第4章
暮れなずむサン=ミエールの上空に
無数の星々が厳かな瞬きを煌めかせはじめた頃、
エディンバラ広場のあちこちで
ガス灯が滲むような明かりを投げかけていた。
世界はこんなにも美しく輝いているというのに、
わたしの心はなにもかもくすんだフィルターを通して眺めてしまう。
それは、美しさを素直に受けとめるだけの経験値が不足しているせいかもしれない。
「その話はだめよ」
エミリアの一言で、わたしの心はふさいでしまう。
「マリアンヌに家族の話はしない約束でしょ?」
なにも悪気があって言っているのではない。
それはわかってる。
わたしが引け目に感じていることに慎重に接してくれるエミリアとは違い、なにごとにも奔放なネロは、ことあるごとにわたしの過去に触れようとする。
それはそれでわたしのためを思ってのことなのだから、それほど敏感に反応する必要はないとは思うのだけれど……。
「いいのよ、エミリア」
わたしは彼らの優しさの間で板挟みになりながら日々を過ごしている、
それだけのことだ。
「残念だけど、やっぱり思い出せないわ」
過去のことも家族のことも、わたしにはなにもわからない。
もちろん記憶を取り戻したいとは思っているけれど、そうするにはどうしたらいいのか正しい答えがわかっていない今、様々なかたちのアプローチがあった方がいいのかもしれない、とわたしは考えていた。
「でも、いつかきっと思い出す」
そう言って屈託なく破顔するネロを見ていると、なんだか気持ちが楽になるような気がした。
「だから焦らずにいこうよ」
エミリアは片手で頭を抱えながら、
「そう思うのなら少しはそっとしておいてあげなさいよ、ほんとばかネロなんだから」
ネロは困ったような顔でわたしを見た。
わたしは思わず噴き出してしまい、声に出して笑った。
この二人といるときだけは、退屈なんてしないのだから不思議だ。
ここに来てからもう三ヶ月が過ぎようとしている。
そのあいだに様々な人たちとの出会いを経験し、まだまだ覚束ないながらも、新しい環境にもずいぶん馴染んだ頃合いだった。
エミリアとは同じ部屋で暮らしている分、他の子たちとくらべて深く打ち解けることができたし、ネロにいたっては、なにが気に入ったのかはわからないけれど、毎日のようにわたしの元を訪ねてくれて、なにかと面倒をみてくれていた。
シスター・ケイトの話によると、森で倒れていたわたしを発見し、サン=ミエールに運び込んでくれたのはなにを隠そうネロだったのだという。
もっとも、彼はそのことを自ら進んで話そうとはしなかったし、わたし自身、どういういきさつでそうなったのか、ネロに問いただそうとは思いもしなかった。
もちろんいつかは聞かなければならないとは思うのだけれど、今はまだ、なんだか怖いような気がして、気軽に触れるべきことではないような気がした。それを知ってしまったら、せっかく手に入れたここでの暮らしを失ってしまうのではないかという一抹の不安を拭いきれないというのが実際のところだった。
わたしなんかのために、みんな本当によくしてくれている。
記憶を失う前のわたしは――本当のわたしは、今の生活を見てなんと言うだろう。
そこにあるのは羨望だろうか、それとも……。
「クリスったら、自分で呼び出しておいて、いつまで待たせる気かしら……」
エミリアは、クリームソーダのグラスの底をストローで突きながら言った。
「あら。約束の時間より早く来たのはわたしたちの方じゃない」
「女の子を待たせるのはマナー違反よ」
そっか、と言ってわたしは笑った。
「コンサートが近づいているから、打ち合わせでもしてるんじゃない?」
「そうかしら。わたしたちのこと、忘れてなければいいんだけどね」
そんなはずはない。クリスにかぎってエミリアのことを忘れるだなんて、そう思ってわたしは微笑ましく思った。エミリアとクリスは惹かれ合っている。それは普段の彼女たちのやりとりを見た者なら誰にでもわかる簡単な話だ。
「それよりマリアンヌ。今日、美術の授業があったでしょ?」
「ええ」
「あなたの絵を見て思ったんだけど、今度のコンサートで、あなたにイラストを描いてもらえないかなって」
わたしは驚きのあまり言葉を失った。
「そんなに大げさに考えないでね。ただ、あなたの気が紛れればって思っただけなの。それに、大きなポスターっていうんじゃなくて、パンフレットの表紙にさっと描いてほしいだけなんだけど、引き受けてもらえないかしら」
「すごく素敵な提案だと思うな」
ネロはパッと顔を輝かせて言った。
「でも、わたしにできるかしら」
「大丈夫よ。いつもはわたしたちが描いてたんだけど、それにくらべたらあなたの絵の方がずっとセンスあるわよ」
「うん……」
わたしは少しのあいだ逡巡したけれど、
「やってみようかな」
と、思い切って言ってみた。
「ほんと? 良かった」
「楽しみだな。ぼく、マリアンヌが描いた絵を見たことないんだ」
「絵を習ってたんじゃないかと思うくらい、とっても素敵なのよ」
わたしは急に面映ゆくなって、
「なにか食べようか」
と、とっさに話題を変えた。
「賛成」
「クレープにしない?」
「わたし、買ってくるわ」
わたしは二人の注文を聞いて、噴水の周りで人だかりをつくっている屋台に向かって歩き出した。
教室でもまだ腫れ物に触るような扱いを受けていたわたしが、こうして学校の行事で仕事を任されるのははじめてのことだった。できるかどうかという不安よりも、なにかの役に立ちたいという思いの方が強く、わたしの胸は少しだけときめいていた。
「そんなことまで頼んだ覚えはないぞ」
注文したクレープを持って席に帰りかけたとき、路地裏から何者かが言い争うような声が聞こえてきてわたしは足をとめた。
どこかで聞き覚えのある声。
わたしは暗い路地のそばまで歩を進めると、顔を出さないように気をつけながら耳をそばだてた。
「きみたちのやり方は度が過ぎている」
クリスティアーノの声だ。
「つまらない文句を言うのはよせよ」
「つまらないとかそういうことじゃないだろ。やり方ってものがあるじゃないか」
ほかにも数人の少年がいるようで、今にも喧嘩に発展するのではないかとわたしは気が気じゃなかった。
「ちょっと失敗したからって怖じ気づいたのか?」
「これ以上派手なパフォーマンスをする必要はないって、ぼくはただそう言ってるだけだろ」
少年たちはひやかすような声を出して笑った。
「いいか。どうしてもやるっていうんなら、ぼくはこの話から下りる。ストリーカーズは解散だ」
少年の一人がクリスの肩を掴んで、今にも殴りかかろうとするかのように詰め寄った。
「自分だけ良い子ぶろうなんて許さないぞ」
クリスティアーノはその手を振り払い、こちらに向かって歩き出した。
わたしはとっさに街路樹の陰に隠れ、クリスティアーノをやりすごすと、遅れて出てきた少年たちの顔を一通り確認した。彼らに見覚えはなかったけれど、もしかするとクリスが指揮を執る楽団の関係者なのかもしれない。
クリスがあんなに激昂するなんてどうしたのだろう。
そう思いつつ、わたしはネロたちが待つ広場へと戻った。
そこには、何事もなかったかのようにクリスティアーノの姿が溶け込んでいて、わたしはいつもと変わらない日常へと引き戻された。
わたしの心にちょっとしたしこりだけを残したまま、今日という一日が過ぎ去ろうとしていた。