抗争 後編
戦場は互いの攻撃が激しさを増す。剣が交わるたびに火花が散り、激しい戦いが繰り広げられた。両者の剣技は互角であり、一歩も引かぬ攻防が続いた。
周りの兵隊達も、戦闘の手を止め、二人の攻防を注視する。
戦いが進む中、ブロワールはフェルシスの動きを読み、攻撃を畳み掛ける。
その連続攻撃によりフェルシスは武器を弾かれ、無防備になった瞬間、思わず叫ぶ。
「しまッ!?」
ブロワールはあと少しで勝利を手にできると確信した。しかし、その時だった。戦場にある報告を叫びながらフェルシスに走り寄ってくる者がいた!
その声高に叫ばれる報告によって、ブロワールは思わず動揺し剣の軌道を逸らしてしまう。首を狙った必殺の突きが、肩当てに強くあたり、その衝撃でフェルシスは落馬する。
「やりましたぞ!我らの宿敵ディナルドをッ!我が精鋭達が討ち取ったの事!フェルシス様ーッ!お喜び下さい!!」
それは前線に激震を走らせるのだった!
その伝令は、その後も何度も何度も『ディナルドを討ち取った』と在らん限りの声を張り上げて叫び、戦場を駆け回った。
その一報は、戦場の空気を一変させた。優勢だったブロワールは、
「嘘だッ!オヤジがそう簡単にくたばるハズはねぇッ!!」
そう叫ぶが、逆にフェルシスは口角を釣り上げ、体勢を立て直す。
「フハハハハ!残念だったなぁ!?ブロワールぅ~~!?幸運の女神は、常にィ!我についているのだぁ!ハハッ、ハハハハハ!!」
フェルシスがブロワールを悪しざまに煽る。
エクリプスノワールの兵隊達は嫌でも耳に入ってくるその報告に触れて動揺し、傘下に入ったばかりのこれまでまともに戦闘に参加しようとしていなかった西地区の多くの集団が、我先にと前線から次々と逃げるように逃走に入る。
それに釣られ、主力部隊からも逃げ出す者が出始める。彼らの間に、不安が広がり始めていた。それは誰もが感じていた。次に俺達に待ち受けていることは何だ?更なる戦闘か?あるいは完全な崩壊か?
兵隊達の間に、ささやき声が広がる。「もう無理じゃないか…」「これ以上戦っても意味があるのか?」そんな思いに憑りつかれたエクリプスノワール側の士気は急速に低下し、前線は崩れ始めた。
ブロワールも一瞬動揺を見せたが、すぐに冷静さを取り戻し、味方を鼓舞して何とか戦線を維持しようと努めたが、もはや逃げ出す兵隊達を引き留めることはできず、戦況はますます不利となっていった。
ブロワールは、この戦い、この瞬間で、大きな決断を迫られていた。頭の中に幾つもの選択肢が現れては消える。
周囲を見渡す。自軍の兵隊達の疲弊、戦意の減少を肌で感じ取り、即座に判断し、彼は道を選ばなければならない。
(くっ……。このままでは、前線が持たない……もはや撤退せざるを得ない……か……)
ブロワールは心の中で苦渋の決断を下し、周りを囲む部下達についに撤退命令を出した。
命令を受領した部下達はそれぞれの部隊に駆け、撤退命令を伝えてゆく。
東の連中を引き連れて、別の拠点を攻めている幹部のガストリックの方にも、撤退を知らせる伝令を走らせた。
そんな中、馬に乗った人物の一人が手綱を操り、彼の方へ馬を寄せてくる。
「ブロワールよ、殿はこの老いぼれに任せよ……。其方は若い。こんな所で命を散らしてはならぬ。この先のエクリプスノワールを頼むぞ!!」
「セヴラルド……!?」
セヴラルドと呼ばれたその者は齢六十を超える壮年の幹部で、エクリプスノワールの中でも特にその知恵と経験が重んじられていた。先程、フェルシスの本陣の近くまで斬り込んでいた部隊を率いていたのも、セヴラルドだった。
背は低めで、かつての強健な体つきは今ではやや痩せているが、彼の存在感は決して衰えてはいない。深いシワが刻まれた顔は、ディナルドと共に歩んだ長年の戦いと苦難を物語っており、彼の灰色の目は、他人の心を見透かすような冷徹さと、長い年月を生き抜いた知恵で人物を見定める力を持っていた。
彼の髪は全て白髪で、背中にまで届くほど伸びている。額には、エクリプスノワールの紋章を象った銀のサークレットを着けていた。
服装は、他の幹部たちの武骨さとは異なり、機能性と威厳を兼ね備えた簡素なモノ。濃紺のローブは腰までスリットが入ったモノで足回りが動きやすいようになっており、そのローブの上に胸当て、腰回りに幅広の厚皮のベルト、手には手甲、足元は膝当てのみを装備。軽く動きやすいように全体が纏められており、ローブ背面の裾には、エクリプスノワールの紋章が刺繍されていて、それがディナルドの信頼の証を示している。
彼は、知恵と戦略で勝利を収めることを第一の信条としており、ディナルドからの信任も厚く、エクリプスノワールの「影の顧問」として、他の幹部達からも一目置かれる存在であった。
「あのディナルドがそう簡単にやられるとは思えんッ!本当かどうか、その目で見定めてまいれッ!」
そう言うなり、ブロワールの乗る馬の腰を剣の側面で思い切り叩く!
「セヴラルド―――!?」
きつい一発を貰った馬は、仰天して一気に駆け出す!ブロワールの直属の部下達はその馬を追いかけるようにして前線から離脱してゆく。
その場に残ったセヴラルドが、手綱を操り馬の向きを変え、馬上からフェルシスに語りかける。
「ハッハッハ!老い先短い儂にも、見せ場をくれるかのぅ、若いのォ!!」
「ハハハ!愉快な御仁だ!あなたのような知恵者は是非、我が配下にも欲しかったが……。いいでしょう、相手にとって不足なし!噂に名だたる老練の技、今こそ見せてもらいましょうか!」
馬から飛び降り、あくまで正々堂々の勝負を望んだセヴラルドと、武器を拾い立ち上がったフェルシスは互いに走り寄り、打ち合う。剣が甲高い音と共に火花を散らす。
セヴラルドは、使い慣れた愛用の鋼剣で果敢に攻め立てる。襲い来る刃をいなし、斬り込み、躱し、剣の軌跡を予測し立ち位置を変幻自在に変えて反撃を放つ。そして背後に付き従う直属の部下達に声をかける。
「お前達、つき合わせてすまんな!ブロワールが逃げきるまで、儂と時間を稼いでくれ!!」
「ははは!いいって事ですよ!セヴラルドさんに鍛え上げられた俺らが、ここで踏ん張らんでどうすんですか!お任せ下さい!」
「「「おおッ!!!」」」
そういって、部下達は彼が戦い易いようにと周りに寄ってくる敵の兵隊と斬り合い、打ち倒し、必死に場を整える。
今現在、戦っている場所は、かつて栄えていた当時は馬車が往来していた「往復車線を備えた大通り」の真ん中であり、道に沿って(現在は廃墟となっている)建物が立ち連なっており、戦闘が可能な範囲、方向は限られていた。彼の率いる部隊の兵隊は道幅一杯に広がり、ある戦術を行う。
最前線で戦う者がある程度戦い、疲れた者が敵の隙を見て少し後ろへ後退し、三列目の位置で息を整える。二列目で控えていた者が今度はその場に留まり、最前線となって暫く死守をし、また疲れた者が後退して後方に待機し、新たな列を構築する。それを実直に繰り返すという、見事な遅滞戦術を展開する。
その交代を繰り返すことで、各自に蓄積される疲労の分散を図り、少しずつ後退をすすめ、さながら半永久的な機関のような仕組みを組み上げた。彼らの踏ん張りのおかげで主力部隊の温存と、゛潰走゛という最悪の事態は防がれたのだった。
セヴラルドの部下達が見事な部隊運用をしている間にも、二人の戦いは続いていた。
次の瞬間、フェルシスが仕掛ける!素早く踏み込んで、長剣を上段から斬り下ろす。しかし、セヴラルドも一歩も引かない。彼の剣が相手の刃を受け止め、火花が散る。剣と剣がぶつかり合う音が、夜の戦場に鳴り響く。
刃と刃がぶつかり、ギリギリと金属特有の鈍い音を出し、力強く押し合いながらも、両者の腕には微塵の揺らぎもない。
フェルシスの顔に浮かんでいた笑みは消える。
「くッ!ご老体、流石ですね……貴方の噂は伊達じゃないようです!」
「まだまだ若いモンには負けんわいッ!」
鍔迫り合いが続く中、セヴラルドは手元をわずかに傾け、わざと力の均衡を崩し、フェルシスの刃を巧みに流す。フェルシスは老練な技に誘導されたその動きに焦りの色を見せ、顔が僅かに引き攣る。
それを見逃さないセヴラルドが、流れるように次の攻撃を繰り出す。
その見事な連撃を、フェルシスは全てギリギリで致命傷だけは避け、軽く出血しながらも一連の攻撃を捌く。
その流れに合わせ後方に軽く飛び退き、少し距離をとったフェルシスは、得物の長剣をゆっくりと構え、その顔に再び自信と共に狂気が滲んだ笑みを浮かべる。
「セヴラルド様ッ!ブロワール様は上手く撤退されたようです!姿はもう見えませんッ!我々も退きましょう!準備を!」
「ははは!何を言っておる!目の前に南の大将がおるんじゃぞ!?コイツを倒せれば、南の勝ちも無い!こっちにはブロワールもおるし、主力部隊の大半は残っておるはずじゃ!敵の大将を倒し、戦況をこちらの有利に傾け、もう一度決戦を起し、最終的な勝利をもぎ取るんじゃ!!」
口ではそう言いながらも、その足は前方では無く、少しずつ後ろへと後退していた。
フェルシスは口角を釣り上げ、横薙ぎの牽制攻撃を放ってセヴラルドに話しかける。
「フフフ……セヴラルドさん。周りを見て下さい。気が付きませんか?」
セヴラルドが周りを見ると、後退中にいつの間にか十字路の中心に入っていた。気付かないうちに回り込んでいた敵の兵隊が、側面からの奇襲をしかけてきていたのだ!
「すんませんッ!こいつら建物の陰からいきなり……ッ!」
「セヴラルド様ッ!どうか御無事で!くッ?このォ!!」
セヴラルドから引き離された部下が口々に後悔の言葉や、敵兵に対する罵りの言葉を叫んでいた。
先程まで彼の背後を囲んでいたはずの彼の部下達もいつの間にか、側面から現れた敵の兵隊とも戦わざるをえなくなり乱戦になっていた。盾を持つ者が倒れ、槍が折れ、剣が叩き落とされるたびに、彼らの命が削られていく。
「それに……先程から息が上がっていますよ?ご自身では気づいていないのですか?ククク……」
その言葉に、彼は初めて自分の状態に気づいた。興奮により肩で息をしていたことにまったく気づいていなかったのだ。一度意識してしまうと、一気にそれが表面化してどっと疲労感に襲われ、全身の筋肉が小刻みに震えているのがはっきりと感じられる。内心、動揺が増していくのを抑えきれなかった……。
「せめて儂がもう少し若ければ、先程の鍔迫り合いからの流れでのぉ、強引に貴様の命を取る事ができたのにのう……!」
「もう、体力も限界なのでは?あちこち震えているのがわかりますよ?……老いとは残酷ですね。では、私に倒された事を誇りに、そろそろ逝ってくださいッ!!!」
フェルシスは剣を正面に構え、一気に上段からセヴラルドの懐へ飛び込むッ!!
セヴラルドはすぐに反応し、剣を捨てて両手を握りしめ、手甲を交差させて頭を守る防御態勢をとった!
しかし、フェルシスは素早く動きを切り替え、上段の構えから一瞬で突きに切り替えた。狙いは手甲のわずか下。その狙い通り、フェルシスの剣は、胸当てとベルトの隙間を正確に捉え、深々とセヴラルドの体に突き刺さる。剣先はそのまま背中まで突き抜けていた……。
「しまっ……!ガハッ……!」
「ご老体にしては良く頑張りました……ねッ!!」
フェルシスはセヴラルドに突き刺さった剣の柄を掴み直し、その肩を踏み付け、剣を一気に引きずり抜く。
「ぐぁああああああああッ!!」
肩に載せたその足に力を入れ、痛みに悶えるセヴラルドの身体を蹴り倒す。
地面に寝転がる形になったセヴラルドは、部下の方へ震える手を伸ばすと、最後の力を振り絞り、叫ぶ!
「時間は稼いだ……!お前達だけ、でもッ!……はぁ、はぁ……逃げよ……!ゴホッ!!」
セヴラルドは咳と同時に、ゴボッ……という気味が悪い水音と共に大量の吐血をし、力なく倒れた。
「「「セヴラルド様ぁあああ!!」」
その最後を看取った部下達は、涙を浮かべながら主の遺言を守るべく、戦場に背を向けて北の根城への逃走を目指し、走り出す。しかし、彼らの疲労は限界に達していた。もはや気合だけで歩を進める。だが、その度に、身を守るはずの鎧の重さがのしかかり、呼吸は苦しく乱れ、目も次第にかすんでいく。後ろからは決して鳴りやまない追手の足音が響いてくるのだった。
エクリプスノワールの主力部隊は、この戦いで三割以上の損害を被り、甚大な被害を受けた。混乱の中、セヴラルドと彼を慕う直属の部下たちが殿を務め、その命を賭けた献身により、敵主力部隊との距離を広げ、味方本隊の撤退を支援する時間を稼いだ。結果として、辛うじて前線から主力部隊の撤退が成功したのである。
結果的にエクリプスノワールの主力部隊は潰走することは無く、南地区から撤退を完了した。彼らは確実にその役目を果たしたのだ。だが、引き換えに幹部一人の命と、最後に残されたその直属部隊が撤退中に執拗な攻撃を受け、半数以上の人員を失ったのだった。
王都の中に広がるルイン地区のほぼ全域に広がる貧民窟の北地区周辺を、エクリプスノワールは長らく支配してきた。狭い路地と違法建築が入り組んだこの場所で、エクリプスノワールはかつて南一帯を支配するフォコン・オブスキュールの勢力と力の拮抗を誇示していたが、今回の戦いでついに全面抗争に突入し、最初の戦いにおいて手痛い敗北を喫したのだった。
◇
夜の静寂が、学院の女子寮を包み込んでいた。外には満月が高く浮かび、その青白い光が薄いカーテンを透かして部屋の中に差し込んでいる。月明かりに照らされたベッドで、彼女は眠りの中からゆっくりと目を覚ました。
まどろみの中で一瞬、何かに引き寄せられるような感覚に襲われるが、すぐに意識を取り戻す。薄闇に包まれた部屋の中、彼女は天井を見つめて一息つく。
遅れて、侍女のアンも気配を感じたのか、わずかに身じろぎしながら目を開けた。月光に照らされるアンの顔は、まだ夢の中にいるようなぼんやりとした表情で、主人である彼女を見つめる。
「どうされましたか?お嬢様……」
彼女はベッドの上で上半身を起こすと、アンも続いて身体を起こす。
「アン、今日は何日だったかしら?」
「多分……まだ、十三日だと思います」
彼女は首を軽く傾げる。
「十三日……なら、そろそろ新しい仮面の調整ができた頃かしら?」
と、彼女は小さく呟く。
「お嬢様、何か仰られました?」
「いいえ?なんでもないのよ?なんでも。ンフフ……」
と言い、彼女は指を鳴らした。その瞬間、アンの目は虚ろになり、意識のない言われたまま動く傀儡人形と化す。
「アン、例の箱を出して」
と、彼女は命じた。
「……かしこまりました」
と、無感情に応えるアンは、部屋の灯りをつけてプラカール(クローゼット)を開けると、その奥をごそごそと探り始める。
暫くして、アンはプラカールの奥から芸術的価値の高い精巧な彫刻が施された小さな箱を取り出してきた。その小箱を手渡された彼女は、箱を開けて中に安置された仮面を見つめると、口角を上げる。
その仮面は深紅の背景に純白の薔薇が描かれ、豪華な印象を与える。薔薇の花びらに透明な水晶を巧みにカットして使用した立体的な表現がなされており、水晶の底に敷かれた純白色が白い薔薇を見事に現していた。
また見る角度によって水晶は色を変え、仮面全体に華やかさを加えている。
目元には薔薇の蔓が絡みつくようなデザインが施されており、優雅さと妖艶さを併せ持ち、縁には赤い小さな宝石のビーズがあしらわれ、細部まで制作者のこだわりを感じる。
その新しい仮面を装備すると、アンに優しく命令する。
「これから外出するわ。服と外套の用意を」
「……かしこまりました、お嬢様」
アンに私の服を着替えさせ終わると、ベッドへ戻って寝るように指示する。
アンがベッドに戻るのを確認し、深紅の仮面を付けると、バルコニーに出て周囲を見渡す。誰にも見られていない事を確認してから魔法を唱え、彼女はバルコニーから夜の闇に紛れるように暗い夜の空へと飛び立つのだった。
夜空に浮かぶ満月を背に、彼女が静かに“工房”へ舞い降りた。
“工房”の門番をしている者は普段と違い、何故かピリピリと緊張……警戒している様に見えた。不審に思った彼女は、結界を維持したまま、炎の出力を最小限に落として魔法自体は解かなかった。
「はぁい。バルナタンいるかしら?」
それでも彼女は、いつもと同じように強者の余裕を見せつけ気軽に声をかける。門番の当番は、「あ!姐さん!?す、少し、お待ち下さいッ!」と言うとすぐに中に駆け込み、デュドニーとカルクールを連れて外に出てくる。
デュドニーは彼女の姿を見ると駆け寄り、口を開く。
「姐さん!お疲れ様です。えっと、今、バルの兄貴は上の方に呼ばれて、一〜三班を引き連れて出ています。何やら治安維持がどうとか、緊急的対応が必要とかなんとかで、詳しくは分からないんスけど、上が兵隊集めてるみたいで……。姐さんに迷惑かけるといけないから、ファイエルブレーズではなくダボンバーズとして目立たないように参加してるみたいです」
「なんだか面白い事になっているみたいね?ンフフ……」
デュドニーと話してると、扉からひょっこり小さな子が顔を出してくる。
「カルおにーちゃん、この人誰〜?」
眠そうに目をこすりながら幼子が中から出てきた。
「……いつからここは孤児院になったのかしら?」
彼女は少し眉をひそめ、片手を腰にあてながらカルクールをじっと見据えた。その視線は冷静を装っているものの、微かな苛立ちが透けて見える。
彼女の指がゆっくりと腰をトントンと軽く叩き始め、その無意識な動作が心中の不満を示していた。目の前の幼子に向ける表情には優しさはなく、むしろ不意に現れた小さな存在に対する戸惑いと苛立ちが浮かんでいる。
カルクールはその雰囲気を感じ取り、冷や汗を浮かべながら口を開こうとしたが、言葉が出てこない。
取り合えずこの子を室内に戻して、不満を感じている彼女の視界から遠ざける事が優先だと決意し、その子に向かって手短に優しく説明する。
「このお姉さんは、このファイエルブレーズで一番偉い人だよ。いい子だから、二階に行ってお休み?」
「はぁい。おにーちゃん、おやすみなさい」
その子は大人しく中に入っていく。
その様子を無言で見送る三人―――。
「それで、今日はどのような御用件でしょうか?」
カルクールが姿勢を正して最初に口を開く。
「ああ、そうね。要件を言ってなかったわね?……そろそろ私の仮面の調整が出来てる頃だと思ったから、取りに行くつもりだったのだけど、バルがいないんじゃ、また今度かしらね?」
「今つけられているその仮面も、よくお似合いです」
「ンフフ。まあ、これ、調整が出来る迄の代替品だけどね。ついでにコレも買ってしまおうかしら?」
妖艶な手つきで仮面に指を這わせる彼女。
不安そうな顔をしているデュドニーを見た彼女は、安心させる様に、
「じゃ、私はバルの様子を見るために、ちょっと根城の方に行ってみるわね?」
「はい、よろしくお願いいたします。兄貴も、一緒に行ったヤツらも全然帰ってこないんで、皆も心配してるんスよ……。兄貴達の様子が分かれば、教えて下さいッ!」
「分かったわ♪」
それだけ言うと、彼女は炎の出力を上げ、空に舞い上がり、エクリプスノワールの根城の方に向けて飛んでいくのだった。
◇
ブロワールは早々に敵の追撃を振り払い、馬を飛ばして急ぎ根城に戻ってきた。心臓が早鐘のように打ち、胸中は不安と焦燥でいっぱいだった。彼の頭にはただ一つ、ディナルドの安否を確かめることしかなかった。しかし、根城の前に到着した彼の目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった―――。
「お、オヤジ―――ッ!!!」
根城の前に広がる今は誰もいない広場に、天に向かって突き立てられた何本もの槍にディナルドは貫かれ、串刺しにされたまま放置されていた。無残にも彼の体は血で染まり、頭は力なく垂れ下がっていた。
ブロワールはその場で馬から飛び降り、ディナルドを貫いている槍を倒しながら遺体をそこから外し、地面にそっと下ろした。彼は男泣きに泣き、恥も外聞もかなぐり捨て、ただただ泣いた。泣いていた。
嗚咽を漏らし暫くの間泣き、やがて涙も枯れ果てると、彼の心には南の奴等に対する怒りと喪失の悲しみが混じり合い、決意が固まる。
怒りを目に滾らせ、顔に涙の跡が残るブロワールの背後には、やっと追いついてきた先頭集団の兵達の疲労は限界に達しており、膝に手を突き荒く肩で大きく呼吸をしていた。中には疲労のあまり地面に寝転がる者もいた。
その部下達が、やがて集まり彼を囲む。彼らもまた、ディナルドの死を悼み、涙を流し嗚咽を上げ、ブロワールと共に深い悲しみと怒りを共有した。ボロボロに傷つきながらここに到着した残存の兵隊達は、
「オヤジ……。必ずあんたの仇を討つぜ……」
と、半ば死を覚悟しながら言う、ブロワールの言葉に頷いた。
それからブロワールは、前線から撤退し広場に到着した順に各部隊から次々と報告を受け、ざっと大まかに被害状況を頭の中で計算する。
報告を受けながら、手の空いてそうな部下に根城の倉庫の中から毛布やシーツ、救護用の備品、傷の消毒に使う為の酒、松明をありったけ持って来るように命じ、広場を臨時の救護所にして、”手が空いている者は怪我をした者の手当をせよ”と報告の終わった部下達に命じる。
広場に集まった兵隊達の多くは、幾度もの戦闘で受けた傷と、精神的な疲労が限界に達していた。前線での決戦に敗れた現実が彼らを苛み、顔を覆って悲嘆に暮れながらも、荒い息を整え、無言で互いに視線を交わしていた。
主だった部隊から一通り報告を受け、手の空いた部下に指示を出し、広場にいた比較的軽傷な者達がそれぞれの作業に動き始めると、ブロワールは、ディナルドの亡骸を両手で持ち上げて立ち上がり、根城に向かう。その後には数人が付き従うのだった。
彼が根城に入ると、明かりのついていない真っ黒な空間が広がっていた。部下が動き照明に火を灯すと、思わず目を塞ぎたくなるような惨劇がそこには広がっていた。
床に流れたどす黒く変色したおびただしい血痕と、根城の留守を頼み、中で待機していたエクリプスノワールの構成員達の変わり果てた姿と、鎧を着込んだ護衛者数人の遺体が、ロビーから二階にかけて続いていた。
仲間の遺体を避けながら階段を上がり、ディナルドの寝室に進む。
部下が先に寝室に入り、照明に火を灯すと、室内にも数人の護衛者達の遺体と、その長である幹部のステフレッドが床に倒れていた。床に敷かれた絨毯は、遺体から流れ出た血でべっとりと染まり、既に半日以上が経過していたため黒ずみ、重苦しい鉄の匂いが部屋に充満していた。彼の体は冷たく硬直し、周囲には血のしみが乾き始めていたが、それでもなお異様な存在感を放ち、そのまま無造作に放置されている様は、凄惨な光景としか言いようがなかった。
「ステフレッド!!お前ほどの使い手まで……!?オヤジだけでなく、ステフレッドまでッ!……おのれ、おのれ、おのれェッ!フェルシスゥウッ!!」
ブロワールはディナルドの亡骸をベッドへ横たえた後、ただ黙ってステフレッドの身体に突き刺さったままの剣を一本ずつ、ゆっくりと抜いていた。
その彼の手は震えていて、顔は蒼白となり、目の奥には深い絶望の色が濃く漂っている。怒りと悲しみが混じり合い、まるで全ての光を奪われたかのような虚ろな表情をしていた。まるで世界から取り残され、ただ復讐という目的だけが彼を辛うじて支えているかのようだった。
しかし、階下から騒々しく部下が駆け上がってくる。
「ブロワールさんッ!下にあの女が!」
と叫んだその瞬間、ブロワールの瞳に一筋の光が差し込んだ。目の焦点が戻り、彼の顔に変化が現れる。まるで暗雲の中から一瞬の閃光が差し込んだかのように、その表情には希望と決意が生まれていく。
「あの女……?そうか……!」
ブロワールは囁くように問いかけたが、その言葉には微かな期待が含まれていた。絶望に沈んでいた彼の心に、新たな可能性が芽生えたのだ。目は鋭くなり、顔には血の気が戻り始めた。今まで無謀な突撃しか考えられなかったが、あの強力であろう魔女の登場により、現実的にフェルシスを討てる可能性が見えてきたのだ。
「二人とも……今すぐ弔ってやりてぇが、少し待っててくれ……。オヤジとお前の墓前にあのクソ野郎の首を持ってきてやるからなッ……!!」
ブロワールは、鞘に入ったままの剣の柄を握り締めながら静かに立ち上がる。暗い表情が徐々に消え去り、彼の顔に浮かんだのは、執念に燃えた不敵な笑みだった。
「分かった。すぐ降りると、伝えておけ」
「へいっ!」
(オヤジ、見ていてくれ、どんな力、方法を使ってでも、あんたの仇はとる……!)
ブロワールがロビーに降りて来ると、彼女は珍しく立ったまま待っていた。ただ左腕に乗せた右手の人差し指が、規則的に軽く左腕を叩いていた。その細かいリズムが、彼女の内にある苛立ちを如実に物語っていた。
「……なんだかいつもと違って、雰囲気が悪いわね?皆、表情が暗いし……何があったの?」
「……ちょっと上に上がってくれるか?」
そう言うブロワールの顔には、不敵な笑みと共に陰鬱な陰があった。
彼女は、左手に載せていた右手を仮面に移動させ、クイ、クイッっと二本の指で新しい仮面の位置を微調整する。
「まあ、いいけど?」
ブロワールの後に続いて階段を登る彼女。
いつも通されていたディナルドの部屋の前には不思議な事に護衛の門番はおらず、ブロワールもそちらには向かわなかった。その部屋とは逆の方へ向かい、別の部屋の扉を開く。
その部屋に入って最初に目についたのは、鎧を着込み、絨毯に染み込んだ赤黒い大量の血の中に倒れ込んでいた者達の遺体と、ベッドに横になったディナルドの姿だった。その体の至る所には痛々しい深い切り傷や刺し傷が見え、青白い顔は完全に精気を失っている。
「……これは、どういうこと?今、どういう状況なのかしら?」
ブロワールが、その重くなった口を開く。
「今朝、オヤジがこの貧民窟の全てのシマを手に入れる為に兵を上げ、長年の宿敵、南のフォコン・オブスキュールに攻め込んだ……。東西の勢力は全てウチの支配下に入り、南は孤立、俺らは圧倒的な多数の兵隊を引き連れて行った。最初は順調に進んでいた。敵の先手を取り、楽々と拠点を幾つか落として侵攻し、南の重要拠点を包囲し、攻略をし始めた……そこまでは順調だった……」
彼女は、口を挟む事なく状況を淡々と語るブロワールの話に耳を傾けていた。長いまつ毛の影が頬に落ち、唇はわずかに緩んでいる。ブロワールの重苦しい語りに対して、まるでそれが彼女にとって退屈ではなく、むしろ興味を惹く物語であるかのように、どこか楽しむような雰囲気を漂わせていた。
「……その頃、ようやく南のフェルシスが兵隊を引き連れ現れた。奴らは地の利を生かし、その重要拠点の近くの高い無人の建物を即席の砦にし、やつらはどういう入手経路かわからねーが、大勢の弓兵を揃えて攻撃して来やがった。反対に俺らは弓を調達していなかった。大量に入手したら、王都警備隊や保安局が待ってましたと言わんばかりにガサ入れにくるのが分かっているしな。だからそれを警戒して弓には手をつけなかった。まぁ、奴等に引っかからん程度には、長い時間かけて集めてあるにはあるが……。それでも根城や拠点を守るためのモノだ……。俺らがそうだから、向こうも弓なんぞ前線にまで引っ張り出して使わないだろうと高を括っていた。それがどうだ、クソッ!……ああ、すまねえ。話が逸れてしまったな。……オヤジは弓の射線から逃れる為、南の重要拠点の包囲を解き、軽く後退させる命令を出した。主力部隊は少し後退し、そこに陣を構えた」
ブロワールは一度息を吐き出し、少し室内を歩くと壁際にある酒器棚から、持ち主が居なくなったワインボトルを一本取り出す。コルクを抜こうとする手が微かに震えているのを自覚しながらも、強引にそれを抑え込み、栓を強引に抜き、直接口をつけてゴクッ、ゴクッ……っと喉を鳴らし中身を呷ると、瓶から口を離し、彼は話を続ける。
「その後はお互い攻め手に欠け、膠着状態が続いた。状況を打開する為に、オヤジは幹部の一人にそいつの部下の部隊と東側の中小組織を纏めた集団を任せ、別の拠点を攻めさせに行かせた。たが、その後、敵の主力がオヤジや俺ら幹部を狙って襲いかかってきた。オヤジは逆に好機と見て反撃し、数で圧倒しながら前線を押し上げた。弓兵の攻撃が無いと分かったセヴラルドが、即座に自身の率いる直属の部隊で突出し、もう少しで先程の簡易砦近くに陣取るフェルシスに手が届くところだった……が、オヤジが目の前で急に発作を起こしたんだ!前線はもう大混乱だった。オヤジは護衛に守られ撤退、敵は勢いづいて攻めてくるわ、オヤジの代行として俺が何とか指揮を引継ぎ、主力部隊の混乱を収め、何とか戦列を立て直したが、俺はその後前線の指揮や戦いで精一杯で、オヤジのその後は知らなかった。その後も必死に戦い続けていたからな……!」
彼は喉を潤す様に、ワインボトルを一口呷る。
「……結局、どの位時間が経過したのかわからねーが、暫くして敵の伝令がオヤジを討ち取ったという報告を走り回りながら大声でしやがるもんだから、俺らの主力部隊にも動揺が広がり、皆浮足立って、最終的に撤退を選択せざるを得なくなった。そこで幹部のセヴラルドが殿を引き受けてくれたから、俺は無事にここまで逃げ帰れたんだ……だが、ここに帰ってみたらオヤジはヤツらの伝令の報告通り亡くなっていた。あろうことか広場で晒し者にされ、根城の中は至る所に死体の山と血の海……だった。幹部の一人、ステフレッドも殺られていた……」
体の内側から沸き起こる怒りに腕を震わせながら、ブロワールはワインボトルを傾け、一口、二口飲むと、手の甲で口元を拭う。
「……で、根城の中はこの有様、と言う訳ね?」
「……そうだ」
「それで、あなたはこれからどうするつもりなのかしら?」
ブロワールは他人に聞こえるか聞こえない位の小声で「使えるモノならなんだって使ってやる……」と、呟いた後、
「必ずオヤジの仇を取る……!」
そう宣言したブロワールの眼の奥には、暗い憎しみの炎が燃えていた。
「……あんた、その魔法の力を……俺に貸してくれねえか?頼むッ!この通りだ!俺に出来る事ならなんでもするッ!」
深々と頭を下げて頼み込むブロワール。
彼女は口元を軽く歪ませ、唇に指を当ててそっと笑った。ブロワールの必死な姿を映すその瞳には笑みが浮かぶ。まるで狡猾な捕食者が、見えない釣り針に大きな獲物がかかったと確信したような光が宿っていた。
「……条件があるわ」
「それはなんだ?宝飾品か?金か?欲しいものがあるなら、なんでも言ってくれ。すぐに用意するッ!」
彼女はふっと息を吐くと、仮面の奥の瞳の愁いを帯びた長い睫毛を伏せ、わざとゆっくりとした動作で囁くように話し始める。
「……貴方よ。ブロワール。ウチのファイエルブレーズに貴方が欲しいわ?」
「……は、はぁ―――ッ!?」
彼女は目を開けると真っ直ぐにブロワールをじっと見つめ、
「聞こえなかったかしら?私が協力する条件はたった一つだけ。ウチに貴方が欲しいわ。だけど……焦らないで。大切なことだから、慎重に良く考えてね?」
そう言ってから、彼女は再び彼の方を見上げた。瞳には思わせぶりな輝きが宿り、口元にはほんの少し微笑が浮かんでいた。彼がどういう反応をするかを楽しんでいるかのように、彼女は小さく首を傾げる。
ブロワールは口を抑えるように手を当て、逡巡する。想定外の条件を出された事で頭が混乱する。だが同時に凄い速度であらゆる事を想定し、考え始める。
彼がブツブツと呟きながら考え始めると、すぐに答えを貰えないと分かった彼女はだんだんと暇を持て余すようになった。そして、気になっていた事を彼に問いかける。
「……色々考えてるところ悪いのだけど、……ウチのバルナタンは無事なのかしら?」
その声に、考えを中断した彼がすぐに反応する。
「済まないがそれは分からない、俺も現状、把握出来てはいない……。戦闘で死んでなければ、今頃は主力部隊と共にこちらへ撤退して来てる筈だが……ちょっと広場を探してみたらどうだ?」
「それも悪くはないのだけれど……」
仮面の奥で、彼女の目が妖しく光る。
「今は他に知りたいことがあるの。……私はよく知らないのだけれど、ディナルドの剣の腕はどのくらいのモノなの?」
「そもそも、オヤジの剣の腕前はかなりのモンだ。若い頃セヴラルドにしごかれ……いや、鍛えられたらしい。普段なら、雑魚がいくら襲いかかろうがオヤジの命が取られる、なんて事はねぇ。身体も酒も強い人だったが、今日は発作を起こしたし、撤退した後のオヤジの調子がどうだったかは分からねえ。だが、根城近くには何故かこんな所に住んでいる、ちょっと頭がおかしいが腕のいい先生もいる。きっと良い処置をしてくれただろうよ。発作なんてすぐに回復させたんじゃねえか?」
「……そんなに強いのに、ディナルドはなぜ殺されたのかしらね?」
彼女は軽く首を傾け、目を細めながら艶やかに問いかけた。唇の端が微かに上がり、謎めいた微笑が浮かんでいる。
「オヤジの強さは南の連中も知ってるハズだ。噂話は盛ってる事も多いから話半分で受け取ってるとしても、数人程度の捨て駒を送り込んだだけって事はねえな?それならオヤジは返り討ちにして今もピンピンしているハズだ。だから確実に倒せる精鋭、それも、しっかりと武装したそれなりの人数が送り込まれたと見るべきだ……。そう、精鋭部隊ってヤツだな?そんな人数が実際に移動したとなると、普通はどこかで目につくはずだよな?」
ブロワールは人差し指を軽く曲げ、顎の下に当てたままじっと考え込んだ。眉間に皺を寄せ、視線はどこか遠くを見つめている。
「……南の精鋭部隊が北地区に入る経路だが、大雑把に考えると三つ思いつく。まず一つは、貧民窟の外に出て、根城の周辺辺りで貧民窟に入る経路だ。武装した集団が貧民窟の外を、徒党を組んで移動してるだけでも怪しい。巡回している衛兵に怪しまれ、呼び止められて身元を問いただされるだけでも、自分から捕まりに行くようなもんだ。こんな大事な時に、そんなバカな事はしないだろう?」
「それはそうね?」
「二つ目は、正面の経路を通る場合だが、前線のお互いの主力部隊がガチでやり合ってたから誰にも見つからずに脇を通り抜けるのは無理筋な話だろう?」
彼女は黙って頷く。
「三つ目の経路となると、東地区か西地区を通るしかない。西も東の勢力も俺らの傘下に入った。南の特殊部隊はそいつらの縄張りを通り抜ける必要がある。だが、普通なら簡単にそいつらの縄張りを抜ける事はできねーはずだ。そんな事があれば俺の所に何かしら報告なり、騒ぎが起きるはず……」
「でも、実際には報告は無く、ディナルドは殺されたのよね?誰かが裏切ったのかしらね?」
考えを巡らせていたブロワールは、その言葉に頭の中で何かが繋がったようだった。
「……東の連中は問題ないな。ウチの幹部の一人がヤツらを引き連れて別の拠点を攻めていた。ウチの幹部が直でついている訳だし、怪しい動きの報告もない……だから除外してもいいだろう。その後の連絡は無いんでそこの進捗は分からんが、俺からは『撤退するように』と指示は飛ばしている。今、俺らが置かれている状況が少しでも想像できる頭があるなら、そのうち、ここに戻ってくるだろう」
そう言うと彼は腕を組み直す。
「……ああ、そう言えば前線で戦っていた時、何度も戦闘への参戦を催促をしたが、何かと理由をつけて参戦を引き延ばす動きの悪い奴らがいた……な」
少し後悔するように、眉間にシワを寄せながら小さく舌打ちをした。
「怪しいわね……」
「西地区の奴らだッ!なんだかおかしいと思っていたが、もうあの時点で裏切ってやがったのか。通りで、俺が催促しても動きが鈍かったハズだッ!!」
「ふうん……?」
ブロワールは瞳の奥に暗い情念を燃やし、悔しそうに唇を噛みしめた。何度も思い返すように眉間に深いシワが刻まれ、苦々しい思いに拳が自然と握り締められ、怒りに震えていた。
一方、彼の向かいに立つ彼女は、まるで芝居を楽しんでいるかのように、口元に薄く笑みを浮かべ、その様子を見守っていた。瞳には好奇心と楽しさが滲んでおり、仮面で目元は一部隠されているが、露わになっている口元のニヤニヤとしたその表情は、お気に入りのおもちゃを手にした幼子のようだった。
彼がこちらを向くと、彼女は表情を素の状態に戻す。
「……ああ、今気づいた。今日は新しい仮面なんだな?前のより似合ってるぜ」
「やっと気付いたのね?ありがとう……とだけ言っておくわ」
二人が話していると、階下から額に軽く怪我をして血を垂らし、戦闘で汚れた軽装の鎧を身に纏った部下が駆け上がってきた。
「報告します!我らの最南端の拠点『ソイユ・デ・テネブ』が、南の主力部隊に攻められております!その攻撃は苛烈で、現在駐留してる人員だけではあまり長いこと持ち堪えるのは難しい様子です!!いくら北地区が入り組んでいるとはいえ、そこが落とされると、じきにこの根城まで迫る事でしょう!ブロワール様!奴らへの対処如何しますかッ!?」
「広場での傷の手当が終わった者を優先的に、根城の新しく完成した外壁の内側へ、中庭へ入れろ!移動に手を貸してやれ!戦える者は武器を取り、外壁正面門前で戦闘用意!最終防衛線を構築しろ!己の装備を確認し、部隊単位で集まれる者は部隊で集合、それが出来ない者達はどこでもいい、近くの部隊に一時的に入って次の命令を待てと伝えろ!追って指示を与えるッ!すぐ、皆に伝えろ!!!」
「て、手当が終わってない者達については、どうしますかッ!?」
「できるだけ手当を急げ!助かりそうに無い者、手当に時間がかかりそうな者については……広場に置いて置け!南の慈悲に縋るしかない……奴等に慈悲があれば、だがな……」
「!!」
背を向け、俯いて腕を震えさせ、口惜しそうにするブロワールを見た部下は、彼の思いを慮ると背筋を伸ばして敬礼をし、
「……くっ!分かりました!では失礼しますッ!!」
と、だけ言うと部屋から走り出してゆく。
「どうやら、悠長に話してる時間はなくなったかしら?」
ブロワールは、階下からの報告に即座に対応しつつも、その表情には一瞬、迷いが浮かんだ。彼の額には汗がにじみ、視線が床に落ちる。強い思いが胸中で渦巻いているのが明らかだった。
(オヤジの仇は必ず取る……)
その誓いが彼の全ての行動を駆り立てているが、今目の前に立つ彼女に提示されたたった一つの条件――「エクリプスノワール」を捨て、彼女の率いる集団に身を投じる――その選択が、彼の心を大きく揺るがしていた。
どうしても、彼女の魔法の力が欲しい……!敵側には無い彼女の魔法の力を利用する――!彼女が初めて根城に乗り込んで来た時に見た、あの強い炎の精霊を敵の中で暴れさせ、それと共に魔力の限界まで爆裂火球でも撃たせ続ければ、敵の数を半分程度には削ることが出来るだろう。
そんな状況にまで持ち込めれば、ウチの残存部隊だけでも勝利の芽がある。ヤツを守る南の兵隊を打ち倒し、オヤジを討った敵の親玉に復讐するためには、彼女の力が必要不可欠だった。しかし、それは「エクリプスノワール」を捨てることを意味する。自分が去った後、エクリプスノワールはどうなる? 自分を支えてきた仲間たちは、残された者達はどうなるのか?誰がこの混乱の中で組織を保つのか? その不安が彼の胸を苛んでいた。
だが、彼女の出した条件を拒めば、ディナルドの仇は遠ざかる。
心の中で彼は苦悩し続ける。自分がエクリプスノワールを去ったとして、組織は果たしてやっていけるのか? 彼らは自分なしで戦い抜けるのか? ”ディナルドの仇を討つ”という執念が、今や彼を押しつぶそうとしていた。
ブロワールは拳をぎゅっと握りしめ、視線を彼女に向ける。眉間には深い皺が刻まれ、彼の心の葛藤が顔に表れている。決断の瞬間が迫っている――が、まだ彼の口からは言葉を紡ぎ出せない。
ブロワールは胸の内で絶え間ない葛藤に苦しんでいた。彼は自身の喉の渇きに気づき驚いた。何も話していないのに、喉がカラカラだ。心の緊張と、頭に押し寄せる重い決断の影響が、体にまで表れている。拳を固く握りしめ、視線を彼女に向けた。
彼女は一見すると少女といった小柄な身体をしている。だが、俺達には無い『魔法』という、内に秘めた大いなる力を持っている。それは、フォコン・オブスキュールには無い、こちら側しか持ってない『非常に強力な最後の切り札』だ。その協力は是が非でも欲しい。
眉間には深い皺が刻まれ、決断の重みがその表情に映し出されていた。心が揺れるたびに、言葉は喉で止まり、呼吸さえ苦しく感じる。
「そのよう……だな」
と、重くしぼり出すように答えた彼の声は、乾いた喉でかすかに震えていた。
そこに、彼女の言葉が続く。
「何を悩んでいるのか分からないけど、簡単な解決方法があるわ?聞きたい?」
彼女が言う「簡単な解決方法」とは何なのか?本当にそんな方法があるのか……?
迷い、苦しみ、救いを求めていた彼に、その言葉が深く刺さる。彼女の簡単だという方法―――それは自分が思いつかない何かを含んでいるのだろうか?彼の心は揺れ、喉の渇きは一層深くなる。
「あ……ああ、聞かせてくれ……」
と彼は答えたが、声は乾ききっていた。自らを動かす決断の重さが、ブロワールのすべてに重くのしかかっていた。
「解決方法は単純で明快。組織の名前を変えればいいのよ。『エクリプスノワール』を『ファイエルブレーズ』に。どう?簡単でしょう?」
エクリプスノワール――。オヤジが昔からの幹部と共に築き上げてきたその歴史、その名を、自分のために変えるなど許されるのか?それはオヤジへの裏切りではないのか?簡単には心が答えを見つけられず、思考はますます重くなる。
組織の未来はどうなるのか?組織の名前を変える……他の組織との関係はどうなる?舐められやしないか?堂々巡りの思考に陥ったその重圧は、ブロワールをじわじわと押しつぶし、まるで鉛を飲み込んだかのように身体が重い。
「『エクリプスノワール』の名を捨てろというのか!?」
「だって、『エクリプスノワール』って組織名、ディナルドのモノでしょう?南との抗争でも、ほぼ貴方が指揮を引き継いだ時点で、誰も文句を言わなかったのよね?だったらその時点でこの組織のトップは、実質貴方じゃないかしら?その貴方が、貴方の目的を果たす為に必要な事だから組織を再編する為に名前を変える。別におかしいことは無いし、いいんじゃない?誰も損をすることがないわ?」
「……し、しかし……!」
「じゃあこの際だから聞かせてくれるかしら?首領のディナルドは亡くなって、この本拠地は死体の山。建物の中は至る所が血で汚れてて、幹部も結局、何人残ってるのよ?これでは実質、エクリプスノワールは終わったも同然でしょう?」
「まだ、……まだ、戦えるだけの十分な数の兵隊達が残っている……!」
「……あなた、実際に広場を見たのかしら?私はここに入る時、通って来たわ?……あら?その顔はちゃんと見てない……って顔よね?皆、顔も暗く憔悴して意気消沈していたわ?それはそうよね。撤退ってことは実質、負け戦だもの。負け戦って、ほんとはもっと大きな被害がでたり、散り散りになったりするモノだけど、なんとかって人が頑張ったお陰かしら?集団としてまとまってここに帰ってこられているのだから。あなた、そのなんとかって人に感謝しなさいよ?それに、多くの兵隊がどこかしら怪我をしてたわ。満身創痍っていうんじゃないの?これ。ねえ?どこに十分な兵隊が残ってるのかしら?」
彼女は腕を組み、微かに眉を寄せながらブロワールをじっと見つめていた。その目には苛立ちと冷ややかさが混ざり合っている。まるで彼の甘さを見透かしているかのように、片方の足を軽く揺らしながら、それでもどこか冷静な態度を保ち、彼の反応を暫く待つ。だが、中々口を開こうとしない彼に対し、最後通牒の意味を込めて告げる。
「もう、南の主力部隊がすぐそこまで迫ってるんでしょう?」
ブロワールは目を伏せ、一瞬だけ深く息を吐いた。ぐっと思い切り拳を握りしめ、胸の奥に渦巻く混乱と葛藤を強烈な意志の力で抑えこむ。彼の顔には決意の色が浮かび、ついに覚悟を決めた彼はゆっくりと顔を上げ、鋭い視線で彼女を見据える。
「……わかった。組織の名前を変える。それでいいんだな?」
(オヤジすまねえ……!あんたの気に入ってた組織名、変える事になっちまった……!だがあんたの仇を討つためには仕方ねえんだッ。許してくれ……ッ!)
「ええ、いいわ。なら、私も全力を出してあげる。でも……念の為、その旨を一筆書いてもらえるかしら?貴方の署名入りで、ね?」
彼女は微かに口元を緩め、完璧な微笑みを浮かべた。その笑顔は、まるで教会や神殿に飾られている女神や天使の彫像のように感情の色を一切見せない無機質なものだった。
炎のように鮮やかな深紅の背景に一輪の薔薇の描かれた目元を隠す仮面が、彼女の表情の多くを隠しているが、隠された瞳の奥には何が潜んでいるのか、決して伺い知ることはできない。
その微笑みは穏やかで優雅だが、どこか不気味さをも感じさせ、彼女がこの交渉の全てを支配していることを暗に示していた。
ブロワールは羊皮紙にサラサラと今日の日付と、組織名の変更をする旨、自分の名前を書き込み、彼女に渡そうとするが、羊皮紙の端から指を離さず、念を押すように確認する。
「組織の名前を変える時期は、俺の都合でやらせてもらう。いいな?一応、他の幹部にも知らせて、合意を取ってからだ。皆この組織名に思い入れもあるだろうからな?」
「ええ、それくらいは構わないし、貴方に任せるわ?でも、余り遅くならない様にね?」
「ああ、わかった」
その了解の言葉と共に指を離す。
「今書いて貰ったこの書状は、精々が他の人に対する説得力を担保するモノ……」
その羊皮紙をクルクルと巻きながらそこで彼女は一旦言葉を切り、真剣な表情になり、口を開く。
「貴方が今確認したように、私にも同じ事をする権利があるわよね?私も貴方と同じように契約を守ってもらいたいの」
「……ああ、確かにそうだな。あんたは、最初の取り決め通り今迄”シノギ”の半分をキッチリと支払い、行動で示してきた。それに敬意を払って、対等に、俺もあんたの言い分を聞こう。だが、状況が状況だ。手短にな?」
彼女は微笑みを浮かべながら、軽く頷いた。
「わかったわ。……じゃ、これから貴方にある魔法を一つ掛けさせてもらうわね?私と貴方の間にだけ効力を持つ魔法よ」
「……それは、どんな効果があるんだ?」
「この魔法は……互いの心と心の間に契約を結ぶのよ。もし貴方が私との約束を違えたら、酷い頭痛に襲われるわ?」
彼女は仄かな笑みを浮かべたまま、さらに続ける。
「なんだ、それだけか。てっきり寓話に出てくるような悪い魔女が使う魔法みたいに、姿を蜥蜴や蛙にでも変えられてしまう魔法かと思ったぜ……」
「……そういう魔法もあるけど、そっちが良かったかしら?フフッ」
「ははは。勘弁してくれ……。まぁいい。とっとと掛けてくれ」
ブロワールは片眉を上げて苦笑し、肩をすくめて軽く手をあげた。彼は半ば呆れつつも、仕方ないと諦めた様子だった。
「貴方、ナイフか短剣を持っているかしら?」
「これでいいか?」
ブロワールが腰元から短剣を取り出す。
「じゃ、これ貸りるわね?」
彼女はブロワールから短剣を借り受けると、鞘から短剣を抜く。よく磨き抜かれていて剣身に顔が映り込み、刃を一目見るだけでも良く切れそうに感じた。
彼女は短剣を人差し指の指先に当て軽く滑らせると、皮膚が薄く裂け血が球のように出てくる。
「貴方も指先から少しでいいから血を出して頂戴?」
「分かった……」
剣の柄を彼の方に向け、短剣を渡す。
ブロワールも同じように短剣を自分の指に当て、指先を斬り、少しばかり血を出す。
それを確認すると、彼女は魔法を唱え始める。
『闇の深淵にて契りしは 己の血に宿る真実。夜の帳に隠された疑念よ 我が名のもとに鎮まり給え。
深層より響く呪詛を 我が意志で封じ 互いの心は 共に運命に縛られん――。
我が血、汝の血と混じりて 契約を結び 二度と逃れぬ絆の痕を刻まん。
深淵の底にて 決して揺るがぬ誓いを 今ここに立てよ! 呪契連環縛!』
彼女の詠唱が終わると同時に、周囲の空気がひやりと冷たく張り詰めた。まるで夜そのものが息を潜め、深淵の闇が迫ってくるような圧迫感が漂う。暗黒の靄が足元から湧き上がり、次第に渦を巻いて広がり始める。その中で、契約する二人の血が共鳴し、微かな赤い光が指先から滲み出る。
次の瞬間、二人の血を触媒にして魔力で織り上げられた極薄の布のような物が帯のように浮かび上がり、漆黒の中で紅い輝きを放ち、螺旋を描きながら絡み合う。螺旋は徐々に大きくなり、まるで生命を持つかのように赤い輝きが脈動しながら二人を結びつけていく。
呪文の言葉に従って、二人の胸元に血の契約が深く刻み込まれ、闇の中に浮かぶ古代の文字が次々と現れては輝きを放ち、一つまた一つと消えてゆく。
最後に、地面から立ち上る影が一気に凝縮し、深紅の光を放つ輪が二人の周囲に形成される。その輪は一瞬だけ輝きを増した後、静かに消え去り、二人の心に消えぬ痕を残して契約が完了する。
「では、そろそろここを出ましょうか。盛大な花火で南の子達を迎えてあげないとね?」
「……ああ、そういうことか!おう、存分にやってくれッ!オヤジを弔う盛大な花火が上がるわけだな!?そりゃぁいい!ワハハハハ!!」
二人は肩を並べ、重厚な扉を押し開ける。暗闇を裂くように、廊下に差し込む月光が彼らを照らし出していた。互いに一瞬視線を交わし、無言のまま足を踏み出す。鋭い靴音が静寂を打ち破り、次なる戦いに向けて、揺るぎない歩みで廊下を進んでいった。
◇
夜の帳が降り、月が高く空に輝く頃、フォコン・オブスキュールの兵隊達は前線での勝利に酔いしれていた。周囲に散らばる瓦礫と焦げた匂いが戦場の名残を伝えていたが、彼らの間には達成感と昂揚感が満ちていた。
フェルシスの戦術は、敵の組織間の繋がりの隙を突く見事なものであった。安全と思い込んでいる支配地域の奥、その本拠地へと繋がる経路の脆弱性を見抜き、巧みに調略を仕掛けたことで、フォコン・オブスキュールは数で劣るにもかかわらず、前線での決戦を制することができた。彼は戦場の指揮官として冷静に状況を把握し、幸運をも味方につけ、的確な判断を下していた。
「これでいい。今夜中に全てを終わらせる」
フェルシスは南の重要拠点の一つ”影の砦”に立ち寄り、薄暗い拠点の一角で、地図を眺めながら呟いた。
兵隊達が勝利に浸るのを見届けた彼は、次なる一手をすでに考えていた。王都警備隊が動き出す前に、エクリプスノワールを完全に屈服させるため、奴らが回復する暇を与えず、このまま止めを刺すのだ。そしてこの貧民窟全てを我が支配下に!
勝利の余韻が拠点全体を包み込んでいた。戦闘の勝利で得た時間的猶予を無駄にしないよう、確実に勝利をこの手にできるように、兵隊達の英気を養うため、フェルシスは手際よく補給と休息できるように手配していた。フォコン・オブスキュールの主力部隊の兵隊達は、一時の安堵と疲労回復に専念している。
その拠点が彼ら兵隊達にも解放され、中に入った彼らの前には、元々拠点の中に備蓄してあったものと、本拠地から輸送隊が持ち込んだ食料で作った温かい食事が並べられ、兵隊達は何時間かぶりにしっかりとした食事をとり、体力を取り戻しつつあった。
食事が終わった兵隊達はその拠点の周囲でそれぞれ小さな班に分かれ小さなかまどを作り寛いでいた。
薪の火が周囲を照らし、ほのかな煙が立ち上る中、兵隊達は勝利の余韻に浸りながら配給された酒を交わし、笑い声が響き始める。戦場では苦楽を共にした仲間達がその瞬間だけでも、戦いから解放されたような表情を見せていた。
「フェルシス様がついていれば、俺達ァ~勝てる!!」
「もう、ここからは残党狩りの時間だなぁ~オイ?」
「ヤツらには、もうボスはいねえからなッ!?」
「ギャハハハ!!」
彼らの士気は高く、勝利の余韻が心の底まで染み渡っている。フェルシスの計画と指揮に絶大な信頼を寄せており、今夜が勝利への絶好のチャンスだと確信していた。
その一方で、フェルシス自身は冷静なままだった。勝利の狂騒の中でも、彼の鋭い瞳は冷たく次の手を計算し続けていた。王都警備隊の介入を許せば、フォコン・オブスキュールは逆に窮地に立たされる。彼はそれを何よりも警戒していた。
フェルシスは拠点の中を軽く歩く。食堂には食材が殆ど無くなり、解放した各部屋には食べ終わった皿が机の端の方に山と積みあがっていた。食事が粗方終わったのだろうと想像がつく。
彼は拠点の二階へ上がり、門の上のバルコニーに出て皆の前に立つと、地面で寛いでいる彼らの視線が集中する。彼は声を張り上げ、宣言する。
「全員良く聞けッ!今日でエクリプスノワールの歴史は終わる。いや、終わらせるのだッ!このまま我々はエクリプスノワールの本拠地へ攻め入り、奴等を討ち滅ぼす!貧民窟の全てを我らの手に!!出撃用意!!!」
「「「貧民窟の全てを我らの手に!!!」」」
「「「フェールシス!フェールシス!フェールシス!!」」
鳴りやまぬ賞賛と歓喜の声。高揚感が主力部隊全体を包んでいた。
「用意の整った部隊から出発せよ!」
フェルシスが指示を出すと、準備が整った部隊から進軍を開始しはじめた。
『ディナルドを討ち取った!』という報告が戦場に出回った時、エクリプスノワールの主力部隊は混乱の最中であった。いち早く撤退を始めた西地区の中・小集団達は、やがて大きく二つの集団に別れた。
一つ目の集団は西地区に直行する経路を取り、『約束は果たした。後は勝手にどうぞ』と、でも言うように背後を振り向くことなく真っ直ぐ自分達の縄張りへと進んでいった。
エクリプスノワールの者で撤退命令が出回る前に先に逃げ出した者達は、一つ目の集団と同じ進行方向に途中までついて行き、姿をくらました。
二つ目の集団は、自分達の縄張りに撤退するフリをして途中で脇道に逸れたのである。
脇道にそれた集団達はそのまま暫く進んだ後、それぞれが別の大きな建物の陰に潜むと、じっと待機し、時折偵察を出していた。
やがて正式に撤退命令が出たエクリプスノワールの主力部隊は、彼らの最南端の拠点”ソイユ・デ・テネブ”を目指して北上していき、経路が違う彼らとは離れていく。
偵察により、完全にエクリプスノワールの主力部隊が遠ざかった事を確認した後に引き返すと、フォコン・オブスキュールが進軍してくるであろう道中でずっと待機していた。
その中・小集団達はフォコン・オブスキュールの主力部隊が進軍してくると、頭を下げて配下に入る事を誓い、早々にフォコン・オブスキュールの側に鞍替えし、その陣営の傘下に合流したのであった。陰で”裏切り者達”と蔑まれていることも知らずに。
だが、西地区の約半数以上の中小集団が加入したことによって、フォコン・オブスキュールの戦力は急速に膨れ上がり、戦闘当初はエクリプスノワールに比べ劣勢だった戦力が、戦いが進むごとに優勢に傾いていき、今では完全に逆転したのだった。
◇
強固な防衛を誇っていたエクリプスノワールの最南端の拠点『ソイユ・デ・テネブ』は、かつてはその姿を威圧的に感じさせたが、今やその威容はどこか薄れつつある。
その拠点の中で、守備隊の者達は暗い顔をして主力部隊の通過を黙って見守っていた。
血と泥にまみれ、疲労と絶望の表情を浮かべた仲間達が、無言のまま砦の門を通り抜ける姿を見て、彼らは全てを悟った。
エクリプスノワールは前線で敗北したのだと。この様子だと援軍は期待できそうもない。拠点に残された彼らには、もはや頼れるものは何もなく、主力部隊が通り過ぎた後は”ここは孤立する”のだな、という厳しい現実が、静かに心に広がっていく。
「これが、最後かもしれんな……」
年長の守備につく者が、深いため息をつく。その言葉に誰も反論することができなかった。見張りが後続が見えない事を確認し、仲間に伝えると、彼らは大門を閉めて防御態勢を整えるが、その拠点には厭戦の空気が広がり、戦意を失いかけていた。
夜の闇に包まれた拠点の周囲には、不気味な静寂が続いていた。しかし、その静けさは突如として破られる。フォコン・オブスキュールの主力部隊が堂々と近づき、拠点を包囲するように展開し、攻撃を開始したのだ。彼らは前線での勝利に酔いしれ、その勢いを保ったまま一気に攻め入る構えを見せていた。
「奴らが来たぞ!!」
見張り台が鐘を打ち鳴らす。鐘の音が鳴り響き、守備兵が叫び何度も警告を発する!守備隊の者達は弓を構え、大門の上に設けられた狭間に向かって走る。だが、その動きはどこか重く、気力に欠けている気がする。前線でのエクリプスノワールの敗北を悟っている彼らの心には、それが重く伸し掛かる。だが、守備隊の者達は己の役目を果たすため、気力を振り絞り弓を引く。
拠点の上部から矢の雨が一斉に降り注ぎ、フォコン・オブスキュールの兵隊達に着弾する。しかし、彼らは怯むことなく、盾を構えて前進する。
攻撃は次第に激しさを増し、拠点の大門に対して集中攻撃が加えられる。
重厚な攻撃に晒され、ついに拠点の大門が破られる時が来た。大きな轟音と共に木製の門は粉々に砕け、無数の破片が飛び散った。その瞬間、守備隊の士気は完全に崩壊した。
「もう、これ以上の戦闘は無理だ……ッ!」
守備隊の隊長が声を震わせながら、周囲を見回す。彼の目に映るのは、”敵に殺されるかもしれない”という恐怖と、”もう戦わなくていいんだ”……という安堵がない交ぜになり、顔を引きつらせた部下たちの姿だ。全員が戦う意志を失い、ただただ呆然と立ち尽くしていた。
指揮官は決断するしかなかった。彼は震える手で近くにあったテーブルクロスを引っ掴み、大門の上にあるバルコニーに駆け上がるとそれを白旗の代わりに高く掲げ、両手で端を持ち振りながら大声で叫ぶ。
「投降する!我々は降伏する!!」
彼の声は震えながらも、明確に響き渡った。
この瞬間、『ソイユ・デ・テネブ』は陥落した。拠点の大門を越えてフォコン・オブスキュールの兵隊達が雪崩れ込む中、守備兵たちは次々と武器を手放し、抵抗を止めた。拠点の中に広がる静寂は、敗北の重さを感じさせるものだった。
フォコン・オブスキュールにとっては、さらなる勝利を手に入れた瞬間だった。守備隊は全員が捕虜となり、彼らの支配下に置かれた。
この拠点『ソイユ・デ・テネブ』の陥落は、エクリプスノワールにとっては致命的な一撃であった。ここから根城へと繋がる経路上に、彼らの侵攻を阻害するモノは、もう北地区特有の入り組んだ道以外、何も無いのだ。エクリプスノワールは丸裸になったといってもいい。
北の重要拠点を奪ったフォコン・オブスキュールの兵隊達は、腕を高く掲げ勝鬨を上げる。さらなる勝利の余韻に浸りながら、高揚感に包まれていた。
戦いはまだ終わっていないが、この拠点を落としたことで、彼らは大きく前進したのだ。この勢いを維持し、エクリプスノワールに残る兵隊を叩き潰すことが彼らにとっての次なる目標となった。守る者がいなければ敵の本拠地”根城”は簡単に落ちる。フェルシスが宣言した通り、エクリプスノワールの存在を地図上から、いや歴史から消しさる事ができるのだ。
『ソイユ・デ・テネブ』の陥落は、ただの拠点の喪失に留まらず、組織全体に深い打撃を与えたのだった。
『ソイユ・デ・テネブ』を落としたフォコン・オブスキュールの主力部隊は、次なる標的であるエクリプスノワールの根城へ進軍するため、準備を整えた。だが、北地区はまるで迷路のような違法建築と増改築の密集地帯だ。狭く曲がりくねった路地は視界を奪い、建物が不規則に増改築されているため、エクリプスノワールの根城に向かう為に、まとまって動ける進軍経路は三つに限られていた。
時間をかけて主力部隊全部を一本の道で進ませるより、部隊を三つに分けて機動力をあげた上で、できるだけ早く到着してやつらの本拠地前で再終結し、エクリプスノワールの残兵と決戦し、勝利を決定づける事をフェルシスは優先した。
王都警備隊が介入すれば、我々の手に入れた勝利も有耶無耶になり、エクリプスノワールは首の皮一枚で生き延び、再起の機会を得てしまう。
それは絶対に阻止しなければならない。前から邪魔だった北地区の一大組織を潰せる、千載一遇の好機。これを逃さないため、彼にとってはここは時間との勝負でもあったのだ。
その為、フェルシスは主力部隊を三つの侵攻部隊に分ける。
フェルシスは北地区の地図を鋭い眼差しで見据え、決断を下す。
「中央経路を進む部隊は私が指揮する。東と西の経路はお前達に任せた」
命令を受けた二人の幹部は彼の指示に即座に応えて部隊を編成し直し、フォコン・オブスキュールの主力部隊は三手に分かれて動き出したのだった。
フェルシスが率いる中央侵攻部隊は、乱立する建物の間を意気揚々と進軍し、馬上の彼の姿は勝利の確信に満ちており、どこか軽やかであった。彼の心にはすでに勝利の映像が浮かんでいた。
月明かりに照らされた通りを進軍するフォコン・オブスキュールの兵隊達は、まるで全戦全勝の無敵の集団になったかのように自信に溢れていた。
不気味な路地を恐れもせず堂々と足を踏み鳴らし、確実に敵の本拠地に迫っていた。
一方、東と西の経路を進むそれぞれ部隊も、率いる幹部の指揮の元、エクリプスノワールの本拠地を目指し進んでいた。
狭い路地に響く足音と金属が擦れる音と共に、夜の静寂を破りながら進軍する兵隊達。それぞれの道を進む各部隊は、フェルシスの本隊に遅れないように……できれば先に到着するべく合流地点の広場を目指して動き続けた。
この夜、フォコン・オブスキュールの影が、エクリプスノワールの本拠地を包囲するかのように、じわじわと迫っていた。戦いの決着は、もうすぐそこに迫っていた―――。
◇
少し時間は遡る。
エクリプスノワールの幹部ガストリックは攻略中の敵拠点”夜の塔”を少し離れたところで眺めていた。
あと少しで目の前の敵拠点を陥落させられそうな頃合いに、ブロワールからの撤退要請の伝令が来た。伝令から受け取った書状にはディナルドの訃報も記述されていた。
「ははは。ブロワールめ、オヤジが亡くなったから撤退しろと来たか。”夜の塔”の奴等、命拾いをしたな。フォコン・オブスキュールもここを捨ててるのか、援軍も来ねえし、拠点からの反撃も激減した。あと少しでここを落とせそうな感触だったんだがな――。もうオヤジもいねえから、ここを陥落しても、張り合いがねーし、今更俺の出る幕もねえ。正直、飽きてきた所だったし……なぁ?お前らもそう思うだろう?」
「へいっ!そうっすね!」
「まぁ、ブロワールのヤツがわざわざこっちにまで伝令寄越してきてるんだ。何かが起きてるのは間違いねえ。そこは聞いてやらんとなぁ?」
「そうっすね!流石ッス!ガストリックさんッ!」
彼はその優れた戦に関する勘で、拠点を陥落させることに拘泥することなく、さっさと見切りをつけ、撤退する事を決断する。
「よし、一旦俺らの根城へ帰るぞお前らァ!一応追撃がねえか警戒だけは怠んなよ!?」
「ウッス!」
「合点でぇ!」
「あー、そうだ東のぉ。帰り道、お前らの縄張り通っていいか?」
「いいっスよ、ガストリックの兄貴ィ!」
東の中・小集団達は声を揃えて同じように答える。ガストリックの強さにすっかり惚れ込んだようだった。
それを聞いたガストリックは鷹揚に頷き、敵拠点の包囲を解くと、一路自分達の本拠地を目指すのだった。
そして、時は現在に戻る。
東の経路を進んでいたフォコン・オブスキュールの東方侵攻部隊の兵隊達は、狭く入り組んだ街路を高揚感に包まれたまま、笑いあいながら会話を交わし進軍していた。
本来なら敵地深く入り込んでいる状況なので、何かが潜んでいる可能性を考慮し、注意しながら進むべきところを、皆、先程の拠点攻略戦も圧勝した事により、勝利の余韻に浸ったままで注意が散漫になっていた。
だが、そういう時に限って油断が命取りになるのだ。違法建築が立ち並ぶ北地区では経路上、よく視界が遮られることがある。今回もそういった場所にさしかかった所だった。瓦礫の山と崩れた壁の影から突如、予想外の部隊が姿を現し、奇襲突撃を仕掛けてきた。彼らを待ち構えていたのだ。
逆にガストリックは警戒を怠ってはいなかった。
この抗争、決着がついた……とはガストリックは聞いていない。
その為に、進行経路上に敵部隊がいる可能性を警戒し、それを探るため周囲に偵察を放っていた。
大人数が通るのなら、通る道は限られている。
ただ、『まだ敵が通っていない』、もしくは 『もう通りすぎている』……という一抹の不安があったが、東地区を抜け、最短経路を使ったお陰か、自分達が北地区に入った時機が敵の進軍とピタリと一致したのであった。
「おめーらのお陰だ。ありがとなぁ!」
「いえ!そんな事ないっスよ!ガストリックの兄貴ィ!」
東の中・小集団の長達は声を揃えて同じように答える。
案の定、敵部隊は我が方の偵察に引っ掛かり、彼はこの地の状況を把握した。
ガストリックにとっては、北地区の縄張り内は勝手知ったる我が家の様な物だ。建物の配置、路地の狭さ、そしてこの地に不慣れな敵の兵隊達の無知を逆手に取って即座に戦術を切り替え、敵を追い込む事にした。彼の鋭い直感は、この瞬間にこそ勝機があることを感じ取った。
敵の進行経路上の襲撃に適した数か所に、部隊を幾つかに分けて陣取らせ、静かに潜んで敵の接近を待つ。
やがて、敵集団の先頭が見えてきた。
ガストリックは好機を伺う。
暫くの沈黙の後。敵集団が目と鼻の先まで進んできた。
彼が無言で腕を振り下ろすと、エクリプスノワールの先頭集団の兵隊達がまず動き出す。戦いの火蓋が切って落とされた!
フォコン・オブスキュールの兵隊達は、突然現れた予想外の伏兵に遭遇し、瞬く間に混乱の渦に飲み込まれた。狭い路地はまるで檻のように逃げ惑う彼らを閉じ込める。建物の上から彼らを狙い、石や瓦礫が降り注ぐ。逃げ惑う不運な兵隊に当たり、被害を受けた者が悲鳴を上げる。兵隊達は浮足立ち、立ち往生する。
建物の影から突如として現れる槍兵達は鋭い穂先を突き立て、突撃する!
混乱した彼らにはまるで敵の姿が四方八方から現れたように感じ、混乱に拍車がかかる。さらにそれぞれの襲撃に適した場所に潜んでいた部隊が、次々に襲い掛かり、東方侵攻部隊が各所でズタズタに分断され、至る所で悲鳴が上がる。
混乱の中、ガストリックは冷静に敵の動きを見極めていた。東方侵攻部隊の最前部で指示を出している男に狙いを定め、彼の装備、身のこなしと命令口調から瞬時に分析する。ヤツがこの部隊を指揮する指揮官か!?その男が次の指示を発しようと口を開いた瞬間、ガストリックは割り込むように鋭く叫んだ!
「俺はガストリック!貴様が指揮官かッ!?悪ィが、その命、貰い受けるッ!!!」
彼の声は混戦の中でも鋭く響き渡り、敵の指揮官は一瞬、驚愕の表情を浮かべた。しかし、その表情はすぐに戦士の冷徹な決意へと変わる。ガストリックはその瞬間を逃さず、地面を蹴り上げて突撃槍をまっすぐに構え一気に距離を詰める。槍は風を切り裂き、鋭い一撃を放つ。
敵の指揮官も槍を手に迎え撃とうとしたが、その反応は遅すぎた。ガストリックの槍が物凄い勢いで突き進み、鋭く胴体を貫く。敵指揮官は短い呻き声を上げ、その場に崩れ落ちる。血が地面に染み出し、周囲の兵隊達はその瞬間を見て、凍りついた。
「幹部のディディエ様がやられた!?」
一気にその情報が部隊中に伝播し、フォコン・オブスキュールの兵隊達の士気はさらに崩れる。
「おらッ!てめぇらの指揮官、討ち取ったぞッ!俺はエクリプスノワールの幹部、ガストリック!!この中に俺を倒して手柄をあげてやる!っていう気概のある奴はいねぇのかァッ!?」
ガストリックは声を張り上げて槍を掲げるが、応えようとする者は一人もおらず、敵部隊の中では背を向け、逃げ出す者が出始めた。
彼は冷酷な目で戦況を見つめながら、手際よく指揮を取る。
「はー、いねえか。残念。ま、こうなりゃ後は楽だ。よし、残敵を掃討せよッ!!」
ガストリックの命令に、東地区の中・小集団達とエクリプスノワールの兵隊達は気勢を上げ、確実に敵を追い詰めていく。
フォコン・オブスキュールの東方侵攻部隊は完全に瓦解し、兵隊達は自分自身が生き延びるために散り散りになって逃げ去るのだった。
この小さな勝利は、エクリプスノワールの兵隊達にとっては少なくない意味を持った。戦場に一筋の光を見出す事になるだろうと。これを本隊に伝えれば、前線で敗北に追い込まれた彼らの心が活気を取り戻す切っ掛けになるだろうと。
敵を退けた彼らの歓声が周囲に響き渡る。
「おっし、てめえら!根城に急ぐぞォ!!」
「「「オオオオオオオ!!」」」
ガストリックはその歓声を背に、部隊の進軍速度をあげて根城に急がせるのだった。
◇
フォコン・オブスキュールの中央侵攻部隊と西方侵攻部隊は、それぞれが違う経路を進み、混沌とした街の狭間を抜け、エクリプスノワールの根城前に広がる広場に到着した。西方侵攻部隊はやや遅れて到着したが、二つの部隊にそれほど差はなかった。広場には、血痕が残った薄汚れた毛布や、包帯、松明などがあちこちに放置され、先程までここで治療が行われていた事を思わせる。その血の残り香を漂わせる風が吹いていた。
彼らの前には、エクリプスノワールの主力部隊が根城の前に最後の防衛線を敷いて待ち受けていた。
フェルシスは高揚感に満ち、勝利を確信していた。広場の中央辺りで立ち止まり、馬上で傲慢な笑みを浮かべながら、声高にエクリプスノワールの兵隊達を見回して嘲笑した。
「ブロワールよ、エクリプスノワールは随分と兵隊が減ったようだなぁ~?クックック。本拠地前で最後の抵抗か。滑稽だが、それもよかろう。今宵、この地に汝らの最後の運命を刻んでやろう!」
しかし、その瞬間、空気が一変した。エクリプスノワールの兵隊の列の背後から、突如として強烈な魔力が渦巻き始めた。その後、それはひときわ強大な気配に変わり、重苦しい圧力の波動となって広場に放射され、獣のような咆哮が響き渡る。
フェルシスは、エクリプスノワールの最終防衛線の中心が、なんだか異様に明るいのが気にはなった。最初はそこで大きな松明でも焚かれてるのかと思って見ていたが、澄んだ誰かの声が上がると、エクリプスノワールの最終防衛線中央の後方から兵隊が左右に別れて移動して行き、中心が奥から割れていくように見えた。彼らは左右に割れただけではなく、そのまま走り続け、少し後方へと移動して列を作ってゆく。
兵隊達が後方に去った後、その中心に立っていたのは……菫色の髪を靡かせ、目元を隠す赤い仮面をつけ、外套を纏い、背筋を伸ばして堂々と足を広げて立ち、左手を高らかに上げている背の低い少女だった。
そして、その背後にいたそれは、全身に炎を纏っていた。
遠くて顔はよくわからなかったが、筋骨隆々な人型の輪郭を持つ上半身と、爬虫類のような輪郭の下半身を持つ何かが、宙に浮かんでいた。
「ふ……フハハ!何が出てくるかと見ていたが、なんだ、女か。それにその背に浮かんでるモノはなんだ。どうせ、『手品』や『まやかし』だろう?そんなモノで、今更この私が恐れるとでも?ハハハ、ブロワールめ、思わせぶりな事をしやがって……!いいだろう、このまま貴様らを叩き潰してやる……!」
だが、彼の”勘”が "危険"を察知した気がした。
(何が起きてるか分からんが―――)
「ええい、ままよ!者共、突撃ッ!敵を蹂躙せよッ!!」
自身は己の勘を信じ、その場から動かず、飛び出そうとする乗馬を手綱を操ってその場に留まらせる。
フェルシスの命令が響き渡り、中央侵攻部隊が一斉に動き出した。
先頭を切って走り出す兵隊達は、槍を構え、エクリプスノワールの主力部隊……本拠地である根城を守る最終防衛線に向かって大声を上げながら突撃する。
西方侵攻部隊もその後を追うように左側面から走り出し、エクリプスノワールを包囲するように突撃の輪が迫っていく。
見るからに数が減ったエクリプスノワールの主力部隊で構築された防衛線に対し、二方向から攻め込む圧倒的な数の侵攻部隊。
その刻、彼女が静かに魔法を唱え始めた。
『天に浮かぶ星の王冠 弧を描きて我が前に顕現せよ王冠を飾る宝石の如き白熱の焔よ 白熱の焔から零れ落ちる白き星よ 輝く尾を引き、流星のごとく宙を駆けよ 灼熱の弾丸となりて 大地を爆ぜる嵐で満たせ! 白焔尾煌爆裂乱舞!』
彼女の周囲に突如、十数個の白熱する火球が生まれ、空中にゆっくりと浮かび上がる。その火球は、激しい魔力を秘めたまま不気味に白く輝き、時折、その中から雷のような閃光が「パリッ……パリッ……」と音を立てて火球の表面を走る。辺り一面に高まる熱気と魔力の波動が感じられ、まるで周囲の空気そのものが震え始めたかのよう。
「行け……」
彼女が冷たく呟き、上げた左手を傾け、右から左に流れるように大きく派手に振ると、その白い火球から少し小ぶりな火球が次々に発射される。それは白く長い尾を描き、敵部隊へと吸い込まれるように放たれ、両部隊の前衛周辺に降り注ぐ。地面に激突した瞬間、それは炸裂した!
閃光と共に爆音が轟き、周囲の地面が吹き飛び、土煙と炎が巻き上がる。
フォコン・オブスキュールの兵隊達は、爆発に巻き込まれて四肢が弾け飛ぶ者、爆発の衝撃に耐えきれず、吹き飛ばされる者、砕けた地面に足を取られる者が続出する。
中央侵攻部隊と西方侵攻部隊の進行は一瞬で鈍り、足元が不安定になるたびに焦りが広がっていった。
「くそッ!なんなんだ、これッ……!」
誰かが愚痴をこぼす。前衛の兵隊達は混乱の中で足を止め、周囲を見回す。次々に地面に叩きつけられる火球は、着弾するたびに爆裂し、彼らの隊列を乱していく。衝撃波で弾かれ、鎧を着た兵士が次々と地面に倒れ込む。
やがて白き火球の雨が止むが、目の前の混乱は続いており、それは彼女に時間を与えるための布石に過ぎなかった。火球の連射攻撃により時間を稼いだ彼女は目を閉じ、さらに強力な魔法を唱える為の精神を集中する。
逆に、包囲しようとしていたフォコン・オブスキュールの進行は完全に停滞していた。
……彼女は静かに目を開ける。目標を定めると、次の魔法の詠唱を唱え始めた。
『我が願いに応えよ 炎の王よ 燃え盛る地獄の業火をその御手に包み込み 極小の爆球と化せ その怒れる力よ 爆烈し全てを焼き尽くせ 業火獄爆烈!』
彼女の正面に迫る中央侵攻部隊の中心に、突如発現した光球が浮かび上がり、眩い光を放ちながら瞬く間に膨れ上がったかと思うと、次の瞬間、周囲の景色を白く染め、世界が砕けるような轟音と共に爆ぜるッ!!!
爆炎が四方に奔り、熱風と共に爆炎が襲いかかる。巻き込まれた兵達は一瞬で燃え上がり、弾け飛び力尽きていく。爆発の周辺にいた多くの兵隊達は何の抵抗もできず、まるで木の葉が風に吹かれるように吹き飛ばされていった。
フェルシスは警告を鳴らす自身の”勘”に突き動かされて馬を走らせていた。なんとか爆発の範囲外に脱出していたが、それでも全身を爆風に打ち据えられる。衝撃波が轟きと共に全身に襲いかかる。咆哮のような風圧に耐え切れず、彼の乗る馬ごと、一瞬、空中に浮かんだ感覚に陥った。
次の瞬間、彼は背中から地面に叩きつけられ、体内の空気がすべて抜けるような感覚が彼を襲う。地面が背中にぶつかり、耳鳴りが頭の中で反響する。激痛が背筋を走り、一瞬視界が白くかすむ。
倒れた馬が暴れながら立ち上がろうとする姿が、ぼんやりとした視界に映るが、フェルシスは全身を覆う痛みに動くことができない。
爆発の余韻……砂煙と焦げ臭さが、今もなお辺りに残る。
やがて痛みが薄れると、フェルシスは倒れたまま頭を動かし、爆発のあった方を見る。
その目に飛び込んできたモノは、配下の兵隊達を襲った惨劇だった。爆心地には今だブスブスと燃え続ける炭化した数体の遺体や、四肢や内臓が飛び散り事切れた数十体の遺体、空には爆発の名残りとでもいうようなキノコ雲が発生していた。
「なん、だと……」
その視界に広がるのは、もはや自身の力では太刀打ちできない圧倒的な力の現実だった。
この一撃で実際に被害にあったのは、それでも三十人前後だろうか。フォコン・オブスキュールの中央侵攻部隊と西方侵攻部隊が合流した今、膨れ上がった兵隊の全体数からしてみれば、あくまで一部に過ぎない。
彼の配下はその爆発で一度足が止まったにも関わらず、限界まで高まった己の恐怖を打ち消す様に、「突撃ぃ―――!!」「ウォオオオオ!!」」「我ら無敵のフォコン・オブスキュールなり――!!」など、様々な叫び声を腹の底から出すと、愚直に突撃を再開していた。
「ま、待て……お前達……!」
部下達が上げる狂気じみた叫びに、フェルシスのかすれ声はかき消された。
……不意に、空が紫色に染まり、雷鳴のような音が響き渡った。地面から漆黒の光が立ち上り、彼女を中心とする広場の地面に巨大な魔法陣が出現する。
彼女を中心に周囲を覆うように拡がるその力は、何か禍々しい存在が目覚めたかのようだった。
フェルシスは身震いする。彼の”勘”が”先程に比べて激しく警告を発している気がした!
起き上がるため、装備が汚れるのも厭わず咄嗟に身体を転がし、手で身体を持ち上げ、彼は叫ぶ。
「い、いかんッ!お前達――ッ!!、散開しろ―――ッ!!!」
なぜそう叫んだのか本人にも分からない。だが瞬間的に本能が悟り、そう命じたのだった。
溢れんばかりの強大な魔力が、周囲を鳴動させる。地面に転がる小石や、彼女の衣服の裾や髪を呼応して巻き上げ、ビリビリと彼女の周りを青白い稲妻のように縦横無尽に走っては消える。
『我は願い奉る 偉大なる四大精霊の一角 猛き尊き荒ぶる火焔の化身よ 御身のその力の一端を貸し与え給え 繋げ異界への門 門よりその力を解き放たん 大いなる一条の光 宙を切り裂く火炎の激流をもって我が敵を焼き尽くせ 超導極焔閃滅覇!!』
彼女の突き出す手の先に魔力の光が螺旋を描くように集中していき、それが臨界点に達し眩く輝いた時、耳を劈く轟音と共に、夜の闇を明々と照らす極太の一条の眩い光が解き放たれた―――。
横に広がりエクリプスノワールの防衛線を包囲するように迫りくるフォコン・オブスキュール中央侵攻部隊。その中央部に極太の一条の眩い光が照射される。その極太の光は、横幅を優に3カンヌ(約9m)程も持ち、その光に包まれた者は……声を上げる間もなく、まさに蒸発した。
その極太の一条の眩い光は、そのまま彼らの後ろに広がる建物群に直撃し、直線状の数十という家屋、建物と共に、そこで生活を営む住民と共に瞬時に根こそぎ蒸発させた。また、光りの外周部に触れた残骸はそのあまりの熱量によって、消し炭となっていた。
「前回撃った時は詠唱のみだったのだけど……全力で撃つと……フフッ。流石に気持ちいいわね♪」
突撃を敢行していた彼らは一瞬、思考が停止した……先程まで隣にいたはずの多くの仲間が、光が通過したと認識した瞬間、消滅した。百名以上の身体と命が一瞬で消え去ったのだ。
フォコン・オブスキュールの中央侵攻部隊の兵隊達は余りの事に理解が追いつかなかった。それはフェルシスも同じだった。
フェルシスの顔に冷や汗が伝う。
「なんなんだ、これは……ッ!?」
敵も味方も……いや、”敵”と”味方”、その括りすら意味をなすのか……。余りの事に突撃していた兵隊達の足が震えて思わず止まり、その戦場に居る者は緊張と恐怖により、金縛りにあったかのように一切動くことができなくなった。彼女一人を除いて……。
ブロワールもまた、広場という同じ場所で、後ろから彼女の魔法を見ていた――。その圧倒的な力に対してフェルシスと同じ思いを抱いていた。彼が過去、直接彼女の魔法を目の当たりにしたのは、一度だけ――彼女が初めてエクリプスノワールの根城に乗り込んできた時のことだった。それ以降、彼女が関与したと思われる案件については、部下たちに被害状況を調査させ、上がってきた報告書を通じて把握をしてはいた。
ブロワールがこれまで知っていた魔法使い……いわゆる“魔術士”という存在は、魔法兵団を退職して冒険者ギルドに登録している老人達が主だった。特に、彼女と同じ火属性の魔法を操る“魔術士”の力や、彼らが行使する魔法についても何度か見聞きしていた。
彼自身も、冒険者ギルドを通さずに“魔術士”に直接仕事を依頼したことがあり、彼らが実際に現場で使う魔法の威力や性質についてはある程度理解しているつもりだった。しかし、彼女の魔法――それは、彼がこれまで見た事のあるどんな魔法とも異なり、想像を遥かに超える破壊力と威圧感を持っていたのだ。
少女のような可愛らしい外見とは裏腹に、彼女の誰に対しても物怖じしない態度や口調は、支配者階級のような尊大さや傲慢さを感じさせ、行使した魔法は想像を絶する威力のモノばかりだった。しかもそれを軽々と操るのだ。そんな彼女に彼は恐怖した――だが彼は、そんな内心の恐れは噯にも出さない。
カツ、カツ、カツ……。広場に彼女の足音だけが冷たく響き渡る。
炎の精霊を伴い、その威圧感を増幅させるかのように、彼女は静かに歩を進めた。足元に散らばる瓦礫や頽れた兵隊達の姿にも一切目を向けず、ただ一人、倒れたフェルシスに焦点を定める。
豪奢な装備を身に纏い、なおも気高さを保とうとするフェルシスが、傷つき、立ち上がれないまま、近づいてくる彼女を睨みつけている。だが、その瞳の奥には、先ほどまでの傲慢さがどこかに消え失せ、残っているのは恐怖と疑念の色だけだった。
彼女は無表情のままフェルシスの前で立ち止まり、その長い影が彼を覆うように広がる。
「貴様!一体何者なんだ!?」
フェルシスが思わず問いかける。
見下ろす彼女の視線は冷たく、まるで価値のないものを見るかのように、フェルシスの存在を小さく感じさせた。炎の精霊が彼女の背後で不気味に燃え盛り、その炎が彼女のつけている深紅の仮面を照らし、本来、白く見える水晶でできた薔薇の花びらを紅く染めあげ、一層輝かせる。
それを見たフォコン・オブスキュールの兵隊の誰かが、ぽつりと零す。
「紅蓮の魔女……」
その呟きは、現在の彼女そのものを表していた。あまりにも的を射ていたので、その”称号”がざわめきとして繰り返され、彼ら兵隊の中で急速に広まっていき、広く認知されていった。
彼女の一挙手一投足を、皆が固唾を呑んで見守っていた。
突然訪れた沈黙の中、彼女が両腕を広げ、魔法を唱える。
『鏡写しの幻影よ 遠く、遠く 近く、近く 蜃気楼のごとく 空に揺らめく像を結び 我が姿を顕現せよ 緋影天結像』
指先から魔力を解き放つ。それは緋色に輝く細かな粒子となって空に広がってゆく。
その戦場にいる皆が、粒子の動きにつられて同じように空を見上げる。
緋い粒子がゆっくりと容を象ってゆく。やがて宙に10カンヌ(約30m)程の高さのある巨大な幻影がゆらめきながら浮かび上がった。その姿は漆黒の夜空に浮かぶ異様な光景――。その幻影は、彼女自身を模したもので、その顔は冷たくも神々しく、まるで全てを見通すかのような眼差しで広場を見下ろしていた。
まさに圧倒的な威圧を象徴するものであり、見る者全ての心に畏怖を植え付けるようだった。
『私は『ファイエルブレーズ』の主、イスティス……。今この時をもって、この地に新たな秩序を築く。抵抗は無意味である――ただ、私の前に頭を垂れ、ひれ伏しなさい――逆らう者には平等に死を与え――我が意に従うのなら、その命に情けを与え――助けましょう―――』
その声は広場全体に響き渡り、広場の全員がその言葉に呑み込まれる。兵隊達は息を飲み、イスティスの幻影に圧倒されて動けずにいた。
フォコン・オブスキュールの残存兵達は、その場に立ち尽くし、思わず膝が震え出す。敵が幻影であろうとも、その存在感と……放たれた、たった三つの魔法による圧倒的な暴力。その記憶が彼らの心を支配していき、次第に恐怖と絶望に塗り替えていった。
「俺ら、絶対、敵わねぇ……」
「こいつ……あ、悪魔か……!?」
兵士たちの間にさざ波のように広がる囁き――。無力感に打ちのめされた彼らは次々と武器を落とし、彼女の言葉に従い、ひれ伏してゆく。
フェルシスは、周囲の兵達が次々とひれ伏していく中、ただ一人、心の中で激しい葛藤を繰り返していた。彼は内心の焦りと苛立ちを隠し、身体を起こすと、彼女の前で片足を踏み出し、臣下の礼に近い姿勢を取っており、俯いたふりをしながら鋭い眼光でイスティスと名乗る彼女を見据えていた。
(あと一歩……!後一歩の距離で剣が届く!確実に殺せる、今しかない絶好の好機だ……!あの女さえ倒せば、全ては逆転し、俺がこの貧民窟の王になれるのだ……!)
己の野心と共に高まる鼓動を抑えつつ、フェルシスは剣を握り直し、静かに彼女に向かって己が出せる最速の一歩を踏み出した!彼女の背後には炎の精霊が不気味に燃え盛っているが、今はその隙を狙うしかないと彼は確信していた。
(……貴様に、この地の支配など、誰がさせるものかァッ!!!)
「死ィねぇエエ!! イスティイイスッッ!!!」
叫びながら、フェルシスは渾身の力を込めて、彼女に向けて斬りかかった!
しかし、彼の剣が彼女に届くことはなかった。彼女の背後に控える炎の精霊が、フェルシスの動きを見逃すことはなかった。巨大な身体を俊敏に彼女の前に回り込ませ、両腕を瞬時に伸ばす。片手で剣を弾き、もう片方の腕で彼の頭を鷲掴みにしたのだ。
「な……に……!?」
炎の精霊の動きが鈍重だろうと勝手に思い込み侮っていたフェルシスは驚愕の声を上げ、必死にもがくが、彼の頭を力強く捕まえているその手はびくともしない。
炎の精霊の手の中で、彼の顔や皮膚がじわじわと燃え始め、その痛みが意識を塗り潰していく。
「ギィイャァアアアアアアアア!!」
彼の髪は一瞬にして燃え尽き、肌は焼け爛れ、肉が焦げる匂いが広場に広がった。
「ぐ、あ……あああぁぁ……!」
その叫びも次第に小さくなり、彼の身体は炎の精霊に吊り下げられたまま、無力に燃え尽きていった。
皆が見守る中、彼は全身が炭と化してゆき、ボロボロと地面に崩れ落ちていったのだった。
その様子は、彼女の巨大な像でも一部が再現されており、この広場に集っている兵隊達は皆フェルシスが敗北し、死亡した事を理解したのだった。
その後、彼女が静かに腕を下ろすと、彼女の巨大な像を形作っていた緋色の粒子が再び空中にキラキラと輝き散って行く。その様子はまるでなにかの美しい舞台を見ているようだった。
彼女の巨大な像が虚空に消えていくその瞬間まで、ブロワールは思考が停止したように、目の前で起きている現実を、初めて見る派手で見事な演出の舞台か何かが上演されているのだと脳が錯覚し、それを客観的に観ているだけの、ただの一般客・一視聴者になってしまっていた。
フェルシスの断末魔を聞き、ふと我に返った彼は痛感した!
「……くそッ!やられたッ!!!」
ブロワールは、唇を強く噛み締めながら、呟くように低く言うしかなかった。
皆の注目が集まっているこの機会に彼女は宣言した。彼女の宣言で、”ファイエルブレーズ”の”主”は”彼女”だと言う事を、皆が認識してしまった。
”ファイエルブレーズ”。この集団名は組織の下の者や一般の者にとっては、最近噂に聞くようになった、取るに足りない新興の集団名でしかなかったが、彼にとっては大きな違いがあった。
彼がこの先なんと言おうと、彼女が使った魔法の暴力の記憶と、彼女の名、彼女の宣言した集団名は、記憶に深く紐付けされ、忘れる事はないだろう。彼が組織のトップとなる道は消え去り、彼女の配下になる事がこの時点で事実上決まってしまったのだ。
イスティスの圧倒的な存在感と巧妙な戦略に、完全に飲み込まれてしまったことを悟ったブロワール。その言葉には、悔しさと無力感が滲んでいたが、彼は考え方を変える事にした。
「こうなったら、くよくよ考えても仕方がねえな。俺や他の幹部の地位や権限を、できるだけ高く、多く確保できるように、交渉で精々有利に持っていくしかねえな……」
ブロワールは、そう自嘲気味につぶやく。
フェルシスの死により、フォコン・オブスキュールは決定的な敗北を喫し、ブロワールが勝利を宣言する声をあげると、エクリプスノワールの者達が次々と勝鬨をあげ、広場にはエクリプスノワールの兵隊達の歓声があがる。
激しかった両勢力の戦いは一応の終結をみた。
フォコン・オブスキュールの兵隊達はもはや戦意を失い、膝をついて途方に暮れる者、あらぬ方向を見て惚ける者、様々な反応を見せていた。
一部の者達は後退し始める。それを止める者はいなかったが、彼女が「ひれ伏す」よう命令し、それがまだ解除されていないのにも関わらず、勝手に動き、逃げ出し始めたのだ。己の出した命に逆らう者として、彼女はそれを許さなかった。
いつの間にか彼女は背後の宙に放射状に何本もの炎の槍を浮かべていた。片手を上げ、前方に手を傾けると、それは獰猛な猟犬のように、逃げ出した兵隊を執拗に追いかけ、貫き燃やす。逃げだす者を次々と蹂躙し、凄惨な地獄の光景を繰り広げる。
辺りには絶望と死の匂いが漂い、恐怖に染まった彼らは深く深く頭を地面に擦りつける様に彼女に向かって平服する。
近隣の住民たちは、先程続いた激しい魔法の音で目が覚め、建物の隙間からその光景を見守っていた。
夜空に浮かび上がった巨大な緋色の像。
圧倒的な力の前に膝を屈したフォコン・オブスキュールの兵隊達。
それは人々の間で徐々に広がり、瞬く間に噂となり貧民窟全体へと伝わっていった。この瞬間、かつての秩序は音を立てて崩れ去り、新たな勢力が誕生することを誰もが予感したのだった―――。
◇
戦後の冷えた空気が広場に漂い、戦いの喧騒が静まると彼女は召喚を解除して、炎の精霊を元の世界に還す。広場には幾つかの焦げた跡と、地に伏したフォコン・オブスキュールの兵隊達だけが残されていた。
彼女は威厳を保ちながら、ゆっくりとその場に立ち、厳かな静謐さを纏っていた。
その彼女にブロワールが近寄り、渋く低い声で話しかけた。
「これで、フォコン・オブスキュールも終わりだな……だが、どう扱うかが問題だ。トップは戦死し、前衛で指揮をとってただろう幹部も、あんたの魔法で多分吹き飛んで、まぁ……残って無さそうだよな?まともに権限持って引き継げるような、幹部階級の者はいるんだろうか……ねぇ?」
「……確かに、そうね?」
彼女はその言葉にゆっくりと頷き、無言で広場を見渡した。
兵隊達は、もはや隊列も所属部隊の場所も何も関係無く、まだ恐怖に囚われたまま彼女に向かってひれ伏していた。
彼女は凛としたよく通る声でゆっくりと宣言する。
「面をあげよ。姿勢を崩し、楽にしても良い」
彼女の許可が出ると、フォコン・オブスキュールの兵士たちは一斉に顔を上げた。
彼らの目の前に広がるのは、自分達の仲間達や指揮官が倒れている光景だった。
先ほど彼女が放った三つの強力な魔法により、主だった幹部達の姿は見当たらず、組織をまとめ上げる存在は皆無に思えた。兵士たちは困惑し、無言のまま彼女を見つめ続ける。
その時、場の静けさを破って、一人の男が兜を脱いで立ち上がり、前に進み出た。彼の身長は高く、短く刈られた黒髪には白髪が混じっている。全身に戦いの傷跡を纏い、日焼けした肌は血と汗にまみれていた。
「私の名はヴェスパルと申します。発言よろしいか!?」
「ええ、いいわよ?もっと近くへ来なさい……」
「はっ!失礼します!」
彼は近くまでくると、彼女を見つめ、また口を開く。
「……組織の幹部ではありませんが、部隊を率いる隊長ではあります。『血塗れの刃』といえば、そちらの中でも多少は知ってる者もいるかと思います」
彼の名乗りにブロワールが口を開く。
「ほう、其方が『血塗れの刃』か……噂は聞いている」
「……誰かしら?」
「……南の奴等の中でも、腕の立つ者らしい。その二つ名の噂を聞く事がある程度には、な」
「ふうん……そう」
彼は重く足を引きずりながらも、凛々しい姿勢で彼女の前に立つと、深く頭を下げた。
「貴女の力に敬服いたしました。貴女の放った魔法、その圧倒的な威力と美しさ……私はそれに心酔致しました」
彼は一言一言を噛みしめるように口にした。
「貴女に忠誠を誓います」
そういうと彼は腰を降ろして片膝立ちになり、頭を垂れる。
彼女は無言のまま彼を見下ろし、その言葉に何の感情も表さなかった。
彼は顔を上げ、彼女を見つめると、そのまま続ける。
「私はこれより組織の本拠地へと戻り、フォコン・オブスキュールを纏め上げようと思います。これまでフェルシスに忠誠を尽くしてきましたが、今は違います。私は貴女のために、組織を貴女の傘下に加えるべく全力を尽くします。どうか、私にその機会をお与えください」
彼の目には決意が宿り、その声には揺るぎない忠誠心が滲んでいた。
彼女は少しの間、彼を無言で見つめ、やがてゆっくりと頷いた。
「好きになさい……」
「はは―――ッ!!」
ヴェスパルはさらに深く頭を下げる。
その様子を見ていた兵隊達の一部から、賛同する意見が上がりだすと、彼は早速、兵士たちを纏めて南への帰還を命じ、動き出した。
その場を去る彼の背中は、自らの使命を果たすために立ち上がった男の姿であった。
兵隊達もまた疲れ切り、心が消耗し擦り切れていた。南の拠点へ戻れるという安堵と、他に先導する者もいないので、皆、その背を追うのだった。
◇
新たに広場に響く数多の足音――それは、ガストリックが率いるエクリプスノワールの別働隊が根城前に到着した音だった。
目の前の広場には戦闘の痕跡が残るだけで、戦いはすでに終息していた。彼の期待していた決戦は、すでに終わってしまっていたのだ。
「なんだこりゃぁ……?もう戦いは終わってんのか!?これでも急いで戻って来たんだがなぁ……」
ガストリックはガックリと肩を落とし、落胆の表情を隠せなかった。
彼の頭の中では、ブロワールがエクリプスノワールの主力部隊を根城前に展開し、防衛戦を繰り広げている予定だった。
そこへ、自分達の別働隊が敵の横っ面から突撃する事で挟撃の形を作り、敵の兵隊を蹴散らしフェルシスを討ち取って、翌日中には決戦が終わる……という壮大な計画が描かれていた。しかし、現実は違っていた。
辺りを見回すと、少し離れた所にブロワールがいた。彼に近寄って、道中気になった質問をぶつける。
「ブロワールよ、ここに戻る途中に例の女の赤い巨大な像を見たんだが、さっきの……あれは何だったんだ?」
ガストリックは思っていた疑問を口にした。
「ははは。アレはな、彼女の魔法の一つさ」
ブロワールは肩をすくめながら答えた。彼の声には、ほんの少しの誇りと驚きが混じっていた。
「すまんが、これから俺にはやるべき事がある。詳しいことはまた後でな?」
「ああ、さっさと終わらせて来い。後で色々教えろよ?」
ブロワールは彼と短く言葉を交わすと、手を振り、振り返って彼女の方へ向かった。彼の目には、決して消えない復讐の炎が宿っていた。
”西地区への報復――”
ブロワールの胸中には、ディナルドの死を招いた「裏切り」への怒りが渦巻いていた。それは許すことができない最低最悪な行為であり、彼の誇りと忠誠心を深く傷つけた。彼はその思いを胸に、静かに彼女に声をかけた。
「なぁ、あんた。もう少し付き合えるか?」
彼女は、その言葉に小さく微笑んだ。
「あら、そっちからの要望なんて、珍しいわね?」
彼女は、”ファイエルブレーズ”の名を、両組織のこれだけ多くの兵隊に印象づけ、広め、高めた。その名を背負うに相応しい人物へと成ってしまった。近日中、周辺の酒場の噂話はその事で持ちきりとなるに違いない。
ブロワールは彼女の協力を取り付ける為に、彼女と後戻りのできない約束をした。しかし、その代わりとして、この機に彼女の力をできる限り利用し、復讐を完遂させることが彼の目標となった。
「ちょっと、ついてきてくれ……」
ブロワールは短く言い放った。
「どこへ連れて行こうというのかしらね?ふふふ……」
「馬は乗れるか?」
「貴方が乗せてくれるなら、問題ないわよ?」
彼女は微笑みながら、ブロワールに答えた。
ブロワールは馬に乗ると鞍にしっかりと腰を下ろし、自身のその前で彼女を優しく抱きかかえた。馬に乗った数人の護衛者を引き連れ、彼女と共に西地区へと向かった。
彼の目的は明確だった――裏切り者達への徹底的な報復。彼は最近、交渉の為に通っていた西地区の中小規模の集団の本拠地を次々と巡り、その建物を指し示しては、彼女に依頼した。
「……燃やしてくれ」
彼女は静かに魔法を唱え、指先を動かすと、彼の要望に応じて行動を起こした。建物の上空に火の玉が現れ、次の瞬間、轟音と共にその場所を燃え盛る炎が包み込む。建物は火の海と化し、そこにあった全て――財産、看板、そして内部にいた者達までもが、炎の中で焼き尽くされた。
ブロワールは一つの拠点を焼き払うと、次の拠点へと足を向ける。次々と、同様の運命を辿る中・小集団の本拠地。彼女の魔法によって建物は跡形もなく炎に包まれ、その炎の柱が西地区全体に恐怖を広めていった。裏切り者達に対する報復は、徹底していた。
前線の戦いの後、自分達の本拠地へと撤退した集団も、未だフォコン・オブスキュールの部隊の末席に参加したまま行動を共にしている集団も関係なかった。彼らがそこにいようがいなかろうが、彼女の炎はすべてを焼き尽くし、戻るべき場所を失わせた。彼らが裏切り者であろうが、兵隊とは関係ない者であろうが、平等に――エクリプスノワールに逆らうことがいかに愚かな行為であるか、その末路を見せつけたのだ。
建物が焼け落ちるその光景を見る彼女は無表情だった。案内されるがまま、一緒に次の標的に向かう。馬を操るブロワールは、静かに……復讐を遂げて少しだけ心が晴れていくような気がしている自分を感じていた。燃え盛る炎の中で、彼は口角を上げニヤリと笑みを浮かべた。
「これが裏切りの報いだ……」
彼は低く呟き、次々と燃え落ちる建物を見つめた。その目には、冷酷な光が宿っていた―――。
◇
後日談。
フォコン・オブスキュールの兵隊達が南の本拠地に戻り、暫く時が経った。
フェルシスの死後、まだ幼い彼の息子が祭り上げられ、フォコン・オブスキュールの新たな指導者となった。だが、南の本拠地を守るようにと、残されたフェルシスの腰巾着達は、この幼い指導者を利用し、組織を牛耳ろうとしていた。
彼らは今迄の従順な態度を豹変させ、自分達の私腹を肥やし始めてゆく。組織は急速に腐敗していくのだった。
彼の息子の周りにはそんな者達ばかりが集まり、幅を利かせる日々が始まった。しかもその新たな指導者を自分達だけで独占し、下の者とは合わせようとすらしなかった。幼い指導者は彼らに甘やかされ、他の者の一切の諫言を聞く事すらままならない状態にされていた。
当然、組織内で一段低い階級であるヴェスパルの説得には、彼らは耳を貸さなかった。彼らは実際には行動を起こす気も無く、準備も全くしていないが、口では新たな指導者に「前首領フェルシス様の仇をとりましょう!」「徹底抗戦!」「北の奴等を殲滅するのです!」などと勇ましい事を叫び続けた。本来、その為に計上された組織の予算を、帳簿上で改竄し、自らの懐に入れる為だ。
彼の息子も取り巻きの言う事に追従するだけで、本人は何も考える事無く、ただ流されてゆくのだった。
だが、ヴェスパルも無為に日々を過ごしていたわけではなかった。兵の訓練をする傍ら、上層部の専横を訴え、自身に賛同する者達を着実に増やしていく。
やがて、業を煮やした彼は、ある日決意を固め、腐敗した取り巻き達が集まる贅の限りを尽くした部屋の前に姿を現した。
その部屋は、豪華な絨毯と金箔が施された家具に彩られ、天井には煌びやかなシャンデリエが輝いていた。部屋の中心には、絢爛たる酒宴が繰り広げられている。大皿には豪勢な料理が並び、ワインは惜しみなく注がれ、室内には濃厚な香りが漂っていた。
その中に集まるのは、腐敗した取り巻き達――。彼らの顔には、欲望と傲慢さが滲み出ていた。豪華な衣服を身に纏い、手には金貨や宝石を弄びながら、笑い声を交え無駄に声を張り上げている。それぞれが他人を出し抜き、己の利益を確保することにしか余念がない。贅の限りを尽くして手に入れた富に、彼らはむさぼるように群がっていた。
彼らの足元には、薄布を身に纏うだけの美女達が、まるで飾り物のように侍っている。潤んだ瞳で彼らを見上げ、しなやかに膝を折りながら、媚びるように身を寄せていく。美女達は豪華な装飾品を身に纏い、その腕を男たちの膝に優しく置き、笑みを浮かべながらその寵愛と、彼らが私腹を肥やして貯め込んだお金・宝石などを少しでも多く与えられるよう自ら進んで努めていた。
取り巻き達は自らの欲望に溺れ、酒と女に耽溺しながらも、その金貨にさらに群がる。それはまるで、腐った肉にたかる虫のようであり、彼らが支配するこの部屋そのものが、欲望と腐敗の象徴と化していた。
ヴェスパルは部屋の入り口を守る護衛達に金を握らせてその場を離れさせると、そっと扉を開け、彼らを……彼らの足元に侍っている美女達ごと、全員をその場で斬り捨てた。
返り血を浴びたまま、その部屋の奥に特別に用意されたフェルシスの息子――”指導者”のいる子供部屋に入る。
ヴェスパルの全身は返り血で濡れ、鎧は深紅に染まり、顔には血の飛沫がまだ滴っていた。
肌に赤黒い血がつき、剣からは滴る血が床に落ちていく。その静かな立ち姿には、凄まじい威圧感が漂い、彼の周囲の空気さえ凍りつくように感じられた。
ヴェスパルのその姿を見て、戦慄し震えるフェルシスの息子。だがヴェスパルは構わずその子に近づき、冷たく言い放った。
「ぜひ、ブライラス様におかれましては、周りの者の甘言に惑わされず、お父上より賢い判断を、なされますよう……」
瞳は冷酷に輝き、死神の如く無慈悲な形相で話す彼の言葉に怯えきった新たな指導者ブライラスは、彼の言う通りに首を縦に振るしかなかった。
ヴェスパルは、その日から正式にブライラスの後見人となり、”彼が成人し、首領に就任するまで”という条件付きで人事権を掌握。甘言でブライラス近寄ろうとする者、近くに侍り私腹を肥やそうとする者を徹底的に排除し、新たな指導者を補佐するための役職に、腐敗した取り巻きによって疎まれ閑職に飛ばされた、かつてフェルシスの周りで働いていた実務能力の高い者達を呼び戻すなどして、組織を再建すると共に、彼の意思に共感する新たな幹部を登用していき、ブライラスの周りの役職を占めさせていった。
彼の尽力により、「前首領フェルシス様の仇をとりましょう!」「徹底抗戦!」「北の奴等を殲滅!」などと勇ましい事を言う者はいなくなり、暫く後に南の一大反社組織”フォコン・オブスキュール”は”ファイエルブレーズ”の傘下に加わる事となり、貧民窟の新たな秩序の一部となるのだった。




