プロローグ4 全てはここからはじまった
この物語が始まるにいたるまでの全てがここに詰まっている。
ファントムの正体とは、、?
葬儀が終わり、誰もいない自宅に帰ると、部屋に流れる沈黙に耐えきれず、わたしは頭を掻きむしって卓に突っ伏した。
最後の一滴まで絞り出したと思っていたのに、まだ性懲りもなく涙が溢れ出てくる。
状況が状況だけに、葬儀は簡素なものになった。
身内の者と、娘と特に仲の良かった学友が数人出席しただけだ。
マリアンヌ……。
頭の中で彼女の名を呼んでみる。
もちろん返事が返ってくるわけがない。
もう何度彼女の名前を呼んだだろうか。
このまま死んでしまおうか――
そう思ったこともある。
「パパ、ごめんなさい……」
マリアンヌが今際の際に残した言葉が、その暗い願望を押しとどめた。
天使病の犠牲者は日増しに増え、すでに若年層の二割が命を落とした計算になる。
治療方法も謎なら、感染経路も定かではない。
〝防ぎようのない疫病〟
世間で天使病がこのように呼び習わされているのもうなずけるというものだ。
もっとも、マリアンヌの場合は天使病患者であるサラ・ディキンソンと接触していたのが発症の原因だろうということがわかっていた。
あの時、わたしがもっと注意深く娘の動向をうかがっていさえすれば、このような悲劇は防げたかもしれない。
たとえ娘に嫌われていたとしても、彼女を失うことになるよりはまだましというものだ。
コップに水を注いで、一息に呷る。
酒の力を借りようと棚を探してみたものの、すでにストックが切れていた。
わたしはコートのポケットを探って財布の中身をたしかめると、酒と食料の買い出しのために夜の街へと繰り出した。
初冬の街に風が吹き、立ち枯れた街路樹が煉瓦張りの路上に暗い影を落としている。
かつて――
生前のマリアンヌが学校へと通っていたこの道もまた、誰一人としてすれ違う者とてなく、すっかりうらぶれてしまっている。
通りがかったアパルトマンの一室から乾いた咳が聞こえると、ベネデットの脳裡に病床のマリアンヌの面影が甦った。
「パパ――」
マリアンヌ……。どうしてお前は逝ってしまったのか。
「言いつけを守らなくてごめんなさい」
マリアンヌ……。お前の悲しむ顔を見たくはなかった。
「でもどうしても――」
お前を苦しめる病の種をこの世から――
「サラを一人にさせたくなかったの」
すべて駆逐できたなら、わたしの心は安まるだろうか。
「マリアンヌ――」
見上げた空の彼方から、ひとひらの雪が舞い降りた。
「今はただ」
雪はわたしの吐息に包まれて、夕闇の向こうに消えてしまった。
「お前の優しさだけが憎い……」
〝ベネデット〟
そのときだった。
どこからかわたしの名を呼ぶ声が聞こえたのは。
〝ベネデット・アグリエッティ〟
「誰だ。わたしの名を呼ぶのは」
辺りを見まわしたものの、周囲に人の気配はない。
〝無駄だ〟
わたしは目をしばたたきながら、なおも周囲の闇に目を凝らした。
〝お前の心に直接語りかけている〟
「心に……直接?」
雪はしんしんと降りそそぎ、ベネデットの手や肩にひっそりと触れては消えた。
〝マリアンヌは残念なことをしたな〟
わたしは急に怒りを覚えた。
どうせなにかのまやかしにすぎないのだろう、こんなことで娘の名を騙られたのではたまったものではない。
「話があるのなら出てきたらどうだ」
〝かたわらの窓を見ろ〟
わたしは煌々と日常の明かりを湛えているアパルトマンに目をとめ、言われた通り窓ガラスに顔を近づけた。
わたしは目を瞠った。
背後の闇のわだかまりに、影だけがゆらゆらと蠢いて見える。
わたしは背後を振り返ったが、そこに影の揺らめきを認めることはできなかった。
〝わたしはお前の視野の中にいる。それ以上のものではない〟
「どういうことだ……」
〝マリアンヌは残念なことをしたな〟
影はふたたび囁いた。
「お前とマリアンヌになんの関係がある」
〝なぜ彼女が死ななければならなかったかわかるか〟
わたしは恐怖よりも強い怒りを覚えた。
「お前に言われる筋合いはない」
〝その口ぶり……。お前は娘の死に責任を感じているようだが、それはお門違いというものだ。マリアンヌは――〟
わたしは窓ガラスを叩き割ってやろうと、道端に落ちている石を拾い上げた。
〝やめておけ、ベネデット。そんなことをしてもわたしが消えてなくなることはない〟
わたしは石を投げ捨てて、心を落ち着けようと肩で息をした。
〝マリアンヌは大いなる意志の犠牲になった〟
「大いなる意志?」
〝そうだ、ベネデット〟
「それはいったいどういうことだ?」
〝この世には三通りの在り方がある。一つには地上に生きる人間の世界。また一つには、死者たちが罰せられる世界。もう一つは、神と天使が暮らす天上の星とに分かたれる〟
わたしは影の言っていることを頭の中で整理しながら言った。
「娘の魂は今頃フィオリーナの元に召されているだろうさ」
〝フィオリーナとはお前の妻のことだな。悪いがマリアンヌの魂は地獄に堕とされてしまったよ〟
わたしはふたたび頭に血が上る想いになった。
「ばかな。誰がそんなことを信じるものか」
〝信じるも信じないもお前の自由だ。だが、それによってマリアンヌは地獄に囚われたまま朽ちていくことになるだろう〟
「なぜお前にそんなことがわかる?」
〝それはわたしが地獄の住人だからだ〟
「地獄の住人……?」
自分は悪魔だとでも言うつもりだろうか。
〝それは違う、ベネデット・アグリエッティ。わたしは地獄の異端審問官であり、堕天使と呼ばれる存在だ〟
「堕天使とは悪魔のことだろう」
〝人間の世界ではそのように解釈されているようだが、実情は違う。わたしが力を貸しさえすれば、お前の娘を救ってやることができるやもしれぬと言いたいのだ、ベネデット〟
「お前の言うことが正しいという保証は?」
〝それはない。ただ、お前がわたしの話を信じるかどうか、それだけの話だ〟
わたしは鼻で笑った。
自分の頭がおかしくなってしまったのだと思ったのだ。
だってそうだろう?
娘を亡くしたばかりの男が、地獄に堕ちた娘を救うために悪魔と話をしているだなんて滑稽も良いところだ。
〝そう思いたい気持ちもわかるが、果たしてそれでいいのか、ベネデット?〟
「こんな話、信じろという方が無理だろう」
〝もしももう一度わたしの話を聞きたければ、一人きりの時、心の中で強くわたしの名前を呼ぶといい。わたしの名はファントム。地獄の異端審問官ファントムだ〟
声はふつりと消え、わたしは暗い街路にただ一人取り残された。
なにをどこまで信じれば良いのかわからないまま、わたしは足をよろめかせながら、フィルのマーケットに向かって歩き出した。
今はただ強い酒が欲しかった。
数日が経ち、街の上にふたたび日没が訪れた。
買ってきた酒も底をつき、わたしは独り広い部屋の中で卓に突っ伏していた。
ファントムと名乗る男からの提案だけが、わたしの頭の中でぐるぐると駆け巡り、脳裡で終わりのない論争が繰り広げられていた。
マリアンヌが地獄に堕ちたなどという不謹慎極まりない話はとても信じられなかった。
しかし、教会の懺悔室で神父から聞いた話によれば、たしかに親であるわたしよりも先に命を落とした子供は罪人として数えられることがあるのだという。
だからといってファントムの話を鵜呑みにするわけにはいかない。だが――
たしかにあのとき、うらぶれた街路にはわたしの他に人気はなかった。
どうやってファントムがわたしに語りかけてきたのか、何度も現場まで足を運んでみたものの、その点は納得のいく答えを導き出すことはできなかった。
マリアンヌ……。
わたしは一人娘の元気だった頃の顔を思い出そうとして、ひっそりと目をつむった。
そのときだった。
〝ベネデット……〟
わたしは上半身を起こして、部屋の中を見まわした。
たしかに声がした。
そして、部屋の中にいるのは自分だけだというのもまたたしかだった。
〝ベネデット・アグリエッティ〟
「どこだ? どこにいる?」
〝言ったはずだ。お前の心に直接語りかけているのだと〟
「そんな話を信じられるものか」
わたしは手近にあったショットグラスを持ち上げて、そこに反射する景色に見入った。
――まただ。
わたしの背後で影が揺らめき、蠢いている。
振り返って見てもそこにはなんの異常も見あたらない。
〝これが最後のチャンスだ〟
「なに?」
〝こうして地上の住人と話すのはリスクが高くてね。そうそうお前一人に長い時間をかけてはいられないんだ〟
「お前はここにはいないのか?」
〝そうだ。わたしは今、地獄からお前の心に語りかけている〟
――地獄だと?
「そこにマリアンヌがいるのか? マリアンヌと代わってくれ」
〝手元に、という意味ならばここにはいない〟
やはり質の悪い悪戯にすぎないのか……。
〝だが、お前の娘が地獄に堕ちたというのはたしかだ〟
「なぜ娘が地獄に堕ちなければならないんだ」
〝全能の君がそう仕向けたからだ〟
「全能の君?」
〝地獄を形作った大いなる意志のことを指す呼び名だ〟
「その全能の君とやらが、わたしの娘を手にかけたとでもいうのか?」
〝そうだ。お前の娘だけではない。今地上に蔓延している天使病こそが、全能の君が仕掛けた殺戮の罠だ〟
「殺戮の罠?」
〝天使病によって奪われた命はみな地獄に堕とされる〟
「親よりも先に亡くなった子供たちは罪人にみなされるというやつか?」
〝そうだ。そうやって手に入れた天使たちは、天上の星を攻め落とすための軍勢として用いられることになるだろう。それを取り仕切っている者こそ、全能の君に他ならない〟
「その軍勢にマリアンヌが加わるとでもいうのか?」
〝そうかもしれないし、そうはならないかもしれない〟
「どういうことだ」
〝マリアンヌの魂は地獄に堕ちはしたが、今彼女がどうなっているかについては保証することはできない。悪魔の餌食にされているかもしれないし、地獄のどこかで身柄が保護されている可能性もある〟
「お前は娘の居場所を知らないのか?」
〝そうだ。そこまではまだわかっていない。だが、もしもお前がわたしの言うことを聞けば、彼女を見つけ出し、天上の星へと連れて行くこともまた可能となるだろう〟
「お前の言うことを聞けば、と言ったな?」
〝地獄の住人であるわたしの魂とお前の魂とを入れ替えることさえできたなら、お前の意思でマリアンヌを探し出すことができるやもしれぬ〟
「魂を入れ替える?」
〝異端審問官であるわたしの役目は、地獄に堕ちた天使の身柄を保護することにある。地獄において、お前が天使を探すのにうってつけの素材だと言えるだろう〟
「お前は堕天使だと言ったな?」
〝その通りだ〟
「悪魔ではないのだな?」
〝なにが聞きたい、ベネデット・アグリエッティ?〟
「お前をこの世に解き放って、悪さをしやしないかと思ってな」
〝そんなことはない、ベネデット。わたしは人間として生きてみたい、ただそれだけが望みだ〟
そこでわたしは口をつぐんだ。たとえ堕天使であったとしても、天使が人間になりたいだなどと望むものだろうか?
〝人間がどれほど恵まれた存在であるか、天国も地獄も見たことのないお前には理解できないのかもしれないな……〟
ファントムは言った。
〝お前たち人間に与えられた自由というものに我々は強い憧れすら抱いているのだ〟
「自由……? 限られた生の中で窮屈な暮らしを強いられている人間が、自由だと言うのか?」
〝人間たちの悩みなどどうということはない。わたしの住む世界では絶えず争いごとが起こり、その都度おびただしい血が流されるのだ。争いの中心こそが天使であり、お前の娘マリアンヌは、その渦中に置き去りにされた哀れな迷い子となっている〟
「マリアンヌが……」
〝さあ、どうするベネデット。手をこまねいているあいだにもマリアンヌは悪魔たちの餌食にされてしまうかもしれないのだぞ? なにを迷う必要がある?〟
わたしの心は大きく揺らいだ。ファントムと名乗るこの男が言うことが真実とは限らない。しかし、もしマリアンヌが地獄に堕ちてしまっているのだとしたら? わたしは娘を救うたった一つの方法を目の前にして、みすみす好機を逸してしまうことになる。
今のわたしには失うものなどなにもない。
しかし――
〝ただ一つだけ条件がある〟
「なんだ」
――この期に及んで条件があるだと? わたしは訝しんだ。この男、まだ隠していることがあるのではないか?
〝たとえどんなことがあろうとも、わたしとお前の魂を入れ替えたことを口外してはならない。相手がマリアンヌであったとしてもだ〟
「なぜだ」
〝全能の君がこのことに気づいたとしたら、お前は異端審問官としての立場を追われ、行動の自由すら奪われることになるだろうし、お前の体に乗り移ったわたしもまた無事では済まされないだろうからだ〟
「元より名乗るつもりはないさ」
〝それは意外だな〟
自分のために父親が悪魔に身売りしたなどと言えるはずがない。そんなことを知ったら、マリアンヌがどう思うか、考えるまでもないだろう。
〝懸念がなくなったところで聞かせてもらおうじゃないか。わたしとのあいだで魂の交換に応ずるか否か?〟
「わかった。ファントムよ――」
わたしはそこで言葉を切った。
この世への未練がないわけではなかった。しかし、それ以上に娘の身の上の方が心配でならなかった。
「わたしの体をお前にくれてやる」
〝契約は果たされた。ベネデット・アグリエッティ、今からお前は異端審問官ファントムとして、娘の魂を救済するべく地獄を経巡るがいい!〟
目の前で闇が炸裂し、わたしは奈落の底へと叩き堕とされた。
ふと気がつくと、暗闇の深淵に横たわっていた。
どこまでも体が沈みこんでいくのではないかと思えるほどの柔らかな褥に、不要な物を一切排除した空っぽの室内。
目を瞑っているにもかかわらず、ファントムの目には周囲の大まかな装飾にいたるまでがはっきりと見えているようだった。
「ファントム様……」
寝室の扉をノックして、執事のレフィスがファントムを呼ばわった。
「伝達官よりことづてがあります」
「なんだ」
「早急に聖皇庁へ赴くように、とのことです」
「わかった。今行く」
ファントムはいつものように明朗にこたえた。
まるで日頃から行っていることででもあるかのように、すんなりと受け答えすることができた。
不思議なものだ。
わたしは今、ベネデットでもあり、ファントムでもあるのだ。
ベネデットの記憶はそのままに、ファントムとして生きてきた五百年にも上る異端審問官としての人生もまた同時に記憶されている。
ベッドを下りて、窓にかかったカーテンを開ける。
ガス灯に煙る帝都アインフォルトを眼下におさめながら、前日のうちに用意しておいた僧服に袖を通す。
「マリアンヌ……」
やるべきことはわかっていた。
昔なじみの観測員にマリアンヌと思しき天使の目撃情報が入ったら優先的に知らせるよう頼んでおけばいい。もしかするとすでに彼女は保護されているかもしれない。折りを見て聖地に赴き、各地の名簿をあたってみることにしよう。
「さて……」
ファントムは摩天楼の向こうに聳え立つ聖皇庁を眺めやり、大きく息を吸い込んだ。
「待っていろ、マリアンヌ。すぐにわたしが地獄からお前を救い出してやる……」
長い々々物語の幕が今、切って落とされた。
長いことお待たせして申しわけありません。
ようやく完結編をアップする決意ができました。
この物語がどれだけの方に読んでいただけるのかわかりませんが、少しでも琴線に触れるものがあったなら幸いです。
ご愛読、ありがとうございました。




