第5章
牛鬼の村に天使がいるという情報を聞きつけたファントムは、身分を隠して村に潜入するのだが……
濃密な霧が立ちこめる中、一艘のガレー船が、遙かなる大河を上流へと向かって突き進んでいた。
両舷から突き出した数十にもおよぶ櫓と、それを漕ぐ亡者たち。声を上げる者とてもなく、ただひたすらに、呼吸を合わせて水を切る。口を開こうものなら、容赦ない打擲が待ち受けているのだということをすっかり理解しているのだ。
白痴の割にはよくできている……。
コーザは誰にともなく独りごちた。
天下に名だたるコボルト族が、亡者などという浅ましい存在を褒め称えるのはきわめてまれなことであり、ともすると、とち狂ったのではないかとさえ言われかねない珍事だった。
舟の舳先に座っていると、グロヴワナ地方には決して吹かないと言われている風を肌で感じることができた。川の水は深く澱んでおり、上流から流されてくる亡者どもの亡骸がそこここに浮かんでいる。
生き恥を晒した咎人どもの、これが哀れな末路であった。
「コーザ様」
名前を呼ばれて振り返ると、いつの間にか背後にフェリスが立っていた。
「じきにヴェーダの村に着くそうです」
「ああ、わかっている」
コーザはぶっきらぼうにそうつぶやくと、霧の彼方に目を凝らしながら言い添えた。
「それよりフェリス、言葉遣いには気をつけろと言ったろう。ここではわたしはただの
コーザだ」
フェリスは頭の上にそば立っている耳をすくめて、「すみません」と謝った。
コボルト族の外見は狼によく似ている。面立ちこそ人間に近いものがあったが、前に突き出した鼻梁には狼の面影がある。手足には長い指が五本、すらりと伸びていて、道具を扱うのになんら差し支えはない。
しばらくすると、霧の中にぼんやりと淡い光点が滲んでいるのが見えてきた。
「舟を左に寄せろ!」
親方が声を張り上げると、ガレー船はゆっくりと進路を変えた。
岸辺から伸びる木造の桟橋に、ゴテゴテに飾り立てられたガス灯が設けられており、淡い明かりを投げかけている。護岸には粗末な造りの建屋があって、舟の接近に気がついた牛頭人身の異形の姿がぞろぞろと肩を並べて待ち受けていた。
「ずいぶん遅かったじゃないか」
桟橋に着くなり、牛鬼の頭領であるロボスが言った。
「そんなことはないさ。時計をよく見てみろ、約束通り到着したはずだ。むしろ早すぎるくらいじゃないか?」
ロボスはかたわらに立っている一際大柄な牛鬼に何事か囁いたが、話の内容までは聞き取ることはできなかった。
「まあ、いいさ。とりあえず荷物の確認をさせてくれ」
「疑り深い野郎だな。今までに俺たちが約束を違えたことがあったかよ」
親方はぶっきらぼうに言い放ったが、語調には怒気ははらんでおらず、どこか面白がっているような響きすらあった。
身の丈二メートルは下らない牛鬼の前では、コボルト族はまるで子供のようなものだったが、親方は一切怯む素振りを見せず、あくまでも対等な関係を保ち続けていた。
船着き場の周辺には操車場があるだけで、他にこれといった建物はなく、曲がりくねった古木が寂しげな森を形成しているだけだった。銀色の毛皮に覆われた美しい狐が二匹、叢の陰から陰へと飛び跳ねながら戯れている。
亡者たちが牛鬼の指示に従って積み荷を運びはじめた。積み荷の大半はコボルトの村で収穫された農作物だったが、中には近隣の町で造られた工芸品も含まれていた。
「よう、コーザ」
亡者が作業をする姿を監督していると、一人の牛鬼が話しかけてきた。
コーザは素早く思考をめぐらして、この人物がエテベと呼ばれる若者だということを思い出した。
まったく牛鬼というやつは、どいつもこいつも似たような顔をしていやがる……。
「こないだは悪かったな」
「なんの話だ」
「なに、忘れたっていうのか?」
エテベはコーザの肩を激しく叩きながら豪快に笑った。
「相当酔っ払ってたんだなあ! 俺の酒をこぼして、あんたをぶっ飛ばしたろう?」
「ああ、そのことか……」
ファントムはコーザの記憶を探ったが、本当に酔っ払っていたらしく、なにも覚えてはいなかった。
「忘れちまったよ。それに、酒をこぼした俺が悪い」
「あんたってやつはどこまでもお人好しな野郎だな!」
今日は一杯おごらせてくれや、と言い残して、エテベは亡者の列を誘導するため、その場を後にした。
ヴェーダで一般的に用いられているのは牛車である。ただの牛ではない。都会で使われているような一角獣とくらべてよりいっそう馬力のあるボーンヘッドと呼ばれる種類の牛で、頭部から鋭角に突き出した角が特徴的だった。
まるで冗談みたいだ。牛が牛を使っているだなんて……。
「おい、コーザ! 早くしねえか!」
「わかってるよ、親方!」
今行くところじゃねえか、とコーザは独りごちた。
務めを終えた亡者どもは、万が一にも逃げ出さないように整列させ、操車場の脇にある柵に鎖で繋ぎとめておく。青白い死人の肌には正直なところ触れたくもなかったが、こいつらの世話係というのがお役目なのだから致し方ない。
作業を終えたときには親方たちは牛車の荷台に乗り込んでおり、コーザは一番しんがりの席に座る羽目になった。
ヴェーダまでの道のりは大して長くはなかったが、ときおり森の奥から響き渡る凶鳥の声が不気味な雰囲気をよりいっそう色濃くしていた。
土の道はでこぼこだらけで、車輪が道端に転がっている石を踏むたびに、大きく体が跳ね上げられる。その衝撃で尻尾が付け根部分から根こそぎ取れてしまうのではないかと危惧するほど、尻まわりが激しく痛んだ。
やがて牛車は町の入口に設けられた粗末なアーチをくぐり抜け、ヴェーダの市街地に入った。
それにしても、なんとうらぶれた町だろう。
切り妻屋根の民家が雑然と立ち並び、その窓から漏れる明かりと、軒先に吊された角灯だけがかろうじて華を添えている。あとはただひたすら一面の昆明に閉ざされているばかりだった。
〝白鹿亭〟と記された看板が宿の目印だった。
宿の一階は酒場になっており、娯楽施設のないヴェーダでは唯一の盛り場ということもあって、たくさんの牛鬼でごった返している。
コーザたちは二階の部屋に通された。
親方は一人部屋に泊まり、コーザとフェリスは二人部屋をあてがわれた。
口やかましい親方と離れられるのは好都合だ。これでようやく肩の荷が下りるというものではないか。
「コーザ」
扉を閉めるなり、フェリスが声を潜めて囁いた。
「これからどうされるつもりですか?」
「まずは酒場に行くことだ。こういった手合いは、酒と女と愚痴ぐらいしか気晴らしがないものだからな」
「ぼくは酒が苦手なんです……」
フェリスが不満げにこぼした。
「よく考えろ、ロキ。今のお前はコボルト族のフェリスなんだぞ。コーザの記憶によれば、お前は酒好きの女ったらしだ」
「過度の飲酒は教義に反するのでは?」
「時と場合によりけりだ。己に課せられた任務を忘れるな」
審問局で受け取った報告書には、ここヴェーダの白鹿亭において夜通し酒宴が開かれた際、一部の牛鬼が人身供養を疑わせるような文言を口走ったと記されていた。情報提供者は、長年この町と交易をつづけてきたコボルト族の若者ふたり。それがコーザとフェリだった。
我々はまず、秘密裏に彼らとの接触を果たし、報告に虚偽がないかどうかたしかめるため、二人の記憶を暴いた。
森で行われた魔獣狩りの成果やアレクサンドリアでつづく慢性的な不作の話を中心に、親方が優勝したナイフ投げ大会、酒樽を使った怪力自慢など、取るに足らない記憶がつづき、皆のあいだにちょうどよく酔いがまわりはじめた頃のこと、ついにそのときがやってきた。
「俺はなあ、コーザ……」
話し手は例のエテベという青年で、牛鬼特有の荒い鼻息からは強いアルコールの香りがした。
「行ってみたいところがあるんだ」
コーザは牙の先端で器用にピスタチオの殻を割り、そいつを床にベッと吐き出すと、呂律の回らない声でこう言った。
「どうせまたアナトゥスの女郎屋だって言うんだろ?」
エテベは笑いながら「馬鹿野郎!」と吐き捨てて、「もっとこう、高貴な場所さ……」
「お前の口から高貴だなんて言葉が飛び出すとは恐れ入ったぜ」
コーザはかたわらでべろべろに酔っ払っているフェリスと顔を見合わせて笑った。
「俺はいつかなあ、サン=エルトロのてっぺんに……」
「サン=エルトロだって? お前、気は確かかよ」
この世に聳え立つ山々の内、特に標高が高い山には〝サン〟という名称がつけられている。それらの山の頂は、この世をくまなく覆う雲海の上にまで突き出していて、その山頂部は天上の光に満ちあふれているという。
「まさかお前、俺たちが天上の光を浴びたらどうなっちまうか知らないっていうんじゃないだろうな?」
「俺だってそんなことぐらいわかってるさ。よく爺さんが口を酸っぱくして言ったもんだぜ」
エテベは少しく遠い目をしながらつぶやいた。
俺たち魔の物が天上の光を浴びるってことは、すなわち死を意味している。神様って奴が俺たち下賤の輩を天上の世界へと復帰させないようにするために、わざわざそんな仕組みをこしらえたってわけだ。笑わせてくれるじゃないか、ええ? 神様よ……。
「でもなあ、コーザ」
エテベは声を潜めて語を継いだ。
「この世には、なんでも夢を叶えっちまう魔法の業が存在するんだ。俺たちは今、至高の業を使う絶好のチャンスを握ってるんだぜ」
「チャンスって?」
「俺たちの村に女神が微笑んだのさ」
「エテベ!」
気がつくと、店の奥で談笑していたはずのロボスが、まさに鬼の形相でこちらを睨みつけていた。
「口が過ぎるぞ! 客に向かって夢物語を聞かせるのもほどほどにしろ!」
エテベはたちまちのうちに表情を失って、それっきり口をつぐんでしまった。その後もしばらくは宴会がつづいたものの、コーザたちのテーブルは終始しけた雰囲気に包まれていた。店を出しなに、彼は渋るようにこうつぶやいた。
「悪いな、さっきの話は聞かなかったことにしてくれや……」
問題は、彼らがどこに天使を隠しているかだ。
人身御供には様々な様式が存在する。
捕まえたそばから命を絶ってしまうものから、その身柄を監禁し、天使を生かしつづけることによって半永久的に神聖な生き血を絞り出すという気の遠くなるようなものまで、多種多様だ。
今回のケースが後者のものであってくれれば、まだ天使を救うチャンスが残されているだろう。エテベの口ぶりや町民の態度を見ても、まだ彼らは不死を確信するには至っていないように見える。
救出の可能性はじゅうぶんにありそうだ。
事は慎重に進めなければならない。エテベがどれだけ深く天使に関わっているか不明なだけに、彼から情報を引き出そうとするのはまだ得策とは言えない。少しでも疑われるような言動を取ろうものなら命取りになりかねない。
ここは多少危険を冒してでも、確実に情報を握っているであろう重要人物に直接接触を図るべきだ。
「ロボスから話を聞き出すんですか?」
「いや。奴を外に連れ出して、同調を試みる」
「それじゃあ、コーザはどうするんです? ここで意識を解放するんですか?」
「コーザの意識はお前に引き渡す」
「そんな! ぼくにはまだ複数の意識を同時に遠隔操作することなんて……」
他者の意識を操作するには、特別な修練と尋常ならざる集中力が必要である。そのため、
通常であれば、一人の能力者が操作できるのは同時に一体までに制限した方が良いと考えられていた。
「完全に意識を操作する必要はない。ただ他の者に密告などしないよう拘束しておくことさえできればいいんだ」
「そんな無茶な……」
「弱音を吐くな。誰かがやらなければならないんだ。わたしはロボスの意識を完全な支配下に置かなければならないのだから、頼みの綱はお前しかいないだろう」
そう言いつけると、コーザは部屋の扉を開けて廊下に出た。
「でも、どうやって外に連れ出すんです?」
後を追いかけてきたフェリスが小声で囁く。
「催眠をかけるんですか?」
「それは危険だ。相手はまがいなりにも魔族の族長級だからな。目論見を見破られる可能性は少なくない」
「じゃあ、どうやって……」
そこまで話したところで二人は会話を中断した。
ちょうど給仕の女が階段を上ってくるところだった。
牛鬼の男は牛さながらの醜い相貌をしているが、女の方はというと、頭部から様々なかたちの角が突き出していることをのぞけば、人間の女とさほど変わらなかった。
フェリスはすれ違った給仕を目で追いかけて、尻尾の生えたヒップに見とれているようだった。苦手なのは酒だけで、女好きの方は装う振りなどしなくてもよさそうだ。
老ロボスが座っているのは店の奥にあるテーブル席で、他の牛鬼たちに混じって親方の姿も確認できた。テーブルにはすでに大量の料理が並べられている。牛のなりをしているくせに食性は雑食らしく、丸々と肥え太った鶏肉のローストや大振りな鎧魚などをさも美味そうに頬張っている。
「コーザ!」
名前を呼ばれて振り返ると、エテベが木製のジョッキを片手に、二人を手招きしていた。
かたわらに美しい女性を従えている。
記憶によれば、彼女の名前はニコ。
エテベの情婦である。
「遅かったじゃねえか! 待ちくたびれたぜ」
「悪かったな。こいつが」と、フェリスを指さして、「腹が痛いだなんて言い出すもんだからよ」
「腹痛だあ? 川の水でも飲んだんだろう」
エテベはニコの肩を抱き寄せて高らかに笑った。
「ねえ、大丈夫?」
ニコが蠱惑的な眼差しでフェリスを見つめた。
「きみの顔を見たら腹痛なんて吹っ飛んだよ」
「おいおい、こいつを口説くのはやめておけよ。その細っこい首をちょん切っちまうぞ」
「やだなあ、今のは女性に対するマナーですよ」
本当にこいつはロキなのか? 敬虔な異端審問官とは思えないような言動に、コーザは思わず耳を疑った。
コーザは、ときおり相づちを打つなどして彼らのやりとりに耳を傾ける素振りを見せながらも、周囲で交わされている会話に聞き入っていた。誰かがあのときのように口を滑らせないともかぎらない。
そんなコーザをよそに、あれだけ不安がっていたフェリスはエテベとの猥談に華を咲かせていた。ファントムは、コーザとの同調を保ったままおもむろに目を開けると、かたわらで座り込んでいるロキを一瞥した。
まだまだ意識同調に馴れていないらしく、フェリスの口を借りて話している内容をロキもまたぶつぶつと小声でつぶやいている。
ファントムたちが潜伏しているのは、ヴェーダにほど近い森の中である。天使の居場所がわかり次第、いつでも村に乗り込めるよう態勢を整えておかなければならない。この調子では、今回もまた、審問官として実働するのは自分だけになりそうだ、とファントムは思った。
その方がちょうどいい。どうせこれから先も天使の捜索は単独でやるつもりだったのだから。今頃になって二等審問官の子守まで任されるはめになろうとは、とんだ計算外だった。
ファントムは、視界の端に拡がって見える白鹿亭の内部の様子に注意を戻した。
当初の想定どおり、エテベの口からはこれ以上天使の情報は聞き出せそうにない。
他のテーブルから聞こえてくるのは、川で化け物じみた魚を釣っただの、カミさんが太ってきただの、子供たちが亡者たちを解放してしまい、家族総出で捜索しなければならなかっただのといった下らない話ばかりだった。
いや、待てよ……。それは使えるんじゃないか? 要はロボスを一人にさせればいいのだから、なにもここから連れ出す必要はない。他の牛鬼どもを追い払ってしまえばいいだけではないか。
「ロキ」
ファントムは自分の口で語りかけた。
そのとき白鹿亭では、フェリスが驚いて会話を中断し、コーザの方を振り返った。ちょうど椅子から立ち上がって大げさにはしゃいでいるところだったから、とたんに座が静まりかえってしまった。
「そっちじゃない。会話をつづけたままわたしの話を聞け」
フェリスは慌ててその場を取り繕った。エテベとニコが眉間にしわを寄せてぽかんとしている。
「すまねえな。また急に腹が痛みはじめちまってさ……」
「本当に大丈夫か、お前? なんだか顔色が悪いようだが……」
「なに、いつものことさ」
ファントムがコーザの口で言った。
「こいつの気まぐれは今にはじまったことじゃねえよ。だろ?」
「ははっ」
フェリスは困り切った様子で席に着いた。
「で、なんの話だっけ?」
「お前がどうやって弟を吊し上げたか、だ」
そんな話をしてたのか……。コーザは山盛りのパスタをフォークでもてあそびながら鼻を鳴らした。そうしながらも意識を元に戻し、ファントムとしてロキとの対話を試みる。
「ロキ、よく聞け」
「はい!」
フェリスはふたたび立ち上がると、申し訳なさそうな顔でコーザを見た。
「すみません……」
「お前、一人でなにやってんだ?」
エテベが不審そうな面持ちでつぶやいた。
「腹が痛いと言って自分の部屋に戻るんだ」
「でも、せっかく良い感じに……」
ロキはようやく自らの口で返事をした。
「いいからさっさと部屋に向かえ。それからの指示はわたしが直接語りかける。こちらの問いかけには一切応じるな。もちろん、フェリスとして、ということだ」
「わかりました。やってみます」
ロキは眠たげな声でそれに応じた。
「あ!」
フェリスに戻ったロキが突然大声を上げたものだから、酒場中が一瞬静まりかえった。この若造に任せて果たして大丈夫なのだろうか? ファントムの中で疑問が生じたが、今は迷っている暇はない。
「あ、あ痛たたた……」
腹を押さえてテーブルにもたれかかるフェリスを見て、コーザは頭を抱えた。またやらかしやがって、二等審問官め!
「腹が痛いようなら部屋で休んだらどうだ?」
コーザは、できるだけそっけなく聞こえるように言った。
「すみません……」
フェリスは申し訳なさそうに言い渡すと、いかにも病人らしくとぼとぼと階段を上っていった。コーザは、その後を給仕の女が追いかけそうになるのを引き留めて、
「腹が下ってるだけなんだ。出すもん出したら治るだろう」
「おい、まさか本当に川の水を飲んだのか?」
「昼飯が傷んでたんだろ。跳び鼠の干物がさ」
エテベは自分の皿に目を落として、ゆっくりとフォークを置いた。ヴェーダには鼠を食べる習慣がなく、見るからに食欲を損なったようだった。これでフェリスの挙動を疑われることもないだろう。
「部屋に着きました。これからどうすればいいんです?」
ロキがつぶやいた。
「お前には特別な任務を与える」
「特別な任務!」
ロキは鼻息も荒くファントムの言葉をくり返した。
思った通り単純な奴だ。若さ故の使命感とやらに燃えているらしい。
「窓から外に出られるか?」
「確認します!」
一々答えなくてもいい、とファントムは思ったが、ここは彼のやりたいようにさせることにした。
「大丈夫。飛び降りられそうです」
「そんなことはどうでもいい。周りに人はいるかと聞いてるんだ」
ファントムは少しいらつきながら指示を出した。コボルト族の身体能力を考えれば二階から飛び降りることができるのは当たり前だ。悪気がないのはわかっているが、これではあまりにも実直すぎるではないか。
「いません!」
「よし。お前にはこれから宿を抜け出してもらう。町の外れに厩舎があるから、そこへ行って亡者たちを解放するんだ」
「亡者たちを?」
「騒ぎを起こしてロボスが一人になるきっかけを作る」
「なるほど……。でも、厩舎なんてどこにあるんです?」
「フェリスの記憶を探ってみろ。コーザと共にヴェーダを練り歩いたことがあるだろう」
ロキは少しのあいだ黙り込んだ。他者の記憶への接触は、思い出したいイメージを喚起するだけで済むはずなのだが、こいつはまだまだ馴れていないらしい。
「ありました。でも、ちょっと遠すぎませんか?」
「いいから行くんだ。誰にも見とがめられないようにしろ。もし情報に誤りがあった場合、その後のフェリスの立場が危うくなるからな」
「わかりました。必ず任務を遂行して見せます!」
ロキはそのまま目をつむって黙り込んだ。ほどなくして宿の外から大きな物音が聞こえてきて、犬が激しく吠え立てる声がした。
コーザは頭をくしゃくしゃに掻きむしって、「あの馬鹿者が!」と独りごちた。