プロローグ1
ついに記憶を取り戻したマリアンヌ。その過去が明らかになる
この不毛な争いの果てに、いったいなにが待ち受けているのだろう。
マリアンヌは強烈な不安に胸を押し潰されそうになりながら、霧に煙る街並みを眺めていた。
「しばらくのあいだ学校を閉鎖します」
臨時の朝礼が開かれたと思ったら、校長先生の口からそんな言葉が飛び出した。まだ一時限目が終わったばかりだというのに、早々に帰宅勧告が下されて、生徒たちのあいだに動揺が走った。
もっとも、つい先日、隣の学校が閉鎖されたという話を聞いたばかりだったので、近いうちにわたしたちの学校も同じ憂き目に遭うだろうとは噂されてはいたのだけれど……。
すっかり寂しくなった教室を見渡す。
今日、学校に登校してきたのが全部で十六人。半分近くの生徒がすでに家の中に閉じこもっているか、すでにこの街を去ったらしい。
みんなそれぞれ仲の良い友達と身を寄せ合って、これからどうなってしまうのか話し合っている。
「マリアンヌ……」
前の席でなにやら話し込んでいたソフィーに呼びかけられて、わたしはふと物思いから我に返った。
「なに? どうしたの?」
「アビーのことなんだけど……」
彼女はもう三日も学校を休んでいる。
「一家そろって街を出たらしいの。見かけた人がいるんですって」
エリザが伏し目がちにつぶやいた。元々気の弱い娘ではあったけれど、最近めっきり元気を失っている。知り合いが次々と行方をくらましているとあっては、それも無理からぬことだろう。
「わたしたち、どうなってしまうのかしら……?」
それはまさしく神のみぞ知るところではあったけれど、わたしは彼女たちを励ますために、無理矢理明るく振る舞った。
「いつか終わるわよ。こんなこと、長続きしやしないってパパが言ってたわ。神様がお赦しにならないだろうって」
「あなたのお父様が言うのなら、きっと大丈夫ね」
わたしの父は大学病院に勤める内科医だった。だから最近は朝から晩まで働きづめで、顔を合わせることさえまれになっていた。真夜中に帰ってきて、わたしが目を覚ます前にふたたび病院へと出勤していく。パパったら、いったいいつ眠っているんだろう? マリアンヌはいつも不思議に思っていた。
「ねえ、今日も行くでしょ?」
二人の顔がパッと輝いた。
「もちろん行くわ! 当たり前じゃない!」
わたしたちは揃って学校を飛び出した。本当は寄り道などせずにまっ直ぐ家に帰らなければならないと担任の先生が言っていたのだけれど、わたしたちにとってそんなことは問題にはならなかった。
「ねえ、なにか買って行きましょうよ」
東小路を歩いていると、先頭を歩いていたソフィーが振り向き様に言った。
「ちょうどランチ代が余ってるじゃない?」
エリザとわたしは顔を見合わせて、スカートのポケットをまさぐった。ふたりの手の中にはお揃いで買った色違いの小銭入れが握られている。
「でも、パパに叱られないかしら?」
「大丈夫よ。全部使おうって訳じゃないから。皆で少しずつ出し合えば、それなりのものが買えるじゃない? 減った分はキャンディを買ったって言えばバレやしないわ」
「あなた、もしかして、なにを買うのかもう決めてあるんじゃない?」
「バレた?」
そう言ってソフィーは笑った。
「いったいなにを買おうって言うのよ?」
「内緒よ! ついてきて!」
わたしたちはソフィーの後を追いかけて、東小路を右に曲がった。
「通学路の途中に素敵なお店があるの。わたし、いつもその店先を眺めてから学校に通っているのよ」
ソフィーはいかにも鼻高々といった様子で得意げに語った。
「見て、ここよ!」
彼女が指し示したお店を見て、わたしたちはがっかりした。トムズ雑貨店……。今までに何度ここに来たことだろう?
「なによ、おヒゲのトミーおじさんがいるだけじゃない」
「違うってば、その隣りよ!」
よく見ると、雑貨店の隣りに、ま新しいお花屋さんが一軒佇んでいた。店先に並べられた色とりどりの花々が、なにかと悲痛な話題の多いこの街にあって、素敵に輝いて見えた。
「わあ!」
わたしたちは頬を上気させて陳列棚を見わたした。道端に咲く野花と違って、大ぶりな花びらが高らかに咲き誇っている。
「綺麗……」
まっ赤な薔薇の花を見つめながら、わたしはうっとりとつぶやいた。
「あら、ソフィー。ずいぶん早いお帰りね」
「こんにちは、おばさん!」
店の奥から出てきた女性は、手に持った花束の茎を鋏でカットして、陳列棚の水差しに飾りつけた。
「ねえ、聞いてよ! 今日から学校お休みですって!」
「まあ、大変ね……。とうとうあなたたちの学校まで?」
「これからはいつでもお店に顔を出せるのよ」
おばさんは、くすりと笑って、こう返した。
「それじゃあ、いつも店先を綺麗にしとかなくっちゃね」
「そんなことしなくったって、いつも片づいてると思うけどな、わたしは!」
「あらあら、ありがとうね。そちらの可愛らしいお嬢さんたちは、あなたのお友達かしら?」
わたしたちは急にかしこまって、それぞれ自己紹介をした。
「おばさん、わたしたち、これをいただこうかしら」
そう言ってソフィーはわたしの目の前から薔薇を数本抜き出した。
「お金もちゃんと持っているのよ」
そう言ってから、ソフィーはわたしたちの方を振り向いて、
「ねえ、これでいいでしょ?」
「そうね。これなら喜んでくれそうだわ」
「おいくらかしら!」
おばさんは、ソフィーが渡した薔薇を見て値段を言った。わたしたちは互いに持ち寄ったお金を確かめ合って、出せる限りの料金を支払った。花束とまでは言えないまでも、ひとり一輪ずつ手にした薔薇は、目が覚めるほど美しかった。
わたしたちは黄色い歓声を上げながら、すっかり物寂しくなってしまった街路を駆け抜けた。それはまるで、周囲から見れば、この世で陽気に振る舞っているのはわたしたちだけかと思えるような光景だったに違いない。
そのアパルトマンもまた、かつての賑わいが嘘だったかのようにしんと静まり返っていた。すでに多くの部屋から人の気配が消え失せており、すっかり廃墟のようになっているのだ。
わたしたちは五階の部屋を目指して階段を上った。三人のあいだで交わされる会話だけが、階段ホールに虚ろに響いた。
「サラ、起きてるかしら?」
わたしは、〝ディキンソン〟という表札の掛かっている部屋の前で軽く体裁を整えると、優しく扉をノックした。
しばらく待っても誰も応答する気配がなかったので、もう一度ノックする。やはり反応はない。わたしたちは互いに顔を見合わせて、どうしようかと相談した。
「おばさん、買い物にでも行ってるのかしら……」
それは疑問ではなく、わたしたちの希望を表していた。サラの身になにかあったのかも知れない……。三人の胸の裡に、唐突に不安の影がよぎった。
わたしがおそるおそるドアノブに手をかけると、玄関扉はあっけなく音を立てて開いた。
「どうしよう……」
わたしはドアノブから手を放したが、扉はそのままゆっくりと開いてしまった。
玄関に変化は見られない。いつものサラの家だった。部屋の中からは物音ひとつ聞こえない。昨日まであんなに暖かかった室内はすっかり冷え切っており、暖炉の路床では、燃え尽きた薪がひっそりと横たわっている。
「ねえ、どうしよう……!」
わたしの服の袖を掴んだまま、エリザが今にも泣き出しそうな声でつぶやいた。
「サラの部屋に行ってみましょう」
ソフィーの言葉にしたがって、わたしたちは通い慣れた部屋の扉を押し開いた。
「サラ……?」
予想どおり、彼女のベッドは空っぽだった。シーツは乱れ、サラが寝ていた跡が生々しく残ったままだ。クローゼットやキャビネットもまた、開きっ放しになっており、急いで荷物をまとめて出て行った形跡がある。
エリザはすでに泣き出していた。ソフィーが彼女の頭をそっと抱きしめ、まるで自分に言い聞かせてでもいるかのように、「大丈夫、大丈夫だから……」とつぶやくのが聞こえた。
わたしは震える手で彼女の机に手をついて、しゃがみこみそうになる体を必死に支えた。
「そうよ。病院に行ってみましょう? 彼女がかかっていた病院はどこだったかしら?」
ソフィーは気丈にそう言い残して、リビングの方に引き返して行った。
わたしは、涙に濡れた目でサラのベッドを見つめた。今でも彼女がそこに寝ている姿が目に浮かぶ。わたしたちがお見舞いにくると、どんなに疲れていても笑顔を絶やさなかったサラ・ディキンソン……。そこでふと、わたしは、サイドテーブルの上に一冊の書物が置かれていることに気がついた。
暇つぶしになればと思って、わたしが貸した本だった。中には素敵な挿絵がたくさん描かれていて、その中の一枚を彼女はとっても気に入っていたっけ……。
本のページを開いたのはまったくの気まぐれだった。けれど、その気まぐれこそが、わたしたちを彼女の元に導く道しるべになったのだった。
そのページには、一枚の紙切れが挟まっていた。そこにはサラの筆跡でただ一語だけこう記されていた。
〝フェアリイランドは今は五時〟
それはわたしたちだけが知っている、秘密の場所を示していた。
中央公園の北、下級労働者が集まる下町の一画に、その教会はあった。
市庁から避難勧告が出たのが一月のはじめ頃。この辺りではもっとも早く防疫対策が実行されたものだから、下町は急速に過疎化が進み、すでにゴーストタウンと化しているようだった。
「なるべくなら外出は控えてください」
担任のクロフォード先生が言っていたっけ、特に下町にだけは近づいてはなりませんって……。お腹の子のことを考えて早々に引っ越してしまったクロフォード先生……。赤ちゃんは無事に生まれたかしら……。
「でもそれは、疫病が流行りはじめる前からだったじゃない?」
ソフィーが皆を勇気づけるかのようにつぶやいた。その声が少し震えていることにわたしは気がついたけれど、それを言ってしまってはこれ以上先に進むことができなくなるような気がして、黙ってうなずくだけにした。
「下町は危ない人が多いのよってママが言ってたわ。でも、それって偏見だって思わない? アレックスなんかこの町で暮らしていたけれど、あの子ほど世話焼きでお人よしな子なんて見たことないもの」
その言葉とは裏腹に、今歩いている名前も知らない通りでは、手近な建物の窓ガラスが何者かによってことごとく割られていた。緊急避難をした世帯を狙って大規模な略奪があったのだとパパがこぼしているのを聞いたことがある。
粉々に砕かれたショーウィンドウを踏みしだいて、キャンディストアの角を曲がると、人気のない三叉路の分岐点に佇む一軒の教会が見えてきた。
なんとかっていう長ったらしい正式な名前があったのだけれど、わたしはすっかり忘れてしまった。その名前を聞いたのはたしか、去年の冬に、教会でボヤ騒ぎがあったときじゃなかったかしら?
教会はずいぶん昔から使われていなかったとかで、その火事というのも、要するに町の不良が起こした不審火だったらしい。
教会が閉鎖された理由が、周辺住民の信仰の薄さと治安の悪化だというのだから、やっぱりここら辺には相当な荒くれ者が集まっていたと考えるべきなのだろう。
けれども、わたしたちが中学校に上がる頃にはかなり治安が回復していると考えられていた。市の教育改革のおかげで低所得者の家庭でも子供たちを学校に通わせられるようになったのが大きな理由なのだと、子供の頃に授業で習った覚えがある。
わたしたちがはじめて教会を訪れたのは、去年の夏のことだった。
夜中にマリア像が涙を流すという噂があって、わたしたちはその真相を探るべく、四人そろって肝試しにやってきたのだ。だけど夜はさすがに危険だという認識があったから、まだ陽が高いうちに行って、涙を流した痕があるかどうかだけたしかめて帰ろうという約束になっていた。
扉には施錠されていた痕跡があったけれど、肝心の鎖は足元に落ちてはげしく錆びついていた。とうの昔に何者かが鎖を断ち切ってしまったのに違いない。
礼拝堂はこじんまりとしていて、三十人入ればやっとという感じだった。粉々に砕け散ったステンドグラスに西陽があたって、頽廃的ではあるがとても美しく七色に輝いて見える。その様子があまりにも素敵だったので、わたしたちのあいだではこの教会をお伽話に出てくるような国という意味をこめて、フェアリイランドと呼ぶようになったのだ。
噂のマリア像は説教壇の後ろに飾られてはいたけれど、どこをどう見ても涙を流したような痕は確認できなかった。
わたしたちはちょっとだけ拍子抜けしたものの、それでも教会にのこりつづけたのは、はじめて訪れた廃墟というものにひどく興奮していて、見るものすべてが目新しく感じられたからだ。
祭壇の両脇に奥へとつづく扉があり、右側の部屋には埃だらけのテーブルと椅子が置かれているだけだった。説教部屋とか告解室といった感じだろうか。
もう一方の部屋は神父様の居室だったのか、古びたソファーや書棚などの家具一式がそろっていた。書棚の本はすべて床に散乱していて、見開かれたままの頁を踏みつけた靴跡なども見受けられる。
テーブルの上には白磁のティーカップが割れたまま放置されており、くすんだ金色の燭台が倒れたまま置き去りにされていた。
暖炉の上の燭台にはまだちびた蝋燭が残っていて、その下に燃えさしの燐寸が散らばっている。
壁に掛けられた振り子時計は五時を指したまま停まっていた。教会に押し入った人たちは、どうしてこれだけはそのまま残しておいたのだろう?
わたしはほんのちょっとした好奇心から、時計を外してみようと手を伸ばしたけれど、押しても引いてもこれだけは頑として動こうとしなかった。はじめから壁に作りつけられているのだ。どうりで誰も手をつけなかったはずだ。
わたしは何気なく時計の蓋を開けてみた。ふと発条を回してみようと思い立ったのだ。もしかしたらまだ動くかもしれない。廃墟と化した教会で、時計だけが時を刻んで動きつづけているなんて、なんだかとっても素敵な考えのように思えたのだ。
「あんた、なにしてんのよ?」
突然声をかけられたものだから、わたしは口から心臓が飛び出すかと思った。
「驚かせないでよ、ソフィー。わたしは今忙しいの!」
パパが発条を回すときは決まって振り子の付け根辺りをいじっていたから、この時計も同じ仕組みに違いないとわたしは思った。時計の中に潜りこませた指先が突起物に触れたので、思い切ってそれを回してみると、はたして思惑どおり、カチッという乾いた物音がした。
時計の針は凍りついたかのように動かなかったけれど、その代わりにわたしたちは誰も知らない秘密の扉を開けてしまったのだった。
避難勧告が出されてからはじめて、わたしたちはフェアリイランドに足を運んだ。
手に手に薔薇の花を持ち、足に履いたブーツの底で、ばらばらになったステンドグラスを踏みしだく。
わたしの服の裾を掴んだまま、エリザが不意に立ちどまった。
「どうしたの?」
エリザはそれにはこたえずに、大きく深呼吸をした。緊張しているのだ。わたしだって不安で胸が張り裂けそうだ。でも、ここにサラがいるであろうということについては確信を持っていた。
彼女たちに逃げ場はない。どこへ行っても迫害されるというのなら、安全に隠れられる場所を探す他ないではないか。そしてここ、フェアリイランドこそが彼女にとって……そして、わたしたちにとっても、もっとも相応しい隠れ家であるような気がした。
サラはわたしにメッセージを残したのよ。きっとここにいるはずだわ……。
わたしたちは勇気を振り絞って奥の部屋へと向かった。
焦げ臭い……。
ボヤ騒ぎがあったというのはこの部屋だったんだ。床に散らばっていた書物が黒焦げになっていて、テーブルと椅子、壁の一部までもが炎上した形跡があった。
「ひどいわね……」
ソフィーが顔を歪めてつぶやいた。
「本当にこんなところにいるのかしら?」
「いるはずよ」
わたしはできるだけふたりを元気づけるように、力強く言い切った。本当は自分の中でも自信が薄れかけていたのだけれど……。
幸いなことに、時計は元のままそこにあった。
外蓋を開けて中に手を差しこむ。指先に触れたでっぱりの感触を懐かしく思いながら、わたしはそれを右に回した。
乾いた音が鳴り響き、暖炉脇のキャビネットが動いた。
隠し扉だ。
わたしはキャビネットに近づくと、四人のあいだで取り決めた秘密の合言葉をつぶやいた。
「きらきら光る夜空の星よ。お前のおうちは雲の上」
しばらくのあいだ、張り詰めた沈黙が流れた。彼女が本当にここにいるのなら、中からこたえが返ってくるはずだった。
「ねえ、マリアンヌ。もう帰らない? なんだかここって……」
エリザが言いかけた言葉を遮って、わたしは言った。
「サラがここにいなければ、わたしたち、もう二度と彼女とは会えないわ!」
「でも、彼女、全然こたえないじゃない!」
そのときだった。キャビネットが後ろから押し開けられたかと思うと、野太い男性の声が語を継いだ。
「お前のおうちは空の下、か……」
暗がりから顔を出したのは、まぎれもなくサラの父親その人だった!
「すまなかったね、わたしたちは合言葉のことを知らなかったものだから……」
「おじ様!」
「マリアンヌ、エリザ、それにソフィー……。みんな、心配をかけたようだね」
「わたしたち、サラの部屋でこれを見つけて……」
マリアンヌはこみ上げる涙を拭って、メモを手渡した。
「あの娘も必死だったんだろう。本当は、きみたちにもこの場所を打ち明けてはならないと言い聞かせてあったんだけれどね」
「あの……サラは?」
「大丈夫。さっき目が覚めたばかりなんだ。さあ、入りなさい。暗いから、足元に気をつけて」
わたしたちはおじ様の腕の下をくぐり抜けて、地下へとつづく階段を下りた。部屋に近づくにしたがって、胸の高鳴りを抑えられなくなってくる。
「マリアンヌ!」
サラはベッドの上でわたしたちを迎えてくれた。
わたしたちはひとりずつ抱き合って、無事に再会できたことを祝福した。サラの肩を抱いたとき、彼女がこれ以上ないというほど痩せ細っているのがわかり、わたしは人知れず悲しくなった。
「どうしてなにも言ってくれなかったのよ!」
ソフィーの問いかけにサラは困ったような表情を浮かべて、黙ったままおじ様の方を見た。
「みんな、わたしたちがここにいることはくれぐれも秘密にしておいて欲しい。でなければ……」
でなければ、彼女は隔離病棟に収容されて、二度と会うことができなくなってしまう。感染経路が明らかでない今はまだ、たとえ家族でさえも患者への面会は許されていなかった。おじ様は言葉に詰まったけれど、わたしたちにも言いたいことは伝わってきた。
「それで、ジェイクとおば様は?」
エリザの問いかけにサラは悲しげな表情を浮かべて見せた。
「ママの実家に帰ったわ。ジェイクに病気が伝染っちゃいけないからって……」
わたしたちはハッとして、繊細な話題に触れてしまったことに気がついた。
〝天使病〟
近年、世界中を混乱に陥れている謎の奇病の俗称である。
最初にこの症例が確認されたのは、遠く英国の田舎町でのことだった。ひとりの少女が唐突に咳の発作に見舞われるようになり、はじめのうちこそ一過性のインフルエンザかなにかだろうと思われていたものの、なかなか体調が回復しないことに疑問を抱いた父親が病院へと彼女を連れて行ったのだという。
医師は喘息の可能性があると診断を下し、しばらく安静にして経過を診ようということになった。しかし、少女の容体は回復するどころか悪くなる一方だった。そして、あるとき、ついに彼女はあの忌まわしい天使の羽毛を吐き出した。
その噂を聞きつけた人々のあいだで、彼女は天使の生まれ変わりなのではないかという噂が出回りはじめた。
口の中から羽毛を吐き出す少女ローザの名前は、たちまち英国全土に知れ渡り、一目奇跡を拝見したいと、地元の教会から神父が訪問してくる事態にまでいたった。
しかし、しだいに膨れ上がっていく民衆の好奇心とは裏腹に、ローザの体調は坂道を転げ落ちるように悪化しつづけ、最初に発作が認められたときから一年を待たずして、彼女は短い人生に幕を下ろした。
彼女の死後、英国政府は、教会と両親の意向を無視して遺体の解剖に踏み切った。それというのも、英国だけにとどまらず、欧州各地でローザと同じ症例が報告されるようになったからである。
「これは奇跡ではない。現に、世間が天使だともてはやしている幼子たちは、みんな命を落としているではないか。天使とは、永遠の不死を約束された特別な存在を指すものだ」
これは英国の公衆衛生局が発表した正式な見解である。
果たしてローザの遺体は解剖にまわされ、その肺の中から夥しい純白の羽毛が摘出された。こうして、天使病の罹患者は、肺の内側に生える羽毛によって呼吸困難に陥り、窒息死することが確認された。
天使病は奇跡ではない。治療の糸口さえさだかではない致死率百パーセントの怖ろしい流行病なのだという認識があっと言う間に世間に知れ渡った。
それも、天使病を発症するのは決まって子供ばかり。ボーダーラインこそ明らかでないものの、犠牲となるのはわたしたち子供だけなのだ。
だからサラのおば様は、幼いジェイクを連れて実家の方に帰省したのだ。
部屋の中に暗い沈黙が流れたため、わたしは急いで話題を変えた。
「ねえ、これ。あなたへのお見舞いにと思って……」
わたしたちは手にしていた薔薇の花をサラに手渡した。血の気の引いた彼女の膚がより一層際立ってしまったような気がして、わたしは人知れず息を呑んだ。
「ありがとう。とっても綺麗……」
「ソフィーが言い出したのよ。彼女にしてはいいアイディアだと思わない?」
「マリアンヌったら、いつも一言余計なんだから!」
部屋に和やかな雰囲気が漂った。
わたしたちだけの秘密の部屋――かつては神父様だけの秘密だったのかも知れないけれど――そこが今では、サラをかくまう絶好の隠れ家になっているというのがなんだか不思議な感じがした。
わたしたちは日が暮れるまで語り明かした。学校が閉鎖されたこと、アビーが街を出たらしいこと、新しくできたお花屋さんのことなど、昨日会ったばかりだというのに、四人のあいだでは話題が尽きることはないかのように思われた。
「それで、マークったらとうとう怒りだしてね、ぼくは母さんが謝ってくれるまで断食するんだ、なんて言って、部屋に閉じこもっちゃったのよ」
「十六才にしては子供っぽい抵抗を見せたものね」
「それで結局どうなったの?」
「ま夜中に、寝てる母さんを起こして、ぼくのご飯はどこ? だって!」
これにはわたしも思わず声を上げて笑ってしまった。友達のあいだではあんなにキザったらしいマーク兄さんがそんなことを言うだなんて、とてもじゃないけれど想像がつかなかった。でも、妹のソフィーが言うのだから間違いないのだろう。
「皆に話しちゃって、叱られるんじゃない?」
「いいのよ、わたしたちみんな口が固いんだから! おじ様をのぞいてはね!」
ソフィーはそう言って片目をつぶって見せた。
サラはころころと鈴の音のような声で笑っていたが、あんまりにもソフィーの話が可笑しかったのか、急に横を向いて咳をしだした。
その様子を見ていたおじ様が、血相を変えて立ち上がり、わたしたちの顔から笑顔が消えた。
「サラ! さあ、これを飲んで……」
おじ様は、水の入ったコップを彼女の口元に差し出して言った。
「大丈夫よ、パパ。ただちょっと噎せただけ……」
でも彼はサラの言うことに耳を傾けはしなかった。
「みんな、そろそろ陽が暮れる時間だろう? 今日のところはこの辺でお開きにしようじゃないか。さあ、上まで送って行こう」
お別れを言って部屋を出るとき、わたしはサラの寂しげな顔を盗み見た。それは彼女がいつもわたしたちから懸命に隠そうとしている表情だった。
「マリアンヌ……」
階段を上り詰めたところで、おじ様がわたしの肩を掴んで言った。
「きみたちはサラのためを思って本当によくしてくれた。でも、本当にここへ来てしまって大丈夫なのか、おじさんは少し心配なんだ」
「わたし、無理なんかしてません」
「わたしたち、ただサラに会いたくて来たんです」
「それはわかっている。充分すぎるほどわかってるんだ」
おじ様はそこで言葉に詰まった。きっと自分でもそれに直面するのがたまらなく嫌だったのだろう。彼はなにもないかたわらの空間を見つめながら、大きく息をついた。
「娘の……サラの状態は、きみたちが思っているよりずっと悪い。今ではもう医者に診せるわけにもいかなくなったから、これからきっと……ますますひどくなるに違いないんだ。万が一、サラの病気がきみたちに伝染ってしまったら……」
「おじ様、わたしのパパは大学病院で……」
「わかってる。でも、ここのことは誰にも喋ってはいけないよ。きみのパパにもだ」
「でも……」
「どうせ病院に行ったところで、喘息の薬を渡されるだけなんだ。申し訳ないけどね、マリアンヌ、あの娘に効く薬はこの世にはまだ存在しないんだよ」
「それじゃあ、いったいどうされるんですか?」
「このままあの娘を逝かせてあげて欲しいんだ」
わたしたちは絶句した。いったいこの状況でわたしたちになにが言えただろうか。自分の娘を死なせてやって欲しいだなんて悲しい台詞は聞きたくはなかったし、考えたくもなかった。
それでも、この人は……。マリアンヌは思った。サラの死を事実として受け止めようとしている。もう覚悟を決めているのだ。おそらくサラのおば様もまた同じ気持ちをいだいているのだろう。
今、サラはどんな気持ちでいるのだろう。閉ざされた地下室のベッドの上で、わたしたちのことを見送って、たった一人でなにを考えているのだろう……。
わたしの小さな胸は強く強く握り潰された。自分たちだけが無事でいることに対する後ろめたさと、死を目前にしたサラの心境を考えて……。
教会を出たとき、すでに陽は沈んでいた。暮れなずむ空を見上げながら、わたしたちはこれからのことについて語り合った。
サラが死ぬときまでに自分たちがすべきこと。
そして、サラが死んだ後に自分たちがするべきことについてまで、考えなければならないことは山ほどあった。それは、わたしたちがはじめて身近な人間の死に直面した瞬間でもあったのだ。