第7章
牛鬼の村に潜入したファントムの策略がついに動き出す
いつ果てるとも知れない長い酒盛りがつづき、酒豪揃いとして知られる牛鬼たちのあいだにも、そろそろ脱落者が出はじめた頃のことだった。
白鹿亭を押し包むまったりとした空気を打ち破って、突然、けたたましい鐘の音が鳴り響いた。
「大変だ!」
店の扉を開けて、まだ年若い牛鬼が飛び込んできた。
「亡者の奴ら、またやらかしやがった!」
「なんだと!」
奥の席で飲んだくれていた老ロボスが立ち上がると、その拍子にぶつかったテーブルからジョッキが落ちて、ど派手な音を立ててばらばらに砕け散った。
「おい、お前たち! 酔っ払ってる場合じゃないぞ! さあ、眠っている者たちを起こさないか!」
はじまったな……。
コーザとフェリスは互いに顔を見合わせた。
フェリスが事を終えて店に戻ってきたのがかれこれ三十分ほども前だから、彼らが亡者たちの脱走に気づくまで意外と時間がかかってしまった計算になる。
「今度はどこの厩舎が破られたんだ?」
「サーヘルんとこの第一厩舎から第三厩舎までみんなやられっちまいました!」
「三つともやられただあ?」
ロボスは白髪混じりの顎髭をわしわしと揉みしだいた。
「いったいどうなってんだ? 今月に入ってもう二度目だぞ……」
半ば酔い潰れていたエテベが、眠そうな目を擦りながらつぶやいた。
「コーザにフェリスよ、すまねえな。こんなことになっちまって」
「いいってことよ。それより早く行った方がいいんじゃねえか?」
「このつづきはまた今度ってことにしようや。どうも酒が不味くっていけねえや……」
「あんた、これ……」
ニコが差し出したジョッキを一息にあおると、エテベは自分の頬を引っぱたいて気合いを入れた。
「よっしゃ! 面倒だが行ってくらあ」
エテベはみんなのしんがりについて店を出た。
彼らがいなくなった後の店内には、ロボスと牛鬼の女たち、そしてコボルト族の三人が残された。
「ディーゼル……」
ロボスはかたわらで強かに酔っ払っている親方の肩に手を置いて言った。
「悪いが今夜の宴会はお開きだ」
「あんたも行くのかね?」
「ああ、俺だけのほほんとなんかしちゃあおられんからな。そういう訳だ、若いの! 今夜は部屋でゆっくりしてくれや」
ロボスはコーザたちに向かって言った。
「そういう訳にはいかないよ。うちの若いもんも使ってくれや。俺はどうも……最近酒に弱くなっちまっていけねえや」
親方は欠伸を噛み殺しながら言った。
「それはありがたい申し出だ。どうだ、お前ら。動けそうかい?」
「もちろんですよ、老ロボス。俺たちでできることがあったらなんでも言ってください」
「あんなでもなあ、腕っ節はわりとあるんだよ」
「そうか。それじゃあ、お言葉に甘えることにしようか」
ついてこい、というロボスの言葉にしたがって、コーザとフェリスは店を出た。外には名も知らない牛頭が待ち受けており、ロボスに赫々と燃える松明を手渡した。
計画通りだ。だが、ここで功を焦っては元の木阿弥である。ファントムは、目をつむって同調に集中しているロキの様子をうかがい、ふうっと大きく息をついた。
これからが本番だ。しくじれば、天使の手がかりが潰えかねないのだから……。
「若いの」
ロボスは先頭に立って歩きながら言った」
「亡者って奴にも匂いはあるもんなのかね?」
「もちろんです。かすかにではありますが、腐ったズダ貝のような饐えた匂いが……」
「ズダ貝の?」
ロボスは噛みしめるように笑った。
「そいつははじめて聞いたな! だったらあんたらの鼻でどうにかならんかね」
コボルト族の嗅覚は、犬や狼とくらべると良く利くわけではない。見た目が狼と人間の合いの子に見えるからといって、そううまくはできていないのだ。しかしファントムは、あえてこの話に乗っかることにした。
「まかせてください。親方の名誉にかけて見つけてみせますよ」
「あいつの名誉だって?」
そこでまたロボスはくつくつと笑って、
「あんな襤褸切れみてえな老いぼれの名誉じゃあ、期待できねえなあ。おっと、気を悪くしないでくれよ。俺とあいつの仲だから言ってるんだ」
「わかってますよ、老ロボス」
そこでコーザはフェリスをともなって先を急ぐことにした。牛鬼の聴覚がどの程度利くのかわからなかったので、とりあえず松明の明かりが見えなくなるまで距離を開けると、闇の中でおもむろに立ちどまる。
「気配を消せ」
ファントムは自らの口でつぶやいた。
コーザとフェリスの身柄を木陰に潜ませて、待機状態にさせる。
「ここでやるつもりですか? ぼくにはまだ……」
ロキが早口でまくし立てるのを片手で制する。
「言い訳を聞いている暇はない。今からコーザの体をお前に引き渡す」
「今、ですか?」
「そうだ。お前は二人を待機状態で足どめさせるだけでいい。後はわたしが直接審問を行う」
「コーザを使って意識同調を行うものとばかり思っていました」
「当初はそのつもりだったさ。だが、状況が変わった。森の中でなら誰に見とがめられることもなくロボスと接触できるだろう」
ロキは興奮したようすで息巻いた。
「ぼくも同席させてください」
「機会はいくらでもあるさ。族長級の魔物への異端審問は骨が折れるんだ。今回はお前の出る幕はない」
「ですが――!」
「黙って指示にしたがえ、二等審問官! 養成学校に逆戻りしたいのか?」
ロキはそこでようやく引き下がった。
「フェリスの手をコーザの額に」
ロキはフェリスの体に意識を戻すと、ファントムに言われたとおり、コーザの額を手でつかんだ。
「意識を集中させろ。わたしの意識が視えるか?」
「待ってください」
「こちらからもアプローチする。わたしの意識をつかめ」
ファントムは、コーザを通してフェリスの意識に接触した。
「つかみました! これがコーザですね?」
「そうだ。二人の意識を常に念頭に置いておけ。その際、自分の意識は後まわしでかまわない。この辺りにはわたしの使い魔を放ってあるから、もしもお前の身に危険がせまったらすぐ報せてやる」
「わかりました。このまま待機します」
「審問を見届けたいなんて欲張るなよ?」
ロキは黙って頷いた。そのこめかみを一筋の汗が流れているのをファントムは見逃さなかった。現場までせいぜい十分弱。ロボスが大人しく命令にしたがうとは思えない。タイムリミットまで残りわずかといったところだろう。
ファントムは大剣の柄に手をかけて、おもむろに立ち上がった。
闇は濃く、ねっとりとその身にしがみつくのではないかと思えるほど重かった。