第三章
天使を捜すファントムのもとに新たな情報が入る
赤銅色に染まる雲海の下、頭からフードを被り、異形の僧服に身を包んだ全身黒ずくめの人影が、しとどに濡れそぼつアインフォルトの街角を闊歩している。
長い外套の裾からは、幾重ものベルトに覆われた重厚な長靴がのぞき、足下に溜まった雨水を躊躇なく跳ね上げていた。
稠密かつ仰々しい装飾の施された尖塔群が天を衝いてそそり立ち、永遠の黄昏に沈む帝都アインフォルトの中心部にあってなお、この世の全てを見はるかすかのような銀の眼に、その鋭い眼光を覆い隠すかのごとく垂れ下がった銀髪という相貌は、少なからず周囲からの注目を集めていた。
〝ファントム〟
彼を知る者はおしなべてその名を使いはしたが、それもまた数ある通り名のひとつにすぎず、本当の彼の名を覚えている者がどれほど残存しているのかさえ定かではなかった。
街道にあふれ返る黒塗りの辻馬車と、それを牽く巨大な一角獣の群れ。
ファントムは、激しい往来のあいだを塗って石畳の路面を踏みしだき、凄まじい形相のガーゴイル像に囲まれた一棟の建物へと姿を消した。
赤いカーペットが敷き詰められた広壮なロビーは、ファントムと同じ僧服姿の異端審問官であふれている。見上げんばかりに丈高く生い茂った沈香や竜脳が、噎せ返るような香りを辺りに振りまき、聖皇庁という神聖な場所に物々しい威厳と格式を添えていた。
ファントムは、入り口正面に見える大階段を上って、審問局の要の一つでもある第一観測室へと向かった。
ここは、世界中に点在する観測所から寄せられる情報を一括統治する天使観測の拠点であり、誰を、いつ、どこへ派遣するかを決める役どころを担っていた。
磨り硝子の嵌め込まれたドアを押し開ける。
いくつもの装飾電灯に照らし出されたオフィスには、黒衣をまとった伝達官と審問官がひしめきあい、青く輝く円筒がところどころに設置されていた。
円筒の中にはどろっとした液体が満たしてあり、夥しい管に繋がれた全裸の男女が、だらしなく腕を垂らした格好で音もなく浮かんでいた。
〝予言者〟である。
天使がどこに堕天するのか事前に予測することによって、少しでも多くの天使を保護しようという試みだった。
だが、予言自体はきわめて曖昧なものだった。予言者たちがランダムに見たイメージの断片を言葉に起こして伝えているだけで、具体的な場所や日時を指定できるほど正確な予言はいまだに不可能だとされている。
近年まれに見る極大期ということもあって、異端審問の案件は次から次へと降って湧いた。限られた数しかいない審問官の人手は当然足りるはずもなく、畢竟、数々の天使が窮地に追いやられることになった。
それでも聖皇庁がかたくなに審問官の頭数を増やさない背景には、この役職が神聖なものであり、当該者に対する絶対的な信頼性が必要だからである。
すなわち、異端審問官とは、聖皇庁から生殺与奪の権利を与えられた、血塗られた聖職者という立場なのである。
この世界には大きく分けて四つの地位が存在する。
欲望を抱いた罪で天界からはじき者にされた〝堕天使〟。
欲望に取り憑かれ、天使としての地位を剥奪された〝悪魔〟。
元よりこの世界で生まれた〝魔物〟および〝魔獣〟。
生前の罪を購うためにこの世界に囚われた〝亡者〟の四つだ。
異端審問官は、天界を追放されたにもかかわらずこの世の穢れを寄せつけず、堕天使としての形態を保持しつづけている尊き者とされている。
「スパイク」
観測室の一隅で、ファントムは一人の伝達官に声をかけた。
病的なまでに白い肌をした禿頭の男。鼻から下を皮革製のマスクで覆い、後頭部から伸ばした長い黒髪を一つに束ねている。
スパイクは、死んだ魚のような眼でファントムを見つめた。
「遅かったな」
「そんなことはない。時間には間に合っているはずだ」
「お前にしては、ということだ。いつもならメッセージを受け取ったとたんに飛んでくるだろう」
たしかに疲れてはいた。
魔物たちの村に潜入し、厳重な箝口令を敷かれている中で天使の情報を引き出し、その身柄を保護、裁きを下すまでの一連の作業をたった一人で行っているのだ。
たてつづけに舞い込んだ異端審問の案件に神経を磨り減らしているのは事実だった。
「無駄口を叩くな。今回はどういった案件だ?」
「グロヴワナ地方アレクサンドリア方面に堕天の兆候があった」
スパイクはそう告げると、一枚の羊皮紙をファントムに手渡した。
伝達官のテレパシー能力は、離れた場所にいる相手に向けて自らの思念を伝えることができる。その点では便利ではあったが、ときとしてそれが不特定多数に伝わってしまうことがあり、聖皇庁は、天使の位置情報が漏れることを恐れて、堕天の予言や目撃情報の伝達には直接的な方法を用いるよう厳しく定めていた。
「目撃報告は入っていたが、後回しにされていた案件だ」
報告書の日付に目を通す。
「報告が入ったのはもう三ヶ月も前のことだ。お前のお望み通りだろう?」
極大期のまっ最中に、任務の多忙などの理由から後回しにされていた、いわばドロップケースというやつだ。
天使が堕天してから時間が経つと、すでに魔物による異端信仰の対象とされたか、単に魔獣の類いに食われてしまったかのどちらかだろうと判断され、審問官の派遣が見送られるケースがある。
「なにがどうなってこんなレアケースを欲しがるのかね」
「性別は?」
「お望み通り」
「たしか、前回もそう言っていたな」
「おや。違ったのかい?」
ファントムは無言でスパイクの顔を見つめた。
「まあ、そんなこともあるさ。直接天使と接触したってんなら話は別だが、ただ単に遠くから見かけたってだけなら、男か女かもわからないだろう?」
それに、
とスパイクは付け加えて、予言者のプールを顎で示した。
「そもそもあの水ぶくれちゃんたちが夢で見ただけだっていうんだから、確かな情報なんか期待する方が間違いってもんだ」
ファントムはふたたび報告書に目を落とした。
今回は予言などという曖昧な根拠ではなく、地元の魔物による目撃証言が元になっている。時期は堕天のピークであり、ただ単に手が回らなかっただけで、アレクサンドリア地方に天使が墜ちたのは間違いないと思われた。
「そうだ。大事なことを忘れていた」
「なんだ」
スパイクはそれにはこたえず、パーティションで仕切られた自分のワークスペースにとって返し、一人の青年を連れ立って戻ってきた。
いや。まだ少年といった方がいいだろうか。見るかぎりでは、まだ十代。ようやく二十歳に達しているかどうかといったところだろうか。もっとも、この世界にあっては見た目と実年齢はかならずしもイコールではないのだが。
中央やや右寄りから分けた浅黄色の髪。ほっそりとした印象を受けるものの、シャツの袖口からのぞく上腕は、筋肉質で意外と良く引き締まっている。
「紹介しよう。ロキ・デルフィス二等審問官だ」
「はじめまして。あなたの噂は、かねてから拝聴しておりました」
かたわらでスパイクが鼻を鳴らした。
「どうせいい噂じゃないんだろう?」
「いえ。そんなことはありません! トールヘッジ殲滅をたった一人でやってのけたという伝説は、ぼくらのあいだでは有名な話です」
「伝説ね……」
ふたたび横やりを入れたスパイクの台詞に、ロキは困ったような表情を浮かべた。
「それで、その二等審問官がどうした」
「今日からお前の相棒になった」
驚いてスパイクの顔を見つめると、奴はさも愉快そうに目をほころばせ、
「信じられないって表情だな」
「あたり前だ。説明しろ」
「お前が一人でやりたがってるのは知ってるさ。なにしろ生ける伝説だからな。だが、この大局を乗り切るためには、審問官の数を増やさなけりゃならないだろ? それで、今活動している審問官一人々々に研修生をつけることになった」
言わば急増の審問官を育成しろってことさ、とスパイクは言葉を結んだ。
ファントムが若者に目を向けると、彼は恐縮しきった様子で、すっかりかしこまっていた。
「まあ、そんな顔をするな。これは聖皇庁直々のお達しだぞ」
「勝手にしろ」
ファントムは踵を返してその場を後にした。一瞬遅れて、ロキがスパイクに礼を告げるのが聞こえたが、わざわざ振り返ることはしなかった。
「変わった奴だ」
背後からスパイクの声が聞こえたが、その声色には、どこか面白がっているような響きがあった。
審問局にあって、ファントムは変わり者として通っていた。
それはそうだろう。
いかにしてより多くの天使を救うかが審問官にとっての命題であるはずなのに、わざわざ生存確率の低い案件を好んで扱うというのだから、不思議に思われても仕方ない。
それはしかし、いつかは誰かがやらねばならない大切な仕事でもある。
そんなファントムのことを、ほかの審問官たちは、〝屍肉漁り〟と渾名し、陰でこそこそ言う輩も少なからずいるようだった。
なんとでも言えば良い。人には人の生き方というものがある。つべこべ言うのは彼らの勝手だが、審問官に課せられた任務に善し悪しはない。ただ一つ、遂行すべきは、この世に迷い込んだ天使の身柄を保護することだけだ。
ファントムは、報告書に記載のあったアレクサンドリアに向かうため、その日のうちに街を出た。
とめどなく降りしきる雨が、異形の街をただひたすらに洗い流していた。