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令嬢は嗤う  作者: バーン
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交渉

時を遡ること一週間ほど前……。


アンの看病もあり、治癒術士の魔法のお陰ですっかり元気をとりもどし、翌朝に目を覚ましたアルメリーは、夢の中で対峙した彼女の冷たい視線が頭から離れなかった。恐怖が体中に広がり、彼女は無意識に身を縮めた。


アルメリーは、夢の中にいた彼女の事に考えを巡らせる。


彼女が持っていた絶対的な自信。それに、私が知らない間に増えていた高そうなモノ。


あの自信、あれは一体何だったのだろう。分からない。分からないという事自体が恐怖と警戒心を際限なく増幅して思わず震えてしまう。


それにあの漆黒のマント……。まるでおとぎ話にでてくる魔女そのものだわ……。

なら、魔女と呼んでも良いのではないかしら?


あの……”魔女”に対して、私は一体どうすればいいの…?

無策のままで日々を過ごしていたら、やがてあの魔女がこの身体の主導権を握って、外へ出てくる……いえ、私が知らない間に増えていた高そうなモノがあった。……あれは、すでに外へと出ている証拠かもしれない。私はこの先、どうしたらいいのかしら……。


アルメリーは夢の中の魔女の言葉を思い返した。

彼女が昔名乗っていた名前……確か”イスティス”だったかしら?


忘れないウチにメモを取っておかないと。


ベッドから跳ね起きると、中央の居間にある勉強用の机の前に座る。

日差しを遮るカーテンはすでに開けてあり、部屋の中は明るかった。


引き出しから紙を取り出すと、羽根ペンにインクを付けてその名前をサラサラと書き込む。


居間を挟んで寝室とは反対側にある隣の部屋からアンが出てくる。


「お嬢様、今日はお早いお目覚めですね?」

「あら?そんなに私、起きるの早かった?」


アンは言葉を続ける。


「いつものお嬢様ならば、まだお眠りになっております」


アンの言葉を聞き、自分の普段の行動を振り返る。


「あはは……」

「今日明日は、先生にも寮長にもしっかり休むように言われておりますので、部屋からは出ないようにしてくださいませ。何か外に用事があるなら私が代行いたしますので……」

「はーい。じゃ、その時は頼むわね。アン」

「かしこまりました」


アンはぺこりと軽くお辞儀をする。


「アン、私、ちょっと考え事があるから、暫く話しかけないでおいてね?」

「かしこまりました」


アンはそう答えると、隣の部屋へ戻っていく。


それを見送ると、頭の中……夢で見た事の朧げな記憶に集中する。


”……『イスティス』それが……かつて私が名乗っていた、幾つかの名前のうち、一番お気に入りの名前よ……”


あの魔女は確かこう言っていたわ。


昔……って一体、どのくらい昔のいつ頃の事なんだろう?そんな昔の存在が現代に蘇っているっていうの?教官にこの名前に覚えが無いか、今度聞いてみよう。


彼女は、私の名前を”『人類史』という歴史に燦然と刻み込んで残してあげられるわ?”と言っていたと思う。それだけ自分の力に自身があるのかしら?


実技試験の時みたいな、仲間を失ってしまう事態は絶対に繰り返したくない。


もし、魔女ともっと対話ができれば……いえ、彼女について理解が進めば、この不安や恐怖も薄れるのかもしれない。もしかしたら、悪い人では無いのかもしれないし……。同じ体に宿る、まさに一心同体の間柄だもの、彼女が持つ知識や知恵、力を私も学べる……いえ、借りれるかもしれない。


”アレニエ グランド”のような格上の存在を、私一人でも倒せるぐらいの力が欲しい。もしそれが新たに得られるのならば、多少の危険(リスク)は投げうってでも、もっと彼女と話をするべきよね?なんとかその方法は無いのかしら!?


夢の中では、彼女は私を傷つけなかった。それに、”私達が一緒になることができれば記憶も共有される可能性は高いんじゃないかしら?”とも言っていたわ。もしそれが簡単にできるなら、彼女はもう既にやってるはずよね?


やってないということは、それが出来ない状態なのか、そもそも、そのやり方を彼女が知らないだけなのかは私には分からない……。だけど、”得体が知れない恐怖の対象”として最初から彼女の事を否定するのでは無く、もし、彼女の協力が得られれば、共存もできる可能性がある。なら、共存の道を探した方が私にもプラスになるわよね……!?


そこまで考えが行きついたところで、アルメリーは顔を上げる。


「決めたわ!」


そう言って両手をぎゅっと握りこむと、大きく頷くのだった。


コンコンッとドアがノックされ、外から声が聞こえてくる。


「失礼いたします」


声はうら若い女の子の声だった。アンが返事を返して、隣の部屋から出て扉を開ける。

扉の向こうでは、既に制服に身を包み、私と同じ色のリボンをつけている生徒が、両手に大きなカゴを抱えていた。


「寮長がアルメリーさんの所に持っていくようにと」

「わざわざ、ありがとうございます」


お互いにぺこりとお辞儀をすると、荷物をアンに渡した彼女はそそくさと去っていった。アンは扉を閉めて振り向くと、私がアンの方を見ている事に気付き、


「お嬢様、朝食が配膳されましたが、どうされますか?」


と確認する。


「……そ、そぉね。私もそろそろ考えがまとまった所だったし、せっかくだから、アンも一緒に頂きましょう?」

「分かりました。では、ご用意を致します」


そう言ってアンは居間のテーブルの上を整え、カゴから朝食を取り出して卓上に並べるとアルメリーの椅子を引き、彼女が座った後に席に着き、二人はいつものように大地母神に向けた簡単な祈りを捧げてから、朝食を済ませるのだった。



                        ◇



土曜の放課後、学院の制服を身に(まと)ったままのレネとマガリシーは、王都の繁華街に遊びに出かけていった。

二人は賑やかな街並みの中で、自由な時間を楽しむことに心を躍らせていた。

レネは黒髪のショートヘアで、いつも心配性な性格がその表情に表れており、一方、マガリシーは栗色の髪を短く切り揃え、活発で好奇心旺盛な性格が瞳に宿っていた。


繁華街は活気に満ち溢れ、商店や露店が軒を連ねており、街のあちこちから商人たちの呼び声や、行きかう人々の笑い声が響いていた。レネは慎重に歩を進めながらも、マガリシーの楽しそうな様子を見て微笑んでいた。


「ねえ、レネ!あの店見てみない?」

「マガリシー。私達の所持金じゃ、あんな高そうなモノ買えないよぉ~」

「みるだけ、ね?いいでしょう?」

「もう、しかたないなぁ~。見るだけだよ?」


マガリシーは手を振り、色とりどりの宝石が並ぶ店を指差す。レネは一瞬ためらいをみせたが、マガリシーの好奇心に引きずられる形で一緒に店の方へと向かっていく。


店内を見て回った後、マガリシーは何かを思いついたのかレネの手を引っ張って店を出ると路地裏に入っていき、マガリシーは巾着袋から例の仮面を取り出す。


そして彼女は早速、自身に仮面を装着し、瞬く間に別人のような姿に変わる。長い(すみれ)色の髪、アイシャドウで強調された瞳、そして菫色の口紅が施された唇。マガリシーは笑いながら、まるで気取った貴婦人のように振る舞い始めた。


「どう、レネ?これで私は誰にもバレないわ!」


マガリシーは自分ではない気取った別人を演じ始めた。彼女はこの変装が気に入っており、仮面をつけるたびに別人になれるような気分を楽しんでいる。


「この見た目でお店に入って仮面を外せば、この魔道具(オブジェ・マジック)の効果も一目でお店の人にも分かって効果的だわ?」

「……確かにお店に入ってきた人と、見た目が違う子がその場に現れればお店の人もびっくりするわね?」

「そして、その流れのまま、この魔道具(オブジェ・マジック)を売れば、きっと高い値段がついて大金が手に入るわ?うふふ。そうすれば平民の私達もお金持ちになれるわ!?そしたら私達も高い服でも買って着飾って、偉そうな令嬢達の鼻を明かせるってものよ!」


自身の組み上げた”完璧な計画”に有頂天になって笑いが止まらない様子のマガリシー。


「どう?素敵でしょ?」


彼女はキラキラした目でレネに同意を求めるように問う。レネは少し心配そうに周囲を見回したが、マガリシーの楽しそうな様子に少し困ったように笑い、何も言えずにいたのだった。




 しかし、その楽しさも長くは続かなかった。二人が仮面を売るお店を選ぶために大通りに戻り、さらに繁華街を進んでいると、不審な視線を感じるようになる。嫌な気配を感じて後ろを振り返ると、少し離れた位置にいるゴロツキ達が、二人の方をじっと見つめていた。


「ねえ、レネ、あの人たち何か変じゃない?」


マガリシーが囁くと、レネも不安そうに頷く。


「うん、ちょっと気をつけた方がいいかも……」


二人は足を速めて繁華街の人混みの中に紛れ込もうとしたが、ゴロツキたちはしつこくついてくる。

狭い路地を通り抜けて別の通りに出ようと何度か路地の分岐点を曲がろうとするが、その度に別のゴロツキたちが現れるので、恐怖や焦りに包まれる中、二人は必死に彼らがいない方へ、違う方へ出口を探しながら逃げていく。


……やがて、気がついた時には彼女達は袋小路に追い詰められていた。


「どうしよう、レネ……」


マガリシーの声にはいつもの活発さが無く、恐怖が混じっていた。レネは必死に冷静を保とうとしたが、心臓が激しく鼓動しているのを感じた。背後には数人のゴロツキがにじり寄って来ている。


「ここから出られる道は……ないの……?」


レネが言葉を詰まらせながらつぶやいたそのとき、袋小路の奥から一人の老魔法使いが現れた。彼は杖を手に持ち、静かに二人に近づいてくる。


「……お嬢さんたち、何かお困りですかな?」


老魔法使いは優しげな声で尋ねてきた。その人物にレネとマガリシーは一瞬希望を見出すが、よく見ると老魔法使いの目には冷たい復讐の光が宿っていた。その冷酷な視線に気づいた瞬間、二人に再び恐怖が襲ってくる。


袋小路に立ちすくむ二人の少女を前に、老魔法使いとゴロツキたちがじりじりと近づいてくる。その瞬間、マガリシーは自分の浅はかな考えが引き起こした事態の重大さを理解した―――。


「……た、助けてくれるの?」


レネが震える声で尋ねたが、老魔法使いは口角を上げ、微笑んでいるようだった。だが、答えは無く無言のまま。

彼の視線は、発言したレネでは無く、マガリシーの菫色の長い髪に注がれていた。


コツ、コツ、コツ……。


老魔法使いは笑顔を顔に張り付けたまま、右手はゆったりと懐に入れ、左手は抱擁するように大らかに広げ、真っ直ぐマガリシーに向かって歩み寄ってくる。


何か異質な怖さを持つ老魔法使いと背後を塞ぐゴロツキ達。その特異な状況に頭が真っ白になり、恐怖に凍り付いた二人には魔法の詠唱の一節すら頭に出てこなかった。


老魔法使いは前に立っていたレネの横を素通りし、マガリシーの方へ向かう。


レネがホッとしたのも束の間、マガリシーの正面からやや横にずれ、そのまま進んで肩が触れたと思った瞬間、彼女の目が驚愕と苦痛で見開かれ、口の端から血がこぼれ落ちる。


肩が当たった衝撃でよろよろと二、三歩後ずさったように見えたマガリシーは、そのまま後ろに崩れ落ちる。


その胸には短剣が深々と突き刺ささっていた。

制服の胸元が、ジワジワと鮮血に染まってゆく。


「レネ……。ごめ……ん……ね……」


マガリシーの目から涙が一筋流れ落ち、その瞳から意志の光が消えて行った。


老魔法使いは、かつて菫色の長い髪をした魔女と戦い、長年の友人であるディオンという老魔法使いをその戦いで失ったのだった。その心の傷を癒し、復讐心で心を満たすまでに暫く時を費やし、今、その仇を討つつもりで、彼はここにいたのだった。


「ふ……フハハ!やった、やったぞ、ディオン!お前の仇は取ったぞぉ!いかに強力な魔法を使う魔女とはいえ、油断してるところをやればぁ~、この通りだぁ!カカカッ!」

「ま、マガリシー!?いやぁあああ!?」


レネが叫び声を上げる。老魔法使いは冷淡にマガリシーを見下ろしていた。彼の目には狂気が満ち、復讐を果たした喜びがありありと浮かんでいた。


「おい、お前ら。この娘が五月蠅くてかなわん。……ふ、ははは。そうか……この制服、学院の生徒か!……魔法を使われてもなんだ。喋れんように口を塞いでおけ」

「へいへい。貰った金の分はしっかり働きますよっ……てね!」


老魔法使いが指示を出すと、いつの間に集まって来たのか、レネの周りをわらわらとゴロツキ共が囲む。


「おら、大人しくしな!」


レネの口にゴロツキの大きな手が被さり、一瞬で声が出せなくなる。


「ン―ッ!ンンーーッ!!」

「……へっへっへ。残ったこいつはどうするんで?」

「かまわん、お前らの好きにしろ」

「流石、話が分かるぅ~!」


彼女の口を塞いでる男が別のゴロツキに命令する。


「コイツの下着をひん剥いて、口に突っ込んでやれ!」

「うぇっへっへ!合点だ!!」


喜んで行動する部下達。レネも必死に蹴りを繰り出して抵抗する。


「コイツ!?うっ、大人しくしろってんだ!」


数人がかりで彼女の下着(ドロワーズ)を剥ぎ取ると、ナイフで適当な大きさに切り刻み、雑に丸めて彼女の口に押し込み、さらに猿轡を咬ませる。


「うっ……ううっ……」


レネは恐怖や悔しさ、後悔など複数の負の感情に苛まれて落ち込んでいく。


「この魔女の服はどうします?貰ってもいいですかい?こういうのが好きな好事家がいましてね、高く売れるんスよ……」

「好きにするがいい……」

「あざーーーす!!」

「おう、てめーら。その魔女から制服ひん剥いたら()()()にもってけ!綺麗にしてくれるからなッ!だが、出来るだけ綺麗に脱がせよー?元の状態が良ければ、料金が安く抑えられるからな。ワハハ!」

「「「うっす!!」」」


老魔法使いがそこでゴロツキ達に次の指示を出す。


「……この娘のことだが、お前達の()()()()()()必ず殺せ……。なんせ顔を見られておるからのぅ?生かして学院へ返す訳にはいかんて!カカカッ!」


彼の目には未だ狂気が渦巻いていた。


「自分、さっき勝負に負けてて……この後、洗濯屋に行くんスけど、出来ないんスか!?そんなぁ……」

「お前がアジトに帰ってくるまではコイツ、生かしといてやるよ、心配すんな!ワハハ!」

「うっす!いやぁ~ありがてぇ~~!!」


それを聞いていたレネは、自分の人生を悲観して、ただボロボロと涙を流すのだった。


「お前らと一緒の所を見られるとな、アレだからのぅ。……私はこの場から先に帰らせて貰う。私の言った事は守れよ……?」

「「うぃ~~~っす!!」」


老魔法使いがその場を立ち去ったあと、マガリシーの制服を脱がせるためにゴロツキ達がゴソゴソと彼女の遺体を動かしていた。その拍子に、彼女が顔につけていた仮面が地面に落ちた。

すると、その少女の髪の色も元の栗色に戻り、髪の毛の長さも短く切り揃えられた髪型に戻っていた。顔に施されていた化粧も跡形も無くなっていた。


「お……おー、なんだこれー???」


ゴロツキ達は最初、不思議そうに覗き込んでいたが、やがて興味を失い、元の制服を脱がす作業に戻る。遺体から制服を脱がし終わると、ゴロツキはその服を丁寧に回収する。下着のみになった遺体は少し目立たぬ様、彼らに足で蹴られて端へ寄せられただけ。

その後、レネはゴロツキの中でもガタイのいい男の肩に乗せられ、彼らと共に狭い路地を奥へ、奥へと……人知れぬ場所へと連れ去られて行ったのであった。



                        ◇



アルメリーは数日間の静養の後、寮長からようやく外出許可を得て、週明け月曜日に授業に出席するために校舎に向かった。


朝の清々しい空気の中、歩きながらこの数日間の事を思い出す。私が自室で”静養”という名の”暇地獄”に陥っていたその間に、アンがこっそりどこかに出かけていたことには気づいていた。追及しないことに決めたものの、心の奥底でその謎が気にかかっていた。




アルメリーは寮から校舎へ向かう道を歩いてゆく。途中、いつもの友人たち、リザベルト、ティアネット、カロルと合流する。


「風邪が治ってよかったね、アルメリー様!」


ティアネットが笑顔で声をかけました。


「本当に……。心配……してたの……」


リザベルトも続けて言う。


カロルも、首を縦に振り、うんうんと同意している。


「ありがとう、みんな。もう大丈夫♪」


アルメリーは微笑み返しながら、友人たちと一緒に校舎へ向かう。


中央校舎に到着するや否や、校舎のエントランスで上級生の一人が待ち構えていたのだった。彼女は冷たい笑みを浮かべながらアルメリーに近づき、耳元で囁く。


「……あなたが空を飛ぶ魔法を使っているのを見たわ」


アルメリーは驚いて立ち止まる。え?なんのこと?


彼女は周りを確認する。次々と生徒が登校してくるのでエントランスも生徒同士の挨拶等で賑やかになり、段々と人数も増えてくる。


「……ここで話すのにはあまりふさわしい内容では無いわね?ちょっと場所を変えない?」

「は、はぁ……」

「あなた達、アルメリーさんをちょっと借りてもいいかしら。他の子は先に教室にいってなさい?」

「……アルメリー様?」

「アルメリー……」

「ちょ、ちょっと……!?」

「あ、名前を名乗っていなかったわね。私はソフィー・ドゥヴァリエ ・ランシアン。アルメリーさんと同じ寮に住んでいるの。彼女より一階上。それがどういう事か、わかるわよね?」


さらに自分の胸のリボンをヒラヒラさせ、見せつける。


リボンの色が違う……この子、上級生だわ。それに私より上の階……私が……男爵家の子だから、この子は低く見ても子爵家の令嬢かしら?なら、ここで断っても問題が起きないのはリザベルトしか、いないけど……。


「そんなに警戒しないで?なにも、とって食べようというのではないから。別の所で話を聞くだけよ。ウフフ……」

「は、話だけ、……なんです、ね?……分かり……ました。……アルメリー。……あまり遅く……ならない……ように、ね?」

「え、いいんですか、リザベルト様!?」

「まぁ……リザベルト様がそういうなら……」


カロルも、まさかリザベルトが納得するなんて!?という様な、びっくりして目をぱちくりしている。


リザベルトが反対しないなら、ここで彼女の()()を断れる者はいなくなった。話を聞くだけなら、穏便に事を進めた方がいいわよね……。


「み、みんな。ソフィーさんの言う事聞いて、先に教室に行ってもらってもいいかな……話してくるだけだから……安心して?」


リザベルトが反対せず、私もそう言っているので、皆固まったように動くに動けない。


「じゃぁ、ついてきてくれるかしら?アルメリーさん」

「はい……みんな、後でね?」


友人たちと軽く手を振って別れる。


彼女について校舎から出てさらに暫く歩き、人気のない中庭まできてやっと止まった。


彼女は念の為、周りをぐるりと確認する。私も同じように見回す。確かに誰もいないみたい。私たち以外の生徒は皆、それぞれの教室に向かっているのだろう。


「ここなら、気兼ねなく話せそうですわね、アルメリーさん」


彼女は腰に手を当て、少し気取ったポーズを取る。


「それで、話って何ですか……?」

「……あなたが空を飛ぶ魔法を使っているのを私、見たわ!」


空を飛ぶ魔法?そんなものは学院でも教えられていないし、自分も知らない……。

しかし、上級生の彼女は確信を持って言い続けてくる。


「この学院の教官にも、生徒にも、そんな魔法が使える人は誰もいないわ。けれど、私は見たのよ」


私の心はひどく混乱した。これだけこの人が確信持って言っているってことは、誰か別の人がそういった魔法を使っていて、自分が使える事を隠すために私を囮として使うために、私の部屋のバルコニーが特殊な移動用の出発地点にされているのかしら?

……それとも、もしかしてだけど、私が使ったってこと?……いや、そんな……まさか。自分の知らない魔法なんて使えるはずないわ。……いえ、私が知らないだけで、夢の中の彼女が表層意識に出現して空を飛ぶ魔法を使った……とか…?


「それは、本当に私だったのですか?」

「今更とぼける気?私の部屋はあなたの一階上。それに一部屋となりだから、死角も無くあなたの部屋のバルコニーの全体を見渡せるのよ?夜にバルコニーから飛び立つ姿を私は見てるんですからね……!?」

「それは、ちゃんと私の顔をしていましたか?」

「くっ……。顔は暗くて良く見えなかったわ。でも、外套を羽織った背格好があなたと同じぐらいの人影が、あなたのバルコニーから飛び立っていってすぐに見えなくなったわ!?」


私の部屋のバルコニーから人影が飛び立っている事だけは確実みたいね……。


私が黙っていると、彼女は自分語りを始めだした。


「私、小さい頃にお父様に読んでもらった魔王を倒した勇者の英雄譚が好きだったの。勇者の仲間に魔法使いがいてね。その魔法使いが空を自由に飛ぶお話の所が大好きで、小さい頃から憧れてたわ。魔法で空を飛ぶのが夢だったのよ!?」


彼女は身振り手振りを交えて自分の主張を訴える。


「でも魔法の授業で空を飛ぶ魔法は教えて貰えないし、学院の教官の誰も空飛ぶ魔法を使っているのを見たことが無いわ!?この事実に私は酷く落ち込んだものよ……。そんな所にあなたが夜空に向けて飛んでいく所を見たのよ?この魔法が私にも使えれば、小さい頃からの夢が叶う!?そう思うと私は、希望で胸がいっぱいになって喜びで胸が張り裂けそうになったわ!?」


彼女は満面の笑顔になり、こちらに語りかける。


「……私にも空を飛ぶ魔法を教えなさい。そうじゃないと、このこと皆に言いふらすわよ?」


上級生の彼女は脅しをかけてくる。


「そうなったらあなた、勉強どころではなくなるわよ?よく考えなさい?ウフフ……。それに私、無料(ただ)で、とは思っていませんわよ?教えてくれるなら授業料として、それなりの金額をあなたに払うつもりよ?お父様にお願いして、お金を送ってもらう用意もしてあるわ?」


アルメリーは冷や汗が流れるのを感じた。彼女の言葉からは、明らかな脅迫の意図と懐柔の意志が込められているのが分かった。まさに飴と鞭……。アルメリーは深く息を吸い込み、冷静を保とうとしたが、心の中では恐怖と疑念が渦巻いていた。


「私は……そんな魔法を知らないわ」


アルメリーは震える声で答える。


「私はそんな魔法、知らないの。本当よ……」


上級生は冷たく笑いながら、アルメリーの肩を軽く叩きました。


「いいえ、あなたがその魔法を知っていることを私は確信しているわ。……そうね、あなたも……考える時間は必要よね?……暫く時間をあげるから、よく考えてね?ウフフ……」


それだけ告げるとそのまま上級生は去り、アルメリーは茫然と立ち尽くすのだった。


暫くすると校内に予鈴が鳴り響く。その音で私は我に返り、急いで教室に向かう。


教室に入ると、友人たちの心配そうな視線を感じた。


「アルメリー様、結局、何があったんです!?」

「アルメリー……大丈夫?」


ティアネットとリザベルトが心配そうに尋ねてくる。


「……特に大したことは無かったわ?寮の事でちょっと言われただけ。あはは……」


アルメリーは微笑みを作りながら答えたが、その心は重く沈んでいた。この脅迫とも思える問題にどう対処するべきか、彼女は深く悩むのだった。



                        ◇



アルメリーは上級生に脅されたその日、寮の部屋に戻ると専属メイドのアンと向き合う。

窓の外には沈みかけた夕陽の残光が静かに差し込んでいる。アルメリーは心の重さを感じながら、アンに話しかけた。


「アン…ちょっと相談があるの……」


アンは驚いた様子でアルメリーを見つめたが、すぐに優しい微笑みを浮かべて答えた。


「どうしました、お嬢様?」


アルメリーは深呼吸をしてから言葉を紡ぎ出した。


「一つ上の階に入居している上級生の子に、『私がバルコニーから飛び立つ姿を見た』って言われたの。そして、『その魔法を教えないと皆にこの事を広めるわよ』って脅されたの。でも、私は空を飛べる魔法なんて知らないし、その子も『教官にも生徒にも空を飛べる魔法が使える人は誰もいない』って言ってたわ?」


アンは一瞬、驚いた表情を見せたが、すぐに冷静さを取り戻し、うなずいた。


「実は、お嬢様がこの数日お休みになられている間に、私も気になっていたことがあって、その疑問を解決するために学院の寮から街の方へ出かけていたんです」


アルメリーは驚きと共に、ここ数日のアンの行動についての謎が解明された事と、彼女が何をしていたのかについて興味を抱きながらアンの話に耳を傾ける。


「街で大神殿の『聖女』と呼ばれている方と、お話をいたしました。その方の提案で占い師に占って貰うようにと勧められたので、良く当たるという噂の『占い師』に会ってきました。聖女様からはお嬢様とも話をしてみたいから、今度よければ連れてきて欲しいと言われました」


アンは身振り手振りで、占い師を探すのに少々苦労した事を話し始めた。


「お嬢様、覚えていますか?夏休みの前にあった謎の品物を求めたあの冒険のこと。あそこで出会ったオーレッド様の事を。私は占い師を探すのに、まずは街の事を良く知ってそうなオーレッド様を探しに行きました。彼が良く利用していると言っていたあのお店『雲雀の踊り子亭』へ向かったのですが、あの方と出会う事は出来ませんでした。ですが、その店の外で騒ぎがあったので出てみると、セルジャン様がゴロツキ共をこてんぱんにして女性を助けてる場面に遭遇しました」

「セルジャンって凄いのね!?」

「……私も、セルジャン様が昔は旦那様の護衛をしていた事もある、とは聞いた事があったのですが……私が見に行った時にはもう決着がついていて服についた埃を払ってたんですよ!?実際に戦っている所を拝見したかったものですっ!」


アンが興奮してきていたので、どぅどぅ……と私は彼女をなだめる。


「失礼致しました……。その後、繁華街でセルジャン様とお茶をご一緒し、『占い師』について何か御存じないかと尋ねてみましたが、市井の事には疎いらしく、ご存じないようでした。後日、ふらりと寄った茶屋で占い師についての有力な情報が得られたので、占い師が店を開いているという所へ向かいました」


彼女は一旦そこで話を止める。


「なんとかその『占い師』に会う事ができましたので、お嬢様の事を占って頂きました。占い師からは、『重なり合う影が揺らめいている……』とか、『光と闇の狭間に漂い、一つは馴染みの中に溶け込み、もう一つは深淵に消えている……』とか。『波のように姿を変え、太陽と月が空に舞うように、影が交錯し、何かの見えない力が……動いている……』などと言われたんです。抽象的で分かりにくい言い回しでしたが、私の解釈では『お嬢様の中に何者かがいて、それが夜な夜な現れて何かしているのではないか?』ということだと思います」


アンは続けて思わず口に出そうになった(自身について占ってもらった)事については発言を自制し、心の中に留めておく。


アンはさらに続けた。


「私も占い師の言葉が気になっているんです」


アルメリーはアンの話に、頭の中で何かが繋がる感覚を覚えた。そして、夢の中の出来事を思い出し、アンに話し始めた。


「実は、私もアンに……風邪を引いた時に見た夢の中に出てきた印象的な人物の話を聞いてほしいの。物凄い美女で、黒いローブを纏っているの。彼女がそのローブを跳ね上げると、その下は裸で、惚れ惚れするような見事なプロポーションだったわ。常に自信に満ち溢れていて、歴史に関与して名を残せると言い張っていたから、相当な力を持ってそうな印象を受けたわ。夢に出てきたのは、そんな人物だったの」


アンは興味深そうに頷き、アルメリーの話を促した。


「……彼女は昔、幾つかの名前を使っていたらしいのだけど、その中で一番気に入っていた名前は『イスティス』だって言ってたわ。彼女の実力を見たわけじゃないから半信半疑だけど、今度、歴史に詳しい教官に聞いてみようと思ってるのよ」


アルメリーはその名前を口にすると、胸のつかえが取れたように感じ、安堵の表情を浮かべた。


アンは優しくアルメリーの手を握りしめ、微笑んだ。


「お嬢様、貴女は一人じゃありません。安心してください。私たちで一緒にこの謎を解き明かしましょう」

「そうね、アン。私もあなたの事、頼りにしてるわ!」


アルメリーはその言葉に勇気づけられ、アンに感謝の気持ちを込めて微笑み返した。彼女たちは、この新たな謎に立ち向かう決意を胸に、夜の静寂の中で互いの存在を感じ合っていた。



                        ◇



夕暮れが貧民街に影を落とし、街全体が不穏な空気に包まれている。”工房(アトリエ)”正面の扉の上には薄暗いランテルヌの光が揺れていた。

その”工房(アトリエ)”中でバルナタンは、冷静な表情を保ちながらも心の中でなにか起きそうだ……と、漠然とそんな予感を感じていた。


工房(アトリエ)”の扉の前に、遠くから一人の伝令が息を切らしながら駆け寄ってきた。伝令の腕にはエクリプスノワールの紋章が描かれた布が巻かれていた。


「ブロワール様からの伝令だ。『ファイエルブレーズ』の代表は出頭するように、との命だ」


伝令は息を整えながら、”工房(アトリエ)”の扉前に立つ門番に低い声で伝えると、腰につけた鞄から同じような内容が書かれた手紙を取り出して渡す。


一連のやり取りが終わると伝令は踵を返し、別の所へ向かって行った。


当番で門番をしていたそいつは手紙を持って中へ入り、椅子に座っているバルナタンへ手紙を渡し、伝令から聞いた言葉をそのまま伝え、さっさと門番の仕事へ戻る。


バルナタンは上がやっと行動を起こす気になったかと、その命令に即座に応じる事にした。


「みんな、聞いてくれ!」


工房(アトリエ)”内は、先ほどまでダラダラとした雰囲気が蔓延していたのだが、バルナタンの話を聞くためにすぐに静かになった。


「今、俺らの上の組織『エクリプスノワール』から招集がかかった。俺はこれからすぐに行ってこようと思う。第一班は俺と一緒に来い。第二班、第三班は『工房(ここ)』の護りを固めろ。第四班は以前の俺らのたまり場の護りにつけ。他所から来た浮浪者共にそこを占拠させるな!」

「「「うっす!!!」」」


命令を受けた各班の隊員たちは、装備を整えすぐにそれぞれの持ち場へと動き出した。バルナタンは第一班を引き連れ、すぐにエクリプスノワールの根城へと向かうのだった。




エクリプスノワールの根城に到着すると、外で首領の右腕であるブロワールが待っていた。彼の冷酷な目つきがバルナタンを鋭く見つめていた。


「バルナタン、中へ入れ。他の奴等はそこで待機だ」

「はい!」


後ろを振り向くと、第一班の皆はその場で敬礼をしてバルナタンを見つめていた。

彼は部下達に敬礼を返すと、ブロワールの後について中に入っていく。


中へ入ると、ブロワールはロビーの奥のソファーにどっかと無造作に腰を下ろした。彼の近くで立ったままでいるバルナタンに顔を向け、聞いてくる。


「バルナタン、()()はどうしている?」

「先週来られて以降、姿をまだ見ておりません!いつもと同じなら、週の中頃辺りには来られるのではないか?と思っておりますが……」

「そうか……」

「なにか、姐さんに伝える事でもありますか?」

「いや、いい。バルナタン。ファイエルブレーズの拠点、『工房』周辺の治安維持を行え。少し足を伸ばしてもかまわん。お前の所の周りは、もう()()()()()()()()()()?いけるな?」


バルナタンは、冷や汗が流れるのを感じた。これは他の三つの団の縄張りだった所も、お前が治安維持をしろって事なのか?……一体、この人はどこまで知っているんだ……?


「……ああ、()()にはあまり近づかない方がいい。ウチのモンの中に、安易に近づいて声かけた結果、隠し持った刃物で切りつけられ怪我した奴がいる。もちろん無事だったがな。……十分気をつけろよ?口で言っても分からない反抗的なヤツはこの際、殺してもかまわん。暴力的な他所から入って来た浮浪者どもの排除を積極的に行え」


ブロワールは冷淡な声で淡々と語り、命令を下した。


「ああ、それとな……。『ファイエルブレーズ(おまえら)』にこれを渡す。まぁ、少ないが危険手当ってやつだ」


ブロワールは懐から革袋を取り出し、机の上に置く。ジャラっと音がした。


「ジェルム硬貨が三百枚と、トロン銀貨が二十五枚入っている。とっとけ……」

「ありがとうございます!」


バルナタンはそれを懐に仕舞いこむ。


「遺体は用水路にでも流して処理しておけ。シルヴェーヌ川まで流れてしまえば、後は自然が綺麗に何とかしてくれる。俺らは何も考えなくていい。逆に、その場に残しておくと()()し、色んなモンを垂れ流して()()()し、()()()()()

「はっ!了解しました!」

「よし、下がっていい……」

「はっ!失礼しますッ!」


バルナタンはその言葉を胸に刻み、根城から退出すると、班の部下を引き連れて”工房(アトリエ)”へと戻った。帰りの道中にある事を思いつく。彼の心には新たな決意が宿っていた。


戻った彼は、それを実行に移す為に、”工房(アトリエ)”の中で待機していたカルクールに声を掛け、保護した孤児達を呼んでもらう。バルナタンの前に勢ぞろいした子達の背丈に合わせるように腰を屈めて片足を付き、目線を合わせて改めて聞く。


「この前、君達を保護した時に話してくれたよな?浮浪者に暴行を受けた少女が引き籠っているっていう事を。その子を明日、明るいうちに保護しに行こうと思う。君達、案内してくれるか?一緒にいってその子を『工房ウチ』に来てもらえるよう、その場で説得して欲しいんだ。やってくれるかな?」


幼子達はその言葉を聞いて、目を輝かせながら元気に返事をした。


「うん、ボクできるよ!」

「わたしにまかせて!」

「はい、はーい!!」


バルナタンは孤児達の元気な返事に微笑みを浮かべ、明日、彼らと共に暴行を受けたという少女の元へと向かうことを決意した。


バルナタンは心の中で誓った。この子供達を守り抜くと。そして、暴力と恐怖の連鎖を断ち切るために、全力で戦う覚悟を固めたのだった。



                        ◇



翌朝、太陽の日差しが地平線から伸びて貧民街の石畳を照らし出す頃、バルナタンは『ファイエルブレーズ』の第一班と第二班の隊員たちを集めた。朝一に出発する事を決めたのは、説得にどのくらいの時間がかかるか全く予想がつかないからだった。

彼らの背後には、先日保護した幼い孤児達が不安そうに見守っている。バルナタンは真剣な眼差しで仲間達に指示を出す。


「これから、この子達の話してくれた例の引き籠もった少女を保護しに行く。みんな、準備はいいか?」


隊員達は一斉に頷き、その指示に従う。朝も早いので、幼い孤児達はまだ眠そうな顔をしている。年長の子らは、手を握りしめて、決意らしい様子をみせていた。

彼らはバルナタンの周りに集まり、少女を救うためにその一歩を踏み出した……。




工房(アトリエ)”から出て暫くの間歩いていくと、年長の子らがある建物に向けて指をさす。


「あ、あそこです!」


もう少し歩くと、その子らが指さした目的の家に到着した。貧民窟にあるにしては比較的まともそうな外観の家だったが、窓も雨戸が全て固く閉ざされており、それが住人の外界との拒絶感を表していた。この様子だと中からもガチガチに固定されて簡単には開けられない状態になっているのかもしれない。


バルナタンは、玄関だと思われる扉を軽く叩いてみた。


「おい、ここにいるのか?俺達は君を助けに来たんだ」


しかし、返事はなかった。だが諦めずに何度か問いかけていると、暫くして家の中からは微かに怯えた声が聞こえてきた。


「帰って……お願い、帰って……」


バルナタンは優しい声で続けた。


「俺たちは『ファイエルブレーズ』だ。君を守りに来たんだ。怖がらなくていい」


バルナタンは正直お手上げ状態だったが、彼女と交流があった孤児の年長の子達が、辛抱に声を掛け続ける。

そうしていると、だんだん時間が経つにつれて、少女の怯えた声は徐々に落ち着きを取り戻し、扉越しに会話が可能になった。しかし、彼女は直接顔を合わせることを嫌がり、(かたく)なに扉を開けることは無かった。


そこで、幼い孤児達が前に出て、必死の説得を始める。


「ここより安全だから」

「ぼくたちがついてる!」

「とーりょーたち、すごーくつよいんだよ!このまえだって、そとからきたわるものをやっつけたんだ!」

「みんなでおねーちゃんまもるから、ね?」


幼い子供たちの純粋な言葉が、少女の心に少しずつ響き始めた。


扉の向こうで何やら音がし始めた。暫く待っていると、扉が少し開いて隙間から覗く少女の顔が見えた。


バルナタンはちょっと恥ずかしそうに鼻の頭をポリポリとかきながら、笑顔で少女に語りかけた。


「怖がらなくていい。俺達は君を守るためにここに来たんだ」


最後の一押しを与えたのは、そのバルナタンの優しい笑顔だった。


その瞬間、少女の心は揺れ動いた。

瞳から涙があふれ出し、頬を伝って一筋の線を描いて落ちていく。


「本当に、私を助けてくれるの?」


彼女はか細い声で問い掛けた。


「ああ、約束する」


彼女は扉の向こうで深呼吸をし、やがて静かに扉を開けた。


中にいた少女は、かつての彼女の面影をわずかに残しながらも、悲しみと絶望に包まれていた。引き籠る前の彼女は、貧民街の中で孤児たちの面倒をよく見ていた明るく元気な少女だったらしいが、今はその元気さを失っていた。


彼女の黒髪は、もともとは美しい光沢を持っていたが、今はすっかり乱れ、油や汚れで重たくなっている。長い髪はぼさぼさに絡まり、顔にかかる前髪が彼女の表情を隠していた。

かつては澄んだ瞳を持っていた彼女の目も、今は深い悲しみと恐れを湛えている。目の周りには疲れとストレスの痕跡が見え、何度も泣いたであろう涙の痕が頬を伝っているのがわかる。


彼女の顔色は青白く、頬はこけてしまい、食欲も失われたことを物語っていた。

暴行を受けたショックと恐怖で痩せ細った体は、かつての健康的な姿とは大きく異なっていた。


服はかつては彼女の唯一の財産だったが、今は汚れと破れで見る影もない。暴行された時に服が引き裂かれ、荒々しい行為のせいで袖口や裾はぼろぼろにほつれ、汚れた布地には乾いた泥や血の跡が残っていた。

引き籠りの生活で洗濯もろくにされておらず、衣服全体が汚れと臭いで覆われていた。


彼女の手は、以前は孤児たちを守り導くために使われていたが、今は汚れと、()()()()()者達に向けた憎悪が、自身の腕に爪で引っ搔いたような幾つかの自傷を行った傷跡を生み、その痛々しい傷痕が、破れた服の隙間から見えていた。

細くなった指先には、小さな傷や擦り傷が見えた。


バルナタンたちが訪れるまで、彼女はこの暗い部屋の中で一人孤独に耐えていた。

彼女は、かつての元気さと明るさを取り戻せるように、本当は誰かの救いの手を求めていたのかもしれない……。


そんな彼女が、大事にしている古い人形を握りしめ、扉のむこうに立っていた。

少女はその人形を胸元まで持ち上げ、抱きしめながら、バルナタン達の元へと一歩踏み出した。交流があった顔見知りの幼い孤児達は、扉から出てきた彼女の足元に駆け寄ってじゃれつき、年長の子達はボロボロと涙を流して喜んでいた。


彼女はそれで安心したのか、足元の子供達に気をつけながら二歩、三歩とよろけながら歩いてさらに進む。


バルナタンと『ファイエルブレーズ』の仲間達は、優しい眼差しで彼女を迎え入れた。


「さあ、行こう。君はもう一人じゃない」


そう優しく囁かれた彼女は差し出されたバルナタンの手を取り、童心に返った幼子のようにその手を、その腕を、ぎゅっと抱きしめて離そうとはしなかった。


この暗い部屋(せかい)の中で、生きる希望を失ったまま、飢え、息絶えるしかなかったハズの彼女の未来に……突然訪れた救いの手が、彼女の心に希望の光を灯していた。


幼い孤児達と顔見知りの年長の孤児達に囲まれながら、彼女は久しく忘れていた嬉し涙を目に溜め、ぎこちない笑顔で”工房アトリエ”へと向かうのだった。



                        ◇




夜の静けさが学院の寮を包む中、()()が目を覚ました。ベッドから起き上がると、両手を上に向けて伸ばし、「んー!」と、上半身を使って伸びをする。いつものように主人であるアルメリーが起きた気配を察知したアンも、続いてベッドで上半身を起こし、目を軽くこする。


「……どうかしましたかお嬢様?何か気になる事でも?」


とアンは優しく尋ねる。

彼女は何も言わず、ベッドから立ち上がると、ただ静かにバルコニーに向かいながら気にしないでというように軽く手を振る。バルコニーに繋がる大きな窓の前に立つと、その窓を開ける。彼女は夜風に髪をなびかせながら、アンに向かって命じた。


「アン、いつもの仮面を出して頂戴?」


アンは部屋中の心当たりの個所を必死に探したが、どうしても見つからなかった。


「すみませんお嬢様、どうやら紛失したみたいです。お気に入りでしたのに、申し訳ありません」


と、深々とお辞儀をするアンの声には、心からの申し訳なさが滲んでいた。


彼女は震える手を握りしめ、怒りを何とか飲み込んだ。


「……アレ、お祭りで売ってた安物だったし、もういいわ」


と言い、彼女は指を鳴らした。その瞬間、アンの目は虚ろになり、意識のない言われたまま動く傀儡人形と化す。


「アン、例の箱を出して」


と、冷ややかに命じる彼女。


「……かしこまりました」


と無感情に応えるアンは、プラカール(クローゼット)を開けて、その奥をごそごそと探し始める。その時、たまたま彼女は机の上に置かれていた腕輪に目が留まった。


彼女はその腕輪を見つめ、口角を上げて冷ややかな笑みを浮かべた。


「ウフフ……ちょうどいいものがあるわね?」


と呟くと、彼女は何かを企むように腕輪を手に取った。その笑みは、夜の影の中で妖しく輝いていた。


暫くして、アンはプラカールの奥から芸術的価値の高い精巧な彫刻が施された小さな箱を取り出してきた。アンの動作はまるで糸で操られる人形のようだった。

その小箱を手渡された彼女は、箱を開けて中に安置された仮面を見つめると、うっとりとした表情を浮かべた。


「うふふ、これよこれ」


と、喜びの声を上げる彼女。仮面は目元だけを隠すマスク・ド・ソメイユ(アイマスク)で、炎の模様を美しく鮮やかに表現した意匠(デザイン)が施されており、月明かりに照らされて輝いていた。彼女はさっそくその仮面を自身の顔にかけてみた……。


ズシッとした重量感があり、重すぎてこれは長くつけていられないと思った。また、装着時にはやはり違和感があった。この仮面は自分の顔に合わせて作られていないため、その点も不快感が増す原因だった。


「これは、やはり調整が必要ね……」


と彼女は呟く。調整を行ってから魔導遺物(アーティフィシェル)にした方がいいわね、と彼女は思うのだった。


調整の間、代わりの仮面をお店の方で用意してもらえるのかしら?聞いてみないと分からないけど。流石にあるわよね?と、彼女は思案に(ふけ)る。


仮面にまだ何も()()できないとすると、他の装飾品で補うしかない。

先程、勉強机の上で見つけた腕輪を前の仮面と同じような効果を持つ魔導遺物(アーティフィシェル)にすることを思いついたが、何かが引っかかり、思いとどまった。


「これ、普段使いしてるのかしら?なら古代語を刻み込んだりすると後がめんどくさそうね……」


と、彼女は考え込む。


上位古代語を刻み込んでから魔法を付与すれば永続的な使用ができるが、それを諦め、簡易的に魔法を付与するだけにした。これだと、ものの数時間程度で付与した魔力が霧散して効果が無くなるが、今回はこの方が都合がいいでしょう、と納得する。


彼女は呪文を唱え、腕輪に幻術の魔法を付与した。

そしてその魔法が付与された腕輪を装備したその瞬間、幻術が発動し、彼女の髪の毛が長く伸び、菫色に変わった。目元に菫色のアイシャドウが施され、唇に深紅の口紅が引かれる。

姿見の鏡の前に行き、そこに映る自分の姿を見て、彼女は満足げに微笑んだ。


「これで完璧ね!」


と彼女は呟く。


「これから外出するわ。服と外套の用意を」


アンに命令を下す。


「……かしこまりました、お嬢様」


アンに私の服を着替えさせ終わると、ベッドへ戻って寝るように指示する。


アンがベッドに戻るのを確認し、黄金の仮面を付けるとバルコニーに出て周囲を見渡す。誰にも見られてない事を確認してから魔法を唱え、彼女はバルコニーから夜の闇に紛れるように暗い夜の空へと飛び立つのだった。



                        ◇



夜空に浮かぶ月明かりを背に、彼女が静かに“工房アトリエ”へ舞い降りた。十月に入り、夜は肌寒くなってきているので、彼女の身は、下級貴族が主に着る若干厚みのある少し高級な外出用の服と外套で包まれていた。目元に装着した黄金の仮面が、月の光を反射して輝いていた。

門番が彼女に気付いてすぐに脇へ避ける。彼女が工房の扉をくぐると、バルナタンがすぐに出迎えに来た。


「姐さん、ご苦労様です!『ファイエルブレーズ』の最近の報告をさせてもらってもよいでしょうか!?」


バルナタンは彼女を一歩も見逃さない目で見つめながら、反応を待っている。


「……ええ、では聞かせて頂戴?」


彼はぺこりとお辞儀をして、姿勢を正し敬意を込めて話し始めた。


「まず、すみません、姐さんに言われていた合言葉の使用を辞めることにしました。色々と問題がありまして。それから、怪我をしていた者達の傷が癒え全員、戦線に復帰できるようになりました。さらに姐さんの指示通り、人数を増やすため他の団に勧誘を行って人数が一気に増えたので、ウチの団を五つの班に分け、戦闘に関与できる者が三十八名になりました。まだ年少で関与できない者を合わせれば”ファイエルブレーズ”は総勢五十人近い人数になりました!」


そこで彼は一旦言葉を切り、続ける。


「また、エクリプスノワールのブロワールさんから治安維持の命令を受け、近隣の孤児達を一時的に保護しています。さらに、この孤児達から要望があり、浮浪者達から暴行を受けた少女を保護しました」


彼女は冷静に聞きながら、合言葉についてだけ簡潔に応じた。


「そう。まぁ、あなたがそう判断したなら、それでいいわよ?」


その報告を聞きながら、バルナタンにくっついて離れない黒髪の少女が彼女の視界に入り、彼女は不機嫌そうに眉をひそめた。


「バルナタン、私、言ったわよね?あなたは私のモノ《・・》だと。その子は一体何?」

「先ほど報告した保護した子です!神に誓って、やましいことは何もしておりませんッ!まだ保護したばかりで心の傷が癒えていないのではないかと思われますッ!きっと彼女も、落ち着いたら自然と離れてくれると思いますッ!」


と、バルナタンは青くなりながら必死に弁明した……。


「ふーん、そう。まぁ信じてあげるわ?」


報告が終わると、皆が彼女の新しい仮面に興味津々で、口々に褒めたり質問を浴びせたりした。


「新しい仮面、綺麗ですね!」「美しい……!」「どこで手に入れたんですか?」


等々、質問攻めにあいながらも彼女は冷静に、だが上機嫌に答えた。


「これは最近お気に入りの服飾工房に注文した特注品よ。でも、ちょっと調整が必要みたいだから、いまから服飾工房(そこ)へ行くわ」


彼女はバルナタンの様子を見て、彼がこの状況で同行するのは無理だと判断した。


「姐さん、自分のかわりに第一班の副長、グラシアンを推薦します。彼もオーレッドさんに稽古をつけてもらった者です。腕は保証します。彼を護衛につけて下さい」

「わかったわ。……あと、カルクールも一緒に連れて行くわね?」

「分かりました!お気をつけて!」


グラシアンとカルクールが準備を整えると、彼女は二人と共に工房を後にした。外套が風になびき、仮面が輝く。夜の街を進む彼女の姿は、一種の威圧感と神秘を漂わせていた。服飾工房へ向かう道中、彼女は夜の風を感じていた。



                        ◇




月明かりの下、彼女はグラシアン、カルクールを伴い、夜の街を穏やかに歩きながら服飾(アトリエ・ド・ラ・)工房(モード・ブリアント)へと向かった。

特に何事も無く、商業区に到着する。いつもの通り、大通りから一つ二つ裏の通りに入り、上流階級の邸宅と見紛うような華美な装飾的な意匠の施されているお店に到着した。店の重厚な扉を軽くドアノッカーで叩くと、暫くして執事が現れ、丁寧なお辞儀をする。


「これはイスティス様。ようこそおいでくださいました」


執事の礼儀正しい対応に、礼儀作法に慣れていないグラシアンは面食らった。

その後、照れ隠しなのか態度を改め、ゴホンと一つ咳をする。


一行は店内に通され執事の後をついてゆく。


豪華な内装の応接室と一体になった奥の作業部屋には棚や机の上に所狭しと生地が並べられ、多数の木製の人形が何体も並んでおり、人形にはそれぞれ奇抜な衣装が着せられていた。


ソファーに座る彼女とカルクールの前のテーブルの上に、執事が紅茶とカヌレを流れるような動きで丁寧に出してくれた。二人の後ろで立ったままのグラシアンの分の紅茶も、もちろん用意されていた。


暖かな光が灯る中、彼らはしばしの休息を取った。

ほどなくして、店のオーナーのルナディットと、その兄で”女性裁縫師クチュリエールを名乗るヴァリアンが現れた。


「イスティス様。新しい仮面、良くお似合いです」


ルナディットが優雅に微笑むと、


「あらぁ~新しい仮面、やっぱり輝きが違いますわぁ~!凄くお綺麗ですね~。その腕輪も、とっても可憐ね♡」


ヴァリアンも彼女の新しい仮面やや装飾を褒めちぎった。


「ありがとう。これ、華やかなのは良いのだけど、やっぱり重すぎるわ?もっと軽くしてほしいの。あと、つけた時に違和感があってね?やっぱり、顔に合うように職人に調整を頼めるかしら?」


彼女は冷静に要望を述べた。


「かしこまりました」


ルナディットが丁寧に返事をする。


「すぐにやって欲しいのだけど、可能かしら?」


「ええ、分かりました。イスティス様。その仮面を製作した職人のかたも割と夜型の生活をしている方なので、多分この時間も作業されてると思います。これからすぐに職人の元へまいりましょう」

「あなた、機敏に動けるのはいいわね」

「ありがとうございます、イスティス様。この前も言いました通り、費用はこちらでお持ちいたしますので」

「助かるわ」


彼女は軽く頷いた。


その後、ルナディット、イスティス、護衛としてグラシアンが一緒に彫金細工師の作業場へと向かった。この三名以外の他の面子は、服飾工房で待機する事となった。




暫く歩き、服飾工房から少し離れた職人の作業場に到着すると、彼女は職人に端的に要望を伝えた。


「軽くして。仮面をもっとぴったり合うように調整して」


彫金細工師は慎重に彼女の顔を見つめ、


「仮面を調整するために、お顔をじっくり拝見させていただいたり、触らせていただいても、よろしいですか?」


と尋ねた。


「皆、席を外してちょうだい」


彼女の指示に皆おとなしく従い、彫金細工師を除く他の者達は大人しく作業場から一旦離れていく。


部屋に二人だけが残ると、彼女は仮面を外しその仮面を優しく机の上に置く。彫金師は慎重に彼女の顔に触れ、観察し、羽根ペンで紙に事細かにメモ書きしながら時折黄金の仮面を触り、熟考を重ねた。その作業は丁寧で、細かな調整が必要とされるため、そこそこの時間がかかった。


最後に彫金師は満足げに頷く。


「これでキッチリ、あなたの顔にぴったり合うものに調整できるでしょう。もちろん意匠の印象は残したまま、あっしの腕にかけてトコトンまで軽くいたしましょう」

「すぐに出来るかしら?」

「少しだけ時間が欲しいです。一週間……いえ、三日ほど頂けないでしょうか?」

「……その間、私に素顔を曝せと言うの?」


職人は少し考え込んだ後、ニヤリと笑い、奥から三つの仮面を取り出してきた。


「では、その間、替わりに……」


職人は手元の仮面を見せながら続けた。


「この中からお好きな物をお付けください。お客様の顔の形に近いと思うものを選んで持ってきました。どれでも好きなヤツをお貸しいたします」


彼が取り出した仮面は、それぞれ異なる魅力を放っていた。



・一つ目の仮面は「星夜の仮面」。


 夜空を模した深い紺色の背景に、金色と銀色の星々が散りばめられている。仮面全体にかすかな光沢があり、まるで本物の夜空を切り取ったかのような印象を与える。目の周りは星形のカットが施され、目元を引き立てる意匠(デザイン)で、縁には細かい金糸の刺繍が施されていた。



・二つ目の仮面は「薔薇の仮面」。


 深紅の背景に純白の薔薇が描かれ、豪華な印象を与える。薔薇の花びらに透明な水晶を巧みにカットして使用し立体的な表現がなされており、水晶の底に敷かれた純白色が白い薔薇を見事に現している。

また、見る角度によって水晶は色を変え、仮面全体に華やかさを加えている。

目元には薔薇の蔓が絡みつくようなデザインが施され、優雅さと妖艶さを併せ持っている。縁には赤いビーズがあしらわれ、細部までこだわりが感じられる。



三つ目の仮面は「龍の仮面」。


 黒を基調とし、銀色の龍が力強く描かれている。龍の鱗は細かく彫られており、仮面全体に迫力を与えている。目元には龍の目のようなデザインが施され、鋭い視線を感じさせる。縁には細かな彫刻が施され、豪壮な印象を与える。


彼女はそれぞれの仮面をじっくりと見比べる。どれも魅力的で、選ぶのに非常に迷った。目の周りが星型にカットさえされていなければ、”星夜の仮面”を選んでいたかもしれない。彼女にとってもその意匠は、()()()()()奇抜すぎた。


最終的に彼女は「薔薇の仮面」を選び、慎重に顔にかけた。


「これは、かなり具合がいいわね?初めてつけた気がしないわ」

「ありがとうございます」


彼女は仮面を微調整しながら言った。


「これでしばらくは、素顔を晒さずに済むわ……」


「代替品ですが気に入っていただき、ありがとうございます。調整が完了次第、すぐに『アトリエ・ド・ラ・モード・ブリアント』の方へお知らせいたします」

「そこは、ルナディットと話を進めておいて頂戴」

「かしこまりました」


彼女は頷き、その仮面をつけたまま、黄金の仮面を机の上に残し、外に出ていた皆に声を掛けると、職人の作業場を後にしたのだった。



                        ◇




夜の闇が深まる中、王都の北西部に位置するクリミネル地区のほぼ全域に広がった貧民窟は、静寂と不穏な空気に包まれていた。狭い路地や朽ち果てた建物が乱立するこの地域は、まさに法と秩序の届かない場所だった。そんな中、南側を実効支配する組織”フォコン・オブスキュール”は、北側を実効支配する”エクリプスノワール”に対して攻勢をかけるべく、動き出していた。


その拠点はかつて豪商の邸宅であった巨大な屋敷だ。その外観は、年季の入った石造りの壁と崩れかけた装飾が目立つが、建物の威厳を失ってはいない。大きな鉄製の門は、錆びつきながらも重々しい存在感を放ち、外部からの侵入を阻んでいる。


首領のフェルシスは広間を埋め尽くさんばかりの手勢を呼び集め、”決起集会”及び”作戦の最終演説”を行っていた。そこに集結した彼らの目には、貧民窟の統一と利益の独占という野望が燃え上がっている。


「皆の者よ!ついに我々の時が来た!『何者かの仕業』によって、殺され『不審死』した人々がいた。その『何者かの仕業』を恐れ、東、西、南の各地区から、北区へと流れて行き膨れ上がった浮浪者のため、『エクリプスノワール』は今、その支配域の治安の悪化で足元が揺らいでいる。これは、この数日内に入手した確実な情報である!そして『何者かの仕業』によって殺された……言わば()()()()これらの死を、『エクリプスノワール』の『手の者』の仕業だと喧伝けんでんするのだ!そして、その混乱に乗じて一気に攻め込む。我々が貧民窟を統一する時が来たのだ!」


フェルシスの言葉に呼応して、”フォコン・オブスキュール”の手勢は皆、力強く頷いた。彼らは長い間、貧民窟の南部の支配に甘んじて来たが、ついにその時が来たのだ。


「明日から三日間、まずは情報戦を仕掛けていく。諜報隊が先行し、噂を広げるのだ。『何者かの仕業』によって、殺され『不審死』した人々。それが実は『エクリプスノワール』の『手の者』の仕業だったとな!日が昇ると同時に手分けして動け。部隊ごとに指示された通りに行動し、まずは東西区域に噂を流し、翌日に北区域の要所要所に噂を流す。住民に反『エクリプスノワール』の空気を醸成し、我々が人心を掌握するのだ。やつらが積極的に動きづらくなった所で、我々の主力部隊がその噂を喧伝しながら進む!一度ひとたび住民に広がった「噂」が「確信」へと変われば、北の要所も簡単に制圧できるであろう!『何者かの仕業』によって殺された人々の死を利用して、『エクリプスノワール』を悪に仕立て上げるのだ!これは!我々が!本来の仕事を何もしない王都の怠けている衛兵達に成り代わりッ!悪を倒す正義の戦いだと住民の皆に認識させるのだッ!!」

「「「オオオオオオオ―――ッ!!!」」」


広間は興奮した男達の割れんばかりの咆哮で、熱気が渦巻いていた。




フェルシスの指示に従い、活動に入った”フォコン・オブスキュール”の諜報隊以外の手勢は決起集会が終わった後、それぞれの集団の根城に戻っていった。

先発する諜報隊の彼らは狭い路地や崩れかけた建物を縫うように進む。闇に溶け込むようにして進み、まず東西区域に分かれてそれぞれ要所へと向かい潜伏する。夜の夜中に噂を広げるのは難しい。日が昇った後、ゆっくりと作戦を進めるためだ。彼らの姿は、まるで影のようだった。



                        ◇



商会に落ち着いた帝国の使節団が、ザール王国の王城に使者を送り、翌日の十月八日には返答が届いた。王城からの連絡では、三日後に会談の準備が整うとのことだった。


その間、使節団の者達は商会の接待を受けながら王都の繁華街で羽根を伸ばすことにした。王都の繁華街は賑わいを見せ、多くの商店や屋台が立ち並んでいる。色とりどりの商品が並び、商人たちの声が響き渡る中、交渉官たちは目にするすべてに興味を示した。


一行はまず、賑やかな市場を訪れた。新鮮な果物や野菜、香辛料や工芸品など、帝国では見かけない品々に彼らは心躍らせる。交渉官の一人は、金色に輝く宝飾品を手に取り、その細工の美しさに感嘆の声を漏らした。別の交渉官は、異国の香りが漂う香辛料の店で試食を楽しみ、現地の味に舌鼓を打った。


次に彼らは、商会の担当者に案内されて豪華な食事を楽しむために高級な食堂へと足を運んだ。食堂の内部は豪華絢爛で、壁には美しい絵画が飾られている。豪華なテーブルには、様々な料理が並べられ、交渉官たちは次々と料理に手を伸ばした。珍しい肉料理や魚料理、香ばしいパンやチーズ、そして甘美なデザートに至るまで、どれもが美味で、彼らの心と体を満たした。


「……ザール王国は、色々な面で帝国に及ばすとも……()()()()ならば及第点ですな、タルコラス様?」

「ふん、正直これぐらいの楽しみが無ければ、私もザールのような遅れた国への仕事はやってられぬわ……」


口ではそう皮肉交じりに言いつつも、異国の料理に舌鼓を打ちながら、口角を上げるタルコラスであった。


夜になり、一行は商館の用意した宿泊施設に戻り、豪華な寝具に身を沈めたのだった。




                        ◇




翌朝、使節団の彼らは再び繁華街に繰り出した。


商会には、外交交渉官のタルコラスが残り、厳しい顔つきで書類に目を通していた。


「特使殿は、今日は街には出られないのですか?」


モーガス商会の商会長の息子である代表代理が、一人自室に籠るタルコラスを心配して確認に来た際、そっと彼に問う。


「……うんむ。既に内容は頭に叩き込んではいるが、明日の交渉の前に、念の為もう一度関係書類を確認しておこうと思ってな。済まぬが昼食は軽いもので良い。部屋へ運んでくれ」

「畏まりました、特使殿」


使節団の部下達は地元の酒場で地酒を楽しんだり、長旅で溜まったモノを娼館で発散したり、そこの娼婦達が奏でる音楽を聴きながら緊張をほぐしていった。異国の地での余暇を存分に楽しみながら、彼らは英気を養うのだった。


そして、三日目の朝。交渉官達一行は商会の用意した豪華な馬車に乗り込み、意気揚々と王城へと向かった。馬車の窓から見える王都の景色に目を細めながら、彼らはこれから始まる重要な会談に向けて気持ちを引き締めた。


王城に到着すると、厳かな雰囲気が漂う中、彼らは堂々と城の門をくぐり抜けた。豪奢な回廊を進み、王宮の会議室へと案内される。豪華な装飾と威厳ある空間に包まれながら、その部屋で待つ交渉官達はこれからの会談に向けて心を一つにした。三日間の休息と準備を経て、彼らは自信と期待を胸に、ザール王国の王と対面する瞬間を心待ちにしていた。




暫くして、王の到着を高らかに告げる門番の声が響き、両開きの大きな扉が開く。


ザール王国の国王は身に纏う雰囲気には王として確かな威厳があるが、終始温和な表情であった。王は帝国からの使者団に近づくと彼らに対し礼儀正しく頭を下げる。


「遠路はるばるようこそお越しくださった。私がこの国の王、アンセーヌ・オルタンス・ザール・ヴァレッドである。今回の交渉でも、我が国と帝国が良き関係を築けることを願っておりますぞ」

「これはこれは、ご丁寧に。私は帝国の特使、タルコラスと申します。以後、お見知りおきを……」


双方の挨拶が簡単に終わる。現国王は長々とした挨拶は好まないと資料に記されていたので、タルコラスも本来の口上は辞め、短く切り上げる。


「タルコラス殿。以後の交渉は、配下の者に任せますゆえ、どうぞよしなに……」

「かしこまりました。アンセーヌ国王陛下」


使節団が頭を垂れ、国王が厳粛な威厳を守りながら周りを囲む直属の者達と共に会議室から退出すると、暫くしてその会議の間に現れたのは、閣僚や大臣達ではなく、その下で働く外交官僚や、中級・下級貴族達であった。


タルコラスは内心不快感が急上昇した。部下達も同じように不快感を示していたが、交渉もまだ始まっていないので抑えるように促す。


王国側、帝国側の者達がお互いに礼を交わして長く大きな会議用テーブルに腰掛けると、早速本題に入っていった。

外交交渉官であるタルコラスは、冒頭から『ザール王国から輸出される食糧の価格が非常に高い!』と帝国の交渉に来る官僚に良く見られる、()()()()()高圧的な態度で非難をし、『帝国臣民は高騰する食料価格に苦しんでいる、輸出価格を大幅に下げるように!』と持論を述べた後、改めてザール王国に求める帝国側の要求内容を記した書面を提示した。


それに対して、対するザール王国側の官僚からは『今年は冷夏で北部から中部にかけての穀倉地帯で収穫減が見込まれ……』『市場に価格は委ねており、王国からは市場に対し圧力となるような政策は行っておらず、王国の複数の大手商会からの聞き取り調査によると輸出品の価格は護衛費用を含む輸送費を加味した正当な価格である……』等々、”王国には責は無い”という意味合いの反論を述べ、両者は平行線のまま議論を交わすことになった。


タルコラスは、冒頭の非難のあと、交渉は部下に一旦任せて涼しい顔をして部下達とザール王国の官僚達の交渉の行方を観察する事にした。


「……この書面に書いてある内容は何だッ!?ザール王国が輸出している『食糧を全体的に三割引きにせよ』など、無茶ぶりも良いところだッ!その分の損失補填を王国が補助金の名目で各商会に出せば良いなどと!これでは王国は交渉相手として対等の存在ではなく、帝国の植民地と同じようなものではないか!こんな要求は、我々としては断じて受け入れらないッ!!」

「帝国からしてみれば、本来五割と言いたい所を三割で我慢してやろうというのだッ!お前達がそれで納得すれば交渉は丸く収まるのだ!」

「こんなのは交渉とは言わんッ!それならばこちらも商会等へ規制をかけて、王国から帝国への輸出する食糧の割合を減らしてやってもいいんだぞ!?食糧を求める買い手は他にもいくらでもいるんだからな?」

「ぐぬぬ……!」


会議室の交渉は過熱していくが、出入り口の扉や端の方に等間隔で立っている護衛達は表面上、静かに成り行きを見守っていた。


一方、ザール王国の若手官僚達は、この件にかかわる他の小さな案件に議論が移っても顔を紅潮させ汗を垂らしながらも、帝国何するものぞと、一切妥協点を見出そうとはせず、激昂して叫ぶだけだ。

官僚達を率いるはずの代表である彼だけは冷静に若手官僚達を制御・対処しようとするが、それも中々上手く行かない。


(……まずいな、このままでは……なんとかしなければ……!)


彼らの上司にあたる代表格の彼が心の中で焦りを覚えている最中、突如タルコラスが立ち上がった。彼は代表格の男を真っ直ぐに見据えながら、大きな声で宣言する。


「うんむ。これ以上の議論は不毛ですな!代表閣下殿?我々の提案を飲めない……確かにここに書かれている事柄は、そなたらには即答は難しいかもしれぬ。だが、先ほどから黙って聞いていれば、出来ない事をあげつらうか、不満を口にするだけで結局『ダメだ』という話ばかりだ。あなた方には何か一つでも決定できる権限が、本当に与えられているのですかね?」


それを聞き、黙り込む王国側の官僚や下級貴族達。


「……それに、我々帝国側と妥協できる地点を、交渉で目指そうとしている素振りも見えない……ならば、我が帝国と一戦交えるつもりはおありか?」


タルコラスの発言により、その場の空気が変わる。会議室内にピリッとした緊張感が生まれる。誰もが次の彼の言葉を待っていた。


タルコラスはその沈黙の中、話を続ける。


「……我々としては、このままあなた(がた)との交渉が穏やかに継続し、交渉が実ることを望んでおる。ですがそれはあくまで『使節団(われわれ)』が望む形であって、貴方達がそれを望まぬならば、()()()戦争で決着をつけるしかありますまい?『戦争は外交の延長である』と、言いますし。私も、帝国を代表し、帝国臣民の腹を満たすためにこの場に立っておるゆえ。あなた方に決定権がないというなら、大臣、閣僚、国王などの上の方に判断を仰げばよいでしょうな。我々はまだ暫くは、ザール王国のモーガス商会商館の方に留まっておりますからな、()()()()()の判断が固まりましたら、連絡頂きたい。その時に改めてこの話を詰めるという事で……如何ですかな?」

「……わ、分かりました、そういたしましょう」

「ですが、あまり長い事は待てませんぞ……?」


王国側代表の男は、額に流れる冷や汗をハンカチで拭うと、苦渋の決断をして答え、全ては次回の会議へと持ち越しとなったのだった。



                        ◇



貧民窟の北西部に位置する「エクリプスノワール」の根城では、ここのところ他所から流入した浮浪者と、元から住んでいる住人との間で頻発する争いについての苦情が毎日のように寄せられていた。当初、エクリプスノワールの幹部達は、数日も経てば自然に収まるだろうと楽観視していたが、事態は予想を裏切り悪化する一方だった。


数日前から、報告を受けたエクリプスノワールの首領ディナルドは、ブロワールを含む主要な幹部達に指示を出し、傘下の集団達にも見回りを強化するよう命じた。治安回復の一環として、言っても聞かない浮浪者達には容赦なく制裁を加えるようにと。


ブロワールはその命令の傍ら、首領から別命を受け、東西に点在する小規模集団に対しても働きかけを積極的に始めた。情報収集を行いながら、圧力や懐柔策を駆使し、彼らをエクリプスノワールの傘下に取り込むために奔走していた。

ディナルドは、北区の治安が悪化したのも、浮浪者が各区から大量に移動する原因を作ったのも、「南の仕業である!」と大義名分を掲げ、圧倒的な数の力を持って南区に攻め入る腹づもりだった。


ブロワールの命令を受けたバルナタンも、ファイエルブレーズの四班の内、交代で常時二班をそれぞれ四つの集団の縄張りに巡回に行かせ、自身も説得に応じない暴力的な浮浪者たちを粛清する任務に従事した。




夕暮れ時、エクリプスノワールの根城では幹部たちが集まり、最新の情報を交換していた。ブロワールは卓上の大きな地図に視線を落とす。

その地図上には、多数の駒が置いてあった。駒にはそれぞれ旗が立っていて、その旗には小さく集団名が書かれていた。

貧民窟でその名を少しでも知られている集団を、”敵”、”味方”、”旗幟を鮮明にしていない集団”の三つに分類し、その分類に三色の色を割り当て、各集団をその分類に当てはまる色を塗った駒に見立て、入ってくる情報を元にその駒を動かしながら、各地の状況を冷静に分析していた。


「東と西の小規模な集団は七~八割方、俺らの味方に引き入れた。これで南を攻めている間、俺らの根城ががら空きの時でも、両脇から攻められる心配も減った。最悪、東西のやつらが自分の根城の周りを防御、維持するだけでもいい。抜かれなければそれでいい。その間、正面の攻撃に集中できるからな」


と、ブロワールは楽観的に、自信に満ちた口調で他の幹部達に説明する。


しかし、その時一人の部下が慌ただしく駆け込んできた。息を切らしながら、彼はブロワールに急報を伝えた。


「ブロワール様!支配下の区域の住民の間で、何故か我々に対する反感感情が広がっているようです!?」


ブロワールの表情が険しくなる。


「どのくらいだ、それはどの程度広がっている!?」

「この根城周辺はそれほどでは無いのですが、どうやら東、西、南区の各境界線に近づくほど、それが酷いようで……詳しい情報はまだ……!」


エクリプスノワールへの反感感情の異常なまでの早い広がりを知り、彼はすぐに南の反社会組織”フォコン・オブスキュール”が背後で暗躍していることに思い至った。


南のヤツラも仕掛けていやがった!!


「くそッ!やられたッ!!」


とブロワールは拳を握り締め、思い切り机を叩く!


この事態を前に、ブロワールは早急に対応策を講じる必要があった。彼は部下達に即座に指示を出し、東西の勢力に対し、南への攻撃準備を前倒しで進めるよう命令書を出す。そして、自らも行動を開始し、南の陰謀を阻止するために戦略を練り直す必要に駆られるのだった。


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