譲渡
「お嬢様、そろそろご起床ください」
アンが肩を揺すりながら声を掛けてくる。
普段なら、ちょっと声をかけられただけで起きれるのに……今日はなんだか頭もボーっとする。
「お嬢様、目の下に隈が出てますね?昨晩はあまり良くお休みできませんでしたか?」
自分の体に何か起きたのだろうか?分からない……自覚がないのだ。アンにいらぬ心配をかけたくないので出来るだけいつも通りに振る舞う。
「あー、今日の事でちょっと考え事をしてたら眠れなくなっちゃって。忙しくなりそうじゃない?」
「そうでしたか。昨晩、明日は早く起こす様にと申しつかっておりましたので起こしましたが、もう少しお休みなされますか?」
「いえ、このまま起きるわ。今日は予定が詰まってるし……」
「では急ぎませんと。着替えたあと、目の下の隈が目立たないよう、少し化粧を施しておきますね」
「ありがとう。アン」
手早く着替えを済ませ、準備を整えるとアンが化粧をしてくれた。
「食堂はまだ空いてませんが、朝食はどうされますか?」
「このあと、ランセリア様とご一緒するからそこで頂くわ。それに今日は食べる機会が多そうだし、お腹空かせてる位がちょうどいいのよ。フフッ」
ランセリア様を待たせる訳にはいかないわ。
「ねえ、アン?お屋敷の近くまで乗り合い馬車で行かない?歩くよりきっと早く到着できるんじゃないかしら?汗もかかないし……」
「そうですね……。急がれてる事ですし、ここで断ったら、お嬢様のことです、スカートをたくし上げて走り出しかねません。仕方ないですね、出費は痛いですが乗ることにいたしましょう」
学院から出て少し進んだところに、王都内を周回する乗り合い馬車の停車駅がある。広い王都内を移動するために国が整備・提供している交通関連の社会基盤の一つである。
料金は決して安くは無いが、庶民でも何とか払える程度の金額である。
便利ではあるのだけど、時間にルーズなのか時刻表通りに馬車が来る事は殆ど無い。
繁華街へ繰り出す他の数名の生徒に混じって大人しくその場で待ち、やがて到着した馬車に乗り込む。
いくつかある停車駅のうち屋敷の最寄り駅で下車する。そこから少し歩くと私の家が所有する屋敷が見えてきた。
ここに来るのも何度目か。未だに他所の家に来たような緊張感がある。でもそろそろ慣れないといけないわね……。
屋敷の門のドアノッカーをアンが数回ノックする。
暫くすると、老執事が中から礼儀正しく出迎えてくれる。
「いらっしゃいませお嬢様。最近、よくおいでになられますね。私も、お嬢様のお顔を拝見する事が出来、嬉しく思います」
「お出迎えありがとう。私もあなたの顔がみれて嬉しいわ。でも、ごめんなさい。今日はゆっくりできないの。用が終わったらすぐ帰るから、お茶とか用意しなくていいわ。よかったらアンと世間話でもしておいて?」
「かしこまりました、お嬢様」
執事に玄関の扉を開けて貰うと、小走りで自分の部屋へ向かう。
室内へ入り、まずはクローゼットの中を探すが肝心の物が無い。
あら1個ないわ?たしか1つはここに隠したはずだけど……。
疑問には思ったが、無い物は仕方ないので、もう一つを隠した場所であるベッドの下を探す。そこには隠した時のままの状態で目的の箱があった。
回収した箱を巾着袋にしまい込み、階下に降りる。
居間の前に立ったまま、アンとセルジャンは世間話に興じていた。少し急いでいるので、その会話の中に無理矢理割り込んでいく。
「ねえ、セルジャン。私の部屋に最近誰か入らなかった?」
「換気のために窓の開閉や、軽く床を掃除する為に入る事はありますが……。そう言えば、数日前の事です……毎日夕方には戸締まりをするために屋敷の窓の鍵まで閉めて回っているのですが、窓を開けるために朝方お嬢様のお部屋へ訪れた時、既に空いていた日がありました。私とした事が窓が開いた事に気がつきませんでした……申し訳ありません」
深々と頭を下げる老執事。
「頭を上げてちょうだいセルジャン。この屋敷を維持管理するだけでも大変な仕事でしょう?特に何かあったという訳でも無いし、ちょっと気になっただけ。そんなに気に病まなくても大丈夫よ?」
「左様でございましたか。ご配慮ありがとうございます。ですが次はこの様な事がないよう夜の見回りを強化いたします」
「そこまでしなくても……」
私は困った様な笑顔を浮かべる。
「……では用事も終わったし、これで失礼するわね?」
「セルジャン様、失礼致します」
「お嬢様、またのお越しをお待ちしております。アン、お嬢様を頼むぞ?」
「はい、心得ております」
温厚そうな笑顔で見送る老執事に手を振って屋敷を後にする。
◇
徒歩に比べ、馬車を使う事によって移動時間を大分減らせる予定だったけど、帰りの馬車の便がなかなか来なかったので、結局のところ歩いて帰った方が早かったかも知れない。
それでもなんとか二の鐘が鳴る前には、息を切らせながらもようやく約束の場所へと辿り着けたのだった。
ランセリアには一人で来るように言われていた事もあり、アンには寮の部屋に戻るように言いつけてある。
泉のそばの柔らかな草の上に、畳二畳分位の大きさの厚手で表面が滑らかな敷布が敷いてある。生地の四隅には花をモチーフにした意匠の刺繍が施してあり、その中央でランセリアが幾つかのバスケットを側に置き、準備を万端にして待っていた。
「はぁはぁ……ランセリア様、お待たせしました」
「淑女がそんな息を切らすモノではなくてよ?」
「はぁ……済みません、急いできたものですから……」
「さあ、靴を脱いでこちらへおあがりなさい?」
この世界の靴ってクッション性があまり無いから、走ると地味に足が痛いのよね……。靴を脱いで足を解放出来るのは、正直嬉しい。
「失礼します」
靴を脱ぎ、敷布の上を数歩あるいてランセリアの隣に座り、最近の出来事や、とりとめの無い話をいくつか交わしながら、ランセリアの顔を見る。艶やかな黒髪、透き通るような白い肌、済んだ湖の底の様な深い青色で切れ長の瞳。やっぱり美しい。
それに彼女には今の所、悪役令嬢らしい要素はどこにも見受けられ無い……と言う事は、私の立ち振る舞いはおおむね良好って事よね?私がアレで知っているこの人のあの性格や設定なんかは、ただの|盛り上げる為に付けられたモノ《悪役令嬢のテンプレ》でしかないんだわ。
この世界の彼女はやっぱり別人で、本来はこんなに聡明で素敵な方なのよ。
「どうしたの?私の顔をまじまじと見つめて。何かついているかしら?」
「あ、いえ、ランセリア様は美しいなー、って見惚れてただけです。えへへ」
「お世辞でも嬉しいわ。ふふ……」
その後、一旦会話が途切れてしまい、目を泳がせていると荷物の事を思い出す。
「あ、そうだ!これ、例のものです。お待たせいたしました。受け取って下さい!」
「これがそうなの……」
私は、懐の巾着袋を出し、中に仕舞っていた化粧箱を取り出して渡す。
彼女はその箱を受け取ると、慎重に開ける。その中には蒼味がかっている透き通った綺麗な小瓶が収まっていた。その小瓶を丁寧に取り出すと、回してみたり日の光に当て角度を変えながらまじまじと観察する。
「それで、これは、お幾らかかったのかしら?」
「アルブル金貨二……いえ、1枚と小金貨5枚です」
本当はアルブル金貨四枚だったけど、片方しかモノが無いし、これでいいわよね……。
「わかったわ。オネット、ちょっと来て頂戴」
すると、少し離れた木陰からメイド服の女性が現れた。彼女は敷布の近くまで来ると、
「失礼します」
と靴を脱ぎランセリアの近くまで来てスカートを足の下に丁寧に織り込み腰を落とす。抱えたバスケットから巻いた羊皮紙と下敷きに使う板、羽根ペン、インク瓶、蝋を取り出し彼女の側へ置く。
ランセリアは片方の髪を耳の上に掻き上げる仕草をしてから羊皮紙を開き、サラサラと何かを書き込む。
書き上げた物を侍女に見せ、彼女はざっと確認すると魔法で蝋に火を付ける。ランセリアは羊皮紙を軽く丸め、その中心辺りに侍女が封のため蝋を垂らし、ランセリアが指輪で家紋を刻印する。
「これを両替商に持って行くといいわ。ここに書いた額面のお金と換金してくれるはずよ」
「ありがとうございます」
「それで、まだその時の詳細を聞いてなかったわね。よかったら話して貰えるかしら?」
「はい!もちろんです!」
私はその時の顛末を嬉々として話し始めたのだった……。
「……という訳だったんですよ」
「なるほど、とても興味深い話だったわ。学院生活では得られない中々貴重な経験ね」
「護衛を雇って身の安全は確保していたつもりでしたが、いざ戦闘が始まると目の前で人が斬られたり、矢を打たれて悲鳴を上げて倒れていくのをただ震えながら黙って見ることぐらいしかできなくて、立っているのもやっとで……。凄く怖くて、頭が真っ白になって何も出来ませんでした……」
「そう、とても怖い思いをしたのね……」
ランセリアの口角が僅かに上がる。だけど、私はその時の事を思い出しながら話をするのに夢中で、それに気付くことはなかったのだった。
前の人生では、ドラマや映画でしか喧嘩や戦闘シーンは見た事無かったし、それすらモニター越しの安全な自宅で見ていて、どこかで『これは作り物だから』という意識があった。
いざ実際に目の前で戦闘が繰り広げられると、そこには安全地帯など無く、空気は張り詰め死と隣り合わせの緊張したものに変わり、本当にただ怖かった。私自身ただの足手まといにしかなってなかった。
「他には?どんな事があったの?」
「地下におりての交渉ですね……。商品を買う時、傭兵の方が交渉してくれなかったら、もっと高い金額で買わされる事になってたと思うと、今でも震えがきます」
「偽物を渡された可能性はなかった?例えばその二人が裏で仕組んでいたとか……」
「あの人は、言葉は軽いですが、窃盗犯を捕まえてくれたり、危険な所へ私が踏み込もうとした時には止めてくれましたし、芯の部分は高潔……何か信用出来ると直感で感じました」
「そうなの。それで?」
「はい、彼は自身の事を傭兵だと言い、身に付けていた装備はありふれた物でした。それに……色々な事情に精通されてましたし、見識は確かな物だと思います。実際、とても剣の腕が立ち強かったので、もしかしたら良家の出、もしくは元騎士なのでは?と……。それに雇った冒険者の方々からも信頼されていましたので、もしその人が悪い人達と組んでいたなら必ずどこかで悪い噂が立ちます。彼らも悪評のある人物と付き合いがある、などと噂されれば自分達の信用も下がりますし、必然的に距離をおくのでは……?そうしないという事は、彼が潔白である証左だと思います!」
「傭兵の方はそうね、それだけの理由があるなら信じる根拠になるわね」
「それに売人の方の薬についての説明は真に迫ってました。多分、調合した者の実力をよく知っていて、その効能には絶対の自信があるからだと思います。だから薬は偽物ではないと感じました。それでも偽物と思うのならば……どうぞ、私でその薬を試してみて下さいッ!」
あごに手を当てしばらく考える彼女。
「いいわ、貴女を信用するわ。私達、友達だものね?」
いつになく機嫌の良さそうな彼女からその言葉を掛けて貰ったとたん、感極まってしまい、言葉が詰まり一言も発する事ができず、何度も頭を縦に振ることしか出来なかった。
「それで、これはどのように使用するモノなのかしら?」
「飲み物などにほんの少し混ぜて使うそうです。この薬の『忘れていた記憶の一部を呼び覚ませる』効果の方は副次的なものとして時として出る事もあるそうです。本来の使い道……効能は言ってみれば『自白薬』だそうです。が、この手の薬は当然副作用があって、一時的に記憶に支障を来したり、使いすぎれば頭に重篤な障害が出て廃人に……という事もある劇薬だそうです。どなたに使われるつもりなのかは存じませんが、くれぐれも使用量に気を付けて下さい……お願いします」
「ええ、わかったわ。その点には十分気を付けることにするわね」
一通り話しが終わると、お腹から「グゥウウ〜!」と言う恥ずかしい音が出てしまい、ランセリアに笑われてしまった。
「あらあら、ウフフ……」
「すみません、今日は朝から何も食べて無くて……」
「まあ、そうなの?なら、これを食べるといいわ」
そういって、彼女は近くに置いてあるバスケットの蓋を開けて勧めてくる。
バスケットの中には、野菜やハムやチーズのようなものをバゲットで挟んだ美味しそうなサンドイッチや、マカロンやカヌレ、フロランタンのような焼き菓子が詰まっていた。
「オネットが今朝、用意したの」
「料理が上手なんですね、オネットさん。ほんとどれも美味しそうです!いただきまーす♪」
早速サンドイッチを一つ頬張る。
侍女は側に置いたバスケットから瓶を1本取り出してコルクを抜き、綺麗な金属製のコップに少し黄色がかった透明な液体を注ぎ二人に差し出す。
「そんなに急いで食べては駄目よ?喉に詰まってしまうわ。さあ、これを飲んで?」
勧められるまま、一気に喉に流し込む。僅かなアルコール臭が鼻腔をくすぐる。
「美味しい……って、ランセリア様!?これ、お酒では?」
「酒精度は低い方だから大丈夫よ?せっかくだから少しお祝いを兼ねて。ね?乾杯!」
ランセリアは私のコップと自身の持つコップを軽く打ち合わせてカチン!と音を鳴らし、自身も一口飲む。のど仏が脈動し食道を通っていく。ただそれだけなのに、私には何かとても官能的に見えて頬が上気してしまった。
そりゃ、私も久しぶりのお酒!正直もっと飲みたい……。でも、この後の事を考えると、できれば控えたい。でも、でも……。
思考が迷宮入りをしかけたが、結局のところ体の欲求には抗えず、また一口飲む。
フルーティでさっぱりとして飲みやすい。
「これはね、私も好きな銘柄のお酒。たまにオネットに買ってきてもらっているのよ。これは上級生の特権みたいなものね。昇級試験に合格して上級生となれば、成人として見做されるわ。学院内には下級生もいるから、基本的に飲酒は禁止なのだけれど、寮長達も普段の生活態度が模範的な生徒や成績優秀な生徒には、少しくらいなら黙認するのが通例となっているわ」
「私も、早くお酒が飲める上級生になりたいですっ!」
きょとんとした目になるランセリア。
「な、何かおかしかったですか?」
「そうね、目標が出来る事はいいことね。ウフフ……。じゃ、ここで飲んだ事は三人の秘密ね」
お互い笑い合う。
オネットの作った軽食をつまみながら、他愛の無い会話を交わす。
コップの中身が少なくなると、気を利かせたオネットがお酒を注いでいく。
バスケットの中身が無くなり、瓶も空になり、会話のネタも尽きてきた。
「食べ物も飲み物も綺麗に無くなったわね。ではそろそろお開きとしましょうか?」
「はぁい、わかりましたぁ~」
彼女はお酒に強いのか、頬が少し上気してるぐらいで一向に変わった様子が無い。
「また、何か頼むことや頼ることがあるかも知れないわ。その時はよろしくね?もちろん、貴女も何かあれば言ってちょうだい?できる限り便宜を図るわ」
「はい!喜んで!」
挨拶を交わしてランセリア達と別れた私は、しっかりとした足取りで校門に向かって歩いていく。
この時の私は、高揚感と多幸感で眠気が吹き飛んだ気がしていた。その後、手痛い失敗をするとも知らずに……。




