第6章
牧歌的な雰囲気のサン=ミエール。そこで悲劇的なことが起きるだなんて誰が想像しただろう。
午后の陽射しが湖水に煌めき、目にも鮮やかな光の結晶が、これでもかと言わんばかりに散乱している。
湖に浮かぶ小舟には、ブロンドの髪を風になびかせた美しい少年と、白いワンピースを身にまとうまだあどけない少女が乗っていた。
楽しげに舟を漕ぐネロの横顔。透きとおった水面を割る櫂の動きにひたすら見入っている。泳ぐ魚を見つけてははしゃぎ回るその姿は、無邪気そのものだった。
「今の見た? さっき見かけたのと同じ魚だよ! ぼくらについてきたんだ!」
マリアンヌは、そんなことあるのかしら、と思いながらも、「ええ、そうね」と調子を合わせた。まったく、男の子というのは、いつまで経っても子供のままなんだから……。
わたしたちがみんなと連れだって湖へと繰り出したのは、食堂で昼食をいただいた後のこと。ビュッフェのメニューはどれも想像以上に美味しくて、あれもこれもとつい欲張りすぎてしまうほどだった。
岸辺には葦が密生し、睡蓮や浮き草が音もなく漂っている。浅瀬に近づくにつれて、水底に沈む白亜の円柱や整然と敷き詰められた石畳などが目につくようになってきた。
「きれい……」
「サン=ミエールは活火山なんだ。でも安心して、火山とは言っても、最近噴火したのは八百年も前のことだから。今きみが見ているのは、そのときに吹き飛ばされた街の遺跡だよ」
すでにネロは櫂を漕ぐ手を休めていたけれど、舟はそのままゆっくりと流されて、生い茂る睡蓮のあいだに割って入っていった。
ばらばらに砕けた石像のまわりを、小魚の群れが涼しげに泳いでいる。
「噴火する前まで、ここには湖なんて存在しなかったんだ。だから、このカルデラの底には美しい街が広がっているってわけさ」
「それじゃあ、今わたしたちが暮らしているのは……」
「旧市街の残骸の上ってことになるね」
なるほど、だから……と、わたしは思った。
カルデラには手つかずの雑木林が広がり、そのあいだを縫うように散策路が張り巡らされている。野外劇場や四阿といった憩いの場こそ設けられているものの、居住施設が見当たらないのは、万が一の噴火に備えてのことだったのだ。
二人を乗せた舟が階段状の船着き場に到着すると、制服姿の若い係員が駆け寄ってきて、ネロが投げた舫い綱を受け取り、岸辺へと引き寄せてくれた。
「どうぞ、お嬢さん」
わたしは係員が差し伸べてくれた手を借りて舟から降りた。
「ありがとう」
湖の畔は多くの人手で賑わっており、白いパラソルの下で談笑する学生や、デッキチェアに横たわって読書する若者の姿もあった。
「マリアンヌ!」
振り返ると、屋台の前にできた人だかりの中から、エミリアがこちらに向かって手を振っていた。片方の手には、食べかけのジェラートを持っている。
「遅かったじゃない。わたしたち、先に頼んじゃったわよ」
「みんな切り上げるのが早いよ。ぼくはもっと遊んでいたかったのにさ」
後から追いついたネロが口をとがらせて言った。
「いいから早く行きましょう。もうすぐ開演の時間よ」
「ちょっと待ってて!」
そう言い残すと、ネロは屋台に向かって駆けだした。
「彼ったらほんとマイペースよね」
エミリアはネロの背中を見つめながら言った。
「でも、そこが良いところでもあるんだけどね」
彼女はそう言って、にこやかな笑みを浮かべた。
「ええ、そうね」
たしかに彼女の言うとおりだった。底抜けに明るくて、誰も彼も自分のペースに引き込んでしまうあたりは、はじめのうちこそとまどいはしたものの、どこか憎めない印象を見る者に与えるのだった。
屋台から戻ってきたネロは、両手にジェラートを持っており、片方を自分の口に運びつつ、もう一方をわたしの前に差し出した。
「あの店のバニラは一味違うよ」
「あなたがバニラ以外のアイスを食べているところなんか見たことがないわ。たまには他の味も試してみたらどうなの?」
「いつかは試すさ。またの機会にね!」
ネロはくるりと身を翻すと、わたしたちの先頭に立って歩き出した。
「さあ、置いてくよ!」
それを聞いたエミリアは、溜め息をついてつぶやいた。
「まったく、どこまでも身勝手なんだから」
わたしたちは小走りでネロの後ろ姿を追いかけた。
緩やかな曲線を描く散策路とは対照的に、凜と直立する杉林が周囲を取り巻いている。ふと視線を下に落とせば、一面の花畑。桜草の群生が可憐な花を咲き誇り、その上を、ひとひらの蝶が楽しげにはばたいていた。
コンサート会場には湾曲した天井が設けられていたけれど、客席の方は野ざらしのままで、すでにたくさんの聴衆でひしめき合っていた。
「ほら見てよ。あなたが買い食いなんかしてるからよ」
エミリアはネロに対してぼやいたつもりだったが、当のネロはというと、そんな声もどこ吹く風で、終始楽しげに辺りを見まわしていた。
「わあ、すごいお客さんの数だね! ぼくたち、どこに座ろうか」
「わたしの話を聞け!」
エミリアは頭を抱えたまま言った。
「エミリア!」
一緒に来ていた同級生たちが空いている席を見つけて手招きしている。ずいぶん後方のテーブル席だった。
「仕方ないわね。ネロ、行くわよ」
「これじゃあ演者の姿が小さくしか見えないわね」
「まあいいじゃないか。ここなら食事しながらだって演奏を聴けるし」
「あなたって本当に気楽な人ね」
それを聞いて、ネロは無邪気に笑った。
「きみはとってもチャーミングだよ」
ときどきネロという人がわからなくなる。それってわたしだけなのかしら? 二人のやりとりを見守っていた他の寮生たちは、みんなくすくすと笑っている。これが彼らにとっての日常なのだ。
やがて会場を包む喧噪が波のように引いていき、舞台上に燕尾服姿の少年があらわれた。
いくつだろう。
七つか八つくらいだろうか。
思いもよらない可愛らしい奏者の登場に、聴衆のあいだから黄色い声援が飛んだ。
少年は、それにこたえてちょこんとお辞儀を返すと、垂れ下がった髪を耳にかけ、おもむろにトランペットを構えた。
開演を告げるファンファーレが鳴り響き、聴衆の胸はいやが上にも高鳴った。演奏時間は短かったものの、とても子供とは思えない素晴らしい出来映えに、会場から万雷の拍手が送られた。
「すごいと思わない? あの年であんなに上手く吹けるだなんて!」
エミリアが感嘆の声を上げるその横で、ネロは給仕の女性に、「メニュー表を見せて」と呼びかけていた。
「あなたまだ食べるつもりなの?」
「きみたちも頼みなよ。見てよこれ、美味しそうなガレットがあるよ」
「呆れた!」
つづいて、派手な衣装に身を包んだ鼓笛隊が太鼓を打ち鳴らしながら登場し、軽快なマーチを奏ではじめた。奏者の知り合いなのか、聴衆のあいだから「いいぞ、ボビー!」というかけ声が上がり、客席から指笛が吹き鳴らされた。
「クリス、緊張しているかしら」
「彼なら大丈夫。うまくやれるよ」
ネロは運ばれてきたガレットを頬張りながらこたえた。
「日頃から、音楽は楽しむものだって公言しているくらいだからね。今頃うきうきしてるんじゃないかな」
「あなたは浮かれすぎよ、ネロ」
「ぼく、すごく楽しいよ。ね、マリアンヌ?」
突然自分に話を振られて、わたしはどぎまぎしてしまった。その顔を見たネロは、太陽のように破顔して、
「ほら、マリアンヌだってそう言ってるよ!」
わたしがエミリアの方を振り向くと、彼女は額に手をあてがってうなだれていた。
ネロはそんなことは意に介さないとでも言うようにケロッとしている。
「プログラムは持ってきた?」
エミリアは、わたしが描いた絵が表紙に使われているプログラムを取り出すと、演目の順番を確認した。
「彼の出番はまだ先よ。ネロったらちゃんと読まなかったの?」
「なにかと忙しくってさ」
「よく言うわよ。わたしたちに付きっきりだったくせに」
「それで忙しかったんだよ」
「忙しかったのはイラストを描いてたマリアンヌだけでしょ!」
「サラダももらおうかな」
エミリアが話しているあいだに、ネロはすっかり料理を平らげていた。わたしは、目を丸くしてエミリアと顔を合わせた。彼女もまた、わたしと同じ表情をしていて、わたしたちは声を合わせて笑った。
舞台上ではコンサートスタッフが慌ただしく入り乱れて、たくさんの椅子や譜面台を並べていた。舞台袖から楽器を持った演者が入場してくると、これまでの陽気な雰囲気が一転し、厳粛な空気が漂いだした。
やがて、白髪を撫でつけた初老の紳士が譜面と指揮棒を手に登場し、指揮台の前で一礼した。それまでひそひそと会話を交わしていた聴衆が口をつぐむと、静寂が会場を支配する。
指揮者がおもむろに両手を上げる。楽器を構えた奏者のあいだに緊張が走り、指揮棒に向かってまっすぐ視線をそそいでいた。
〝ヴィオラ協奏曲ト長調〟
春の木漏れ日を思わせる穏やかな旋律が会場に響き渡った。ドイツ人作曲家テレマンがものしたバロック音楽の極地である。美しいヴィオラの音色が、聞く者の心にさわやかな薫風を吹き込んだ。
曲が終盤にさしかかり、クライマックスを迎えようとしていたまさにそのとき、ふとわたしは、客席のあいだを歩き回っている少年たちがいることに気づいた。それも一人や二人ではない。キョロキョロと辺りを見まわして、どこか落ち着かない感じでうろついている。
多くの聴衆が陶然としているというのになにをしているのだろう?
「どうしたの?」
エミリアがわたしの肩に手を置いてたずねた。
「ううん。なんでもないの」
そうこうしているうちに演奏が終わり、その後も続々と曲目が消化されていった。
少年たちは相変わらずそこら中をうろうろしており、ようやく座ったと思ったらまた立ち上がる、といった動作をくり返していた。
わたしは彼らのことが気になって、せっかくの演奏がさっぱり耳に入ってこなかった。
純白のドレスを着た少女による詠唱が終わったところで、いよいよクリスティアーノの出番がまわってきた。
「わたし、なんだか緊張してきちゃった」
エミリアがそわそわしながらつぶやいた。
それとは対照的に、ネロはすっかりくつろいだようすで食後のコーヒーをすすっている。
「きみが心配してくれているって知ったら、彼喜ぶだろうね」
「あなたもちょっとは気にかけてあげたら?」
ネロはくすっと笑って、
「心配で胸が張り裂けそうだよ」
「おなかが張り裂けそうだ、の間違いじゃない?」
ネロはそれにはこたえることなく、メニュー表に目を落としたまま、神妙な面持ちでつぶやいた。
「チョコレートパフェがあるなんて……」
「わたしの話を聞きなさい!」
二人がそんなやりとりを交わしていると、会場から拍手が起こり、クリスティアーノが手を振りながら舞台上に現れた。彼が率いている楽団は、これまでの楽団とは違い、全員がラフな格好をしていた。
「クリスー!」
エミリアが口元に手を添えて大声で声援を送った。
結局クリスティアーノは振り返ることなく指揮台に登壇し、それまで騒然としていた会場がしんと静まりかえった。
弦楽器によるゆったりとしたアダージョが流れ、まるで穏やかな海を漂っているかのような優しい雰囲気に包まれる。
楽団は、ヴァイオリンに代表される弦五部にはじまって、ピッコロ、フルート、オーボエ、クラリネットなどの木管楽器、ファゴットホルン、トランペットといった金管楽器、真鍮製のティンパニで編成されている。
〝静かな海と楽しい航海〟
ドイツロマン派の巨匠フェリックス・メンデルスゾーンが、〝海の静けさ〟と〝楽しい航海〟というゲーテの詩作に感銘を受け、これを音楽的に表現したもので、そのタイトルからもわかるとおり、前半と後半とでは曲調が大きく異なっている。
静けさをテーマにしたオープニングから一転、はげしく沸き起こるような楽しげなパートへと変遷していく様は、さながら胸躍る大航海を繰り広げているかのような印象を聴く者に与えるのだった。
唐突にティンパニのリズミカルな音色が割って入り、いよいよ終結部へとさしかかったかと思うと、いっせいにトランペットが吹き鳴らされた。勇壮な帆船が無事に帰港したことを祝福する盛大なファンファーレだ。
物語がフィナーレを迎えると、クリスティアーノは振り上げた指揮棒をおさめ、客席に向かって深々と頭を下げた。ふたたび顔を上げたとき、会場は万雷の拍手に包まれた。
彼は、満足そうな笑顔を浮かべて大声援にこたえた。聴衆だけにとどまらず、楽団のメンバーもまた、手放しでクリスティアーノに最大限の賛辞を送っている。
クリスティアーノは奏者たちを手招きすると、全員前に出てくるようにうながして、舞台上で一列に整列させた。彼らは互いに手と手を取り合い、いっせいに腕を振り上げた。
興奮が最高潮に達したまさにそのときだった。
会場のいたるところから、かんしゃく玉が破裂するような乾いた音が鳴り響き、歓声が一転、甲高い悲鳴に取って代わった。
辺りを見まわすと、客席の数カ所からはげしい火花が立ち上っており、火元から鋭い風切り音を立てて例の光球が四方八方に飛び散っていた。慌ただしく逃げ惑う人波があっという間に押し寄せてきて、わたしたちは阿鼻叫喚の渦に呑み込まれてしまった。
「クリス!」
エミリアが勢い込んで席を立った。
わたしは、舞台に向かって駆け出そうとする彼女の腕をとっさにつかんで、懸命に引き留めた。
「だめ! 危険よ!」
「いや! 離して!」
エミリアはわたしの手を振りほどこうともの凄い力で暴れたけれど、ふたたび轟いた爆発音に首をすくめて、力なく崩れ落ちた。
「あの中にクリスが……」
「彼ならきっと大丈夫。騒ぎが起こったのは客席の方さ」
ネロは騒然とする会場を睨みつけながら力強く言った。
すでに火柱は消えかけており、もくもくと立ち上る白煙が辺りに充満しはじめていた。火元の周辺には数人の人影が見えたけれど、その中に会場をうろついていた少年の姿が混ざっていることに気がついて、わたしは一抹の不安を覚えた。
あれって、このあいだクリスと言い争っていた子だわ……。
「きみたちはここにいて」
ネロは一言だけ言い残すと、足早にわたしたちの元を去った。
「どこにいくの?」
ネロが向かった先を見て、わたしはハッと息を呑んだ。
人波が引いた通路の一角に、少女が一人うつぶせに倒れ込んでいる。
それだけではない。逃げ遅れた男性が、足を引きずりながら歩いていたし、横たわる女性を抱き起こして、しきりに名前を呼びかけている人の姿もあった。
会場のあちこちで、助けを求める声が飛び交っている。
「マリアンヌ……」
腕の中で、エミリアが弱々しくつぶやいた。
「ごめんなさい……。もう大丈夫……」
よろめきながらも懸命に立ち上がろうとするエミリアを、わたしはかたわらからそっと支えた。
混乱がある程度落ち着いてくると、いったんは逃げ出した人々が徐々に会場へと引き返してきた。呆然と立ち尽くす者がいる一方で、救助のために駆けつけてくる者の姿もあった。
「ネロ……!」
エミリアが悲壮な声を上げて、わたしの肩をきつく握りしめた。
振り返ると、少女の腕を肩にまわして、こちらへ向かってゆっくりと歩を進めるネロの姿があった。彼女はネロの腕の中で深くうなだれており、口元を手で押さえたままはげしく咳き込んでいる。
わたしたちが駆けつけると、ネロはベンチの上に放置された荷物をどけるよう指示を出し、彼女の体を横たえた。
「怪我人がいるの! 誰か助けて!」
エミリアの呼びかけに応じて、複数の男性が駆けつけてくる。
少女はベンチの上で身をよじると、横向きの体勢になって、苦しげに喘いだ。
「もう大丈夫。ゆっくり息をして」
わたしはしゃがみこんで、彼女の背中をさすってあげた。転倒したときについたのだろう、手のひらには生々しい擦り傷があり、白磁の肌に血が滲んで見えた。
「ひどいことをする……。こんなことをして、いったいなにが楽しいんだ……!」
ネロは遠くを見つめながらつぶやいた。
仰向けになった少女が、うっすらと瞼を開けてわたしを見つめた。
「ありがとう……」
わたしは首を横に振って、彼女の顔から乱れた髪を払いのけた。
彼女の瞳は美しい緑色で、ほっそりした頤に小さなほくろがふたつ仲良く並んでいた。わたしはその面立ちにどことなく見覚えがあるような気がして、じっと彼女を見つめつづけた。
「あなた、どこかで……」
そこに救助のために男性たちが到着し、わたしを押しのけて、両脇から彼女の体を抱え上げた。
「待って! わたし、あなたを知っているわ!」
彼らを引き留めようとするわたしの肩に手を置いて、エミリアが言った。
「後は彼らに任せましょう」
「ちがう。ちがうの。わたし、なにか思い出せそうで……」
彼らの後について歩きながら、わたしはなんとか記憶を手繰り寄せようと懸命に記憶を探った。
そう。彼女とわたしは顔見知りだ。
それもずっと昔から知っている。
お揃いの制服、
日曜学校で歌った賛美歌、
一緒に手作りをしたチョコレートブラウニー、
彼女の幼い弟ジェイクと、
彼がお別れのときに見せたくしゃくしゃの泣き顔も……。
「サラ……」
あふれかえる人波の中で、彼女がこちらを振り向いた。
「サラ・ディキンソン!」
色を無くした唇をわずかに開けて、彼女もまたわたしの名前をつぶやいた。
「マリアンヌ……?」
「サラ! あなたなのね?」
だがしかし、彼女のうつろな瞳は、重たい瞼に閉ざされて、そのまま意識を失ってしまったようだった。
「さあ、どいてくれ! 見世物じゃないぞ!」
群衆を掻き分ける男たちが声を張り上げた。一度は道を譲った人垣も、非力なわたしを通してはくれなかった。
運ばれていく。わたしのたったひとつの思い出が……。
「サラ!」
「マリアンヌ!」
肩を揺さぶられて振り返ると、わたしの目から涙がこぼれ落ちた。
「いったいどうしたっていうの?」
取り乱したわたしのようすに気がついて、エミリアは優しくわたしの頭を抱いてくれた。
「彼女のこと、知っているのね? 記憶が戻ったの?」
「そんなはずない! そんなはずないわ!」
わたしは両手で顔を覆って泣き出した。
エミリアの手がわたしの髪をそっと撫でつける。
「彼女……死んでしまったの……」
エミリアは怪訝な表情を浮かべて、優しくわたしをなだめすかした。
「彼女は無事よ。あなたも見たでしょう? 今から医務室に運ばれて、ちゃんとした治療を受けさせてもらえるはずよ」
心配そうな表情のエミリアだったけれど、彼女とは対照的に、厳しい顔つきでわたしを見守っているネロの姿があった。わたしには彼がどのような想いに駆られていたのかわからないけれど、ただ一つ言えるのは、その相貌がゾッとするほど美しかったということだけだ。
わたしは大きく頭を振って、強く強く言い放った。
「彼女は死んだの! 死んだはずよ!」
たしかにわたしは彼女の死に立ち会っている。
喪服に身を包んだ学友の葬列と、わたしの肩に置かれた大きな手。
泣きじゃくる友人たちを尻目に、不思議とわたしの目からは涙が流れてこなかった。
棺に土が盛られていくようすを見守っていたジェイクが言ったあの一言……。
絶対に忘れないと思っていたはずのあの一言が、忘却の彼方からよみがえる。
「お姉ちゃん、いないいないの?」
わたしは堰を切ったかのようになにもかもを思い出した。
幼い頃に亡くした母の面影。
誰よりも深い愛情をもって接してくれた父のこと。
死に向かってひたすら衰弱していくサラ・ディキンソン。
彼女を死に追いやった、あの忌まわしい〝天使病〟のことさえも……。