸は、そのあまりの熱量によって、消し炭となっていたそうです。……さらに同じ場所に―――三階建ての建物を遥かに凌ぐ大きさの赤い女性型の巨大な像が、貧民窟の夜闇に突如出現したらしいのです。そして、それが『ファイエルブレーズの主、イスティス』と名乗った……と、そうこの報告書には書かれております……!」
宰相は報告書を握りしめ、青ざめた顔で国王を振り返る。
「その被害範囲は事実か!?それはまるで、三十人以上の術師で放つ集団儀式魔法並みの威力ではないか!?」
宮廷魔導師団長が驚愕の声を上げる。
「陛下、これは由々しき事態です!貧民窟で異常が起こっていることは前々からご承知の通り。しかし……この報告が事実ならば……ただの反社会組織同士の抗争では片付けられませぬッ!」
王宮の一角にある会議室で、ある重要な会議がなされていた。その部屋は高貴さと威厳が見事に調和していた。天井は堂々たる高さで、中央から吊るされた巨大な水晶のシャンデリアが、灯火の柔らかな輝きを空間全体に満たしている。夕闇が近づき、窓の向こうの空は紫から深青へと移り変わり、最後の陽光が窓から差し込み、床と机に長い陰影を落としていた。
中央に据えられた長机は黒檀を用いて作られ、その机の表面は、丁寧に磨かれた艶を持ち、縁取りには繊細な彫刻が施されている。装飾の中には王国の歴史を象徴する細工が巧みに描き込まれており、見る者に畏敬の念を抱かせる。机の脚部は四頭の獅子を模した彫像となっており、その一つ一つが迫力を持つ造形美を見せている。
机を囲む椅子もまた贅沢な作りだった。深紅のクッションと金色の装飾が特徴的で、背もたれには王国の紋章が手彫りされている。
窓際には、高さが天井近くまで達する書棚が並び、そこには歴史的な文献や地図が収められている。窓際のカーテンはすでに引かれかけており、徐々に街の灯が点り始める様子がその隙間から垣間見える。
高窓の外からは、街の鐘楼の音がかすかに響き、王都はいつも通りの日常を知らせているようだった。シャンデリアの蝋燭から灯る光が部屋を柔らかく満たしながらも、その重厚な雰囲気を失わせることはなかった。
ピリッとした緊張感が部屋を支配していた。上座に国王が座り、その机の右手側に宰相と近衛騎士団長、左手側に宮廷魔導師団の団長が着席している。左手の下座の席には宮廷へ緊急召集されたバルナルド教授が椅子から立ち上がり、王宮の会議室で厳粛な面持ちで集まった面々に語っていた。
皆、彼の言葉に耳を傾けている。
「さて私からは―――この巨大な赤い女性型の像が名乗ったという『ファイエルブレーズ』というモノは私も知らないので割愛させて頂くとして、『イスティス』という名前について述べさせて頂きますが……。私が知る限り、この名前は……千年前に猛威を振るい、勇者によって封印された”魔王”に付き従った十の眷属の一体、『第十の毒蛇』が、人の世に潜む際に好んで使っていたとされる名前ですな……。彼女は圧倒的な魔力を持っていたとされ、さらにその美貌と狡猾さで、当時、人間やエルフ、ドワーフすらをも欺き、相争わせて各地を焦土と化した恐るべき魔女だと、古文書に記録が残っております」
宰相が勢いよく立ち上がり、語気を強めて言い放った。
「では、貧民窟にその昔話の『イスティス』とやらが蘇ったというのか!?」
教授は目を細め、静かに肩をすくめる。
「そこまでは言ってはおりませんぞ、宰相殿。第一に……魔王とその眷属が暴れまわったのは、千年も前の話でありますぞ?……現代に復活するなど―――それこそ正気の沙汰では……」
そう言いながらも教授はちらりと苦笑を漏らし、続けた。
「……そうそう、これはあくまで余談なのですが、学院で教官をしている孫娘のリリアナと、その教え子の一人―――、確かアルメリーという名前の娘だったと思いますが―――その彼女が孫娘に対し、興味をそそられる名前を出してきたので、とても興味を惹かれました私は、孫娘を通してちょうどこの前の土曜日、私の家に招きました。三人でお茶をしながら、魔王と勇者、そして十の眷属などの話をしたのです。その時、彼女が興味を示していたこの『イスティス』についてでした。私は古文書に記されていた内容を引き合いに出し、その魔女ががどのような存在であったのかを、軽く説明してあげましてな……」
宮廷魔導師団の団長は、鋭い眼差しで教授を見つめる。
「その話―――、まさか貧民窟の出来事と何か関係があるのでは?」
教授は静かに首を振った。
「さぁ、私には分かりません。彼女の聞いてきた時期が、偶々《たまたま》今回の事件と偶然一致しただけで、彼女とは全く関係が無いのか……あるいは、何らかの運命的な繋がりが―――あるのかもしれませんな?ふふふ。ただ、何事も慎重に警戒はしておくことに越したことはありませぬ」
それまで耳を傾けていた国王が重い沈黙を破り、低く響く声で言葉を紡ぐ。
「いずれにせよ、突如現れた『イスティス』を騙る存在がいるのは確かである。その謎を追及し、真相を明らかにせよッ……!」
「「「ははあ……っ!」」」
宰相、近衛騎士団長、宮廷魔導師団長、教授の四人が深々と頭を下げる。
広間に響いたその指示のもと、王宮は激動の渦へと突き進む兆しを見せていた―――。
◇
裏社会の者達は息を潜めて過ごしていた。アデラースに雇われた”密入国、王都からの不法逃亡”を請け負う者達―――”亡命の導者”は、彼の逃走のために動いていた。
安全に逃亡できる可能性の高い経路の調査・確保、衛兵達が自分達の隠れ家周辺や想定の経路を巡回する時間帯の調査、目的地までに必要な物資の調達、船の手配、護衛の準備―――いずれも決して目立たないよう、注意を払いながら進められていく。だが、いざ脱出を決行しようという段階で、彼らの目にはっきりと見えたのは、何者かによって強化され、警戒水準が明らかに上昇した王都の警戒態勢だった。
至る所で見るようになった、ちらちらと辺りを伺う私服姿の捜査員、街を見回る衛兵達が一日に巡回する回数が明らかに増え、法執行機関による取り締まりが強化されているのを”亡命の導者”達は肌で感じた。
アデラースは”亡命の導者”が用意した隠れ家で息を潜め、日々イライラとしながら状況の好転を待つしかなかった。……だが、ついにその機会が訪れた!
ルイン地区の貧民窟で繰り広げられた二大組織の激しい抗争。非常に強力な魔法が炸裂し、火と煙が立ち上り、混乱が街の一部を飲み込んだ。その混乱の余波が、王都の他の地区にまで及んだ翌日の夜の闇に紛れて、”亡命の導者”は脱出を決行することに決めた。
王都の中心部に位置する繁華街は、夕方の賑わいが徐々に夜の喧騒へと変わり始めていた。その片隅で、生徒会役員達が意気揚々と歩いていた。
「なぁー、いいだろぉ?これくらい」
ヤニクが気楽そうに笑う。
「会長だって『無理にとは言わないが、出来れば予定は開けておいてくれ』って言ってたしな。”出来れば”だぜ?俺達は決して言いつけを破ったわけじゃない」
「その通りだ」
レナルイが大きく頷く。
「前回も待機組だったしな俺達。俺らがいなくても、会長ならなんとかしてくれるだろう?」
「生徒会室で待機しててもさ、実際の所、役に立てないよな?……俺達も生徒会役員として何か役に立つべきだ。そうだろう?これは調査だよ、調査!」
とヤニクが付け加えた。
「そうだな、調査なら仕方ない!」
トリストルが笑いながら同意した。
「平日に学院から外出……なんて事が出来るのも、生徒会役員の特権だな?」
四人は笑い合いながら繁華街を歩いていたが、突然ヤニクが足を止めた。
「おい、あれ見てみろ……」
彼が指差す先には、辺りをキョロキョロと警戒しながら歩く三人組がいた。粗末な服装に、不審なほど落ち着かない挙動。明らかに普通の買い物客ではない。
どうしても気になって、その三人が食料品店の店頭で商品を選んでいる最中に近づくと、彼らの会話が聞こえてきた。
「……デラースさん、これ好きですかね?」
「不用意にあの人の名前を出すな……」
「……すいやせん」
「!?」
ヴィクシムは大きく口を開け驚き、ヤニクが皆に声をかける。
「……みんな少し離れよう」
四人は、少し離れた建物の陰に行く。だが怪しい三人組からは目を離さない。
「さっきのあの名前、会長が言ってた老魔術士の名前だよな!?」
「ああ、間違いない!」
「これからどうする?」
「俺達、二人ずつの組に分かれよう。奴等は周囲を警戒しているようだった。巻かれない為にも、少し後方を追跡していく組と、通りの反対側から見張る組にだ」
「ああ、確かにそれなら見失わない気がするな?」
「じゃ、トリストルは俺と組むか?」
ヴィクシムがそう提案する。
「了解だ、組もう」
「なら……レナルイ、組もうか」
「そうだな、分かった」
ヴィクシムがさらに提案する。
「じゃ、俺達も名前を隠す為に暗号名を決めようぜ?俺達の組の事は、そうだな……『紅月』と呼んでくれ。トリストルもそれでいいか?」
「考えるのは面倒だ。それでかまわん」
「そっちがそれなら……レナルイ、俺達は『霧鷹』なんてどうだ?」
「かっこいいな!?分かった、それでいい」
「じゃ、お互いここからは暗号名で呼ぶ事にしよう」
「了解だ!」
暗号名を決めたことで、四人はなんだか本当の捜査をしているような気分になり、高揚感に包まれた。
ヤニク達の”霧鷹”は怪しい三人組の少し後ろを追跡し、ヴィクシム達の”紅月”が大通りの向こう側から、同じ怪しげな三人組を少し離れて追跡する。
ヤニク達の”霧鷹”が、三人組を追いかけて脇道に入っていく姿を、通りを挟んで歩いていたヴィクシム達の”紅月”は見ていた。しかし、どれだけ待っても三人組や”霧鷹”は脇道から戻ってこない。
「おかしいな……まだ出てこないぞ?もしかして、あの先に抜け道でもあったんだろうか……?」
通りを目で追いながら、トリストルが低い声で呟いた。
「……様子を見に行くか?」
とヴィクシムが気遣わしげに提案したその時、例の三人組が脇道から何事もなかったかのように出てくる。そして、その三人組が目の前の店に入っていくのが見えた途端、二人の緊張感がさらに高まる。
「……いや、それより奴らを見失ったら元も子もない」
トリストルは真剣な目で三人組を追う方針を決めた。そして互いに短く頷き合うと、視線を三人組に捉えたまま、そのまま大通りの向かいの道を慎重に歩いてゆく。
周囲の喧騒の中を三人組の姿が進んでいき、やがて繁華街の外れに差し掛かった。少し広めの通り沿いに建つ賃貸物件の前で、三人組は周囲を見渡してから階段を上がり、二階の扉の中に消えていった。
「……見たか?」
「ああ、見た……」
トリストルが小声で建物を指差し、ヴィクシムも頷きながら辺りを観察する。この建物はやや古びてはいるが、手入れは程良くなされており、王都にはよくある一般的な数階建ての貸家だった。繁華街の外れというあまり人目につきにくい立地のお陰か、近くに似たような建物が何軒も立っている所為か、さほど目立たなかった。
「隠れ家にしては意外だな?割とちゃんとした建物っぽいし……」
ヴィクシムが眉をひそめて言うと、トリストルも小さく頷く。
「うーむ。もしかしたら下っ端……いや、端金で他人の名義を借りて、いくつかの部屋をまとめて借りているのかもしれないな?」
「トカゲの尻尾切りってやつか……。それにしてもやつら、あれから全然出てくる気配がないな……と、言う事はつまり、ここが奴らの拠点ってことか?」
トリストルは表情を引き締めると、指示を出す。
「……ここは俺が見張るから、お前はすぐ会長に報告しに行け。老魔術士の隠れ家が分かった以上、早く増援を呼ばないと」
「分かった。……お前、絶対に無茶はするなよ?」
ヴィクシムが険しい表情で言い残し、素早くその場を後にするのを、トリストルは静かに見送った。そして改めて怪しい三人組が入っていった建物を見据え、小さく息を吸う。
周囲は夜の帳が降り、気配も落ち着いたように見える。三人組が入って行った部屋には、何か不穏な気配が漂っているのを彼は感じていた。
一人という心細さを押し殺しながら、それでも彼はこの場を動かず、友人が応援を連れて帰ってくるのをじっと待ち続けるのだった。
◇
生徒会室の扉が勢いよく開かれる音に、室内の全員が振り返った。
汗だくのヴィクシムが慌てた様子で駆け込んできた。
「会長!怪しい奴らの隠れ家を見つけました!そいつらが会話で『……デラースさん』って言ってたんです。俺っ、この名前……ッ!会長が言っていた『アデラース』の事だと思いますッ!はぁッ……!はぁッ……!」
彼は肩を大きく上下させながら話し続けた。
エルネットは冷静な表情で、机の上にあったティーポットを手に取る。
「ヴィクシム君、お茶でも飲んで落ち着いてから、話をしたらいいわよ?」
注がれたお茶を勢いよく飲み干し、ようやく息を整えたヴィクシム。
「……それで、どこで見つけたのだ?」
アルベールが問いかける。
「は、繁華街の外れの方にある数階建ての借家――その二階の部屋に奴らが入っていったのを、トリストルと一緒に、確かに見ました!」
と、ヴィクシムは直立不動になって答えた。
アルベールは腕を組んで少し考え込む。
(プロスランの方が先に見つけるものだと思っていたのだがな……。”借家”という合法的に借りる事ができる物を裏社会の者達が使うとは……いや、だからこそ、調査の盲点になっていたのか。プロスランにも犯罪者達が用意する隠れ家の場所は治安の悪い所……という先入観があったのだろう。流石にプロスランも、あまり個人情報を詮索されない、短期の滞在・宿泊がし易そうな、よくある宿屋や酒場の二階の貸し部屋などの宿泊施設には捜査の手を伸ばしていただろうが……。)
「ヴィクシム、よくやった。だが、私のこの前の言葉は、一応……『出かけるな』という意味で忠告していたつもりだったが……君の成果を考慮して、今回は不問に処そう」
ヴィクシムはホッとした表情を見せたが、すぐに顔を曇らせた。
「ただ、一緒に追いかけていたヤニクとレナルイが、怪しい奴らの追跡の途中、脇道に入ってからそのまま戻ってこないんです……それが心配です」
アルベールは頷きながら、
「よし、場所が判明した以上、動くべき時が来たな」
彼は室内に控えていたセドリックとヴィルノーに命じる。
「二人とも、例の木箱を開けてくれたまえ」
数日前に生徒会室に運び込まれていた木箱の蓋が開けられる。中から王都保安局の白を基調とした装備品が姿を現した。
「これは王都保安局から借りた装備だ。我々が学院関係者だということはできれば相手に知られたくはない。そのため保安局に頼んで借し出してもらった。鎧やローブの寸法は私の見た目で可能な限り君達に合わせたつもりだが、合わない者もいるかもしれない。それは許してくれたまえ」
ヴィルノーが箱から出し、皆に見せびらかすように持ち上げたその鎧は、白銀の輝きを放つ純白のプレートアーマーだった。胸甲には王都保安局の金色の紋章が象嵌されていて、さらに中心部を通るように赤い十字のラインがあった。肩当ては流線形で、金縁の革が滑らかな動きを支える。
全体的に美しさと実用性を兼ね備え、威厳を漂わせる意匠である。
次に別の箱からセドリックが取り出したローブは、純白の布地に金糸刺繍が施された上品なローブで、胸元には控えめに紋章があしらわれている。
長い丈とベルスリーブの袖が優雅さを演出し、袖の中央に赤く染められた細い皮革が十字を描くラインの様に縫い付けられ、鎧に合わせるような意匠になっており、背中のケープと星の刺繍が神聖な雰囲気を醸し出す。動きやすさも考慮された実用的なものだった。
「僕は馬車を用意してきます!」
と、元気に手を挙げたのはマルストンだった。
「御者の方にも、ここ数日の間は『いつでも出れる様にしておいてください』と、前もって頼んでおきましたので、準備はしていると思います。これからすぐ行って校舎の前に馬車を廻してもらいます」
「頼む、マルストン。今回は迅速な行動が求められる。だが馬車は一台のみ、乗れる人数も限られる事から、馬に乗れる者を優先する班員の構成とする。それ以外の者はまた、生徒会室に待機していてもらう」
アルベールは淡々と語りながら選抜メンバーの名を読み上げる。その読み上げられた中に、私の名前が入っていた。ただそれだけで、なんだか少しの優越感と高揚感を感じた。
……残念ながら今回、読み上げられた名前の中にカロルの名前はなかった。
カロルは”頑張ってね”という意味で小さく手を振っている。
「では早速、名前を呼ばれた者は、保安局から借り受けた装備を装着してくれたまえ」
名前を呼ばれた執行部のメンバーの男子は鎧をつけ、女子は制服の上からローブを着込み、緊張感のある面持ちで装備を整えていく。
その横でフェルロッテが小さく指を鳴らす。
「じゃあ、馬を用意してくるわね。ついてきて、執行部の皆!」
名前を呼ばれなかった待機組の執行部メンバー数人を引き連れて、フェルロッテは足早に生徒会室を後にする。
「さらに班を二つに分ける。ひとつは老魔術士アデラース捕縛班、もうひとつはヤニクとレナルイの探索班だ」
アルベールが鋭い視線をヴィクシムに向ける。
「ヴィクシム、君はアデラース捕縛班に入ってもらう。現場への案内が君の役目だ」
「はいッ!」
ヴィクシムは胸を張り、堂々と答えた。
その後、装備が終わった者から順に室外に出てゆく。
馬に乗れる者は、男女問わず馬に乗り、乗れない者は馬車に乗り込む。そして、夜の影が差し始める学院の敷地を、馬の蹄音が律動を奏でるように駆け抜け、馬車の車輪の軋む音がそれに続いて鳴り響き、学院の門を抜けると夜闇へと走り去ってゆく。一行はそれぞれの任務へと動き出すのだった―――。




