十の神器を追う者たち④
強い衝撃に耐えられず、再度幹の上から転げ落ちるクリスの体が、地面に叩きつけられる。
血を吐き捨て、なんとか立ち上がろうとするものの疲労と激痛でクリスの体は思うように動いてくれず、付近の木に背を預けた。
「くたばる訳には……いかない……」
骨折で痛む右腕を庇う左腕もまた、打撲と切り傷で痺れと痛みが渦巻く。
「いくつか聞きたいことはあるが、とりあえずお前人違いだ。俺はノエルなんてやつ知らねえし、下についた覚えも勿論ねぇよ」
幹からクリスの目と鼻の先に飛び降り、銃身が衝撃で曲がったライフルを茂みの中に投げ捨てたアバグネイルが、見下ろして言い放つ。
「腕がないのか」
真っ先に彼女の目に入ったのは、アバグネイルの肘から先を失った左腕だった。
「道中で色々あってな」
「ハンディキャップを背負った相手に負けるとはな」
不機嫌そうに舌打ちすると、クリスは肩の力を抜いて自重を全て木に預けて座り込む。
「とにかく、俺はお前に殺される筋合いはねぇよ」
「だが神器の存在を知っていた。それだけで殺す理由は充分だ」
「そうそれ、そいつが聞きたかったんだよ。軍は神器を何処まで知ってんだ? どのくらいの規模で動いてやがる」
自身を見下ろすアバグネイルから目をそらし、ムッとした顔でクリスは口を噤んだ。
不利は百も承知だが、彼女も軍人ということだろう。機密情報は墓まで持っていく覚悟があるらしい。
「軍人ってのは口が固くてめんどくせぇ」
大きなため息と悪態をつくアバグネイル。
この手のタイプはどんな尋問にも耐性があるのを、彼は知っているのだ。
「アバ、悠長にしているヒマはないらしいぞ」
すると、二人のもとにフェヴラーの声が転がりこむ。
「彼ら、もう追いついてきたらしい。さっき森に入ってくるのが見えたよ」
フェヴラーが言うのは、谷から追ってきていた所属不明の一団のことだろう。
その規模、十人から二十人。全員が武装しているとなれば、苦戦を強いられるのは目に見えていた。
次から次に押し寄せる危機にアバグネイルは、思わず顔を歪める。
「くそ、あの規模を相手にすんのはキビし──」
刹那、アバグネイルとフェヴラーが向き合って会話している絶好の機会をクリスは見逃さなかった。
険しい顔つきで立ち上がると同時に地面を蹴り飛ばし、弾丸のように飛び出していく。
「あっ! この野郎、逃げやがった!」
慌てて追いかけようとするが、彼らよりも地形を理解しているクリスは森に自生する大木や茂みの死角を利用し、その後ろ姿を消してしまった。
徐々に熱を持ち始める折れた右腕を庇いながら、低い枝をくぐり、周囲をこまめに確認しながら森を駆けていくクリス。
見晴らしのいい川へは向かわず、森のさらに奥へ奥へ。
「ノエルめ……」
最早、戦力でもなくなった自分が腹立たしかったのか、血が出るほど下唇を噛むクリス。
彼女の先を急ぐ足が向かったのは、山の麓に掘られた大きな洞穴だった。
深部に見える焚き火の灯りを頼りに、かつては熊の住処だった洞穴を進むと、そこで焚き火を囲んで転がっていたのは深い傷を負った二人の女性。
「マカ、ベレッタ、まだ生きているか」
付近でとった薬草を塗り、彼女たちが着ていた軍服を包帯のように傷口に巻いて応急処置を施してはいるものの、彼女たちの白かったはずの軍服はすでに血液で真っ赤に染まっている。
「姐さん?」
朦朧とする意識の中に飛び込んできたクリスの声に、マカが重たくなったまぶたを開く。
「ノエルだ、奴らがくる」
少しでも回復に繋げようと、洞穴を占拠する際にクリスは自身が殺した熊のこんがり焼けた肉を口いっぱいに頬張った。
右腕は歪な方向に曲がり、顔や左腕からは血を流す痛々しいクリスの姿を視界に捉えるや否や、ベレッタは顔を真っ青にして口を開く。
「クリス姐さん、その傷……ノエル一派ですか」
「いや、別の連中だ。ここには私たちの敵しかいないらしい、すぐに本隊に合流するぞ」
品のかけらもなく肉を貪る姿はまさに獣。
そんなクリスの言葉に頷きたくとも、マカもベレッタも自身の体を考えれば易々と頷くことができなかった。
「姐さんは行ってください」
しばらく考え込んだ後、マカが恐る恐る口を開いた。
「断る」
まだ握りこぶしほどある肉塊を勢いよく飲み込んだクリスが、鋭い目をマカは向ける。
「私にはお前たちを守る責任がある。部下を見殺しにして自分だけ生き延びるくらいなら、死んだほうがマシだ」
「クリス姐さん……」
ベレッタもまた、マカと同じことを言うつもりだったのだろう。
荷物にしかならない負傷者を連れて危険な目にあうくらいなら、いっそ切り離してくれたほうが楽だと。
しかし、自分の命すら諦めた彼女たちに向けられたのは、誰の命も諦めないクリスの真っ直ぐな瞳だった。
「銃も剣も捨ててきた。お前たちのを借りるぞ」
洞穴の隅に立てかけられていた二人のライフルを手に取ると、まともに動かない右手ではなく側部に青アザののこる左手で構えてみる。
銃口はブレ、右手で行なっていた正確無比な射撃に比べれば、まともな一発も撃てないだろう。
それでも、まだ戦うことや生きることを諦めていないクリスは一人頷いていた。
その折、
「まさか手負いの仲間を庇ってたとはな、泣かせるじゃねぇか」
嫌悪すら覚える声が、洞穴の中で幾重にも響き渡る。
「貴様、どうしてここが!」
すぐさま振り返り、ライフルを構えるクリス。しかしその銃口は、まともに洞穴の中へ侵入してきたアバグネイルを捉えられない。
「こいつが、主人である君の匂いを追ってきたのさ」
もう一人、アバグネイルの背後からクリスたちの前に姿を現したのは、両手を広げればのせられるくらいの小さな犬を連れた黒いフードを深くかぶるフェヴラー。
足もとを嬉々として走り回る木と鉄でできた犬。その頭をフェヴラーが撫でてやるや否や、その姿はクリスのへし折れたライフルへと変貌する。
「一体何を……」
ものが動物になったり、動物がものになったり、奇怪な術を使うフェヴラーに寒気すら感じたクリス。
手に持つライフルが、恐る恐るフェヴラーへと向けられる。
「待て待て、フェヴラーが谷のほうから森に来たって言ったにも関わらず、お前は深部に逃げてこいつらを守ろうとした。ってことは、今森に来てる連中はお前らの敵ってことで間違いないな?」
「それが貴様らに何の関係が──」
「取引だよ。こっちの要求に応えさえしてくれりゃ、お前も仲間も本隊に合流させてやる」
話を遮り、アバグネイルの口から出てきた言葉に、クリスは愕然とした。
さっきは本気で殺し合った知らない人間を信用して取引など、できるはずがない。
「何の真似だ」
「お前もそっちの仲間も女。聞いたことがあるぜ? 女しか下につけない男嫌いの女騎士、ラウネ・プランティス」
「プランティス卿の名を、小汚い貴様が気安く呼ぶな!」
眉間にしわを寄せ、激しい剣幕で怒鳴りつけるクリス。
忠誠を誓った騎士の名を口にしたことが、よほど気に障ったのだろう。
「小汚い? 俺、小汚い?」
「多少は、ね」
随分とショックを受けたのか、自分の身なりを隅から隅まで確認するアバグネイル。
しかし、唯一の頼みだったフェヴラーでさえ同意してしまう始末に、彼は大きく肩を落とした。
「とにかく、俺らは別にお前や帝国軍を目の敵にしてるわけじゃねぇし、俺らの目的がある」
一度深く息を吸い込んで、落ち込む気持ちをリセットしたアバグネイルがさらに言葉を続ける。
「お前らが生きようが死のうが知ったこっちゃねぇが、一旦俺らに手を貸してくれるんならこっちも相応のことをするって話だよ」
不安そうに自分を見つめるマカとベレッタを見て、クリスは大きなため息をもらした。
「本当だな?」
「姐さんっ!?」
まさかクリスが、見ず知らずの男の提案にのるとは思ってもいなかったマカは、堪らず驚きの声をあげる。
「こっちの利益を保証してくれんなら、そっちの利益を保証する。それが取引ってもんだろ?」
「今、森に入ったノエル一派は手強いぞ。それにこちらには負傷者が私を合わせれば三人、戦力になるのは貴様ら二人だけだ。馬もいなければ、移動手段は限られる」
「算段ならあるさ、なぁフェヴラー」
アバグネイルの言葉にフェヴラーが深く頷いたのを見て、クリスは「分かった」と小さく呟いた。
「クリス姐さん! こんな奴らの言うことを信じるんですか!?」
「黙れ、ベレッタ。お前たちが助かる可能性があるというなら、私はどんな手段でも使う。私自身が死ぬことになっても」
二人の負傷者は未だ首を頷かせてはくれないが、クリスの同意が得られたところでフェヴラーは深く頷き、動き出す。
「アバ、彼女は真実を告げている。取引は成立で構わないね?」
「もちろん」
最後にアバグネイルの許可を得ると、フェヴラーの持つ生誕の杖が洞穴に転がる大きな岩を一瞬にして馬へと変えてしまった。